一瞬の静寂。しかしすぐにラウンジは混乱に包まれた。
「急にガラスが割れて」「いったいどうして」「何が起きたんだ」「血が出てるぞ。怪我人だ。誰か早く救急車を!」
いくつもの叫び声と慌ただしい足音。窓に目を向けると、わたしたちがいたテーブルのすぐ脇のガラスだけではなく、その両隣の窓ガラスも割れたらしい。今は枠だけしか残っておらず、床から天井近くの高い位置まで大きな穴が空いてしまっている。透明な無数の破片が、層になって床に積み重なっていた。
「大丈夫ですか。すぐに救急車が来ますからね」
「いっ、痛っ」
床に転がっていたのを誰かに助け起こされた。腕だけではなく、足にもガラス片が突き刺さっていた。多分、転んだ時に刺さったのだろう。かなり痛かったが、歩けないほどではない。もしもとっさに顔を庇わなかったら、もしも窓に顔を向けていたら、こんな程度では済まなかったはずだ。
窓から離れた位置まで移動し、そこにあった椅子に腰を下ろす。スカートのあちこちが破れ、おろしたばかりの新品のジャケットにも何箇所も綻びと傷ができていた。
せっかくおしゃれをしてきたのにな。
こんな状態では、もう二度と着られないよ。
片方のピアスもどこかに行ってしまった。
でも探す気力も起きない。
なんだか頭がぼうっとしていた。それにひどく疲れてもいた。
急に手を掴まれた。「やめなさい」という声がしたので目を上げると、そこに平川刑事の顔があった。
「平川さん」
「痛いだろうが、今は抜かないほうがいい。触ると指を切ったりするし、血が止まらなくなるかもしれないからね」
何を言っているのかと思ったら、どうやら無意識のうちに、腕や足に突き刺さっているガラスを引き抜こうとしたらしい。
どろんと淀んでいた意識が薄闇の中から次第に浮上する。そして自分が今置かれている状況の把握と痛みが、カメラのピントが合うように鮮明になった。
「もうすぐ救急車が来る。きみは勇敢な人だが、今日は大人しく病院で手当てを受けなさい」
「どこに行ってたんですか」
今頃そんな優しい声を出しても遅い。わたしを置いて、いったいどこへ行ってたんだ。
「あれを追いかけた。でも逃げられたよ。って言うか、窓の強化ガラスが割れてから、すぐに消えた」
「あれ……あの凶眼の?」
「そうだ。凶眼とはうまい例えだねえ」
「まさか、あれを見たの?」
「いや。きみは?」
「見ていない。見てしまいそうになったけど耐えた」
「見たら危ないんだろうな」
「ええ。だからあれは、強制的に目を向けさせようとした」
とても強い力だった。もしも見てしまったら、気が狂うとか、脳みそが溶けるとか、とにかく考えたくもない。
「平川さんは知っていたのね。あれを見てはいけないことを知っていた。だから見るなと叫んだ」
「ああ。さっき言ったように前にも経験があったからな。場所を選ばず関係者の前に出没し消える得体の知れないもの。でもそれはきみもだろう。きみだって俺と同時に警告の叫びを発したじゃないか」
「まあ、こういう経験は初めてじゃないですから」
大柄なシルエットのところどころに血が付いていた。この人も怪我をしている。
「平川さん。あちこち血だらけですよ。一緒に救急車へ乗りませんか」
「俺は大丈夫だよ。あの時、きみのような冷静な分析ができる人が身近にいたらな」
「あの時?」
「三年前。後輩の宮部と俺は、ある事件を追っている時に、奇怪な現象に襲われた。そして後輩はそいつのせいで……。俺はやつを助けられなかった」
「そんなことがあったんですね」
「当時の俺は、自分が理解できるものしか信じなかった。だからすべてが後手に回ってしまい、訳の分からないうちに手遅れになった」
当時の平川刑事はわたしの話など聞く耳持たなかっただろう、とは言わなかった。この人の気持ちが痛いほどよく理解できるからである。
「どうしてきみは、こんな目にあうとわかっていながら、危険な実話体験を集めるんだ」
「それは……その」
「話したくなければ話さなくてもいい」
でもこの人は自分のことを話してくれた。わたしを信頼してくれたからだ。
「平川さんと同じです。わたしにとって大事な存在が怪異に連れ去られたからです。かけがえのない存在。わたしの妹を」
「そうだったのか」
「わたしはその場にいた。でも何もできなかった。わたしの話は誰にも信じてもらえず、両親も友人も、警察も信じてくれなかった」
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。まだこの人に話さなければいけないことがたくさんあるのに時間切れだ。
「病院まで付き添うよ」
「大丈夫です。そこまで甘えるわけにはいきませんから」
「そうか? まあそう言うならやめておこう」
「平川さん。また会えますか」
「それはデートのお誘いかな?」
「えっ?!」
戸惑ったのは一瞬だけで、すぐに可笑しくなった。こんな時に冗談を言えるなんて素晴らしい。
「違います。Yukitoさんのことも、もっと話し合わなければいけません。さもないと危険を回避できないから」
「そうだな。電話する。今は自分の怪我の心配をしなさい」
サイレンの音が一際大きくなり、止んだ。救急車が到着したようだ。夜の闇を赤い光が照らす。
赤いあかいアカイ。
「窓の外にいたあれは、赤いやつだった」
わたしの心を読んだような呟きが聞こえた。
「平川さんは見てないと言いましたよ」
「直視はしていない。視野の端に見えたんだ。きみだって同じだろう」
「ええ。でも…あまり話さないほうがいいです。怪異の核心について話していると……」
「それがやって来る。そうだろ」
「そうです」
まったくこの人は常識外れも甚だしい。刑事なのに怪異現象への理解があるなんて。
「窓ガラスを割ったのはわたしたちへの警告だと思います。今後はもっと気をつけなければいけません」
「ああそうだな。救急車が来たようだ。なあ蒼井さん。担架で運ばれて行く前に一つ質問があるんだが」
「なんですか」
「白井幸仁からのきみへの最後のメールなんだが、きみが受信したデータには文字バケしている箇所があった」
「ええ」
「どうして聞かないのかな。俺は彼の側のデータを持っている。送信メールには文字バケはない。そこに何と書いてあるのか、興味ないはずがないよな」
「聞かなくてもわかりますから」
平川さんは笑った。感じの良い笑顔だった。笑顔は人の心を明るくする。赤い闇に浸食されかけていたわたしの心も明るく照らす。
「それじゃあ、何と書いてあったのか当てて見せてくれないか」
「でも危ないですよ。それを言ったらあれが帰って来るかもしれないから」
「その時は俺が守ってやるよ」
思いがけない台詞に、今度はわたしが笑う番だった。今回、数本のガラス片が刺さっただけで済んだのは、この人のおかげだ。あの瞬間の黒い影はこの人。間髪入れずに素早く盾になってくれたから、飛んでくる破片から守ってくれたから、今こうして冗談を言い合えるのだ。
「それ、カッコつけすぎです」
「ははは。そうだな」
「ふふふ」
救急隊員が到着し、担架に移される。そしてこの頼もしい男性のそばから離れる前に彼にしゃがんでもらい、その耳へさっきの質問の答えをささやいた。
「そうだ。当たりだ。だが、どういう意味だろうな」
わたしは黙って首を振った。