天下の社長令嬢・飯倉琴葉は世間知らずのお嬢様である。
それ故に、周りからはかなり浮いていた。
せめて世間の流れからは取り残されないようにと、父親の計らいで中学までは一般の学校に通わせ、その先で金持ちの令嬢が多く通う女子高に進学することになった。
「はぁ~あ。今日も上手く行かなかったなぁ」
溜息を付いて自室のベッドに突っ伏した少女。
「中学の頃に戻りたいなぁ。涼花ちゃん、元気かなぁ」
琴葉は憂鬱だった。女学園の同級生達は、浮世離れした彼女をあまり良く思っていない。
琴葉の方も周りと上手く馴染むことができずにいた。
それというのも、世間知らずのお嬢様であり、蝶よ花よと育てられた彼女にとって、普通の中学というのは針のむしろと同じである。
そんな中でできた思いがけない親友。それが小日向涼花であった。
楽しい思い出を沢山作る事ができた中学時代。
琴葉にとってそれは宝物のように尊い思い出の時代であり、それ故に、自分と同じように上流の家庭で育ったお嬢様学園の同級生達の感覚に馴染めなくなってしまったのである。
親友との時間が素晴らしすぎたが為に、どちらの感覚からも離れてしまった彼女には、親友のいない学園は地獄と同じなのである。
「お嬢様、そろそろ習い事のお時間です」
メイドの女性に声を掛けられ、琴葉の溜息は一層深くなる。
「はい、今行きます」
(逃げ出したいなぁ……。はぁ……)
窮屈な習い事の日々。馴染めない学園。親友との美しい思い出。
琴葉の心に去来する空しさの要因は、満たされすぎた環境故に満たされないという、矛盾した思いからであった。
◇◇◇
「えへへ、抜け出してきちゃった」
その日、琴葉は鬱屈した思いを発散するため屋敷を抜け出して町を散策していた。
普通の学校に通っている頃も町を出歩くことは許されず、世間のことは何も知らない。
「ふわぁ……町ってこんな風なんだぁ」
見るもの全てが新鮮で楽しかった。
楽しくて楽しくて、ついつい時間を忘れて初めて見る町の光景に夢中になった。
だが制服姿のまま町をうろつけば、当然その美貌は様々な人の目に付いてくる。
その中にはよからぬことを考える連中もいるもので、特にその大きな胸は、欲望の的になった。
「お嬢さんっ♪ どっこいっくのー?」
「どっかいくなら俺らと一緒に遊ばない? 楽しいところに連れてってあげるよ」
如何にも遊んでいる風の男達だが、免疫のない琴葉にはその危険さが理解できなかった。
「はぁ? 楽しいところところとは、どのようなところでしょうかぁ?」
間延びするようなぽわぽわした声。
ゆるふわな雰囲気で周りを春風が柔らかく頬を撫でるラベンダー畑のような暖かい場所にいるかのような錯覚を覚えるほどだ。
艶で反射する絹糸のように亜麻色の髪。
眉尻は柔らかく垂れ下がり、口元は自然と微笑みをたたえている女神のようであった。
天然でありながら魔性の魅惑を持つゆるふわ美少女。
それが社長令嬢・飯倉琴葉であった。
だが、美少女の美貌と大きな胸は男達の欲望を刺激し、
(うひょー。胸でけぇ)
(世間知らずっぽいし、どっかのお嬢様か?)
(こんなんホテル連れ込まない手はないっしょ♪ くぅう、ヤリてぇ♡)
「いえいえ~。私、ちょっと町を散策してるだけですからぁ。ありがとうございますぅ、それでは」
「おっとっ。待ちなって」
「いいじゃんいいじゃん。遊びにいこうよぉ」
「今日は一人で散歩したい気分なんですぅ」
しかし、如何に世間知らずといえども女としての危機感知本能は働く。
何かを感じとった琴葉はその場を離れようと踵を返した。
だがその行く手を阻まれたことで、本格的に目の前の男達が自分に欲望の視線を向けている事に気が付いた。
(あ~、これは流石にマズいかもぉ……)
女としての直感。生物としての危険感知本能。
メスとしての防衛意識が、琴葉の体を逃亡へと駆り立てる。
しかし、彼女は現在なんの力もない一人の女に過ぎない。
捕食者と化した男達は彼女を絶対に逃がそうとはしなかった。
「いえ、本当に結構ですぅ」
「いいからいいからっ。俺らと楽しい事しようぜぇ」
「気持ち良くしてあげるからさぁ」
逃げては阻まれ、逃げては阻まれを繰り返すうちに、いつしか壁際まで追い詰められ、いよいよ本格的に危機意識は恐怖へと変わっていく。
「あ、あの、どうか堪忍してくださいませ」
「堪忍だってよっ。時代劇みてぇww」
「本格的にお嬢様ってか? うわぁやべぇ。めっちゃ俺の色に染めてぇわww」
町行く人々は強面のチャラ男達に近づこうとしない。
遠巻きに眺めるもの。我関せずと通り過ぎる者。好奇心から動画を撮る者など様々であるが、一人として怯える少女を助けようとする人間は現われなかった。
琴葉は初めて自らの行動を後悔した。迂闊だった自分を呪い、世間知らずで世俗に疎い事がどれだけ愚かであるかを思い知った。
(私、手籠めにされちゃうんですね……しまったなぁ。まだ恋もしてないのに)
「何をやっているのですか、あなた達はっ!」
「「あ??」」
(え?)
「おいこらお兄さん達。怖がる女の子をよってたかってとか、テンプレ過ぎてまったく笑えないぜ?」
「ひっ」
「な、なんだよお前らっ」
大きな男。背丈が高く、山のような体を怒らせてナンパ男達の肩を掴む手指が逞しく映る。
(騎士様……♡)
浮世離れした彼女らしい考えで、視界の中が輝きでいっぱいになる。
「とりあえずお帰り願おうか」
「てめっ、ふざけんなよコラァっ」
「ちょっとデカいからって調子こいてんじゃねぇぞっ」
「女連れでナンパの仲裁とか正義味方気取ってんじゃねぇぞ」
「あ、おいっ、ばかよせっ!」
男の一人が連れ立っていた少女に向かう。
怒りの形相で少女の手を掴み取ろうと伸ばし、人質にとって優位に立とうとしていることは明らかだった。
「せいやぁあああああっ!」
「ぐほぉっ!」
緑髪でポニーテールの少女は男の手を巧みにいなし、そのまま地面に投げ倒して踏みつける。
「あ~あ、だから言ったのに」
「す、すごい……」
◇◇◇
「あ、あのぉ、危ないところを助けていただき、ありがとうございましたぁ」
「いえいえ~。舞佳達に掛かればお茶の子さいさいですよぅ!」
「怪我はなかったか?」
「は、はい。お陰様で」
大きな男と格闘少女。奇妙な組み合わせの二人に好奇心が湧いてくる。
「琴葉お嬢様~~~~っ」
「あ……」
「ん? あんたの家の人か?」
「は、はい」
「お嬢様、随分探しましたっ。さあ、旦那さまが心配しておいでです。帰りましょう。お車を待たせております」
メイドの女性に手を掴まれ、連れて帰ろうと引っ張るのをなんとか押し留める。
「まってください。こちらのお二人に危ない所を助けていただきました。お礼も言わずに帰るわけにはいきません」
「それは我々にお任せを。さ、帰りますよっ」
「あっ、引っ張らないでッ。すみません、お礼はいずれ必ずっ」
最後まで言い切ることは許されず、二人の姿が見えなくなる所まで引っ張られてしまった。
偶然か、運命か、あるいは何かの強制力か。
一人の男と少女の出会いは、こうして幕を閉じた。
実はつい先日、その男は琴葉の親友たる少女を口説き落としたばかりなのであった。
そして、再び出会い、恋に墜ちることになる。
運命の再会まで、あと数日。