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【件名 : クロエ邸の管理に関する連絡 】
カルティブ不動産株式会社
代表取締役 オーヤン様
お世話になっております。クロエ邸の所有者、クロエです。このたび、クロエ邸の管理業務につきまして、再び私どもの手元で直接運営・管理することを決定いたしました。つきましては、これに伴う以下の事項について、貴社にて対応をお願いしたく存じます。
・管理権限の引き渡し
必要な権利や書類の譲渡手続きについて、速やかにご手配ください。
・現地対応の引き継ぎ
クロエ邸には、私の代理人として住人を既に派遣済みです。現場への到着は済んでいるはずですので、対応をお願い申し上げます。
・各種業務の調整
諸々の必要手続きや業者手配については、引き続きサポートをお願い致します。
急なお願いとなり恐縮ですが、明日早朝よりの対応をよろしくお願い申し上げます。
何かとお手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
敬具
クロエ=ブラック
連絡先:xxxxxx-xxxx-xx
アドレス:@Chloe-Black-xxxxxxxxx
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これが昨晩、カルティブ不動産に送られてきたメールである。
内容を要約すると、
――「明日から、『クロエ邸』をこっちで管理する。『代理人』がいるから、あとはよろしく。」――
送信者は、『クロエ=ブラック』……
「……クロエ博士……」
フィルは少し背を丸めて歩く。大家(新)、もといオーヤンは、しゃきっと背を伸ばして歩く。
お互い朝食を食べていないのを知ると、オーヤンは近所のコンビニまで案内してくれた。近所と言っても、歩けば片道15分かかる。微妙に疲れる距離だ。
「博士かぁ。確かにあの人、そんな冗談も言ってたっけ」
オーヤンは丸い頭をさすって言った。おそらく、奥の研究所を目にしていないのだろう。
フィルは、オーヤンのデバイスから出したホロウィンドウをつまむ。ホロに浮かぶメールの文面を、何度も読み返した。疑問点は幾つかある。なぜ昨晩これが?代理人とは?そもそもクロエとは、何者なのか?
しかし、なんと言ったらいいのか……
「いやー……それにしても、フィルちゃんが来てくれて助かったよ」
オーヤンはミルクコーヒーの缶をフィルに差し出す。反射的に手に取って、遅れて気がつく。受け取れない、とフィルは顔をあげるが……
オーヤンは上機嫌そうにニコニコしている。突き返すのも悪い気がして、フィルは暖かい缶を両手に納めた。
「……えっと、助かったっていうのは、どういう……」
「ん?いや、ね」
そうだな、と少し考えて、オーヤンは、ことの経緯を話し始めた。
それは、あの家に纏わる、ひとつの歴史だった。
要約すると、こんな話だった。
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今から10年か、それ以上前。クロエという女がこの町に越してきた。彼女は、当時カルティブ不動産が管理していた、築50年の木造二階建て住宅を、斜面下という厄介な土地ごと購入した。
ここまでは良かった。クロエは、裏の斜面を崖になるまで削り取った。そして土地面積を確保すると、この古民家に改築増築を施した。気付けば、表は古民家、裏はコンクリートの施設という、奇妙な屋敷が誕生していた。
ここまでは、百歩譲ってまだ良かった。
いよいよ今から5年前。クロエは突然、この屋敷を出て行った。それも、カルティブ不動産に恒久的な管理委託と、多額の依頼料を残して。
委託に当たって、クロエは制約を設けた。
内容はこうだった。
『クロエ邸を取り壊さないこと。クロエ邸とこの土地を売らないこと。屋内を改めないこと。』
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「これがクロエ邸の由来。ね、ほんとめちゃくちゃな人だよ」
……怖い話を聞いた。フィルは、ある種の怪談を聞いたような心地がした。
つまりカルティブ不動産は……オーヤンさんはこの5年間、ろくに手も加えられないまま、この爆弾みたいな土地を抱えていたのだ。
「そ、それって大丈夫なんですか……?」
「いーや、ぜんっぜん。地価はさほどじゃないんだけど、崖の補修とかもあって、けっこう嵩むんだよね。最近じゃ、肝試しに不法侵入するバカのクソガキも増えるし、行政からも小言言われるし、もうこっそり売るか壊すかしちゃおうかと思ったりして……あっ、これ内緒ね?ハハハ!」
フィルの背中に冷たいものが滲む。
『不法侵入する……』のくだり、オーヤンさんの声にドスが効いていた。どうやらかなり……かなり、そういった人間を憎んでいる。
……ひょっとして、マズいこと言うと、マズいんじゃないか?
「……あ、あはは……あー、えっと、ちなみになんですけどーぉ……ここの、『代理人』っていうのは……」
フィルはウィンドウをスクロールし、メールの文面を拡大する。
「えっ?フィルちゃんでしょ?」オーヤンはきょとんとする。
「えっ?」フィルもきょとんとする。
「だから『来てくれて助かった』って話だったんだけど……えっ?じゃあフィルちゃん、なんで今朝、家の中から出てきて――」
答え――昨晩、不法侵入したのち、一晩泊まったから。
「あっあーっっ!!そ、そうです!私が代理人です!!」
フィルは思わず叫ぶ。
「なぁんだほら、やっぱり!」オーヤンはフィルの背中をバンバンと叩く。「もーびっくりした!一瞬本気でビビったよ!怖い冗談言うんだから〜!」
「あはは……そ、そう、冗談ですよ……すみません……」
衝撃のたび転びそうになりながら、なんとか耐えている。
どうしよう。なにか違う意味でマズいことを、口走った気がする。
……なんとなくホロウィンドウを見る。先ほど拡大した文章が映っている。
フィルは、サッと血の気が引いた。
――現地対応の引き継ぎ
クロエ邸には、私の代理人として住人を既に派遣済みです。現場への到着は済んでいるはずですので、対応をお願い申し上げます。――
――代理人として住民を――
フィルは察する。今朝、オーヤンが何を思ったのか、自分が今どういう状況にあるか。
どうやら、本当にマズいことを言ってしまったらしい。
「ああ……そろそろ着くよ。フィルちゃん、自転車買った方がいいかもね」
往復併せて30分強の道のりに、終わりが近づく。ゆっくり歩いていた筈だが、フィルだけが軽く息を切らしていた。
通りのまっすぐ先、ゆるやかな坂を上がって……あの家が見えた。
あれ、とオーヤンが声を上げた。「なんであんなに車が……」
クロエ邸の前、幅広い歩道を挟んだ路上、商用バンの縦列駐車ができている。近くまで来て、それがいずれも社用車であるのが分かった。水道局、電気工事、ガス工事に……ハウスクリーニング?
すると、家の中から話し声が聞こえた。間も無く、ギイッと扉が開き、見知らぬ男が飛び出してきた。
「じゃあ俺車止め直して来ま――あっ、オーヤンさん!」
「あれっミズミチくん!」
驚くオーヤンに、ミズミチと呼ばれた青年はサムズアップする。
「はい!ミズミチです!そっちの子は……分かった、依頼人さんっすね!」
青年は、どうやらオーヤンの知り合いらしい。作業服の胸元には、水道局のロゴが刺繍されていた。
ミズミチは家の中に向かって叫ぶ。
「おーいみんな!!依頼人さんと、オーヤンさんも来ましたよー!」
「みんな?」オーヤンは首を傾げる。
フィルの胸がざわついた。他にも誰かいる?なぜここに?オーヤンさんの反応を見る限り、彼が呼んだのでは無さそうだ。
先ほど『代理人』と呼ばれてから……いや、それよりも前、昨晩からずっと。フィルは、ここからどう逃げようかと考えていた。しかし、事あるごとに、何かに足を取られる。
不気味な家から去ろうとすれば、壊れたロボットに人違いをされた。ロボットをどうにかしようとして、なぜかデバイスが爆発した。夜明けに出て行こうと思っていたら、オーヤンさんが来て、変なメールを突きつけた。
昔の人は、こういうとき、運命や呪いと言ったんだろうか。
「さ、2人とも!入って入って!!」
フィルは躊躇って、少し後退りした。路上駐車された社用車、この持ち主が中にいるのだろうと予想できた。
何もかも無視して、今ここで逃げてしまおうか。
「フィルちゃん?どうかした?」オーヤンが、フィルの顔を覗き込む。
「……あ、えっと……私……」
言わなきゃ。でも、なんて言えば……
手に力が入り、コーヒー缶を握りしめる。……ぬるくなったミルクコーヒーの、まだ残る温度が、フィルの手に伝わる。
……言えば、きっと迷惑をかける。困らせてしまう。だけど……
「……ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしてたみたいです。」言えない。
「ああ、まだご飯食べてないもんね。中で食べようか」
「そう、ですね……」
にこやかな笑顔に促される。喉に何かがつかえるようで、フィルは胸で呼吸をした。
そうして、少女は再び、この家へ足を踏み入れた。
フィルはこのことを、すぐに後悔することになる。