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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 5

 少女が目を丸くした理由は、兄の部屋から見てはいけないものを見つけたからではない。あるいは弟の検索履歴を調べた結果、言葉をなくしたからでもない。朝、この店に呼ばれた理由をただ聞いただけである。


「びっくりです。春野さんのオーディションなんですか」

「そう。驚いたかな? 俗に言うどっきり企画ってわけだよ。実はこのオーディション、アシスタントを務める春野ゆきさんを審査しているんだ。君は、仕掛け側ってわけ」

「ということは私、演技しなくちゃいけないわけですよね」

「そう。普段のままでいいよ」

「私、相手が年上でもいろいろ聞くタイプです。わからないままが嫌なんです」

「それなら、また春野さんに電話で聞いてみるといいよ。必ず答えてくれるから。我々、選考過程を包み隠さず公開する姿勢でいるからね」

「じゃあ、春野さん。電話の受け答えが課題なんですね」

「そうなんだ。編集部に届く電話の声は全部録音しているから、しっかり対応できているかを見る。ま、ゴンザレス氏も細かいこと言わないタイプだけど。やっぱり電話口の声って大事だからさ」

「なるほど。私、仕掛けるって初めてなんです」

「楽しいよ。この世は騙し合い。搾取されるくらいなら、搾取されない方法を知るべきなのさ」

「でも、どうして春野さんを審査するんですか。一次の印象ですけど、すごく優秀な方みたいです。笑顔がまぶしいキラキラ広報みたいな」

「今回のオーディションを通して、正式に採用を決めるって言ってた。ゴンザレス編集長、キスマークひとつで書類審査をパスしたこと、いまさら反省してるんだよ。つまり、人妻ハルノの挑戦ってわけ」

「そういえば人妻さん!」

「旦那、俺が狙ってること知らないみたいだけど」

「Nさん」

 今夜、一次突破の知らせを春野という女性から聞く。そして聞きたいことをぶつけてみる。電話の向こうの女性は、自分が審査されていることを知らない、という作戦。

 有希は長い自己アピールを忘れていない。弟が聞けば、人生を狂わせることになるだろう。考えてみればそうだ。放課後、自分から制服のスカートをたくし上げ、美術教師に〈杏仁豆腐みたいなお尻〉を無料で提供する、そんな一人の少女を演じるのだから。

「作家になってよかったよ。現役のJKに朗読してもらった上に、そのまま引用してくれた」

「あれ、部屋で練習したんです。全部覚えるまで、何度も声に出しました。隣で弟が聞いてること思うと、恥ずかしかったですけど」

「弟はいくつ?」

「中二です。十四歳」


 たとえ弟が聞いていても、有希に後悔はなかった。腐った女になる前に、声に出して覚える必要があったのだ。恥ずかしがっていても意味はない。そんな女、ミツバチだって寄りそうにないだろう。晴れた春休みの土曜日。年上の男性と珈琲を飲むのは初めてのことだった。いよいよ四月からは二年生になる。朝、スーツを着た男性からメールを受け、働く年上の女性を騙そうとしている。本当に、人生って素敵だと有希は思った。まだ注文した珈琲は半分も口をつけていない。相手男性の話しに夢中になった証拠だった。

 視線を左手の窓に向けた。ドラキュラが瞬時にして溶けるくらい、窓の外はまぶしかった。休日の街が見えた。いつもより人々の足取りも緩やかだった。一人の女子高生が駅の方へと歩いてゆく。次第に駆け足で友達の背に向かっていった。知っている顔ではなかった。

 店に持参したタンブラーから湯気が微かに上がっていた。音のない秒針のようだ。一枚の皿の上にはシナモンロール。両隣に置いたナイフとフォークは銀色だった。真っ白なシュガーが渦を巻いたパン生地に降りかかっている。明るい朝の光が店内に差し込んで、今日一番乗りの客の顔を照らしていた。

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