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新たな日常

「あと一周!」


 教官の声がグラウンドに響く。学生たちは汗を垂らしながら、四〇〇メートルトラックを駆けていた。この周回で八キロを走ることになる。


 先頭にいるのは芽吹だ。涼しい顔とはいかないが、後ろの学生に比べて余裕のある表情ではあった。メトロノームのように正確なリズムで脚を動かし、ついに走り切った。


「ペ、ペースメーカー速すぎ……」


 後ろの方にいた者が呟いた。何人かもそれに頷いた。


「誰だよ」

「大原湊だってさ」

「やっぱすげえんだなあ……」


 へばって地面に倒れた学生を、教官が無理やり立ち上がらせる。一年は徹底的に体力錬成を行うものだ。有事の際──そして今はその有事にあたるのだから、疲れて戦えませんと言い訳するような兵は、必要ない。


 勿論、それは教官が学生の尻を叩くために敢えて大袈裟に言っている部分がある。過剰に負荷がかからないよう、実戦ではローテーションを組むものだ。だが、それでも体力が最後の武器となることを、誰も知っていた。


「よぉし、男子は上がれ! 次は女子だ!」


 日陰のクーラーボックスから水筒を取り出し、砂糖と塩を混ぜた水を皆がぶがぶと飲んだ。運動後のエネルギーと塩分補給のために、学生たちはこの水の作り方を対番から教わる。故にその比率は少しずつ違う。


 湊はトラックに目を向ける。先頭は銀色の髪。セラだ。


(やっぱ綺麗だな)


 ぼんやりと眺めていると、直角の多い動きで近づく者がいた。


「気になるのか? 湊くん」


 優だ。


「別に。女子って何キロ走るの?」

「七キロと聞いている」

「ふーん……」


 返事をしながら、湊はコンクリートの上で横になる。腿を柔らかくし、股関節を伸ばす。優も並んでストレッチを行った。畢竟健康が全てだ。体のメンテナンスを怠ってはならない。


 十五分かけて披露した筋肉をリラックスさせた彼らは、行程の半分を終えた女子の観察を再び始めた。ペースを作っているのは、やはりセラだ。


「首席なだけはあるな」


 優が言う。


「悔しいよ」

「フッ、そうか」


 白い体操服は、汗でじっとりと濡れている。できることなら脱いでしまいたいが、学則で下着を見せることは禁止されている。なら半裸になればいいじゃないか、と提案した学生は頭を叩かれていた。


「優は、疲れた?」

「そうだな。体力的にはもう限界だ」

「でも、授業で寝たら殴られるよ」

「それが問題だ。意識を保ついい方法があればいいんだが」


 さらり、春風が二人の頬を撫でて過ぎ去った。そんな彼らの上空を、焔輝が飛んでいた。


「早く乗りたいなあ」

「本当にな。いつまでも地面を這いずり回ってはいられない」


 空に未来を見出した者同士、戦争以上の憧れがそこにあった。


「実機訓練、二年の冬らしいよ」

「そうなのか。楽しみだ」


 少し遅れた集団が、教官から怒鳴られる。


「二年だったら追加で一周だな!」


 背後からやたらと大きな声。振り向かずとも、それが雄牛のものであることを湊は感じ取った。


「なんでいるんですか」

「空きコマだ!」

「自習とかしないんですか」

「終わった!」


 それが字義通り終わっているのか、どうしようもないという意味で終わっているのか、湊は判断に困った。


「随分と速く走ったようだな! そんなことでは潰れてしまうぞ!」


 へたり込んでいる学生たちを見て、彼は簡単な推測を行ったのだ。


「僕は僕のペースで走っただけです。ついてこれない方が悪い」

「ハッハッハ! それも一つの考え方だがな! 戦争は一人でやるものじゃない! ペースを合わせてやることも大切だ!」


 講釈を垂れられることを、湊は苦手とする。わかり切ったことを改めて説明されると、どうしようもなく腹がムカムカするのだ。


「湊くん、戸剛毅先輩の言うことは正しいぞ」

「はいはい」


 あまり会話をしたくない気分になった彼を救うように、チャイムが鳴った。


 座学。帝国語の授業だった。一般に、帝国語は古代文明に存在した国家の公用語から、幾年もの月日をかけて変化したものとされる。その点は、皇国語と似ている。


 だが、その文法や語彙は大きく異なっている。皇国語の助動詞は基本的に動詞の末尾につくものだが、帝国語では前につくものと後ろにつくものがあるのだ。そこに規則性はなく、ただ覚えるしかない。帝国語の習得に当たって最も難関とされるのが、この部分だ。


 ひとまず今日は一覧を見せての紹介に留まる。何が何でも暗記してもらう、と教官が脅すように言った。


 帝国語に用いられる文字は、直線的なものだ。単語ごとに区切りのスペースが置かれ、発音すること自体はそう難しくない。


 だが、教官はこう言う。


「貴族階級では、筆記体が用いられる。これは非常に文字が簡略化されており、専門的な学習を行った者にしか読み書きできない。諸君には、これを習得してもらう」


 まるで鉛筆を加えた犬が紙の上に線を引いたような、文字というよりもただ曲線が並んでいるだけの文書が黒板に映し出される。


「これが筆記体だ。卒業するころには、これを自在に操れるようになる」


 いやいや……と誰もが思った。それを見抜いて、教官は言葉を続ける。


「敵を知ることは何より重要だ。仮に捕虜になったとしよう。君たちは士官であるから、天光条約に則って扱われるのであれば、労務は免除されるだろう。だが、指示が筆記体の帝国語で下された場合、読み解けなければ苦労することになる。何より、帝国士官は外国人を馬鹿にするために筆記体を用いる傾向にある。気をつけろ」


 負けるつもりで戦争をする馬鹿は、いない。だが、負けた場合のことを考えない馬鹿もいない。これはそういう授業だ。学生たちは飲み込んだ。


「さて、各種発音記号についてだが──」


 帝国語の発音は、一つの母音につき複数の発音が当てられている。五個の母音と、発音を現す記号を加えたパターンは、総計二十四個。文字の周囲に添えられた点の位置で判別する。


 皇国語とは全く以て違う発音体系に、戸惑う学生たち。だが、湊とセラなどの優等生は、乾燥ワカメが水を吸って戻るように知識を頭に流し込んで、記憶していく。


 最初の課題として提示されたのは、天光条約第一条の翻訳だった。夜の自習時間で、湊は配られた紙を見ながらノートに皇国語で記していく。


「締約国は、全ての場合において……」


 帝国と皇国の間で捕虜の扱いを取り決めた天光条約は、かなり古いものだ。もうすぐ締結から百年となる。かつての全面戦争、第一次東覇戦争の最中に結ばれたと、湊は教わった。


 それ以来、帝国と皇国は小規模な武力衝突を繰り返し、二十二年前、第二次東覇戦争へと発展した。


(親父は、戦争で身を立てた)


 戦争がなければ、自分はここにいなかった。産まれてもいないだろう。


(じゃあ、僕は戦争があったから生きているのか?)


 手が止まる。多くの命を散らして、その上に胡坐をかいているような思い。


(やめろ、そんなこと考えたって意味はない)


 思考を振り切り、課題に戻る。だが集中が戻らず、窓の外を見上げた。綺麗な夜空だ。小さな星々が月と共に輝いている。


「まだ休憩には早いぞ、湊くん」

「そっちも見てるじゃん」


 優もまた、ノートと教科書との間で目線を往復させる作業に憑かれて、癒しを求めていた。


「湊くんは、死後の世界を信じるか?」

「死んだらそこで終わりだよ。輪廻転生、なんて宗教家は言うけれど」

「僕も、赫神道には共感しきれていない。本当に神の救いがあるのなら、なぜ皇国はここまで追い詰められているのか、とね」


 ほんの思いつきで、湊は窓を上げた。


「夜の風、嫌いじゃない」

「ああ、そうだな」


 そうして、競い合いの日々が始まった。

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