取材日 20XX年十一月九日
年齢 五十代
性別 女性
職業 商社勤務(医療機器関係)
メモ
音声データ消失。理由は不明。
これは、ある方の独身時代の体験談をわかりやすくまとめたものである。関係者に迷惑がかかるといけないので、名前は仮に恵美子さんとしておく。
体験者へ取材した時の音声データはいつの間にか消えていた。同じメモリ中の他のデータはちゃんと残っており、奇妙なことにこの黒いコートの話だけがなぜか消えていたのだ。だから以降の文章は、彼女の話を思い出しながら改めて原稿を起こした。
♢
当時、恵美子さんはドイツ製医療機器の輸入販売を手がける商社の東京本社に勤めていた。
ある日のこと。出勤していつものように更衣室に入ると、入口のすぐ横の壁に黒いコートがかけられていた。更衣室は広いとは言えず、外に物を置くと邪魔になる。だから、どうしてロッカーにしまわないのかと思ったという。
濡れたレインコートなら乾くまで外に置くのはわからなくもない。しかし当日は朝からよく晴れており、雨など降っていなかった。その真っ黒なコートは、薄暗い蛍光灯の光ではよくわからないが、見たところウールのようなどっしりと厚い生地のようだ。だからレインコートではない。
季節は初夏を迎え、早い時間から気温が高くすでに蒸し暑い。少なくともウールコートを着るような陽気ではないから、恵美子さんはなおさら奇妙に感じた。
奇妙といえば、だいたいこのコートは誰のものだろう?
いつも彼女の出勤時刻は早いから、まだ他の社員は来ていないことが多い。その日もそうだった。とすれば昨日からここにあったことになる。しかし昨日の朝も帰る時もこんなコートはなかった。しかも昨日は残業で、一人で遅くまで社に残っていた。だから誰かが起きっぱなしにした可能性も考えられない。
だらんとぶら下がった真っ黒なコートを見ていたら、なんだか気味が悪くなってきた。
この本社の社屋は、外観が石造りの重厚な建築で歴史がある。それ故に設備類が古く使い勝手が良くない。更衣室は元は倉庫で窓がなく、灯りをつけなければ真っ暗になってしまう。
…もしも今、蛍光灯が切れたら。
でもただのコートを怖がるのは変ね。
それでも恵美子さんは、コートに触れるのが嫌だったので、すり抜けるように身体を横にして自分のロッカーまで行った。そして何気なく振り向いたら、あの黒いコートが消えていた。
えっ?
たった今そこにあったのに。
目を離したのは一瞬のこと。その間、自分以外は誰も更衣室に入っていない。
不審に感じた恵美子さんは、コートがあった位置に戻り、壁を見上げた。何もない。ぶら下がっていたのだから、吊り下げるためのハンガーがあるはずなのに何もなかった。ハンガーがあったような跡も穴も傷すら見当たらない。
そういえばと壁を叩いてみたところ、硬い感触が返ってきた。壁はコンクリートだったのだ。だから簡単には穴など開けられないどころか、思い返してみればハンガーなどこの更衣室には最初から一つもなかった。
気のせいだったの?
でも確かにここに黒いコートがあった。
釈然としない気分のまま、恵美子さんは事務服に着替えて更衣室を出た。
そしてその数日後。残業を終えた恵美子さんは荷物をまとめ、更衣室に向かった。時刻は九時を回っている。同僚も上司もすでに帰ってしまったので、がらんとした事務室には誰もいない。更衣室のドアを開け、灯りのスイッチを入れる。すると……。
やだ。
どうして。
あの黒いコートが、前に見た時より少し奥に、あの時と同じように壁にぶら下がっていた。
もう見るのも近寄るのも嫌だった。だから恵美子さんは、着替えないでまっすぐ帰ろうと思った。しかし外は雨。朝は降っていなかったので傘を持ってこなかった。ロッカーの置き傘がないと濡れてしまう。
仕方なく、この前のようにすり抜けようとしたまさにその時、黒いコートが、どさっと落ちた。
「ひっ」
思わず小さな悲鳴が漏れる。しかしどかさないと向こう側に行けない。
恐る恐る手を伸ばし、黒いかたまりのように床にわだかまったコートを掴んだ。しかし妙な感触がしたのですぐに手を離した。
すると、それが床の上をずるずると這いはじめたのだ。
「ひいいいっ」
腰が抜けた恵美子さんが見ているうちに、その真っ黒なかたまりは、ある同僚のロッカーの隙間から中に吸い込まれていった。
その同僚とはあまり話したことはなかったが、線の細い美人で、この出来事の前後から会社を休みがちになったという。
「彼女には良くない噂があったんです。社内の既婚男性と付き合っているとか、いわゆる不倫ですね。それが原因なのか、男性の方は少し前に地方の支社に出向になって、やり手だったのに出世コースから外れてしまったとか」
コートを掴んだ時のことを聞いたら、恵美子さんはこう答えた。
「布の感触じゃなかった。まるで、丸い、人の頭に触ってしまったような感じでした」と、嫌な顔をした。
それを掴んだほうの手は、いくら洗っても、暫くのあいだ男物の整髪料の匂いがしたそうだ。