自転車で赤い屋根の家の玄関に立った芽吹は、穏やかな心でその戸を開いた。
「ただいま」
といつもの柔らかい声で言えば、
「おかえりなさい」
と暖かな言葉が返ってきた。遠島改め大原エリカ。左目を眼帯で覆った彼女は、娘を抱いていた。
微笑みを交わし合った二人の間に幼い息子が走ってくる。
「おかえり、パパ!」
「ご飯、出来てるわよ」
あまり家事をしてこなかったエリカだが、ここ十年でかなり慣れてきた。ハンバーグだってお手の物だ。
「湊、幼稚園どうだった?」
「いっぱいあそんだ!」
離乳食を食べる娘の
「怪我はしてないね?」
「してない!」
カレーで口の周りを汚して、元気に溢れた返事をする。
「あなた、部下にもそうやって訊いてるんでしょう?」
「誰から聞いたんだよ」
「隼人くん。たまにウチに来るのよ」
湊に汚れを拭かせようと、エリカはティッシュを一枚抜いて渡す。
「菱形さんの弟なんでしょう? オレは絶対死なない、ってあっちこっちで吹聴してるらしいわ」
苦笑いを見せて、芽吹は向かいの息子に視線を送る。彼は不器用な手付きで口の周りを拭いた。テレビではドグラ連邦東部で、千年前に作られた魔導大戦の遺産の発掘が始まったことが告げられている。
そうして、食事も終わり、子供たちが寝た頃、夫婦は静かにリビングで向き合っていた。
「……天炎島のこと、ニュースで見たわ。ここも戦場になるのかしら」
「ザハッドナは天炎島とヤガ地方を交換するつもり、だと上は考えてる。でも、テロリストってそういう理性的な計算を守らないものなんじゃないか……とも思うんだ」
「結論から言って」
「いつでも避難できるようにしてほしい。俺もやれることをやるけど、戦場に絶対はない」
エリカは机の上で手を組み、夫の黒い目を見つめた。
「あなたが適当な、聞こえのいいことを言う人じゃないことは、わかってるわ。だから信頼しているし、一緒にいたいと思った。でも、約束して。生きて帰るって」
切実で、大きな質量を伴った言葉だ。
「俺の全てに誓って約束する。どんな作戦だって、生き残ってみせる。勿論、部下を守った上で」
微笑んだエリカは、よくケアされた手を芽吹のそれに重ねる。そのなくなった左目を見る度、芽吹は心の奥底で何かが蠢くのを感じていた。
ヤガ地方の戦いは、あまりに激しかった。黒鷲隊から戦死者はでなかったものの、芽吹以外の五人が重傷を負った。特にエリカは魔導義眼を使うための魔力回路を破壊され、退役を余儀なくされた。
その理由を、彼は自分に求めてしまう。マイを殺してどこか気が緩んでいたのかもしれない、と。
「あなたのせいじゃないわ」
それを見透かして、エリカが言う。
「私だって油断していたの。だから、自分を責めないで」
何度も繰り返してきたこのやり取り。何度も繰り返してきた後悔。もう少し、自分の視野が広ければ、と。
「どこかで、湊に魔力検査を受けさせるべきなんだろうか」
保持する魔力量を測定する検査だ。抽出器、いや、接続器を起動させるだけの魔力量を有していれば、この先人生の選択肢が増える。
「あの子が望んでからで遅くないわ」
湊はよく、『パパみたいになる』と言う。それがパイロットを志すという意味なのか、特段何を含めたというわけもなく、人間的な部分で父親に近づきたいという意味なのか、当の父にはわからない。そして、自身がそのような憧憬に値するのかも。
「本当の所、不安ではあるんだ」
ぽつり、零す。
「前戦争の時のメンバーは、みんな前線を離れた。浩二大佐も今じゃ赫天部隊の教官だ……やっていけるのか、とは、思うんだ」
「誰も亡くなっていないんでしょう? それが証左よ」
憂げな瞳で微笑んだ彼の夜は、長い。それを思い始めた頃、居間の扉が開いた。
「パパァ、絵本読んでぇ」
湊だった。夫婦が柔らかい表情を向け合った後、芽吹は本棚から一冊取り出した。息子の好きな、魔導大戦を終わらせたという大賢者「セフィラ」の物語。悪いロボットを封印し、世界に平和を齎す物語。それを、今は誰も過去のことだと思っていた。
◆
ザハッドナの旗艦は、
その前方に位置する艦橋に、血涙の仮面を着けた、赤髪のオが入った。
「天炎島の様子はどうだ」
彼女はまだ若い声で、冂の字の真ん中にある、数段高いところに座った銀髪の女艦長に問う。外からは昼の日差しが差し込んでくる。
「恙なく。少々乱暴な所はありますが……まあ、想定の範囲内でしょう」
艦長の名はカジャナ。偽名だ。
「略奪や強姦はやらせるなと言っただろう」
「皇国に多くを奪われた者たちです。大目に見てあげてください」
笑いながらそう言うカジャナに、実行隊長は何も返せなかった。その正しさを、計りかねて。
「それより、ハミンナの整備は万全ですか?」
「ウーアノに任せた分は取り戻せるはずだ。だが、皇国もそう機敏には動けんだろう」
「ええ──シギニ、障壁の状態はどうか」
呼ばれたのは、艦長から見て右手側に位置する、黒肌眼鏡の男。彼はディスプレイの横に、裸の少女のイラストを貼っていた。
「問題なし。鳳凰級の赫耀だって防げるぜ」
そう答えて、彼は眼鏡を上げた。
「その状態を維持だ。ドムカ、皇国の通信は傍受できたか」
次に声をかけた相手は、黒髪の通信士。
「かなり暗号化されています。解析にはまだ時間がかかるかと」
「了解。ゲースの通信士と連携して当たれ」
舵輪を模したハンドルを掴んでいる者の姿はない。昼下がりの光が、無人の操舵席を照らしている。
「ん、魔力探知機に反応。これは……九一式ですね」
そう声を上げたのはグォウ。藍色の髪をした、十八歳の少年だ。
「速度からして偵察仕様……撃ち落としますか」
「そうしよう」
と言ってカジャナは肘掛の通信機を取る。
「敵機接近。対空戦闘用意」
一声に応えて、アフェムの各部装甲が展開し、対空魔力砲やロケット砲が露出する。
「全魔力砲、出力安定。いつでも行けるぜ」
シギニの報告。
「……射程内に入りました!」
「放て!」
紅い光が青空を駆け、九一式の翼に穴を開ける。ふらついた機体に、驟雨。あっという間に爆散した。
「ヘッ、ちょっかい出そうとするからこうなるんだ!」
シギニが、煙から飛び出す破片を見てそう叫んだ。格納庫に向かうこともなく、オはその様子を見ていた。大人しそうなドムカでさえ、腕を振るって興奮している。はたしてそれは正しいのだろうか──と、彼女は思ってしまっていた。
「どうされました?」
カジャナが椅子の上から問う。
「……いや、素晴らしい手際だと思っただけだ」
マナエ、という老人がいる。かつて帝国軍の将官だったというその男が、陰からザハッドナに指示を出している。血涙の仮面も、赤く染めた髪も、芝居がかった口調と人格も、その老人に従ってのものだ。
「発進の用意すらしないのは、私たちを信じていたから。違いますか?」
「どうだろうな」
彼女の左腰にはサーベルがある。その柄頭に手を置いて、軽く顎を撫でた。
「少し、対空砲の散布界が広いように思える」
「後でデータを提出させます──こちら艦長、対空砲の命中精度に問題がある。データを纏めて上げよ」
事後処理が始まったことを認め、オは静かに艦橋を出た。
終戦から十年。その間、皇国は様々な工作を帝国領内で行ってきた。マイ・オッフが収容した孤児は、孤児院が爆破されたことで皆殺しとなった。たった一人生き残ったのは、エスクという退役軍人に引き取られていたカムル・オッフだけ。
(私がやるしかないんだ)
血涙さえも枯れた少女は、覚悟を改めて決めながら格納庫への道を往く。
(みんな、忘れてないよ)