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第107話

《side:ヴィクター・アースレイン》


 夜は異様なほど静かだった。


 世界が息を潜め、明日訪れる嵐の訪れを拒んでいるかのように。


 執務室の椅子に背を預けたまま、僕は暖炉の火を見つめていた。薪が弾ける音が、部屋に唯一残された命の証だった。


 ノックの音はなかった。


「アハっ! ご主人様、眠れないの?」


 振り返ると、リュシアがそこに立っていた。いつものように無遠慮な入り方だったが、今夜ばかりは、なぜかそれが救いに思える。


「今頃、ジェイたちが戦闘をしていることだろう」


 僕の言葉に、リュシアは小さく笑って歩み寄る。


「ご主人様も心配をするの?」

「いや、ジェイのことだ。心配はしていない。今回はエリスもフレミアもいる」


 心配はしていない。だが、誰かが僕のために戦っている。


 それを不思議に思うことはある。


 彼女は僕の前にしゃがみ込み、視線を合わせてきた。


「アハっ! ご主人様の心に初めて揺らぎが見えたね」

「揺らぎ?」

「うん。いつも深淵の底に沈んだような瞳をしているのに、希望の光を見てしまったような」


 僕はリュシアを見ていなかった。だが、今の言葉で彼女に視線を合わせる。


 そこには瞳の光を失った、深い底のような真っ黒な瞳が僕を見ていた。


「アハっ! もしも、ご主人様に希望が生まれて、スキが出来たなら……」


 そう言って、リュシアは僕の手に自分の指を絡めた。細く冷たい指先なのに、どこか熱を感じた。


「私はね、ご主人様の全部が欲しいの。地位も、名声も、未来も。そして明日の勝利も、そして希望も」


 彼女は少し身を寄せて囁く。


「だから、絶対に負けないで」


 その声音には冗談も飾りもなかった。


 ただ、恐ろしい魔族の顔が見えた気がした。



 夜が明けると、王都の中心広場には人々の波が広がっていた。


 騎士団が道を確保し、傭兵団〈黒牙の誓〉が配置につき、祭壇ではフレミアが祈りを捧げていた。


「よう、大将」


 ジェイが小さく手を挙げて笑った。彼の周囲には、完璧な布陣が敷かれている。見慣れた傭兵たち、魔法陣、罠、情報操作、彼の策略がここまで僕を導いた。


「全部、整ってる。あとはお前が締めるだけだ」


「……分かった。ありがとう、ジェイ」


 僕はゆっくり歩き出す。視線の先には、グレイスがいる。


 金糸の軍装を纏い、威圧感すら美しい兄。彼は何も言わず、ただ僕の到着を待っていた。


 民衆の間から、誰かが息を呑む音が聞こえた。


 中央の決闘円、誓いの輪に、僕が足を踏み入れる。


 決戦の刻は、いま。


 あの夜、過去を断ち切ると誓った僕が、未来を変える剣となる。


 誓いの輪の中心に立つと、空気が一変した。


 周囲の喧騒が、まるで水の中に沈んだように遠のいていく。


 ただ一人、グレイスがそこにいた。


 銀糸の軍装に身を包み、漆黒のマントが風に靡いている。見間違えることのない僕の兄かつて届かない背中だった男。


 そして、未来では横から奪い取った地位。


「来たか、ヴィクター」


 その声は、思っていたよりも静かだった。怒りも嘲笑もない。ただ、事実を受け止めるような、そんな声音。


「……ええ。兄上」

「お前が当主争いに戻った日から数えて、二十になる。今日がその区切り、ということだな」


 長いようで、あっという間だった。


「……兄上は当主になりたいですか?」


 ふと、聞いていた。


 グレイスは少し目を細めてから、答える。


「お前は昔のまま、弱い。だが、私は違う。……変わった。変わらざるを得なかった。様々なことを知ると多くの状況も変わってくる」


 兄の瞳には、確かな覚悟と、それ以上に深い諦めが宿っていた。


「王家と結んび、貴族位を手に入れ、王女を妻とし、灰を操るまでに堕ちた。それが、あんたの進んだ道か?」

「堕ちた、か。言い得て妙だな。……だが、それでもアースレインの未来は私が手に入れる。力がなければ、理想すら語れないこの国だ」

「……僕は全ての絶望を知ってるだけだ」


 力を求める兄と、断罪されて絶望を知った僕。


 グレイスは静かに目を伏せ、そして微笑した。


「だが、誇るべきだ。お前がここまで来たことを、私は誇りに思うよ、ヴィクター」

「……皮肉ですか?」

「違う。……本音だ。私はお前を憎んではいない。憎めるほど……私の器は大きくなかった」


 その一言に、僕は息を呑んだ。


「なら、どうして!」

「なぜ争うのか、か? それがアースレインだからだ。お前が剣を取った時点で、これは避けられない」


 兄の声は静かだった。


「私はお前に討たれるかもしれない。だが、それでも構わない。なぜなら、たとえ私が敗れても、お前がここまでたどり着いたという事実は、アースレインにとって誇りだからだ」

「……そんな言葉、僕が欲しいと思っていると?」

「違う。だが、私が伝えずにいられなかっただけだ。ここで死ぬのはお前なのだ。兄からの最後の手向けだ」


 兄は剣を抜いた。


 その動きに迷いはなかった。敗北を恐れていない。


 勝っても、負けても、その運命を全て受け入れるという覚悟があった。


 僕も剣を抜く。


 現在は互いに六段階。決戦の時が来た。ここに至るまでのすべての答えが、剣の交わりの中にある。


「来い。アースレインの名に懸けて、受け止めよう」


 そして、世界が再び動き出す。


 民衆の息を呑む気配が、遠くで鳴る鐘の音が、空を渡る風が――全てを見守っている。


 兄と弟、二つの意思がぶつかる瞬間。


 ここが、終わりであり、始まりだ。


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