アースレイン侯爵家の南門。
領地から王都へ出立の際にだけ使われる門であり、逆に戦になれば堅牢で重厚な扉が、ゆっくりと開かれていく。
朝露の残る石畳の道が、王都へと続いていく。
僕はその道の先を見つめながら、馬車の前に立っていた。
アースレイン侯爵領を離れ、王都の中央学園へ向かう。
それは、新たな舞台への第一歩。
「……随分と立派な馬車じゃないか」
手を組んで感嘆する声が背後から聞こえた。
朝から完璧に整えた執事服に、無駄に張り切った表情で近づいてくる。
「ご主人様の門出にふさわしい馬車でございます! 中には柔らかな羽毛のクッションを敷き詰めておきました! 緊張でお疲れの体を癒していただけるかと!」
ドイルは専属執事として、今回同行することになっている。
「緊張はしていないが……まあ、ありがたく使わせてもらう」
「ご主人様、緊張してないなんて……ふふ」
その横から、黒のマントを翻して現れたのはリュシアだった。
相変わらず赤い瞳は深い夜のように光り、白銀の髪が風にそよぐ。
ドイルの視線が一瞬で吸い寄せられていくのを見て、僕は軽くため息を吐いた。
「リュシア。準備はできているか」
「もちろん。ご主人様“破壊を重ねていく姿を見るのが楽しみで仕方ないわ」
この女はいつも平然と物騒なことを言う。
ただ、実際に役に立つ場面も多く、戦闘力、情報収集能力、交渉術、どれも一級品だ。
「それに、もう一匹……忘れてもらっちゃ困るわ」
リュシアがそう言って振り返ると、森の奥から重々しい足音が響いてくる。
鬣を風になびかせながら現れたのは、漆黒の巨大な獣ダイワウルフのエリザベスだ。
「……よく来たな」
俺が声をかけると、エリザベスは鼻を鳴らし、ゆっくりと僕の傍へ近づいてくる。
全長二メートル以上あるその巨体は、威圧感を放ちながらも、僕の前では子犬のように従順だ。
元々は侯爵領の山中で発見された魔獣だった。
通常なら討伐対象となるはずだったが、リュシアの服従の魔術で従えることができた。
「エリザベスもご同行とは……なんという威容! 学園が戦場と化すのでは!」
「お前が騒がなければ、誰も気づかん。面倒はドイルが見ろよ」
「はっ!」
エリザベスはテイムモンスターとして、冒険者登録も済ませてある。
侯爵家の紋章が掲げられた馬車に、ダイワウルフを護衛に添えて、リュシアと共に馬車へと乗り込む。
ドイルは御者に乗り、数名の護衛が付き従う。
護衛など必要はないが、これもアースレイン家格式を守るために必要な処置になる。
「ふふっ、でも素敵よね。ご主人様の足元に従う黒き魔獣……まるで、世界を踏みしだく悪の王のよう」
リュシアがうっとりとした声で呟く。
「お前の脳内はどうなっているのか不思議でならないな」
「それじゃあ……行きましょうか、中央学園へ。待っているのでしょう? 未来であなたを裏切る者たちが」
リュシアは俺にしか聞こえてない声で、馬車の扉に手をかけた。
出会い、信じ、裏切られた者たち。
残っているのは四人。
・レオ・シュバイツ侯爵
・軍師のジェイ
・賢者マーベ
・魔法使いエリナ
最初から彼らを試す側として、俺が歩く。
「……そのすべてを、この手で見極めるためにな」
馬車の扉が閉まる音が、侯爵領の中庭に響いた。
かつて追われるように出て行った場所。
今はその門を、堂々と通り抜ける。
♢
王都までの道のりも、いよいよ終わりが近い。
街道沿いに並ぶ古木の合間から、遠くに王都の城壁が見えてきた。灰色の石で積まれたその壁は堅牢で、かつての戦乱を思わせる威容を誇っている。
馬車の天井から視線を戻し、俺は静かに溜め息をついた。
「もうすぐ王都ですな、ヴィクター様」
手綱を握るドイルが振り返りながら言う。
「何事もなく着けばいいが、そうもいかないようだ」
「えっ?」
俺がそう呟いた矢先だった。
道の先、茂みの陰から、悲鳴が上がった。
「た、助けて……!」
女の子の叫び声。瞬間、俺は馬車から飛び降りていた。
「ドイル、エリザベス馬車を守れ! リュシア、後方の監視を!」
「承知しました!」
「……ふふ、まったく。慌ただしいご主人様ね」
指示を飛ばしながら走る。森の端、騎獣に絡まれるようにして倒れていたのは、一人の少女だった。
体毛の黒い三眼の狼型魔獣が一体。
人を狩るために調整されたような禍々しい動き。見れば、少女は腰を抜かして動けないらしく、身を守るために小さな魔法障壁を張っている。
護衛が俺の後に続いてくるが遅い。
「そこまでだ」
冥哭を抜き、疾駆する。
空を裂いた一閃が、魔獣の胴を斬り裂いた。
断末魔のようなうなり声を上げて、黒い獣が地面に沈む。
少女は呆然と俺を見つめていた。まだ十代半ばほどだろう。栗色の髪に、鮮やかな青の瞳。泥だらけの服を身に纏い、必死に体を起こそうとしていた。
「だ、大丈夫……ですか……?」
か細い声で、彼女が俺に問いかけた。
僕は無言で頷き、手を差し出す。
彼女はおずおずと、その手を取った。
小さな掌。触れた瞬間、過去の記憶が疼いた。
「……君の名前は?」
「え……あ、エリナ……です。魔法使いを目指して、王都の学園に行く途中でした……でも、途中で魔獣に……!」
確かに、未来にいたエリナと同じ名前。
僕のそばで、最後まで信じてくれたと思っていた少女。
最期、処刑台の上から見えた、涙に濡れた顔。
この形で再会するとは。
「……そうか。偶然だな。僕も王都の学園に向かっている」
「えっ? 本当ですか……! すごい……」
ぱっと顔を明るくする彼女。
笑顔は、どこまでも純粋で、何の混じり気もない。
この時代のエリナは、まだ僕を知らない。
だからこそ、この出会いは運命だと思った。
「馬車まで来られるか?」
「はい……た、多分……」
彼女に肩を貸しながら戻った。