明日から十一月だ。二ヶ月後にはクリスマスが来る。そしてすぐに新年。しかしそんな実感は皆無だった。毎日を慌ただしく無為に過ごし、大して代わり映えのしない日常を消化しているだけな気がする。
こんな風に感じるのは平和な証拠なのかもしれない。怪異に見舞われた人たちは眠れぬ夜が続いているのだから、贅沢な悩みと言うべきなのだろう。
いつものようにメールをチェックしていたら、その中に平川と名乗る人物からのメールがあった。
平川さんは神奈川県のXX市にある警察署に勤務する刑事で、わたしに聞きたいことがあるという。それもメールではなく直接会って話したいとのことだった。
警察に追われるような覚えはなかったから、どのような用件かと尋ねたところ、捜査中のある人物のパソコンに、わたしとメールをやり取りした記録が残っていたという。参考に詳しい話を聞きたいという主旨だった。
会うのはこちらの都合の良い場所で、どこでも構わないと。
そういうことであれば、協力を拒む理由はない。ただ念のために、平川さんが本当に刑事なのか、ネット民のデタラメではないと確認したかったので、勤務しているという警察署の電話番号を自分で調べて電話をかけてみた。
「生活安全課の平川さんをお願いします」
110番ではなく警察の特定部署に電話したのは初めてだった。交換手から電話が回されると、ほどなく、落ち着いたバリトンボイスが平川ですと名乗った。
「蒼井さん。どうも面倒をおかけして申し訳ありません」
「いえ。いいんです。それで誰のことをお聞きになりたいのでしょうか」
「それはメールでもお願いしたとおり、あなたに直接会ってお話ししたいのですよ」
言葉遣いは丁寧だが、単刀直入すぎて素っ気ないのは職業柄なのだろう。しかし感じは悪くない。
「緊急を要するような件ではないので、近いうちのご都合のよろしい日にお会いしたいのですが」
「わかりました。そうですね。では……」
感じは悪くないが、刑事を自宅に呼ぶのは気が引けた。少し考え、仕事帰りに寄れる、都内のホテルのラウンジで会うことにした。
当日は朝から冷たい雨が降っていた。昼近い時刻になっても薄暗く、気が滅入るような天気だった。まだ十一月なのに、吐く息が白い。わたしの大嫌いな忌まわしい冬が、もう間近まで来ている。
夕方に仕事を終えてから約束のホテルに着いたのは、待ち合わせ時刻のだいぶ前。時計を見ると、まだ三十分以上ある。
早すぎたと思った。しかし余裕を持って行動するのが性分なので仕方がない。どこかで時間を潰せばいい。
「あ、しまった」
平川刑事の容姿を聞くのを忘れた。自分の迂闊さに舌打ちをする。初対面なのだから、服装や目印になるものを予め聞いておかないと探せないじゃないか。
待ち合わせ場所に指定したラウンジはそれなりに混んでいた。でも、まだ相手は来ていないだろう。邪魔にならない場所に移動し、平川刑事に電話しようとスマホを取り出しかけた時、ゆっくりした足取りで近づいて来る人を認めた。
肩幅の広い大柄の男性だった。こちらをジッと見ている。冷静に観察するような目だと思った。
黒髪のショートヘアでネクタイは無し。白シャツ。ピシッとした襟が清潔感があって◯。グレーのジャケットに黒いパンツ。上着の上からでも鍛えられ引き締まった身体の持主であることが見て取れる。少しだけ足を引きずるようにしているのは、よくよく見なければ気づかない。
そして、伸ばした手が届くほどに距離まで来たその人が、電話で聞いた声で「蒼井さんですね。平川です」と言った。
「どうしてわかったのですか」
コーヒーを注文し、当然の疑問を口にする。初対面のはずなのに、どうしてわたしが目的の相手の「蒼井」であると察したのかしら。
平川刑事の前には、すでにコーヒーカップがあった。自分の方が先に着いたとばかり思っていたが、違っていたらしい。「まあ、そういう職業なので」そう言いながら上着の内側から取り出した物をわたしに見せる。警察官の身分証明だった。
「改めて、N警察署の平川です。今日はわざわざご足労いただいてありがとうございました」
「蒼井冴夜です。もちろんこれはペンネームです。本名もお伝えしたほうがよいですよね」
「そうですね。もし差し支えなければ」
簡単に自己紹介をする。注文したコーヒーが、銀のトレイに乗って運ばれてきた。静かなバロック音楽の調べが流れている。
「すると、蒼井さんは……お呼びするのは本名の方がよいですか」
「どちらでも」
「では蒼井さんで。プロの作家ではないのですね」
「ええ、そうです。一応、本になった作品はありますけど、それだけでは生活できないので」
「なるほど」
平川刑事はゆっくり頷いた。なかなか本題に入らない。緊急の事件ではないと電話で言っていたのは本当らしい。
「先ほどの、どうしてわかったのかという件ですが、種明かしをしましょうか」
「えっ。ああ、是非お願いします」
「いわゆる勘などではなく、実は理由があります」
「はい」
警察関係の人間と、これほどフランクに会話したのはこの時が初めてだった。もっと事務的で冷徹な人種だと思っていたので、少し意外だった。
「このロビーに入ってきたあなたは誰かを探していた。そして時計を二回確認している」
「ああ……」
「誰かと待ち合わせしているのはこれでわかる。私が会うはずの蒼井さんと同じぐらいの年齢の女性は、このラウンジには数人しかいない」
「でもわたしの年齢なんてどうしてわかるの?教えていないのに」
「先日の電話での印象です」
失礼ですがと、平川刑事は自分の予想を口にしたのだが、驚いたことに当たっていた。来月の誕生日が来れば、わたしはこの人が言い当てた年齢になる。
すごい。
さすがベテラン刑事。
「年齢の件はわかりました。でも、わたしがここに着いたのは待ち合わせ時刻よりも三十分も前ですよ」
「ええ。確かにそうですね」
「それなのに、どうして……」
この人はわたしを見てから確信を持って近づいてきた、ように見えた。年齢だけは特定できないはず。しかし彼の次の言葉を聞いて絶句してしまった。
「誰かと会う予定がある場合、あなたは約束の時刻よりも前に、その相手が来るであろう時刻より前に、相手の人より自分が先に到着するように気をつけている。違いますか?」
「えっ? は?」
「どうです。違いますか?」
「ち、違いません。おっしゃるとおりです。でもどうして……」
壊れたおもちゃのように、どうしてどうしてと繰り返してしまう。だって、どうしてそこまでわかるの?
尋問されているようには感じなかった。それはこのやり取りの間、平川刑事の目が笑っていたからだ。
「時間があったので、あなたのペンネームでネット検索しました。実話怪談作家さんとこうして会うのは初めてです」
「そうですか。それはどうも」
「それで奇怪な体験を集めているとか」
「はい」
「実際に会って直接取材することもある」
「そうですね。そのとおりです」
「体験談を聞かせてくれた人を大切な存在だと思っている。あなたの文章を読むと、それがよくわかる。そんな相手に会う時は、いつも気を使うでしょう」
「ええ。怪奇体験を他人に話したくない人も多いですから。うっかり話して変な目で見られたり信じてもらえないケースがほとんど。それなのに、知名度もないわたしなんかに貴重な体験を聞かせてくれる。いつも感謝の気持ちでいっぱいです」
だったら、と、平川刑事は身を乗り出し、秘密を打ち明けるように声をトーンを落として、顔の前で人差し指を立ててみせた。
なんだろうこのポーズ。
この人の得意の決めポーズかな。
きっとわたしはキョトンとした顔をしていたはずだ。
「だったら、待ち合わせ場所には、当然、自分の方が先に着くようにしているはずだ。そして、たとえ相手が刑事だとしても、あなたは初対面の相手に気遣って行動するに違いない。と、私は考えました」
「すごい! すごいです!」
思わず大きな声を上げてしまった。周囲の視線が集まるのをひしひしと感じる。
するとまた人差し指のポーズが……今度は静かに、という意味らしい。
「でもまだそれだけでは、一発でわたしを当てた理由にならないわ」
「あなたは近づいてくる私をじっくり観察していた。その意味は、誰かと待ち合わせているが、その誰かは顔も知らない相手ということになる。もし知り合いと会うのなら、私など目に入らないはずだから」
再び、すごいすごいと小さく抑えた声で賞賛を送ったら、また人差し指ポーズが出た。今度は何だろう?
「本当はですね、実は、ほぼハッタリです」
「はっ?」
「確証はなかった。今までのは、いわゆる状況証拠ですから。さっき声をかけて確かめて初めて、あなたが蒼井さんだとわかった」
「な……じ、じゃあもし人違いだったら……」
「もし人違いだったら謝ればいい。実際に、あなたに会う前に何人か謝りましたよ」
ジョークだったの?
はあ……笑えないわ。
からかわれているのかな。
顔が引きつっているのが自分でもわかった。芽生えかけていた好意が萎んでゆく。
「平川さん。そろそろ本題に入りませんか」
「あ、そうですね。すみません」
ベテラン刑事は慣れた動作でポケットから手帳を取り出した。手荷物らしきものが見当たらないが、鞄やバックなどを持ち歩かない習慣なのだろうか?そういえばテレビで見る刑事は何も持たずに行動している。
「ある人の行方を探しています。すでにお話ししたとおり、その男性のものと思われるパソコンに、あなたとメールを交換していた記録が残っていたので、ご事情をお伺いしようとこうしてご足労いただいたわけです」
「それは、なんという方でしょうか?」
そう尋ねながら、わたしはすでに答えを予測していた。いきなり連絡が途切れてしまったあの人、赤いあかい怪異に襲われたあの人だろうと。だから、平川刑事の口からその名前が出た時も、さほど驚かなかった。
「メールでは、Yukitoと名乗っていました。本名は……」
◇◇◇
白井幸仁(しらいゆきひと)。三十四歳、不動産会社勤務。独身。
今年の十月二十日、行方不明の届がご家族より警察へ出された。家族は遠方に住んでいるが、白井幸仁氏は家族と離れ、一人で神奈川のXX市に居住していた。であることから、管轄のN警察署にこの案件の対応が回された。
無断欠勤が続いたので会社の人間が電話してみたが、何度かけても誰も出ない。心配した同僚が白井氏の自宅アパートを訪ねたところ、不在なのか応答がなかった。しかし、もしかしたら部屋の中で倒れているのかもしれないと考え、上司に相談したうえで、地元警察署に通報した。そしてアパート管理会社の担当者が呼ばれ、警察官立ち会いの元、部屋の鍵が開けられた。しかし。そこに白井氏の姿をなかった。
◇◇◇
「立ち会ったのは近くの交番勤務の警官です。調書によれば、部屋の中は特に荒らされた形跡もなく、不審な点はなかったらしい。だからその巡査は事件とは思わず、部屋の主はどこかに出かけたのだろうと思った」
「そうですか……」
失礼しますと断ってから、スマートフォンを取り出し、メールアプリを立ち上げる。そこで不一致に気づいた。
「Yukitoさんからのメールに、自分は東京近郊のとある街に住んでいるとありました。神奈川だなんて一言も書いていません」
「あなたにメールを送ったあとに引っ越したんですよ」
「え。そうなんですか」
「急な引っ越しだったようです。そして引っ越してから一か月足らずでいなくなった」
「一か月足らずで?」
「ええ。そうです」
何かおかしい。でもどこがおかしいのかわからない。わからないままYukito氏からのメール記録を見る。
やっぱり。
最後のメールが届いたのが十月十六日。そのわずか四日後に行方不明になった。
いや違う。そうじゃないわ。
ご家族から警察に届け出があったのが、確か二十日と言っていた。と、いうことは。あれ、おかしい。いつ引っ越したんだ。この刑事さんは"わたしへメールを送ったあとに引っ越した"そして"急な引っ越しから一か月足らずでいなくなった"と言った。変ね。計算が合わない。
「会社の人と警察官がYukitoさんの部屋に入ったのはいつのことですか?」
「ええと、十月十四日ですね」
「え?」
それは変だ。いなくなった二日後に、わたしは彼からのメールを受信したことになる。
そうか。スマホだ。パソコンは残っていたらしいから、持ち出したスマホでメールを送った。
んん?
いなくなったのが十四日とは限らないじゃないか。もっと前に部屋を出た可能性も大いに考えられる。
でもそうなると?
どうなるの?
いったい、Yukitoさんはいつ部屋を出たのだろう。
「行方不明の届出を受けて、白井さんの部屋を調べたのは自分です」
「あ。はい。そうですか」
感じた疑問に没頭していたわたしは、つかの間、目の前の平川刑事の存在を忘れていた。そのバリトンボイスで我に帰る。
「それで、何かわかったのですか?」
「最初に部屋に入った警官の報告のとおり、何者かに荒らされた様子はありませんでしたね。綺麗に整理整頓されているとは言い難いが、独身男の一人住まいはこんなものでしょう」
「はあ。なるほど」
「部屋の鍵、現金やクレジットカードが入った財布、社員証と定期券、スマートフォン、そしてパソコンは部屋の中にありました。自分が見たところ何も持ち出されていないと思われる」
「えっ?! それは変だわ」
それはおかしい。
だってそれではどうやってYukitoさんは最後のメールを送ったのか?
スマホもパソコンも持ち出されていなかったなんて。
そうだ。
外部の、例えばネットカフェのパソコンを使ったのでは?
それに、知り合いのスマホやパソコンを借りた可能性だってある。
ああ、そうだった。
この平川刑事は、Yukitoさんのパソコンからわたしとのメールのやり取りを見つけたと言った。それでわたしに事情を聞こうと。だから自分のもの以外のデバイスからメール送信したなんてありえないのだ。
何だかわけがわからない。
「変とは? どこが変なのですか」
「はい? だ、だって」
さっきまでとは別人のように鋭い目になった平川刑事に、自分の疑問を説明する。すると、話の途中で遮られてしまった。
「違うでしょう。それは関係ない。何を言っているんですか」
「え? 違う? 関係ない?」
「あなたへの最後のメールは読みましたよ。メールは全部読んだ。白井さんのもあなたからの返信も全部です。何度も何度もね」
「そうですか。でも」
「最後のメールをどうやって送ったのかだって?彼のパソコンからだって言いましたよね。忘れましたか?」
イライラしているみたいだが、どうしてこの刑事がイライラしているのかわからない。話が噛み合わない理由も、まだわからなかった。
わからなかったが、馬鹿にしたようにこちらを見下す態度に、急に腹が立ってきた。
「刑事さん。ずいぶん失礼な言い方をなさるのね」
「えっ、あっ……」
「わたしはYukitoさんが心配だったんです。急に返事が来なくなって、不気味なものに襲われた体験の報告を最後に、連絡が取れなくなって、無事なのか、いったいどうなったのか、それは好奇心もあります。でもね」
「すみませんでした。蒼井さん。ですが……」
「でも、心配な気持ちの方が強かった。わたしに何かできるのなら、助けてあげたかった。でもYukitoさんは自分の体験を伝えてくるだけで、わたしに助けを求めなかった。警察にも相談したほうがよいと書いたのに、何も反応がなくて、結局、わたしは何も……できなかった」
「聞いてください。何か誤解があるようだ」
「誤解? そうでしょうね。わたしも刑事さんを誤解してたみたい。あれから一ヶ月以上経つけれど、Yukitoさんのことを考えなかった日はないわ。それなのに」
「一ヶ月? あれからっですって? お願いです、蒼井さん。聞いてください」
怒りで何も見えなくなっていたに違いない。だから平川刑事の驚愕の表情も、謝罪の言葉にも気づかなかった。
「帰ります」
横に置いたバッグを掴んで勢いよく立ち上がった。その拍子に、テーブルの上の、水が入ったグラスがガシャンと倒れた。構わず、手を伸ばして伝票をひったくるように鷲掴んだ。
「待ってください!」
「もう知らない。あなたとはもう話したくない。不愉快です。逮捕するならどうぞお好きなように」
「逮捕なんて、まさか」
歩き出そうとしたその時、手首のあたりを捕まえられた。それほど強い力でもないが、簡単に振りほどけそうもない。
「離してください。今すぐ離さないと大きな声を出しますよ」
「お願いします蒼井さん。これだけは教えてください」
「……」
「あなたがYukito氏から最後のメールを受け取ったのはいつですか?」
いつ?
その質問はあまりにも意外だった。だからわたしはその瞬間、それまでの怒りを忘れた。
「いつって、メールは全部見たんでしょう。そうおっしゃったじゃないですか」
「そうですが、あなたの口から聞きたいのです」
どういうことなの。
そんなのわざわざ聞かなくても……。
胸の奥で得体の知れないものがザワザワ騒ぎはじめた。嫌な予感がする。そして違和感。
もしかしたら。でもまさかそんなことが。でも、もしもそうだったら、さっきの矛盾は解消される。
「十月十六日。最後のメールが来たのが十月十六日でした。それ以降、Yukitoさんとは連絡が途絶えてしまったのです」
「そうか。なるほどね。わかりましたよ。だからあなたはさっき変だと言ったんだ」
ザワザワ、ザワザワと何かが騒ぐ。胸が苦しい。
「大丈夫ですか?顔色が悪い」
「だ、い、じょうぶ。話を……続けて……」
立ち上がったばかりの椅子に、倒れ込むように腰を落とす。手首を掴んでいた大きな手はいつの間にが消えていた。
「自分が見た最後のメールの日付は……」
「十月十六日じゃなかった。そうなんですね?」
「そうです。もっと前、九月七日だった」
ずれている。わたしと彼のお互いの送受信の日付が合わない。
「無断欠勤が始まったのはいつからなんですか」
「真面目でほとんど休暇も取らなかった白井さんが休みがちになったのが、九月の初め頃。そして十月十六日…その日から会社に来なくなった」
ああ。そうなのか。
何ということだろう。
「最後のメールに、会社の宴会があったと書いてあったでしょう。自分が幹事だから、出たくないけどそうはいかないと」
「ありました。覚えています」
「あれは暑気払いだったのです。九月五日。会社の人に裏付けを取りました」
わたしが受けったのは一ヶ月以上後だった。怪異はとっくに起きていて、最初のメールをもらった時には、彼はすでに赤黒い化物に襲われた後だったのだ。
何らかの方法で、メールを送信した側と受信した側とで、日付が合わないようにすることは可能かもしれない。でもわざわざそんなことをする理由があるだろうか。
「わたしからのメールは、Yukitoさん側ではいつ届いていますか」
「九月の末から十月にかけてです。念のために、あなたの方のメール記録を見せていただけますか」
Yukitoさんとのメールを表示させてから、スマホを平川刑事に渡した。
「なんだこれは。あなたと彼の側では日付が違う。あなたの方が一ヶ月先で、いや、違う。なんだかわからなくなった。でもどうしてでしょう」
わたしがYukitoさんから初めてメールを受信した日は、Yukitoさん側ではすべての事が起きてしまった後だった。わたしから彼へのメールは、いわば過去へ送った形になる…あれ、違う?彼の方が未来へ送った???
いずれにしてもYukitoさんはわたしからの返信を読むことができなかったのだ。
何かの悪意を感じる。そのなにかがわたしたちの邪魔をした。
リアルタイムで、お互いにやり取りができていれば、もしかしたら、彼は行方不明にならずに済んだかもしれないのに。
最後のメールから会社に来なくなるまで、約一ヶ月の間がある。彼はその間、どうしていたのか?彼の身に何が起きたのか?そしてどうしていなくなったのか?いったいどこに行ったのか?
わからない。
なにもわからない。
わからないことだらけだ。
「蒼井さんは、この、赤い自転車の話を信じるのですか」
「さあ。信じるという言葉の捉え方にもよります」
「意味がわからないな」
「実際に起きた出来事なのかとお聞きになりたいのでしょう?」
「そうです。それ以外にどういう意味があるというのですか」
「ではお聞きしますが、"実際に"とはどういうことでしょう」」
「それは、現実に本当に起きたことでは?」
「現実ってなんですか?」
「えっ。それは……」
「とてもリアルな夢を見た経験はないですか。そういう夢を見ている最中に、これは現実なのかなんて疑ったりしませんよね」
「まあ、確かにそうかもしれませんけどね」
「しばらく前の映画で、マトリックスという作品をご存知ですか?」
「ああ。懐かしいな。その当時付き合っていた女性と見に行きましたよ。でもそれが何か?」
「あの映画の中では、人間はAIに繋がれていて、それと知らずに、AIが創ったバーチャルな世界で生きている。自分たちの周りの世界が現実ではないと言っても誰も信じない」
「ふむ」
「その人が嘘偽りなく現実だと信じるなら、それはその人にとって現実なんです」
平川刑事は、なにか言いかけてから、気が変わったように口を閉じた。黙って考える表情になる。
音もなく静かにやってきたウェイターが、さっきわたしが倒して割ってしまったグラスを片付け始めたので、謝罪と弁償の意思を伝え、コーヒーのお代わりをオーダーする。
「蒼井さん。あなたの言い方だと、薬物中毒者の妄想だって現実ということになってしまう。それは違うだろう」
「本人にとっては、と、言ったはずですよ。それに現実ではないと証明できますか?」
「むう。怒らないで欲しいのだが、それは詭弁に聞こえる。屁理屈。単なる言葉遊び」
反論しようとしたら、でも、と、あの人差し指のポーズを突きつけられた。
「でも、まったく理解できないわけではない。自分もそんな体験をしましたからね。他人には信じてもらえないような体験でしたよ」
「そうなんですか。是非その体験を教えてください」
「それは、また別の機会にでも」
苦笑した顔がすぐに引き締まった。そのこめかみのあたりに、痣のような傷跡のような影があるのが見てとれた。
「実は、この捜査に携わっているのは自分だけなんです。事件性が認められないこと、そして白井幸仁が自発的に人前から姿を消した可能性も大いに考えられる。だから警察組織としては彼を探し出すために捜査をするつもりはない」
「ご家族から行方不明の届が出されいるのにも関わらずですか?」
きっと皮肉に聞こえたに違いない。でも本心だった。
「行方不明者は、年間どれぐらいの数に登るのか、蒼井さんはご存知ですか?」
「確か、八万人ぐらいだったと」
「ほう。よくご存知ですね。それは執筆のために下調べをされたのかな」
こちらに向けられた視線がスッと鋭くなる。刑事の顔だ。
「そんなところです」
「約八万五千人。そのうち男性が五万人ほどで、女性より男性のほうが多い」
「男性のほうが多い、だから何だって言うんです。犯罪捜査だけではなく、行方不明になった人を探すのも警察の仕事じゃないですか」
「ええ。そのとおり。だからこうして自分が出張ってきたんですよ。蒼井さん、怒ってます?」
「ああ。いえ。すみません」
肩の力を抜いて軽く深呼吸をする。つい、きつい声を出してしまった。
「警察組織としてはYukitoさん一人に構っていられないけれど、平川さんは違う。そうおっしゃりたいのですか」
「ええ。そうです」
「でも平川さんだってその組織の一員じゃないですか」
組織としての面子や建前や都合がある。そこに個人の意向は通用しないだろう。ましてや警察という強大な国家権力だったら、それは絶対のはずだ。
「組織が捜査しないと決めたのに、その方針に従わなくていいの?」
「ええ。自分は今日は非番だから。これは組織としての捜査じゃない」
「はあ?」
「自分が納得できないからなんですよ。できれば彼を探し出したいと思ってる」
わたしは誤解していたのかもしれない。警察組織としては捜査しないという言葉に強くこだわってしまい、目の前のこの男性がどんな思いを抱いていたのか、気づかなかった。
「どうしてそれほどまでに、非番の時間を使ってまで探したいのですか」
「さっき、自分も人に言えないような体験をしたと言いましたよね。他人には信じてもらえないような」
「ええ」
「話が前後してしまって申し訳ないが、実は、白井さんの住んでいたアパートの住人が妙なことを言っていたんです。彼が仕事を休みがちになった頃から、赤い自転車に乗っている白井さんを何度も見たと」
「えっ」
「別に、彼が自転車に乗っていてもおかしくはない。でも、目撃した人は、その自転車がとにかく変で、全体が、タイヤまで赤い自転車だったと言った。そして白井さんが何か歌のような、独り言を言いながら、ふらふらとその赤い自転車を運転していたと証言したんです」
いきなり猛烈な悪寒に襲われた。
横にある、ラウンジの大きな窓の方角から、叩きつけるような凄まじい瘴気が押し寄せてくる。
そして強烈な視線。
瞬く間に全身に鳥肌が立つ。
「くぅっ」
食いしばった口から苦悶の喘ぎがこぼれた。
寒い。
恐ろしく寒い。
何かがそこにいた。
ガラスの向こうに立っていた。
ガラスにべったり貼りついている。
その凶眼は、恐ろしい圧力を伴っていた。
顔がそちらへ向きそうになるのを、目がそれを捉えるのを必死でこらえる。
見ては駄目。
見てはいけない。
「見ないで!」
「見るな!」
叫んだのは二人ともほぼ同時だった。その瞬間、バーンと大きな音を立てて、ラウンジの窓ガラスが粉々に割れた。黒い影が視界をよぎり、とっさに顔を庇った腕に何かが突き刺さった。突き抜けるような痛みにうめく。丸めた肩と背中に、まるで雹のようにガラスの破片が降り注ぐ。そして静寂。
伏せていた顔をそうっと上げると、平川刑事はいなくなっていた。