炭火が穏やかに燃え、その赤い光がキッチンの壁や天井に揺らめく影を描いていた。はぜる音が不規則に響き、それはまるで静かな前奏曲のように空間を彩っている。父はその中心に立ち、長年使い続けた古びた銅のポットを手にしていた。無数の傷が刻まれたその表面は、暖炉の光を受けてかすかに輝き、まるで時の流れが奏でる記憶の楽譜のようだった。
エミルはキッチンの隅で、父の動作をじっと見つめていた。父の所作は驚くほど滑らかで、挽いた豆を慎重に加える瞬間から静かに始まる。その後、水をゆっくりと注ぎ、その音がキッチン全体に柔らかく響く。そしてスプーンでそっと混ぜる動作は、静かで規則的なリズムを生み出し、まるで一杯のコーヒーを仕上げるための短い交響曲を奏でているようだった。
「エミル。」
父は炭火を見つめたまま、低く穏やかな声で語りかけた。その声は、静かに始まる旋律のようにエミルの胸に響く。「コーヒーは、焦らずに淹れるものだ。炭火の熱が灰を通じてじわじわと伝わる。その時間が、この味を深めるんだ。」
エミルは父の言葉を聞きながら、炭火の赤い光をじっと見つめた。その光は父の言葉と共に静かに揺れ、エミルの胸に小さな波紋を作った。けれど、彼の心の中には疑問が浮かんでいた。
「でも、父さん。」エミルは慎重に口を開いた。「炭火を起こすのも灰の掃除もすごく手間がかかるし、時間もかかるよね。もっと簡単な方法があれば、村の人たちも待たずに済むんじゃないかな?」
父はその言葉を聞くと、動きを止めてエミルを振り返った。その顔には穏やかな微笑みが浮かび、目尻に刻まれた皺がその微笑みをさらに柔らかく見せていた。「確かにそうだな。」彼は静かに頷き、再び語り始めた。「だがな、この手間こそが、この味を作るんだ。」
父はポットの取っ手を握り直し、灰の中にそっと戻した。その動作にはどこか儀式のような厳かさがあり、全体が一つの音楽のように調和していた。
「けれどな、エミル。」父の声はさらに力を増し、深みを帯びた。「お前の時代には、新しいやり方を見つけてもいい。だが、この味だけは守らなければならない。それが、このポットに込められた思いなんだ。」
ポットの中で水がじわじわと温まり、小さな泡がふつふつと立ち始めた。父はポットを慎重に持ち上げ、カップへと注ぎ始めた。長年刻んできた淹れ方のリズムを、無意識のうちに指先へと宿しているようだった。」独特の静けさと重みがそこには、あった。
湯気が立ち上ると、炭火の香りとコーヒーの香ばしさが部屋全体を包み込んだ。エミルはその香りに誘われるようにカップを手に取り、鼻を近づけた。その瞬間、ただの香りではなく、どこか懐かしさと深い感情が胸の奥で響くのを感じた。
「父さん、この香り…。何かを語っているみたいだ。」
父は微笑みながら、カップを両手で包み込んだ。「エミル、香りはただの匂いじゃない。その中には、村の人々の時間が宿っている。語り、笑い、涙を流した記憶。それを繋ぐのがこの一杯だ。」
エミルはその言葉に小さく頷き、湯気の向こうにぼんやりと映る自分の顔を見つめた。そして恐る恐る口元にカップを運び、一口含んだ。
舌先に触れたのは、強い苦味だった。その鋭さに驚いたが、その後、まるで雪解けのように甘さがゆっくりと広がっていく。静かに流れる音楽のように、味が変化していく感覚に、エミルは驚きと共に何かを理解した気がした。
「苦味が甘みに変わる…。父さんの言葉みたいだ。」
父は満足そうに頷き、カップを静かに置いた。「エミル、コーヒーはただの飲み物じゃない。この味は、村そのものだ。人々の物語と願いが、この一杯に重なっている。そして、それを未来に繋げるのがお前の役目だ。」
エミルは父の言葉をじっと胸に刻んだ。そして、その中に、小さな可能性が浮かび上がるのを感じた。
「もっと簡単に、でも同じようにじっくり火を伝える方法…。炭火が難しいなら、違う熱源を使うのはどうだろう…?」
湯気は静かに天井へと昇り、その先で消えていった。その様子を見つめながら、エミルは心の中で父の言葉を繰り返していた。「焦らずに淹れること。味を守り続けること。」
その言葉はまだ難しく、重く感じられた。だが、炭火の光がポットの表面で揺れるたびに、父の言葉が炭火の熱のようにじわじわとエミルの心に広がっていくのを感じた。湯気の向こうには、まだ見えない未来が確かに広がっているように思えた。そしてその未来は、父の手から自分の手へと託されるものだという実感が、エミルの胸の奥に静かに芽生え始めていた。
アリはふと微笑みを浮かべ、エミルの肩に手を置いた。「お前ならできるさ。このポットが、それを教えてくれる。」
完全に霧が晴れた外では、朝日が村全体を優しく包み込んでいた。カフェの中で静かに立ち上る湯気は、これから始まる新しい物語を告げるようだった。