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第5話   気うつの病の実相は……

               一


 三崎屋の奥庭に面した濡れ縁に、いつもよりうららかな春の日差しが降り注いでいる。

 踊りの稽古から戻った浅葱は、手水を使っての帰りらしい安藤と、濡れ縁でばったり出くわした。


 安藤は誰もいない湯殿を覗くように、歩をゆるめながら通り過ぎる。

 良からぬ妄想でもしているのか、浅葱には気付かぬ様子だった。


 新撰組は家茂の警護で大坂から伏見へ巡った後、正月十五日に壬生へ帰陣したばかりで、安藤が三崎屋を訪れるのも元旦以来だった。


 ほかに人はいない。

 せっかくの好機を逃す手はない。

 意を決した浅葱は、

「なあ、安藤さま~」

 甘えた口調で声を掛けた。


 安藤は一瞬ぎょっと驚いた顔をしたが、相手が浅葱と気付いて、

「おお。箱入りも箱入りのお嬢様のお出ましか。この前に顔を合わせたは、いつであったかのお。ははは。浅太郎なら壬生でしょっちゅう見かけておるが」

 破顔一笑で応じた。


 目尻が下がってなおさら締まりがなくなった。

 酒臭い息を絶対に嗅ぐまいと、浅葱は大仰に顔を背けた。


「見ないうちに一人前のおなごになったではないか」

 安藤の舐め回すような眼差しに浅葱は身震いした。


 浅葱は単刀直入に、

「だいぶ前、一緒に来られた松井喜三郎はんちゅうお人どすが……」と切り出した。


「おお。あの見せ物小屋の興行師か」

 安藤は気軽な口調で応じた。


「興行師て……」

 思いも寄らぬ真実を突きつけられ、浅葱は絶句した。


 祇園会の夕涼みの夜に四条の河原で見た、うらぶれてインチキ臭い小屋のどれかが喜三郎の〝棲み処(すみか)〟だった。

 浅葱の中の喜三郎像はがらがらと崩れ落ちた。


 「今は、どこにいたはるのどすか」

 落胆しながらも聞かずにおれない。


「知らぬわ。四条河原で小屋掛けしておったが、終わればたちまち小屋を畳んで、雲を霞と流れ去る輩どもじゃ。諸国を巡る浮き草暮らしよ。わしが興行師なんぞと親しいはずなかろう」

 安藤は心外そうに角張った頬袋を膨らませた。


「ほんなら安藤さまは、なんで喜三郎はんを連れて来はったんどすか」

 浅葱の真剣な問い掛けに、安藤は解せないといった顔をしながらも、 

「あやつが突然、屯所まで訊ねて来おったのが初対面じゃ。わしが虚無僧時代に世話になった一心院からの細い糸を手繰って、ようやく辿り着いたと聞かされたもので、親切心から重右衛門に会わせてみたものの……」と、ぺらぺら喋り始めた。


 誰か邪魔が入らないうちに早く聞き出さねばならない。

 きっちりと結い上げた高島田髷の中に、じんわりと汗が滲む。


「安藤さま。うちは気付いてますえ。喜三郎はんは、ほんまはうちらの……」

 浅葱が言いかけたときだった。


「おやまあ。珍しおすなあ。浅葱が安藤さまと話すやて、ないことやおへんかいなあ」

 いつからそばに来ていたのか、お信が何気ない口調で割って入った。


 浅葱は落胆すると同時に『うちが見せ物小屋の主の子ぉやて、はっきり聞かされんほうが却って良かったやないか』と思い直した。


「楽しそうにいったい何を話しといやしたんえ。うちにも聞かせとくれやす」

 お信は首を傾げ、満面の笑顔で安藤と浅葱を交互に見比べた。

 黒目がちな瞳だけが頼りなくおどおどと動く。


「さ、さ。こないなとこでお話せんかて、二人とも座敷でゆっくり……」

 お信の口調はぎこちなかった。

 浅葱の表情を窺うように見つめる。


「ほなら、うちはこれで……」

 浅葱は安藤のほうに体を向けて深々と馬鹿丁寧な礼をした。


「お琴のお師匠はんがもうすぐ来られますさかい、おさらいしとかなあきまへんよってに。安藤さま、ごゆるりと、ぶぶ漬け(茶漬け)が出るまで、おいやしとくれやす~」

 浅葱は嫌みを言い添えた。


 京の者は長居の客に『ぶぶ漬けでもどうえ』と勧め、客は長居に気付いて慌てて退散する慣わしらしいが、実際にぶぶ漬け云々の場面に出くわした験しがなかった。


「ささ、安藤さま。どうぞ」

 お信に付き従っていた若い女中が、手を引かんばかりに安藤を急かせて座敷に戻っていく。

 裾捌きも軽やかに、長く続く濡れ縁を遠ざかる。


 ずいぶん垢抜けたもんや。

 浅葱は女中の後ろ姿を見送った。


 外働きするだけの下女中だった山出し娘は、お峰の眼鏡に適ったらしい。

 いつの間にやら屋敷内にも上がれる上女中になっていた。

 近い将来、仲居に昇格し、座敷で長い裾を引いている光景を想像した。 



               二



 自室に戻ったものの、琴の稽古などできるはずもなく、浅葱は部屋を抜け出した。


 今の刻限なら、睦月は部屋にいる。

 姉のような睦月と話せば気が紛れるのではないかと、離れ屋に向かった。


 二階に上がりかけると、睦月の部屋から禿が二人してふざけ合う笑い声が響いてきた。引舟が笑いながら窘める声も相変わらずだったが、睦月の《玉を転がすような》と評される笑い声は聞こえなかった。


 やっぱり、やめよう。

 睦月の部屋の手前まで来て踵を返した。


 浅太郎の筆下ろしが不首尾に終わってから、睦月はなにやら辛気くさい具合である。話しても気晴らしにならないと思いなおした。


 正五位の位まで授かった誇り高いこったいが、青二才の浅太郎に袖にされたのだから、誇りが傷ついたどころではない。内心はぼろぼろに違いなかった。


 睦月に何の責もないのに……。 


 足音を立てぬよう廊下を戻りかけ、階段側にある如月の部屋の前で、ふと足を止めた。


 如月が死んでから、もう五ヶ月も経った。


 襖を開けて如月の部屋の内に入った。

 部屋は主を失ったまま、時を止めている。


 血塗られた夜具は処分され、畳も入れ替えられたものの、重右衛門の意向で、如月が愛用した細々した私物まで残されていた。


 見世で抱えている天神を太夫に昇格させるなり、よその見世からしかるべき遊女を〝鞍替え〟させてくるなりしない限り、この部屋は静かに眠り続けるだろう。


 奥の部屋の明かり障子をがらりと開ければ、明るい日差しの中、隣家の屋根の間から西本願寺の壮大な甍が見えた。


 この前は危ないところやった。

 欄干に凭れながら大きく息を吸い込んだ。 


 浅太郎が〝一人前の男〟になれば、片割れである浅葱はどうなるのか。

 何かが起こるに違いないという確信ばかりが日増しに深まる。


 家々の影で切り取られた空に浮かぶ白い雲が、得体の知れぬ怪物の姿をして流れ去っていった。


 うちはあほやった。

 なんで土方さまの腕の中から逃げてしまったのやろ。


 土方の作り物めいた美男ぶりを思い出すたびに後悔に苛まれた。

 確かな男らしさを備えながらも男臭さが無縁な男など、いそうでいない。


 浅太郎のように男だか女だかわからないような男なら、確かに男の不潔さはないが、男の良さも見あたらない。


 土方の面影は、頭のうちで捏ね回されて転がされるうちにどんどん美しく変容していく。

 思いが募るとは、このことなのだろう。

 如月の気持ちが多少なりともわかる気がした。


「浅太郎はんが来はったのかと思うたら、浅葱はんなましたか」

 睦月の柔らかな声に、浅葱は驚いて振り向いた。


 浅太郎は三崎屋に顔を出すたびに如月の部屋に籠もって残り香を懐かしんでいた。


「うちもときどき如月はんを偲んで、この部屋で過ごすなまし」

 睦月は浅葱と肩を並べて小さな空を見上げた。


「如月はなんで死んだんやろなあ」

 主がいなくなったせいでがらんとした部屋は、春になった今も冬のままだった。


「睦月はどない思てるんえ」

 疑問を睦月にぶつけた。


「葛山はんに『これきりで別れる』といわれて、あの如月が簡単に死ぬて、信じられへん。袖にされても執念深うに執着するか、たったいっぺんの綺麗な思い出を後生大事にしながら、強ぅ生き続けるかが、如月らしい生き方やおへんか」


「そうどすけどなあ」

 睦月は言いかけたまま、浅葱の瞳をじっと見つめた。


「な、睦月。あんたも如月も、こまいうちから死ぬほど芸事に精進して、ようようこったいにまで上り詰めたんやないか。気ぃの強さは半端やおへんやろ」

 早口に捲し立てながら、睦月の細い腕を掴んだ。


「案外、如月はんは……」

 睦月は静かに、だが力を籠めて浅葱の手をほどいた。


「なんもかんも嫌にならはったんやと思いなまんす」

 きっぱりと言い切ると、睦月は目を逸らせた。


 強い日差しが睦月の面に当たって濃い陰影ができた。

 浮かび上がった密やかな皺は、島原で長く過ごした年月が刻んだものだろう。


「うちにはそうは思えへん。如月の気性は、そないに柔(やわ)やおへんえ」

 浅葱は声を荒げた。


「浅葱はんはお嬢さん育ちなまし。こったいの気持ちはわからないなまし」

 睦月はぴしゃりと心の戸を閉じた。


「へえへえ。うちはどうせ何もわからん小娘どす」

 睦月までが遠い存在になった。


「一つ屋根の下で暮らして、ほんまのお姉はんみたいに思たってたのに。いっつもうちに口突いてた如月のほうがよっぽど正直もんやった」

 睦月に好かれていると信じて、いい気になって懐いていた自分が馬鹿だった。


「胸に手え当てて、よう考えるなまし」

 睦月はついと目を逸らすと、裾を引きながら、しゃなしゃなと部屋を出て行く。


 室内のうすら寒さと無縁に、早春の日差しは心地よい。春の風だけが浅葱に優しかった。


 手摺りに寄りかかった浅葱がふと下方に目を転じると、隣家との間の路地に人影があった。


 黒い装束には見覚えがあった。

 新撰組だった。


 葛山武八郎ではないか。


 葛山に直に訊いてみれば、自裁した如月の心情が明らかになるやも知れない。

 浅葱は右手でしっかと褄を取るや、廊下に走り出た。



               三



 裏木戸を開けて路地まで出てみると、立ち去っていく葛山の、すらりとした後ろ姿が小さく見えた。

 浅葱は息せき切って追った。


 華やかな島原遊郭のうちにひっそりと佇む稲荷神社の手前で、葛山に声を掛けた。

「葛山さま。待っとくれやす」

 名を呼ばれた葛山は、ゆっくりと振り向いた。


「そこもとは?」

 葛山は涼しい目元に怪訝そうな色を浮かべた。


 浅葱は葛山をよく知っているが、葛山は浅葱の顔さえ知らなかったと、浅葱は、はっと胸を突かれた。


 小さく咳払いして、

「うちは三崎屋の娘で浅葱どす」

 落ち着いた口調で切り出した。


「三崎屋に娘御がおられるとは存じておったが、拙者の顔を御存知とは驚き申した。して拙者にご用とは?」

 葛山は静かな声で聞き返した。

 顔には何の感情も浮かんでいなかった。


 相変わらず声に覇気がなく、丁重な態度は、物乞い同様に市中を回っていた虚無僧時代と変わらなかった。


 横の路地に佇んでいた姿は、感傷に耽っているように見えたが、目の前に立っている葛山は無表情で、如月の自死に対する呵責など一切なさそうに思えた。


 浅葱の心の中で好奇心が募った。睦月に真の事情を教えて鼻を明かしたい。


 「如月こったいのことで、ちょっと訊きたい話がおます」

 稲荷神社のうちを右手で指し示した。


 ところどころ塗りの剥げた紅い鳥居が八基重なって、簡素な拝殿へと誘っている。 

 拝殿の後方は楊柳が青々と繁り、吹き抜ける風になぶられて手招きするようにさざめいている。

 二基の灯籠の間を抜け、鳥居が重なる下で二人は歩を止めた。


 葛山は黙ったままだった。

 顔の部分が逆光となって、ますます感情は読み取れなかった。


「如月は勝手に死んだだけで、ご自分には関係ないと思てはるのどすか」

 いきなり本題を突きつけられた葛山の視線が、さっと石畳に落ちた。


 やはり何か深いわけがあるに違いない。

 好奇の念が押さえきれぬほど湧き上がった。


 狭い境内に人影はなかった。

 小鳥の囀りの代わりに、どこからか三味の音が聞こえる。


「うちの見世の路地でじっと立ってはったんは……」

 言い出した浅葱の言葉を遮って、葛山は吐き捨てるように呟いた。


「すべては拙者の不徳の致すところだ」

 開くかと思えた扉が、ぴしゃりと鼻先で閉じられた。


 なんちゅう態度や。

 ほんまに情があらへん。


 独り相撲をして葛山を憎んでいた浅太郎を、今の今まで阿呆な子供だと馬鹿にしていた。

 だが……。

 如月がこのように薄情な男に殺されたかと思えば、本気で憎くなった。


 のうのうと生きている葛山を、如月に代わって思いっ切り責めてやろう。

 浅葱は意地になった。


「不徳て何どすえ? どないな不徳どすか?」

 追及の手をゆるめぬ浅葱の問責に、葛山は押し黙った。


「芯の強い如月が自死するて、よっぽど訳があったんやと信じてます。一つ屋根の下で育ったうちにはよ~うわかります」


 葛山は聞いているのやら馬耳東風やら。

 うつむき加減の鋭利な横顔を窺っても、唇を引き結んだままである。


 なんとか葛山の情に訴えられぬかと、さらに言い募った。

「如月は武家の娘やった出自を誇りにしてました。そやからこの島原で誇らしく生きれるこったいになるために、そらまあ言い尽くせんくらいの血を吐く精進をしてきたのどす」

 話し始めるうちに、言葉が滑らかに口から溢れ出す。


「この島原で、禿から天神、ましてやこったいにまで上り詰めるおなごは、ほんまに一握りどす。生まれついた見目麗しい顔かたちやら気品はもちろん要りますけど、唄も踊りも鳴り物かて、その道一本で生きていけるほど極めなあきまへん。そのうえに和歌も詠めてお茶も香も華もと並大抵の修行やおへん。寝る間もおへんとは、このことどす」

 亡き如月を代弁するように、一気に言葉を吐き出した。


 聞こえていた三味線の音が途絶えて一瞬の静寂が訪れた。


 ふと気付けば、黙って聞いている葛山の口元に苦笑が浮かんでいる。


「芸を極めんかて、芸妓に仲居、身を売る鹿恋(かこい)から端女郎まで、島原で生きるすべはなんぼもおます。末を期待されてこったいに預けられた禿でも、幼い頃からの修行の厳しさに負けて、安きに流されるおなごが殆どどす。如月は念願のこったいに、ようやくなれたばかりどしたのに」

 語り進むに連れて浅葱は目頭に熱を感じた。


 如月や睦月を、悲惨な世界に住む女たちと憐れんでたはずが、実は羨ましかったのではないかと、初めて思い知った。


 浅葱は、心のうちが空洞で、風が吹き抜ける心地を、物心がついてこのかた、ずっと味わい続けてきた。

 矜恃どころか生き甲斐さえ希薄なまま、我が儘気儘を通すだけで漫然と過ごしてきた。


 苦労の一つも味わっていないゆえに、満たされる喜びも知らなかった。

 なんら達成感を感じたこともない。


「三崎屋からすれば、大事に大事に磨きに磨いた〝掌中の玉〟どす。如月が育ててもろた恩のある〝親〟に背いてまで自ら命を絶つて、よっぽどの理由がおますやろ。うちはなんとしても子細を聞いて納得したいのどす」

 浅葱は葛山に詰め寄った。


 一言半句も聞き逃すまいと、痩せて骨格の浮いた葛山の顔を下から見上げた。


 葛山は溜息とも呻きともとれぬ言葉を漏らし、僅かに目を泳がせた。


 もう一押し。

 葛山にも言い分があるはずだ。

 浅葱は瞳に力を籠めて葛山の目を見つめた。

 だが……。


「拙者と如月殿とのこと。浅葱殿に打ち明ける理などない」

 葛山は言い切るなりくるりと踵を返し、もと来た参道を歩み去った。



               四



 浅葱は稲荷神社の拝殿に何を祈るでもなく手を合わせた。


 狭い間隔で並んだ鳥居を潜り終えようとしたとき、

「おお。浅葱ではないか」

 安藤の酒焼けした濁声が聞こえた。


「用件を思い出してな。今から屯所に戻るところじゃが」

 安藤は馴れ馴れしく近づくや、

「おやすくないではないか」と耳元に口を寄せてきた。


 酒臭い息を耳に吹き掛けられた浅葱は、思わず後ずさった。

 だが、動じるような安藤ではなかった。


「この社から葛山が出てきたと思うたら、遅れて浅葱がひょっこりと姿を現したのじゃから、そりゃあ驚いたぞ」

 安藤はにやにや笑いながら、またも浅葱との距離を縮めようとする。


「たまたま出くわしてご挨拶しただけどすえ」

 視線を合わさず立ち去ろうとする浅葱の前に、安藤は両手を大きく広げた。


「ふふ。たまたまとな」

 鳥居の柱の両側に手を掛け、首を傾げながら安藤は通せんぼをした。


「それは誠か、怪しいものじゃなあ」 

 おぞましい目付きの安藤は、浅葱の体を上から下へとじろじろ見た。


「ふうむ。確かに髪にも胸元にも裾の辺りにも乱れはないようじゃな」

 冷やかすように、今度は浅葱のぐるりを一回りする。


「色男は隅に置けんのお。如月の次は浅葱を食おうとはのお。なあ、葛山の口吸いは、どのような味なのじゃ。正直に言うてみい」

 安藤は酔っていた。

 下世話な妄想の大風呂敷を勝手に広げる。


 みだらな想像をされるだけで汚らわしくて許せない。

 安藤の頬を思い切りひっぱたいてやりたい衝動を懸命に抑えた。


「な、なんでうちが葛山さまなどと……」

 言いかけた唇が震えて浅葱は口ごもった。


「おお、おお。そのように慌てるところを見れば、図星じゃのお」

 あろうことか安藤は確信を深めてしまった。


 「そ、そないな……」

 怒りが激しくなると却って何も言えなくなると、浅葱は初めて知った。


 言うに事欠いて葛山に懸想しているなどと、片腹痛いにもほどがある。

 是が非でも安藤の下卑た誤解を解かねば納まらない。


「あ、阿呆なこと言わんといと……くれやす」

 胸の前に手を当てて息を整えた。

「なんで、あないな男に惚れなあきまへんのや。うちには土方さまという思い人がおます」

 忌まわしい安藤の推測を、一気に蹴散らした。


「おお。土方副長が思い人とな。大きく出たもんじゃ。これじゃから、世間知らずの小娘は困るのお」

 安藤は腹を抱えて態とくさく大笑いし始めた。


「土方副長だけはいかんぞ。女たらしで有名じゃ。昨年の霜月には、多摩の名主、小島鹿之助殿に宛てて『報国の心ころわするゝ婦人哉』などという戯れ句とともに、女からもろうた恋文の束を自慢げに送りつけたようなお人じゃ」

 どろんと濁った目をした安藤は、浅葱の表情を窺うように上目遣いに見た。


「土方さまは女たらしなんかやおへん」

 思わず、悲鳴のような声で言い放っていた。

 憧れの土方を貶める安藤の言葉の一切合切を打ち消したかった。


「よほどのぼせ上がっておるのぉ。はは。土方殿に惚れるおなごは数知れずじゃから無理もないが。もうちっと中身で男を見んといかんぞ」

 安藤は顔の前で大きく手をひらひら動かした。


「素人娘は近づかぬがよい。火傷いたすだけじゃ」

 足下がおぼつかない安藤は不様に鳥居の柱にぶつかった。


 酔っぱらい相手に真剣に怒っても仕方がない、と思いつつも、

「なんでどす?」と疑問を投げ掛けずにはいられない。


「許嫁のお琴が良い例じゃ。可哀想に今なお故郷で土方の帰りをじっと待っておるそうな」

 安藤はいつもに似合わぬ痛ましげな表情を見せ、朱塗りの鳥居を手のひらでさすった。


 うちが聞いた話と違う。

 心が波立った。


 だが、すぐさま思い直した。


 安藤はいい加減な噂をまことしやかに振りまいているに違いない。


「お琴はんは意に染まぬ相手に嫁いで苦労してはるて、土方さまから直接聞きましたえ」


 「嘘じゃと思うなら、沖田殿なり井上殿なりに聞けばよい」

 安藤も譲らない。


「土方さまに会うて確かめてみるまでは、信じられまへん」

 浅葱が問い詰めれば、土方は真実を話してくれるはずである。


 二人きりになった夜の誇らしい記憶が蘇った。

 土方と会って遊びの女とは違うと確かめたい。


 やはりもう一度会おう。

 今度こそ高い垣根を跳び越えよう。

 浅葱は、はっきりと心に決めた。


「土方さまに伝えておくれやす。うちがもう一度、お目に掛かりたいて」

 浅葱の頼みに安藤は大きく頷いた。 


「良かろう。わしはおなごの一途さに弱いからのお。近いうちに会えるよう段取りしてつかわすゆえ……」

 安藤は片目を瞑ってみせた。


「ようわかってます。お礼はちゃんとさせてもらいますよってに」

 浅葱は口元をほころばせる安藤に向かって馬鹿丁寧にお辞儀をした。



               五



 安藤の口利きで、土方と逢い引きする段取りになった。

 浅葱は高瀬川沿いの木屋町通を一本西に入った茶屋の前で駕籠から降り立った。


 えらい違いやなあ。

 浅葱は、小粋な見世構えに感じ入った。


 昨年の夏、土方が連れて行ってくれた茶屋は、こぢんまりとした見世だったが、今日、指定された《花瀬》という茶屋は、隠れ屋という見世構えではあるものの格段に格式が上だった。


 案内された部屋は広く、造作もしっかりとしており、置かれた調度なども豪華である。

 艶っぽい女将に案内されて奥の座敷に通された。


 浅葱の姿を見て土方は黒目がちな瞳をぱっと輝かせた。 


「あれからもう半年が経つのか。まさに光陰矢の如しだな」

 仲居に注がせた酒を口にしながら、土方は目を細めた。


 眼差しは熱いものの爽やかですがすがしい。

 まるで清談を交わすために寄り合った風情で、浅葱の中に潜む抵抗感を和らげてくれる。


 半年のうちに壬生浪士組から新撰組へと隊名が変わって、土方を囲む状況の好転には目を見張るものがあった。

 目の前に座す土方は身なりが立派になっただけでなく、悠揚迫らぬ押し出しもまるで違った。


 土方の貫禄に、ただの小娘でしかない浅葱は小さくならざるをえない。

 言葉が上手く出ず「へえ」「はあ」などと短い相槌しか打てない自分が、我ながら情けない。


「多摩では一介の百姓に過ぎなかった拙者が、今では王城の守護者として、都を賊徒から守る尊いお役目を果たしておる」

 土方は誇らしげに盃を呷り、鷹揚な仕草で仲居に注がせた。


 まるでお大名のようや。

 浅葱は感嘆の溜息をついた。


「昨年は一年と思えぬほど様々な出来事があった。海の物とも山の物とも知れぬ浪士隊に加わった時からは全く想像もつかぬ。わが新撰組は押しも押されもせぬ組織となった。拙者は新撰組に命を懸けておる。新撰組を大きくし志を果たすには手段も選ばぬ。冷酷と罵られようとも構わぬ。《泣いて馬謖を斬る》行為も厭わぬつもりだ」

 土方は浅葱の前で、大仰に決意を語り、表情豊かに大見得を切った。


「ほな、おくつろぎやす」

 仲居が部屋を辞した。




 とうとう二人きりになった。

 意識すると、心ノ臓が躍り飛び跳ねて肩に力が入った。


 怖いわけではないが、すぐに抱き寄せられたら、やはり……。

 羞恥と恐怖に決意が揺らぐ。

 まだ刻を引き延ばしたかった。


 何か喋らなければならない。

 色気のない世間話をしてる間は、睦事など始まらないに違いない。


 「うちは……。ほんまにお琴はんに似てるのどすか」

《お琴はん》という名を口にするだけで嫉妬めいた苦い味が、口中に広がった。


「地元では小町娘で通るお琴とて、所詮は戸塚村の田舎娘ゆえ、浅葱のような京のおなごとは比べものにならぬわ。して何故、お琴の名を知っておるのか」

 土方は不思議そうに首を傾げた。

 惚けているふうもなく、土方の目は真剣に訝っている。


「あ、あの……」

 浅葱は口ごもった。


「お琴は拙者を忘れられずに待っておるそうだが。京の水で垢抜けたおなごをたくさん知った今は、とてもではないが嫁になどできぬ」

 少年のように邪気のない顔で、土方は悪戯っぽく笑った。


 土方のいい加減さに却って気安さを感じた。


「拙者はこの先は幕臣にも取り立てられよう。どこまで立身出世いたすか皆目わからぬ身だ。妻を娶るとなれば、それなりのおなごでなくてはならぬ。正直、許嫁のまま待っておられては困るのだ」

 土方は真顔になった。


 田舎道場のひとつでしかない試衛館時代の土方なら、お琴は似合いの相手だったろうが、土方が全くの別人と化した現在(いま)では不釣り合いになってしまったに違いない。


「江戸おもてに戻ったおりにはお琴の家を訪ねて、両親や仲人にも詫びを入れ、きっちりけじめをつけるつもりだ」

 苦笑しながらも土方は少しばかり猫背気味の胸を反らせた。


 土方の値打ちがひどく上がったので、なんとしてでも妻の座につきたいと願っているのだろう。

 浅葱は、田舎の村でひっそりと待つ、哀れなお琴の心情を想像した。


「ついこの間までは、京での暮らしぶりを故郷の知己へ自慢しておったが……。浮かれ気分は一掃致して、新撰組をこれからもっともっと大きくせねばならぬ」   

 口調を改めた土方は、手酌で注いだ酒を胃の腑に流し込んだ。


 浅葱は新撰組の内部事情を、浅太郎の目や耳を通してよく知っていた。


 芹沢・平山暗殺と長州の間者抹殺に続く多人数の脱走で、隊士の数は大幅に減った。

 その後も、入隊する者があれば脱走もしばしば起こる、といった有様で、思うほど隊士の数は増加していなかった。

 隊のうちで男色が流行っているという噂も密かに囁かれている。


 目下の新撰組はさらに飛躍するかどうかの分水嶺に立っていた。


 脇息に腕を預けた手で顎を弄りながら土方は「そういえば」と話題を変えた。

「浅太郎は総司に稽古をつけてもらっておるが、我々も瞠目する進歩ぶりだ。この先が楽しみだな」

 土方は弟を誉めたつもりだろうが、浅葱には興ざめな話題にしか過ぎない。


「そうどすか。浅太郎は新撰組に入隊したいから頑張ってるのどっしゃろ」

 思い切りすげなく答えた。


 土方は勘働きに長けているらしく、すぐさま、

「三崎屋といえば、安藤がしきりに出入りしておるようだが、迷惑を掛けておらぬか」と話題を変えながら浅葱に酒を勧めた。



                六



 燭台の灯が障子に火影を踊らせる。

 少し開いた障子の隙間から、石灯籠の灯に照らされた暗い庭の設えが見える。

 庭一面に敷き詰められた苔の毛氈の上に、紅い椿の花が一つ、ぽたりと落ちた。 


「今宵は逃がさぬぞ」

 土方は浅葱の体を軽々と抱き上げると、襖の向こうの奥の間に誘った。


 ぴしりと整えられた美麗な夜具が艶めかしい。

 土方は大事な人形を寝かせるように浅葱の体を布団の上に静かに横たえた。


「過日、そなたに逃げられたときは面食らったぞ。ははは。てっきり喜ぶものと信じておったので、大いに狼狽えてしもうた」

 土方は棒を呑んだように固まった浅葱の体の上に覆い被ってきた。 


「やはり、おぼこゆえの所行だったのだな。拙者は危うくおなごに対する自信を失うところであったぞ」

 土方は可笑しげに口元を緩めながら顔を近づけてくる。

 情欲を滲ませた瞳が浅葱の目の中を覗き込んだ。


 本当にこんなふうにされたかったのだろうか。

 男にどうされるというのだろう。


 抱かれる。可愛がられる。愛撫される。押し倒される。食われる。犯される。

 すべて受け身で屈辱的な言葉である。


 好きな男に抱かれることは、女なら誰しも望む幸せだろう。

 だが、なんとも言えぬ不可解な感覚が浅葱を迷わせ躊躇させた。


 体の奥底から噴出する激情が『違う。違う。こないなこと、うちは望んでへん』と瞬時に騒ぎ出した。


 情炎を燃やす土方は黙って浅葱を見つめる。

 浅葱が目を閉じれば、〝こと〟始まってしまう。


「それで照れ隠しで適当な嘘を?」

 もう少し刻を稼ごうと、浅葱は必死になった。


「あー。そのようなことがあったかな」

 土方は悪びれたふうもなく、美麗な人形を愛でるように浅葱の頬を掌で撫でた。


「この頬の柔らかさがたまらぬな。可愛いものよ」

 すらりと長く形が良いものの、近くで見れば意外に無骨な指の先で、浅葱の左頬をつんつん突いた。


「あ、あの……」

 まだ言いかける浅葱の唇が、土方の唇で塞がれた。

 全身がこわばり、汗が噴き出す。


 土方はいきなり激しく唇を貪るような飢えた若造ではなかった。

 小鳥が啄むように浅葱の唇に優しく触れてそっと吸う。


 普通の女であれば、ぼ~っとなって体が蕩けそうになるに違いない。

 だが……。

 耳学問で覚えた天上に遊ぶほどの快感など、まるで感じられなかった。


 濡れた柔らかなものに触れられて不快な感覚だけが募った。


 土方は浅葱を喜ばそうとしてくれている。

 喜んでいないと知られれば、土方に申し訳ない。


 戸惑ううちにも、土方の手が滑らかな動きで浅葱の肩や背を撫でる。

 いきなり胸を鷲掴みなどという無粋な真似をせぬところが有り難かった。


「浅葱……」

 恋情が込もった柔らかな声が名を呼び、力強い腕が浅葱の体を折れんばかりに抱きしめた。

 土方の愛が伝わってくる。だが……。


 触れられるほどに心が『違う。違う』と悲鳴を上げた。


 ついに土方の舌が浅葱の唇を割って侵入し、浅葱の舌に熱く絡みついた。

 反射的に浅葱の舌が逃げ惑う。


 逃げながらも『土方さまのお気持ちに添わなあかん』との義務感から、おずおずと土方の動きに応える。


 土方の手がついに浅葱の胸元にするりと差し入れられた。

 竹刀胼胝で固くなった掌が浅葱の薄い胸をまさぐった。


「あ!」

 声を上げたのは土方だった。


「すまぬ。すまぬ」

 飛び跳ねるように起き上がった土方は、バツ悪そうに布団の上に座った。


「浅葱はおなごではなかったのか。すまぬ。拙者は衆道には不調法で、その……」

 土方の言葉に今度は浅葱が驚いた。


 夢中だったため、病の発作が始まる予兆に気付かなかったらしい。

 もう間もなく浅葱は浅葱でなくなる。

 両親と仲居頭のお峰しか知らぬ秘密を土方に知られてしまう。


「うちはおなごどす。けど……」

『けど』の後の言葉は口が裂けても言えなかった。

 浅葱は顔を伏せながら、慌てて胸元をきっちり合わせ直した。


「重ねて無礼致した。その……。きわめて厚みのないおなごだとわかれば、その……」

 もごもごと口の中で呟きかけた土方は

「ははは。しらけたゆえ、またの機会といたそうか」と苦笑を浮かべた。


「ほなら、うちはこれで……」

 あたふたと身仕舞いを直すや、座敷の前の廊下に飛び出した。



 体がすっかり浅太郎になってしまわんうちに、お高の家まで戻らんとあかん。


 木屋町通に出た浅葱は辻駕籠を探した。

 夜風が浅葱の解れ髪をなぶる。


 安堵の気持ちとともに、大人の女になれなかった悔いがこみあげてきた。

 この先も男はんと、こないなこと、できへん。


 浅太郎に先を越されてしまう。

 浅太郎が男になれば、男でも女でもあった体は、男の体に決まるのではないか。


 浅葱の魂は浅太郎の背後に押し込められたままになるどころか、すべて消滅するかも知れない。


 しだいに後退する意識の中で浅葱は焦った。

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