《side:ヴィクター・アースレイン》
夜は異様なほど静かだった。
世界が息を潜め、明日訪れる嵐の訪れを拒んでいるかのように。
執務室の椅子に背を預けたまま、僕は暖炉の火を見つめていた。薪が弾ける音が、部屋に唯一残された命の証だった。
ノックの音はなかった。
「アハっ! ご主人様、眠れないの?」
振り返ると、リュシアがそこに立っていた。いつものように無遠慮な入り方だったが、今夜ばかりは、なぜかそれが救いに思える。
「今頃、ジェイたちが戦闘をしていることだろう」
僕の言葉に、リュシアは小さく笑って歩み寄る。
「ご主人様も心配をするの?」
「いや、ジェイのことだ。心配はしていない。今回はエリスもフレミアもいる」
心配はしていない。だが、誰かが僕のために戦っている。
それを不思議に思うことはある。
彼女は僕の前にしゃがみ込み、視線を合わせてきた。
「アハっ! ご主人様の心に初めて揺らぎが見えたね」
「揺らぎ?」
「うん。いつも深淵の底に沈んだような瞳をしているのに、希望の光を見てしまったような」
僕はリュシアを見ていなかった。だが、今の言葉で彼女に視線を合わせる。
そこには瞳の光を失った、深い底のような真っ黒な瞳が僕を見ていた。
「アハっ! もしも、ご主人様に希望が生まれて、スキが出来たなら……」
そう言って、リュシアは僕の手に自分の指を絡めた。細く冷たい指先なのに、どこか熱を感じた。
「私はね、ご主人様の全部が欲しいの。地位も、名声も、未来も。そして明日の勝利も、そして希望も」
彼女は少し身を寄せて囁く。
「だから、絶対に負けないで」
その声音には冗談も飾りもなかった。
ただ、恐ろしい魔族の顔が見えた気がした。
♢
夜が明けると、王都の中心広場には人々の波が広がっていた。
騎士団が道を確保し、傭兵団〈黒牙の誓〉が配置につき、祭壇ではフレミアが祈りを捧げていた。
「よう、大将」
ジェイが小さく手を挙げて笑った。彼の周囲には、完璧な布陣が敷かれている。見慣れた傭兵たち、魔法陣、罠、情報操作、彼の策略がここまで僕を導いた。
「全部、整ってる。あとはお前が締めるだけだ」
「……分かった。ありがとう、ジェイ」
僕はゆっくり歩き出す。視線の先には、グレイスがいる。
金糸の軍装を纏い、威圧感すら美しい兄。彼は何も言わず、ただ僕の到着を待っていた。
民衆の間から、誰かが息を呑む音が聞こえた。
中央の決闘円、誓いの輪に、僕が足を踏み入れる。
決戦の刻は、いま。
あの夜、過去を断ち切ると誓った僕が、未来を変える剣となる。
誓いの輪の中心に立つと、空気が一変した。
周囲の喧騒が、まるで水の中に沈んだように遠のいていく。
ただ一人、グレイスがそこにいた。
銀糸の軍装に身を包み、漆黒のマントが風に靡いている。見間違えることのない僕の兄かつて届かない背中だった男。
そして、未来では横から奪い取った地位。
「来たか、ヴィクター」
その声は、思っていたよりも静かだった。怒りも嘲笑もない。ただ、事実を受け止めるような、そんな声音。
「……ええ。兄上」
「お前が当主争いに戻った日から数えて、二十になる。今日がその区切り、ということだな」
長いようで、あっという間だった。
「……兄上は当主になりたいですか?」
ふと、聞いていた。
グレイスは少し目を細めてから、答える。
「お前は昔のまま、弱い。だが、私は違う。……変わった。変わらざるを得なかった。様々なことを知ると多くの状況も変わってくる」
兄の瞳には、確かな覚悟と、それ以上に深い諦めが宿っていた。
「王家と結んび、貴族位を手に入れ、王女を妻とし、灰を操るまでに堕ちた。それが、あんたの進んだ道か?」
「堕ちた、か。言い得て妙だな。……だが、それでもアースレインの未来は私が手に入れる。力がなければ、理想すら語れないこの国だ」
「……僕は全ての絶望を知ってるだけだ」
力を求める兄と、断罪されて絶望を知った僕。
グレイスは静かに目を伏せ、そして微笑した。
「だが、誇るべきだ。お前がここまで来たことを、私は誇りに思うよ、ヴィクター」
「……皮肉ですか?」
「違う。……本音だ。私はお前を憎んではいない。憎めるほど……私の器は大きくなかった」
その一言に、僕は息を呑んだ。
「なら、どうして!」
「なぜ争うのか、か? それがアースレインだからだ。お前が剣を取った時点で、これは避けられない」
兄の声は静かだった。
「私はお前に討たれるかもしれない。だが、それでも構わない。なぜなら、たとえ私が敗れても、お前がここまでたどり着いたという事実は、アースレインにとって誇りだからだ」
「……そんな言葉、僕が欲しいと思っていると?」
「違う。だが、私が伝えずにいられなかっただけだ。ここで死ぬのはお前なのだ。兄からの最後の手向けだ」
兄は剣を抜いた。
その動きに迷いはなかった。敗北を恐れていない。
勝っても、負けても、その運命を全て受け入れるという覚悟があった。
僕も剣を抜く。
現在は互いに六段階。決戦の時が来た。ここに至るまでのすべての答えが、剣の交わりの中にある。
「来い。アースレインの名に懸けて、受け止めよう」
そして、世界が再び動き出す。
民衆の息を呑む気配が、遠くで鳴る鐘の音が、空を渡る風が――全てを見守っている。
兄と弟、二つの意思がぶつかる瞬間。
ここが、終わりであり、始まりだ。