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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 4

 オーディションに駆けつけた有希は、「制服で来い」と指令を受けていた。これは別に男性客を接待するわけではない。他の衣装が許されなかった。きっとヘミングウェイでさえも、大海原の航海を終えて、その可憐さに筆を置くだろう。あるいはウディ・アレンなら、めがねの奥を丸くして、撮影を止めて求婚を迫るに違いない。華の命は短く、スカートも然り。ついでに言うと、男性の視線を釘付けにできる年齢であることを証明している。奇しくも、女性アシスタントと同じ名前であった。

「有希です。本日は、よろしくお願いします」

 ここで今日ではなく、〈本日〉と使ったことに意味があった。本日の方がより丁寧に聞こえる。大人に好印象を与える、最初の一歩でもある。ちょうど初めて彼氏の母親に会う日と状況は似ていた。わたし、清楚で、可憐で、いい感じのお嬢さん。もう一度。私、清楚で、可憐で、いい感じのお嬢さん。あとは棘のある言い方を避けて、丁寧にお辞儀ができれば採用に近づける。表紙オーディションも甘くはない。

 編集長らしき男が口を開いた。

「では、有希さん。簡単な自己アピールからお願いします」

「はい。私は先生が好きでした……西の空がオレンジに包まれる時間、自分からスカートをたくし上げて下着を見せることから始まるんです」

 目の前に三人の大人がいた。一人に見覚えがあった。みんな学校の先生みたいである。スペイン語を専攻したわけでもないのに、あの男は視線を外さない。

「では、もう一度、別の言葉で自己アピールしてください。時間は無制限。どうぞ」

「先生がそういうから、私のスカートはいつもめくれています。朝、鏡の前でクルって回るのに、今は萎れたお花みたい。そんな花、ミツバチだって寄りそうにないと思います。私は、腫れた果実でいたいのに」

 有希の胸はセーターの上からも膨らんで、男子の目を否応なしに惹きつけた。固い決心を胸にしても、みんな同じ視線で見ている。そう気付いた矢先、〈書類審査合格〉の通知を自宅ポストから受け取った。

 一次オーディションは朗読。二次オーディションは対談。いずれも編集長、作家、女性アシスタントを交えての現場である。最終審査を終えて、およそ一週間後に採否を文書で送る、という流れだった。 一体、部数が少ない雑誌の表紙に、なぜここまで段階を踏まなければいけないのか、理解できなかった。当然、一般からの応募である。他人の顔色くらい見抜いていた。日頃の読書の賜物であった。笑う、微笑む、嘲笑う。それらを上手く出そうと空回り、大人が高笑いを浮かべる地獄絵図が目に見える。朗読には自信があった。声は、いつも正直だからだ。マスクを被った大人に出せない声を出そう。  ノーメイクで。十六歳らしく。有希の胸は、一段と躍るのだった。



「当日は、面接形式で課題を朗読していただきます」

 電話の向こうの担当者が言う。女性の声だった。

「あの、これを面接時に読む、ということでしょうか」

 合格通知に同封したA4用紙こそ、一次オーディションの朗読課題だった。冒頭の一文は、〈先生がそういうから、私のスカートはいつもめくれてる〉原稿用紙換算にして十枚の掌編である。

 ここには羞恥心が隠されているはずだった。奔放な女子高生を声だけで演じなければいけない。

「作家のNさんが書いた短編小説を、御本人の目の前で声に出してもらいます。私たちが質問しますから、原稿に書かれた文章をそのまま引用して答えてください。少し、練習しましょうか」

「……はい」

「名前のあと、こう聞きます。簡単な自己アピールからお願いします、というふうに」 

「はい」

「小説の中でも、同じように自己アピールを聞いてますよね。そこを声に出して読んでください。最後まで暗唱できたら、一次突破です」

 原稿に目を通した。女子高生の声だ。〈私は先生が好きでした。西の空がオレンジに包まれる時間、自分からスカートをたくし上げて下着を見せることから始まるんです〉

「そのあと、もう一回、別の言葉で自己アピールしてほしいと思っています。時間は無制限です。こちらは審査とは関係ありませんが、人となりが分かるので、ぜひお願い致します」 

 そう聞いた瞬間、有希の目は輝いた。ひらめき、という天使だった。原稿からアピール文を引用すれば、好感度もさらに上がるだろう。現役女子高生がもっと朗読してくれる。作家にとっては嬉しいはずだ、と踏んでみる。

「わかりました。頑張ります」

 有希は言った。 

 幸運なんか、祈ってほしくないと言いたかった。いよいよ次へ進むことを思うと、有希の胸はさらに大きくなった。また中学二年の弟と、その友達から卑猥な視線を受けること必至。日頃から思春期を迎えた弟に刺激を与えたくないと思いつつ、今朝も鏡の前でセーターの膨らみを見つめる。男子は背中のホックの外し方を知らない。自分は次の段階へ進もうとしている自負がある。不敵な笑みを浮かべた。これって高笑い? それとも女子アナのような愛想笑い? 否。これは私だけのベストスマイル。カリスマ主婦の苦笑いでもない。作家センセイも、女のアシスタントも、おじさん編集長も、誰も怖くない。


「有希さん。一次オーディション突破、おめでとうございます。二次からは候補者をさらに絞り、最終審査へと進みます」

「あの……」

 大丈夫。聞きたいことは何でも聞けばいい。大人に聞いていけないことなんて、何もないはず。

 有希は信じた。もう一度、質問の前に繰り返す。大人に聞いていけないことなんて、何も、ない、ハズ。

「どうして制服ばかりなんですか? 世界には裸で生活してる人、たくさんいるのに」

「有希さん」

「はい」

「あなたの活発な性格、編集部一同、高く評価しています。二次からの幸運を祈ります」

「祈らなくていいです」

「……どうして」

「この電話も審査に入ってるんでしょ? だったら、今すぐ点数付ければいいでしょ」

 電話の向こうが凍りついている。電話の向こうから、年上の女性が怒りに震えている。

 有希は冷静の意味を知った気がした。

 女性は言った。

「ある女性が八十点だとしましょう。笑顔でプラス十点、手料理が得意なら、満点に到達するんです。さらに出産でワンランクアップ、離婚でダウン。不倫でゼロに戻ります。ただし、四十代では憧れの対象になることもありえます。その場合、不倫相手が飛び切りの美少年か美青年であることが絶対条件です。十歳以上の年の差であれば拍手喝采、千客万来の大株アップが見込まれます」

「じゃあ、私もどこかで減点されているんですよね。この電話口で生意気言ってる時点で」

「二次からのオーディションで、どれだけ話せるかでしょうね。決め手は、その人自身の言葉にあります。あなたの場合、話せない心配はないでしょう。ただし、言葉遣いが悪いとマイナスです」

 選考過程は通常、応募者に漏らさないはずだと知っていた。ではなぜ、親切に答えてくれるのだろうか。有希は思った。別に自分だけ、答えてくれるわけでもないと。

「あの、春野さん。こういうオーディションの選考過程って、知らされないケースが多いと思うんです。でもどうして、教えてくれるんですか。私、性格悪いですから、裏があるなって思うんです」

「作家のNさんが決めたルールなんですよ。電話でも答えるようにしています。そうすることで、フェアな関係が築けるんですよ。つまり、ギブアンドテイクです」

「ぎぶあんどていく」

「はい。私たちが履歴書と写真を預かる。次にオーディションの告知を応募者が受け取る。この時点で個人情報をこちらが見ていますから、今度は包み隠さず質問には答えるスタンスなんです。ちなみにわたくし、二十八歳の既婚者です」

「ありがとうございます。勉強になりました」

「私たちは、優秀な人を選びます。決して審査員が分かるだけの人を選びません。例えばカフカが好きだからと言う理由で選んだりはしません。プルーストを読破してるからといって選ぶわけではないんです。『百年の孤独』を単行本で読んでいるからといって贔屓することもありません。大物作家のゼミ生だからって選んだりはしません。今回の表紙、服の上からも分かるバストのボリュームが理想でした。それに加え、文学について議論できる女の子を選定するつもりでいます」

「私、やっぱり胸ですか」

「服の上から分かるバストのボリューム。女の私が言うなら、社会的に問題ないと認識しております。ほら、女性専用車両でコンパクトを広げるようなものですね」

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