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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 3

 ところ変わって老朽化激しいビルの一角。エレベーターも年季が入っている。このまま地獄行きなのか定かではない。そのせいで幻の国と揶揄する人があとを絶たない。「エレベーターから恋が始まる」と言ったが最後、しばらく軟禁状態に陥る可能性も否定できなかった。各階のオフィスの向こうにたどり着くには、至難の業であるらしい。

 一方で隣のソープランドには作家の姿も見えた。日々文筆業の鬱憤を晴らしているようである。原稿を出したついで、一風呂浴びてさっぱり、というわけである。

 なんたって新しい文芸誌のタイトルが決まらないのである。会議では漢字一文字が望ましいだの、従来どおり二文字か三文字で付けるべきだの、互いの唾が飛ぶ盛況ぶりだった。仕事でこれだけ燃えていては、白い泡も消えそうだ。


「作家も、言葉を編んでいます。世の女性陣が身籠ってる間も必死で文章を書いているんです。次、生まれる子が男の子であれ、女の子であれ、その女性が親になるのは避けられません。私、叔母バカですから、姪が花嫁になるまで愛される作品を書いてほしい。そんな思いを込めています」


 紅一点のアシスタント、春野ゆきは言った。その隣、春野の横顔を見ながら微笑む作家、Nが口を開いた。

「確かにお腹の子は男の子なのか、女の子なのかわかりませんよね。きっと春野さんの名付けた雑誌名には侮蔑の意味があるはずです。ね、そうでしょう?」

「Nさんの言うとおりです。私も、言葉の方を産み分けたいんです」

 こうして古いビルの一室が賑やかなのは、一応の作家が訪れるからであった。壊れそうなエレベーターに乗って、はるばる編集部のドアを叩くのである。〈幻の国〉とは作家が命名し、錆びたドアの前で怖気図いて帰ったからにほかならない。一方で本が売れた作家は泡を求めて隣のビルに消えていく。編集長ゴンザレスの目で何度も目にした光景だった。一体、泡姫とは誰が名付けたのだろう。風呂場に敷いたマットは、殿方を夢の箱舟に乗せようとしている。

 それにしてもNの目は真剣だった。この男、目の色が変わった試しがなかった。グラシアス、と聞いて意気投合したのは三月の晴れた午後のことだ。

 窓の外には桜並木が見える。ひとひらの桜の葉であっても、スナイパーが撃つだろう。ゴンザレスは威嚇を歓迎していた。編集部にぶち込むなら今だ。銃声なんて怖くない。教室で聞いた、自分を拒絶するあの声よりも、朝の耳には堪えるのである。目が覚めた野良猫たちも、桜の下を潜り抜け、銃声の音に耳を澄ますに違いない。


 さて、仕事を終えた春野は商店街のから揚げを手に取り台所に消える。手料理は得意。頭に過ぎっては消えて、実家の母が今頃、妻になる自分を笑うのである。

 この唐揚げが美味しいわけは、油で揚げた衣の歯ごたえがよく、温めたお皿に乗せると充分、食卓に映える点にあった。お皿も温めるべし。日頃からそんな気遣いを忘れたことがない。そこへ自分で揚げたきんぴらごぼうを添えても、真っ先に唐揚げの方へ箸を向けると目に見えていた。まるでコンパの視線のように。友人はキャビンアテンダント、というわけである。

 別に夫に不満があるわけでもない。まだ膨らんだことがないお腹に聞くと、「嘘、じゃあ、どうして作家のアシスタントに応募したんだ?」と返ってくる。

 どうして。そう言い聞かせている内が華、と働く自分がつぶやいた。思えば実家を出たのは十八歳。桜が散る間際に朝の電車に乗って、ホームで両親、伯父伯母、姉夫婦、駅員に見送られ、ハンカチで涙を拭う大人たちの姿を見て旅立ったのだ。レールの音を聞きながら、いつしか体育館の校歌も過去のものに、『巣立ちの歌』も遠い記憶となった。月日が経っていた。春野ゆき。旧姓、秋野夕紀。時は昭和の暮れ、子供たちが絵日記を宿題にした長い夏のある日、次女としてこの世に産声を上げた。母子ともに健康だった。今年で二十八歳である。


「Nさん」

 名前を呼んだ横顔に恋心がにじむ。N。もちろんペンネームである。

「私、Nさんのこと……」

 いけない。晴れた日の午後、口にするセリフではない。ここは女性アシスタントらしく、作家を悩ませるにはいかないのだ。

 と、主婦である自分がつぶやいている。

 そこで春野は考えた。印象に残るタイトルを考えた。編集部で何度も会議をしては没、また没の繰り返し。肝心の雑誌名が未だに決まっていない。

 女たちがベッドで汗ばみ、太くたくましい腕に抱かれては吐息を漏らす名演技で、一体、どれだけの日数を夫に対して喜ばせてきたのか、今さら知る由もなかった。ある晩は「ゴムが足りなくなるわ」またある晩は「ゴムが足りないわ」と甘え、日頃、嫌な上司に頭を下げては愚痴をこぼす最愛の夫を笑顔にしている。くわえ込み、目を閉じて大量噴射を受け止めて、スイカに被りつくかのごとく口を密閉したまま、ピルと同じように飲み干してみる。今宵、気持ちよさに頭も〈真っ白〉である。

 春野はさらに考えた。ペンは滑らかに紙の上を動いた。いくつか雑誌名を候補に挙げて、編集長に提出しようと躍起になった。

「やっぱり、日本らしい題って使い古されている気がします。サクラとか」

「そうだね。文芸誌にフジヤマだの、ゲイシャだの、ハラキリだの、トルコ風呂だの使っても、日本の観光案内にしか見えないだろうね。例えばスカートの短い女子高生の写真を表紙に載せて、文学をアピールしたっていいと思うよ。ほら、昔から郷に入ってはって言うじゃないか。ここは十代の女の子の肌を見せて、海を越える必要があるんだと、僕は睨んでるよ」

 ゴンザレスは言った。

「その路線で行きましょう」

 Nは言う。

「ジャパニーズ・ガール路線で行きましょうよ」


 春野は思った。自分も制服を着ていたのだ。生足を真冬にさらし、飢えた狼さえもかぶりつきそうな太ももで、毎朝自転車にまたがり、学校へ向かったのだ。

 反抗期もあった。あれは高校一年生だった頃、なぜか家に帰りたくないと電話口で母に言い、そのまま友人宅へ泊まってしまった前科がある。翌日の朝、釈放された女テロリストさながらの表情で帰宅した瞬間、烈火のごとく母の怒りに触れてしまった。秋野夕紀、十六歳の夏である。

 制服が桜色と一体誰が決めたの。今やエプロン姿しか望まれていない現況に、飽きてもいる。それに大方の男性が喜ぶ裸バージョンも、いよいよピークを迎えていた。二十八歳。おそらく十年後には無理がある。だからこそ今、夫が背中から抱きしめてくれるのなら、と想像してみる。寒気がした。おまけに油が飛んだら大変だ。白い肌を炒めてしまうだろう。しかしその日の晩こそ、ようやく手料理から解放されるのかもしれない。唐揚げを食べて胸が大きくなるとはよく言ったもの、程よい大きさを保つことができている。そうだった。クラスの男子がホックの外し方について苦心している頃、女子の会話は最後まで向かっていた。つまり、痛いのか、どうなのか。まさに今、同じような気持ちで考える自分がいる。初めての☆体験だった。


「今度は、春野さんも審査側だよ。次のオーディション」

と、Nが口にする。

 既婚であると隠しつつ、短編小説を朗読。キスマークひとつで書類審査を突破し、今度は声に出して大役を務めたのも今は昔。あれも日々の生活から逃れるため、自分だって主婦のままでいたくない気持ちが功を奏して、見事〈採用〉の二文字を受け取った。二十八歳を迎える自分だって勝負できる。そう信じてドアを開いたのだ。今度は自分が審査する番である。緊張した面持ちの現役JKと会う。なんて言葉をかければいいのだろう。春野は早速、意地悪な質問を考えた。「自分の血の色、見たことある?」 

 私はイエス。あなたの年齢だった頃はもう始まってたわ。 

と、先輩風を吹かしてみる。

 自分がアシスタントの面接に向かった朝、外が白く染まって見えたのは、果たして気のせいなのかどうか、判断がつかなかった。ちょうど映画を見たあと、劇場の廊下が明るくなる感じと似ていた。春の光は、世界を幻にする。映写機は回っていた。見えないところから、面接に向かう自分の背を、そっと押してくれたのだ。

 いよいよ桜が散り始めていた。かつて男の子に恋した季節でもあった。好き、の一言が言えない。恋は、みずいろである。

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