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第8話 夢魔の領域

 怪我の状態はそれほど酷くなかった。骨まで達するような傷ではなく、治療を受けるまで刺さったままにしていたおかげで、出血も少なくて済んだ。でも消毒して包帯を巻かれた自分の姿は重傷を負った人のようだった。


 大袈裟なと思ったわたしは、治療に当たった若い医師にそう伝えたら、変な顔をされてしまった。


「重傷ですよ。安静が必要なので今夜はこの病院で休んでください」

「えっ!入院ですか?帰れないの?明日も仕事に行かないといけないのに」


 わたしのその言葉を聞いた医師の顔がますます歪む。


「仕事に行くのはやめてください。二、三日は安静が必要なんです」

「そうなんですか」


 仕方がないな。

 明日の朝、会社に電話しないと。

 急ぎの仕事は誰かにやってもらうように課長にお願いしよう。


「これから熱が出るでしょう。痛み止めと炎症を抑える抗生物質を出しておきます」

「ありがとうございます」

「いったい何があったのですか?」


 その質問が来るのは想定内だったはずなのに、自分で思ったよりもダメージが酷かったのだろう。気の利いた答えを用意しておくのを忘れていた。


「もしも第三者行為なら、医師には警察に通報する義務があるのです」

「そうですよね」


 さあ、なんと答えればこの先生は納得してくれるかな。怪異に襲われたなんて絶対に言えない。そうだ、ここは平川さんに押し付けちゃおう。あとで電話して口裏を合わせておけば万全だ。


「ホテルのラウンジにいたんですけど、いきなりガラスが割れたんですよ」

「割ったのは誰ですか。外から石をぶつけられたのでしょうか」

「さあ。よくわかりません。そうだ。平川というお名前の刑事さんが偶然居合わせたみたいなので、聞いてもらえますか」


 納得したのかどうかわからない。その医師は仏頂面で「あとで確認します」と言っただけだった。


 犯人がいるパターンの答えでは警察に通報される。事故ならホテルの管理責任の問題になってしまうだろう。それも嫌なので、どっちつかずの答え方をしたのだ。


 その夜。夢を見た。


 霧が渦巻いている。どこからか差してくる光でぼんやり照らされた霧は、濃くなったり、薄くなったり、わだかまってみたり、不定形の大きな生き物のようにゆるゆるとその姿を変える。光は霧の中から差してくるように見えた。


 昼なのか夜なのか、ここがどこなのかわからない。まわりを取り巻く霧以外なにも見えない。ただ霧だけがあった。


 何が近づいて来るのか見えない。赤い霧の幕に阻まれ、きい、きい、という音しか聞こえない。歯の浮くようなその音は、不気味な印象とは裏腹に、なぜかこんな情景をわたしにもたらした。


 小さな子供が一生懸命に自転車を漕いでいる。まだ乗り始めたばかりで、ふらふらして今にも転びそうだった。後ろから支えているのは子供の母親だろうか。優し気な笑い声がする。


 ……ほら、頑張って。

 しっかり漕ぐのよ……まだ手を離しちゃダメだからね。


「お姉ちゃん……」


 ……お姉ちゃん?


「手を離さないで、手を離したら連れて行かれちゃう」

「えっ」

「お姉ちゃん助けて」


 あ…ああ。

 ま、まさかこの子は。


「莉音(りおん)なの?そうなのね?」

「もっと引っ張ってお姉ちゃん。助けて」


 あの日。わたしは妹を助けてあげられなかった。そして妹は連れ去られ、二度と帰ってこなかった。


「大丈夫よ。お姉ちゃんが助けてあげるからね」


 でも、何かがおかしい。あの日は雪が降っていた。あたり一面に白く降り積もった雪。小さな莉音は、はしゃいで走り回っていた。自転車なんか乗っていなかった。


「どうしたのお姉ちゃん」

「莉音…」

「何を考え込んでいるの」

「…」

「どうして返事をくれなかったんだ」

「返事?何を言ってるの?」


 自転車のハンドルを握り、前を向いたままの少女。その声が変化していた。低い、男の声で、わたしをなじる。


「僕は待っていたんだ。どうしてメールをくれなかったんだ」

「あなたは……」

「でもいいよ。もういいんだ」

「あなたは……Yukitoさん?」

「返事をくれないから、こうして会いに来たんだよ」


 くるっとこちらを向いた顔は、ぬらぬらと赤く、のっぺりしていた。目や鼻は見当たらない。ただ、口があるはずの位置に、洞穴のような大きな穴があった。その赤黒い穴から、おああああ、と、呻きのようなため息のような音が漏れてくる。


 こんな化け物がYukitoさんのはずがない。これは、彼を襲った赤い化け物だ。自転車を押さえていたはずの手は、その化け物に捕まっていた。自転車などどこにもない。


「僕とおおおおおいいい一緒にいいぃぃ」


 あまりの悍ましさに、ひぃっと引きつった情けない声が出た。必死で捕まえられた手を振り払う。しかし自由になった瞬間、よろめいてしまい、弾みで転んでしまった。


「痛っ」


 鋭い痛みが突き抜け、その痛みにハッと気がついた。これは夢なんかじゃない。現実なのだと。


 それから離れようと後退りしたら、床についた手がヌルッと滑った。気味の悪い、赤黒くぬめるものがべったり付着している。必死に擦っても取れない。我慢しよう。今は逃げるのが先だ。


 痛みを堪えて起き上がった。足を引きずり、赤い霧の中を泳ぐように前へ進む。床の感じからここが病院の中だと直感した。でもそれならどうして誰もいないのだろうか。


「待ってよおおおおおあああ、あ、あぁぁぁ」


 ヒタ。

 ヒタ。

 ヒタ。


 不気味な声と裸足で歩くような足音。這うようにしか進めないわたしの後ろからゆっくり追いかけて来る。追いつくのは簡単なのに、そうしないのは、きっとわたしを弄んでいるのだ。


 頭がふらふらした。体が熱い。それに痛みで目がくらみそうだ。傷口が開いてしまったらしい。


 疲れた。今にも倒れそうだった。体力はとっくに尽きていた。それでも前へ前へと、自分では懸命に足を動かしているつもりなのに、ちっとも進んでいない。


 あれに追いつかれたら、わたしはどうなるんだろう。死ぬのかな。それともYukitoさんのようにどこかへ連れて行かれるのかな。


 でもいったいどこへ?


 わたしがいなくなったら誰か探してくれるだろうか。


 たぶん、誰もいない。父はどこでどうしているのか知らない。母もわたしなんかに興味はない。わたしの家族は、あの日から…妹がいなくなったあの日に、終わってしまった。


 もうわたしには家族などいない。わたしには、誰もいないんだ。


 背中を強く押され、身体が泳いだ。あっけなく床に転がってしまう。それが這い寄ってくる。赤黒くおぞましい顔が徐々に近づいてきて……急に甘い香りがした。


 これは何の香りなんだ。ひどく場違いな……。


「いい気になるなよ。化け物め」


 いきなり降って湧いた声に驚く間もなく、ぐいっと腕を引かれた。間近まで迫っていたそれとの距離が開き、間に割って入った大きな人影が、後ろに振りかぶった左腕を、赤いあれに思いっきり叩きつけた。


 その瞬間、ガラスにヒビが入ったようなピシッという鋭い音が響いた。


 空気が変わった。赤い霧のいたるところに裂け目が入り、急速に薄くなっていく。


「俺が守ってやると言っただろ」

「平川さん?!」


 ピーンと張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。衝動的に、目の前の広い胸に飛び込み、背中に回した腕で抱きついた。顔を押し付けるようにしてしっかりと抱く。頭に置かれた手。暖かくて優しい手がそっと頭を撫でる。


 しばらく経つと自分の行為が急に恥ずかしくなったので平川さんから離れた。顔が熱いのは熱のせいだけじゃない。


「でもどうして……どうして平川さんがここにいるの?」

「"虫の知らせ"ってやつだ。あのまま神奈川に戻ろうと思ったんだが、どうも胸騒ぎがしてな」


 霧が消えていた。赤いあれも、自転車も何もない。わたしたちは左右に長く伸びている廊下の真ん中に立っていた。


 窓から見える空は、群青とそれより明るいブルーの綺麗なグラデーション。夜明けだ。わたしの長い夜が終わった。


「しつこい化け物だったな。だが間もなく日が昇る。もう来ないだろう」

「とりあえずはね」

「ああ。とりあえずは、だな。それより怪我はないか?」

「えっ。あいにく怪我だらけですけど」

「いや。それはそうだが、あれに何かされていないか」

「大丈夫です。危ないところを平川さんが助けてくれたから」


 こんな早朝にこんな場所にいたら、見回りの看護師に怪しまれるので、見つからないうちに廊下の端にある談話室に移動する。疲労が肩にずっしりのしかかっていた。しかしまだ眠気は感じなかった。


 自動販売機で買った缶コーヒーを二人で開ける。窓の外はさっきよりも明るい。


「一つ聞いていいか」

「なんですか」

「いったいあれは何だ」


 あれ。赤いのっぺりした顔。最初は妹に化け、次にYukitoさんの振りをした。


「わかりません」

「まあ、そうだよな」

「Yukitoさんかもしれない」

「それは違うだろう」

「あれに取り込まれて同化したのかも」

「ああ。なるほど」


 同化してしまったのなら、もう見込みはない。この刑事さんは助けたいと言っていたけれど、おそらくもう無理だろうと思う。


「でも、驚きました」

「なにが」

「怪異の具体化を素手で殴るなんて、そんなことをする人は聞いたことも見たこともないですよ」

「そうか?か弱い女性が暴漢に襲われている現場では、最も効果的で手っ取り早い解決方法だと思うが」

「なるほど」


 なるほど。

 確かにね。


「だが、俺の拳はあいつに届かなかったよ。手応えはゼロ。当たったと思ったんだがな」


 当たらなかったのか。

 でも赤いあれは消えた。

 だったらどうして消えたのかな。


 普通の人はスピリチュアルな何か(妖怪とか霊とか魔物とかそんな類の諸々)を殴ろうだなんて思わないものだ。それに、仮に殴っても素通りするだけで何の効果も及ぼさない、はずなのに、この刑事さんは効果があった。


 あの瞬間の、ガラスが割れるようなピシッっという音は、おそらく結界が破壊された音だ。


 だから瞬時に赤い霧も赤いあれも消えた。魔の領域が素手に破れた。ということは、もしかしたら。


「平川さんは左利きなんですね」

「そうだよ。別に珍しくもないだろう」

「以前、左手で何かおかしなものを触りましたね?」

「おかしなもの?」

「そうです。例えば今回のような奇怪なもの。存在。空間。それらを左手で触ったか、中に突っ込んだとか。身に覚えはないですか?」

「あるといえばある。だが話せば長くなるし、今は詳細は言いたくない」


 やはりそうか。

 それなら、この人が知っておかなければならないことがある。


「わかりました。今は経験があるとわかればそれでいいです。平川さん。あの……」

「そんなことより、寝たほうがいいんじゃないか。死にそうな顔をしてるぞ」

「大丈夫です。わたしのことより平川さんのその左手の話が先です。これから言うことをよく聞いてください」

「ん。わかった。聞こう」


 腕を組んで背もたれに体を預け、鋭い目をわたしに向ける。


「平川さんは手応えはなかったと言った。でもそれは違います。ここへあれが連れてきた魔の空間は、平川さんの左手によって破壊された」

「……」

「普通の人間にはそんな能力はない。わたしたちが何かに触ることができるのは、なぜだと思いますか」

「続けてくれ」

「それは、これから触れようとする対象と自分とが、空間と時間と波長を共有しているからです」

「いきなり難しくなったな。落ちこぼれてしまいそうだよ」

「茶化さないでください。真面目な話なんですよ」

「茶化してはいない。もう少しわかりやすく言ってくれないか」

「同じ空間とは、例えば距離的なもの。遠くのものは触れません。日本にいる平川さんが移動しないままロシアのクレムリン宮殿の壁に触れますか」

「まあ無理だな」

「時間も距離と似たような考え方です。ところでクラシックは聴きますか?」

「クラシック? 最近は時間がなくて聴いていないが、ワーグナーのオペラが好きなんだ。ニーベルングの指輪とかね。知っているかい?」


 そう聞き返した目が笑っている。この会話を楽しんでいるらしい。ワーグナーが好きな刑事なんて、つくづくこの人は変わっていると思う。


「わたしはトリスタンとイゾルデが好きですね。前にベルリンで観ましたよ」

「ほう。それは羨ましい。誰の指揮だった? テノールは誰だ」

「オペラ談議はまたの機会にしましょうか。話を戻します」

「ああそうだな。脱線して済まなかった。続けてくれ」


 不意に疲れを感じた。それに眠い。気絶しそうだ。でも大事なことを伝えるまでは、無責任に眠ってしまうわけにはいかない。


「それではワーグナーファンの平川さん。リヒャルト・ワーグナーその人と握手できますか」

「それも無理だ。とっくに死んでる。タイムマシンがあったとして、過去に戻れるなら話は別だが……なんとなく話が見えてきたぞ先生」

「先生はやめてください。お互いの存在している時間軸が合わないと出会えないし触れることもできない」

「作家は先生と呼ばれるじゃないか。それで三番目の波長というのはなんだ?」


 ワグネリアンのベテラン刑事はゆったり足を組んだ。リラックスしている。反対にわたしは少し緊張していた。


「テレビは見ますか?」

「ニュース以外はそんなに見ない」

「ではテレビが映るのはなぜ?」

「それは、電波を受信しているからだろう」

「どうして受信できるのでしょう」

「どうしてって、そりゃあアンテナで……ああそうか。なるほど」

「送信と受信。双方の波長が合って成り立つ。波長が合わないと番組を見られない」

「ラジオも同じだな」

「そうです。共振という言葉をご存知ですか」

「ああ知ってるよ。以前、低周波の騒音被害の苦情があってな。それで……ふむ」

「長さの違う棒に音波を当てる。すると波長が合った棒だけ振動する。それはその棒と音波の波長が一致したから。これが共振です」

「俺の左手と化け物の波長が合った。そう言いたいのか」


 わたしがそれを言う前に、一気に結論に達した平川さんは、自分の左手をかざし、珍しいものでも見るような目で眺めはじめた。


「そうです。でもね。こちらから触れるなら、あちらからも触れるんです。さっきの棒の例で、どんどん音波を強くするとどうなるかわかりますか」

「どうなるんだ」

「棒が破壊されます」

「なるほど。なるほどな。棒はあの赤いやつだな」

「逆も真なり。魔が強力な場合は平川さんが危ない」

「その時はさっさと尻尾を巻いて逃げるよ」

「そうもいかないのです」

「ん。どうしてだ」


 不審な顔でわたしを見た。ここからが肝心だ。


「平川さんの左手と魔がリンクしている。もう、空間も時間も波長も関係ない」

「待てよ、それは四六時中ってことか」

「そうです」

「だが、今まで何もなかったぞ。おかしなことも化け物も、今回が初めてだ」

「物事には始まりがある。何事もきっかけがあります」

「それが今回の事件だったと?」

「おそらく。Yukitoさんの事件が引き金になった」


 飲み干したコーヒーの空き缶を弄びながら、平川さんは考え込んだ。右手から左手へ、虚空を見据えたままコーヒー缶のパスを繰り返す。


「きみのほうは影響ないのか」

「う。それは……」

「俺の左手だけが……いや。そうじゃない。きみの行先を追うようにあれが現れたんだから、きみへの影響もあった」

「そうですね。でも、わたしに関しては怪異体験の蒐集がライフワークのようなものなので、ある程度の影響を被るのはやむなしと、日ごろから覚悟していますから」

「ふうん。覚悟ね。あんな化け物に襲われるのも想定内だったのかい」

「それはその。あそこまでのはちょっと……」


 そこを指摘されるのはつらい。あれほど危険な目に遭うとは想像も覚悟もしていないかった。しかし情報が揃いつつある今は、後手に回らずに済むかもしれない。


「平川さんに調べていただきたいことがあるんです」

「何だ。言ってみろよ」


 この人とは昨日初めて会ったばかりだ。それなのに、こんなにざっくばらんな話し方ができる間柄になっている。しかもこの人は警察の人間なのだ。あんなおぞましい出来事がなければ、一般人でしかも初対面のわたしと、たった一日で打ち解けるなんて無理だっただろう。


「Yukitoさんにもきっかけがあったはずです」

「それは赤い自転車に決まってる」

「それはそうです。でも赤い自転車を初めて見たのは、いつどこでのことだったか。その場所が重要な鍵です。おそらく、その場所を訪れたことがきっかけになった」

「それは確か」手帳をめくり、程なく「自分が仲介したリフォーム物件だ。赤い自転車は門の前に停めてあった。白井幸仁は、空き家なのにどうしてこんなところに自転車があるんだと不審に思った」

「お願いとはその物件です。どこにあるのか調べて欲しいんです」手帳から目を上げ「わかった。調べてみよう。他には?」と快諾が返ってきた。


 これで言うべきことは言い、伝えるべきことは伝えた。疲労と眠気が限界を超えている。もう一歩も歩けない。情けないが、もう一つお願いするしかない。


「二つめのお願いなんですが」

「なんだ。別の手がかりを見つけたのか」

「そうじゃなくて、わたしをベッドに連れて…行って……もう……ダメ」


 そこまでだった。残っていた意識が眠りの底目がけて沈没していく............



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