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第16話 File 029【霧の彼方】〜木の幽霊の話・その1

 季節は夏。七月の終わり頃だったという。ある日の早朝のこと。前日の夕方にトラックの荷台に乗せておいた資材がきちんと固定されているか、拘束してあるロープが緩んでいないか、万が一、途中で崩れたりしたら事故に繋がるから、作業リーダーであるその方はいつものように点検していた。


 山の朝は夏でも涼しい。過酷な仕事に取り掛かる前の清々しい空気のなか、一人で過ごすそんなひと時に身体も心もリフレッシュされる。


 黙々と作業をしているたら、ふと、裏道の先が気になった。寝泊まりしている作業小屋の横手、停めてあるトラックの後ろに細い道がある。人ひとり通れるほどの道がくねくねと山肌を登っている。その道がなぜか急に気になったのだ。


「何かに呼ばれた気がしたんです」林野庁OBであるその方は、気恥ずかしげに笑って頭をかいた。


 その道は行けるところまで行ったことがあった。山頂まで続いているように見えても、次第に細くなり、途中から獣道めいてやがて森に飲み込まれて消えてしまう。


 なぜそれほど気になったのか自分でも理解できなかったという。しかし今すぐ確かめないと仕事が手につかない。どうせ行き止まりなんだからさっさと片付けてしまえ、気が済んだらすぐに戻ればいい、そう思い立ち、山道へ踏み込んだ。


 何か変だと思った。とっくに行き止まりの地点を過ぎているはずなのに道が続いている。霧のせいで先は見えなかったが、いったいどこまで続いているのだろうか。


 引き返そうと思った。しかし振り返った途端、まるで通せんぼをするように冷んやりした濃い霧が押し寄せてくる。何も見えない。足元すら見えないほどだった。これでは引き返そうにも危なくて引き返せない。うっかり足を踏み出したら斜面を転落してしまうかもしれない。


 今、自分がどこにいるのか不明だが、同僚たちのいる地点から、かなり離れてしまったと思われた。もしも足を踏み外して転落、その挙句、怪我をして動けなくなってしまったら。そう思うと迂闊に動けない。


 周囲に立ち込めているもやに朝日が差して、見慣れた景色を幻想的に見せている。ほとんど人の手が入っていない森を歩いていると、たった今、自分は、未知の真っ只中にいるという思いが強くなる。


 もやが濃くなった。進むのに妨げになるほどではなかったが、もやが霧に変わり、やがて自分の足元以外は見えなくなってしまった。水分をたっぷり含んだ霧のせいで服がじっとり濡れている。


 連絡を取る手段もない。すぐに戻るつもりだったので手ぶらで来てしまった。霧が晴れ視界が利くようになるまで今いる場所に留まる選択もなくはないが、濡れた身体が冷えきっているし危険な気がする。こうして立ち止まって考えている間にもどんどん身体が冷えてくる。


 今ごろ同僚たちは心配しているに違いない。こんなことになるのなら来るんじゃなかったと、自分の軽はずみな行動を後悔したが後の祭りだ。


 道の奥の方がやって来た方向よりも明るく霧も薄いように感じる。もう少し行ったら霧が晴れるかもしれない。そうなってくれたらそこで体力が回復するまで休憩してから戻ればいい。今日は晴れの予報だった。山に霧が出るのは朝だけの現象であるから、きっとその頃には綺麗に霧も消えているだろう。だからさらに奥へ進むことにした。


 幾重にも重なる霧をかき分けるようにしながら歩いた。進むにつれ霧が薄くなる。太陽は見えないが、霧の向こうに確かに光を感じる。自分の選択が正しかったと確信できたら、現金なもので、冷えきった身体が暖かくなったような気がした。


 どれぐらい進んだのだろうか、急に開けた場所に出た。明るい。いつの間にか霧は消えていた。いや違う、そうじゃない。


「そこはとても広い場所でした。なだらかな丘になっていて、草原というのかな。とにかく広い。野球場ぐらい。いやもっと広かったような気がします。明るくて空気が澄んでいる。その空間をぐるっと霧が取り巻いていた。白い霧の壁です。ずっと上の方まで届いている。草原との境目がくっきりと見えた。変です。とても変で異様だった。そんな光景など見たことがない。山の中のはずなのに霧の壁に隠されているのか山が見えない。それにまずそんな広大な場所がそこに存在するはずがないんです」


 唐突に出現した空間の真ん中に巨大な木が聳えていた。天高く太い枝を広げている。満開だった。薄桃色の花…ほのかに香る甘いそよ風が頬を過ぎてゆく。


 異様な状況なのに、どこか懐かしいと感じた。その理由は、その巨木が桜に見えたからだ。満開の桜だ。今は七月でありもうすぐ八月になる。いくら山の奥深くであっても、真夏に咲く桜があるなんて。季節外れの狂い咲きならあり得る。しかしそれにしては見事な満開の桜だった。


 それにこの場所。いったいここはどこなんだ。この桜のために用意されたような空間に思える。見渡す限りの広い草原の丘の真ん中に、まるで主のように存在している桜。風が吹くと、ひらひらと無数の薄桃色の花びらが舞う。美しいと思った。この世のものとは思えないほど美しい。


 どれほどその風景を眺めていただろう。ふっと我に返った。濡れた服が、身体が乾いているのに気がついた。冷え切っていたはずの身体も体温を取り戻している。


 戻らなくては。早く戻らないと同僚たちが自分が行方不明になったと思い、組織的な捜索を始めてしまう。警察にも連絡するだろう。誰かが行方不明になったら、そのような手順を踏むようにあらかじめ規則化されているからである。


 その美しい場所から去るのは惜しかったが、いつまでもぼうっと突っ立ったままのんびりしているわけにはいかない。大樹の丘に背を向け、歩き出した。


 目を上げるとトラックが見えた。そこは出発した場所であった。いつの間にか、作業小屋の前に立っていた。


 そんな馬鹿な。ほんの数歩しか移動していないはずだった。帰り道はどう歩いたのか、霧はどうなったのか、まったく記憶がなかった。覚えているのは霧の壁に囲まれた草原と桜の巨木の風景と、ほのかに甘い香りだけ。


 腕の時計を見る。ここを出発してから数分しか経っていない。そんなはずはない。しかし、霧にせき立てられるように進んでいる時に、時刻を確認しようと思わなかった事実に気づいて変な気持ちになる。


 振り返ると、あの細い道があった。わけがわからずその道を突進するとすぐに行き止まりになってしまった。


 きっと夢を見ていたに違いない。そう思った。もしも夢でないならいったいさっきの体験は何なのか?やはり夢だった。そうだ。自覚はないが、数分だけ眠ってしまい、夢を見たんだと、そう思うことにした。


「その不思議な場所に、もしも戻れるなら戻ってみたいですか」そう、わたしが聞いたところ、その方は少し考えてから「ええ」とうなずいた。


「でもただの夢ですから」

「どうでしょうか」

「それに木の幽霊なんてねえ。夢ではなかったとしてもそんなもの存在するわけがない」

「木の幽霊……」

「蒼井さんは、何か別の解釈をお持ちなのかな」

「わかりません。夢なのか、そうでないのか」


 短い沈黙のあと、こう続けた。


「仮に夢ではなかったとしても、もはやあの場所には戻れません。無くなってしまったんです」

「無くなった?」

「私たちが仕事を終えて撤収した後に、土地開発関連の企業が入り込んだんです。そしてその辺りのエリア一帯が破壊されてしまった」

「そうなんですか」


 再び沈黙。


「でも……もしもあの場所に戻れるのなら….もしも……」


 そのつぶやくような声は掠れて震えを帯びており、小さく途切れがちで、もしものその先は、はたして何と言ったのか聞き取れなかった。


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