目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話 駆け出し作家

 玄関のドアを開けると、締め切った部屋特有の淀んだ空気に包まれた。返事をしてくれる人もいないのに「ただいま」と声を掛けるのはただの習慣に過ぎない。


 照明のスイッチを入れ、靴を脱いで揃える。疲れた肩からショルダーバッグを下ろし、部屋の空気を入れ替えるため、ベランダへ通じる窓を開ける。夜気を含んだ風が街からのざわめきと共に入ってくる。


 細めに開けたカーテンの隙間から、意味もなく夜の風景を眺める。


 ベランダに置いたエサと水を入れた小皿は、見たところ変化がなかった。たまにやって来る猫のためにと出勤前に用意したものなのだが、今日は来なかったようだ。


 このマンションはペット禁止なので、猫はおろか小鳥や小動物も飼ってはいけない、はずなのだが、隣の部屋の住人はその規則を知らないのかそれとも無視すると決めたのか、半月ほど前からアメリカショートヘアーの猫を飼い始めた。


 そのアメショーがベランダの手すりを伝い、こちらへ遊びにくる。ここは三階だから、もしもバランスを崩して落ちたら、などど心配するのは人間だけなのだろう。猫にとっては、高所の狭い手すりの上を歩くなんて怖くも何ともないらしい。


 思わぬお客さんの来訪にわたしが気づいたのは、やはり半月ほど前のある日、ベランダで育てているローズマリーとラベンダーの鉢が倒れているのを発見したのがきっかけだ。


 鉢からこぼれた土を片付けつつ、犯人の正体を思い巡らしていたところ、翌日の朝になって「にゃあ」と犯人(犯猫?)が自首してきた。


 それがお隣の猫であると知ったのは、お隣との間に設けられた仕切り壁の隙間から、まさにその猫が部屋の中へと悠然とした足取りで入ってゆくのが見えたから。ピートという名前もその時に知った。


 エサと水を捨てててから、猫用の小皿をきれいに洗う。洗剤は使わない。他人様のペットなのだから清潔にしておかないといけない。もしもわたしのせいでお腹でも壊したら大変だ。


 わたしがピートを可愛がっていることは内緒だ。飼い主にはもちろん、マンションの他の住人にも気づかれないように気を配っているから、当のピートが白状しない限り、後ろ指を刺されることはあるまいと思っている。


 部屋着に着替え、昨日の残りものののカレーとご飯が入ったタッパーを冷蔵庫から取り出す。電子レンジで温めているあいだに、キッチンテーブルの上のノートパソコンを立ち上げ、さてと頭を切り替えて副業に取り掛かる。


 わたしはいわゆる実話怪談作家である。ペンネームは蒼井冴夜。ただし、作家といってもメインの仕事の傍らの兼業作家だ。


 世の中に数多く存在するであろう兼業作家たちと同じように、わたしもゆくゆくは現在の仕事を辞め、作家活動一本でやっていきたいと考えていた。


 学生の頃から怖い話や奇怪な実体験(怪異談または怪異体験と呼んでいる)に興味があった。その理由は子供の頃に自分自身が体験したある出来事による。


 興味が高じて怪異体験の蒐集が趣味となり、知人らから自分で直接取材したものを題材とし、それらに手を入れたのちに、インターネット上で実話怪談として公開するようになった。


 実話怪談作家としての自分を意識したのは、とある出版社より、企画中のアンソロジーにわたしの作品を収録したいとの丁寧な文章のメールを受けた時からだと思う。


「思う」というのは、その時は降って沸いたような幸運に実感が湧かず、それから数ヶ月後に、仕事の帰りによく寄っている大手チェーンの書店に平積みされた件のアンソロジーを手に取り、確かに自分の作品がそこにあるのを見た瞬間、ああ、本当なんだとようやく地に足が着いたような次第である。


 現在ではさまざまな媒体を介して取材対象を広げている。


 こん、と小さな音がした。背中の向こう、部屋の中というよりベランダから聞こえた気がした。耳をすます。でも何も聞こえない。


 気のせいだろう。再びパソコンのモニターへ目を戻す。と、また、こんと鳴った。


 ピートが来たのかもと思った。遊びに来たピートが猫パンチでガラスを叩いたのかな。


 それまでは夜に来たことはなかった。もしかしたら帰る部屋を間違えているのかもしれない。前にもそんなことがあった。


 ベランダへのサッシ窓を開ける。植木鉢が倒れているだけでピートの姿は見えない。わたしがすぐに来なかったので帰ってしまったようだ。


 植木鉢を元に戻し、土を拾い集めていると、雨の匂いがした。今夜は降るかもしれない。


 さて、すっかり遅くなってしまったけれど、夕食にしよう。せっかく温めたカレーが冷めてしまう。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?