「見えねぇだろうが、どけよ!」
「無礼な! 身をわきまえぬか!」
「うるせぇ! 無礼講じゃ!」
「ぎゃっ……痛っ……!」
罵声、奇声、叫鳴、悲鳴が飛び交う。
此処ではいま、一欠片の倫理すら失われようとしていた。
「嗚呼、やれやれ。見ちゃいられないね、人間なんてさ」
もとは人間であったことも忘れて紙月はそう呟いてしまった。
実際、郷里にいる時には、これほど群衆の狂気を目の当たりにした経験はなかった。
それとも人であるうちは、人の狂気は見えぬものであろうか?
江戸城、西の丸の庭園に集まった人々は、いよいよ庭園の一角にしつらえられた円形の闘鳥場の柵に、我先に我先にと身を乗り出し、生々しい血への渇望を密かに滾らせていた。
陽光が宴の場を眩しく照らし、熱気と喧騒をさらに燃え上がらせた。
いまだ檻に入れられたままの紙月は、黒々とした羽を震わせ、鋭い瞳で周囲を睥睨していた。観衆のざわめきの中、紙月の視線は徳川家光の隣に佇む尾長鶏に注がれる。
その落ち着いた仕草、老獪な目つきに、紙月は確信していた。
「あれはテル……あいつこそが…家康だったってことか」
隣に佇むフランソワ・カロンがじろりと睨んで囁いた。
「其方、自分の使命を忘れてないだろうな?」
「何だっけな、鳥ゆえに物忘れが激しくてね」
もちろん、覚えていた。が、素直にそう答えるのが億劫だった。カロンはいささか管理気質が強すぎるのだ。
「わ、忘れたのか?」
「いや、覚えてるよ。覚えてる」
フン、と鼻を鳴らして、胸をなでおろしながらカロンは腕を組んだ。
「まずこの闘鳥の宴を制するのだ。家康のことを考えるのはその後でいい」
「わかってるって。おまえは余計な心配しないでその鎖を外す方法でも考えろよ」
紙月が呆れたように云うと、カロンはムッとしたのか口を尖らせた。
「こんなもの、外すのは簡単である」
「無理するな。そんな強がりを云っても現実が変わるわけではないからな」
「つ、強がりではない! 其方のような鳥なる愚かには私の偉大さは分かるまい。私がいま囚われているように見せているのは、あくまで奴らを油断させるためであって……」
紙月はわかった、わかった、と適当に応じた。
実際、カロンが鎖を外せるかどうかは知らぬ。だが、この宴のどこかで復讐の機は必ずや熟すはず。その機を逃したくはない点では紙月と本意が一致していよう。
と──其処へ、四度目の銅鑼が鳴った。
「静粛に、静粛に。本日はかかる佳き日を迎え、かくも多くのご貴人にお集まりいただき、誠に恐悦至極に存じ……」
大名が口上が述べるが、最早誰も聞いてはいない。
「引っ込め! 早く始めろ!」
「そうだそうだ! いつまで待たせる気だ!」
城外からの参加者を多数招いているこの宴にあっては、最早客の熱狂は制御不能なようだ。皆、血への渇望を滾らせ、中には密かに賭け事を始める者の姿さえちらほらと見え隠れする始末。
「ええ……であるからして、この闘鳥の宴をどうぞ最後まで、ごゆるりと盃を傾け、楽しきひとときをお過ごしいただきたく、おたのもうす」
まばらな拍手が起こったところで、気を引き締めるように家光が立ち上がった。
それだけでその場の音が一瞬で鎮まり、気温すら下がったように感じられた。
「これより宴を始める! 皆の者、各々の鳥の支度はよろしいか?」
徳川家光の声が西の丸の庭園全体に響き、観衆は固唾を呑んでただ深く頭を垂れた。
家光は高揚した顔で紙月を指さし、叫んだ。
「宴の挨拶に代わり、この巨大な化け物鳥を皆に紹介しようではないか。此奴は火喰鳥といって、徳川の至宝を盗もうとした罪鳥である! 」
罪鳥という言葉も初めて聞くなぁ、と紙月は呑気に考えていた。が、それを聞く群衆の顔は至って神妙であった。どれくらい神妙かと云えば、レディオヘッドのトム・ヨークの嘆きくらい神妙で、思わず紙月は茶化して笑い出したくなるほどであった。
家光はなおも演説を続ける。
「だが、ただ殺すのは勿体ない。そこで、宴の決まりをこれより変更する。面白き試合には十両と申しておったが、もしもこの火喰鳥相手に面白き闘いをすれば、百両をとらせよう。百両じゃ! 如何だ? どなたかどなたか──この者と闘ってみたい者はおらぬか?」
庭園にざわめきが起こった。とくに興味深いのは、重臣たちの間にざわめきが起こっていることであった。どうやら、今の家光の発言は、まさにこの土壇場における独断での変更であるようだった。
紙月は檻の中で
「百両なんて、俺に殺されることを思えば安すぎるんじゃないのか?」
つい、本音が出た。それくらい紙月は鳥になって以降、負けを知らぬ。
カロンが囁く。
「熱くなるな。其方を挑発しているだけだ。冷静にいけ」
だが、紙月はすでに腸が煮えくり返っていた。
「そもそもだな、俺が罪鳥だというのが気に入らないね。語呂も悪いが、問題はそこじゃない。俺が罪鳥だって云うのなら、俺の家族を殺すよう命じた彼奴は──罪人だな」
「紙月、落ち着きなさい。其方がそんな
鶏冠にくる、とは旨いことを云う。
これほど鳥類と化した自分が怒る姿にぴったりくる言葉もあるまい。
「そんな壺、粉々に砕いてやるよ、この
思う壺とは如何なる壺か、然様なことは紙月には皆目わからぬが、己の嘴に砕けぬ壺などなかろう。そんな愚にもつかぬことを、紙月は考えていた。
家光がふたたび「さあ何方か何方か!」と怒鳴った。
だが、誰一人名乗り出る者はいない。無理もない。たとえ百両と云えど、紙月と闘えば死が待っていることは、ちょっと頭がまともに回転する者ならば想像がつく。
これまで己が手塩にかけて育てた自慢の鳥をむざむざと死に至らしめてまで百両をとる者などいまい──と思っていたら、一つ、また一つと、ぽつりぽつり手が挙がる。
やめておけよ、と内心で紙月は思うものの、人間、金に目が眩めば真面な判断など出来なくなるものであろう。
「無駄な殺生だなぁ」
思わずそう憐れむと、カロンが耳打ちする。
「殺さずに痛めつけて終わればいいではないか」
殺さずに痛めつけて終わる? 何を云っているのだ此奴……。
内心で紙月は呆れ果ててしまった。
「嗚呼、これだから素人は困るね。それでは俺が家光にナメられるじゃないか。それに、私利私欲にまみれた人間どもだって百両がほしいのだろ? 中途半端な試合では、百両は手に入らないんじゃないのか? 家光は〈面白い試合〉に金を払うと云ったわけだから。だったら、素直に御命をちょうだいするさ。まったく、生き物の殺生など趣味ではないがな」
紙月は、カロンが異物を見るような目を向けていることに気づいたので、片目を閉じて見せた。
「冗談だ。半分、趣味になってきてる」