目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 2

 有希。この子だけはなぜか姓がない。

 これは一体、どういうことだろ。別に姓を盗まれたわけでもないのに。

 Nは一人、自宅まで考えた。暑い一日だった。丘の上の森から、蝉がやってきては勝手に騒ぐ季節である。

 月の給与で飢えるわけではなかった。例えば今日話した生徒と恋に落ち、文字通りスカートがなくなる夜をすごせば……。

 Nは首を振る。いけない。ボタンは押せない。

 学校には来ている。一学期に一度も欠席も遅刻もなかったのである。それがどうして今日に限って遅れたのか分からなかった。まさか双子? それとも幽霊? 違う。足はちゃんとあった。声が残っている。否、ただの妄想だろう。

 例えば、こんな声。「私、やっぱり先生と会うみたいです」

 駄目だ。Nは振り払うように首を振った。アパートは静かだった。誰かが忘れた麦藁帽子の中のように、とても静かだった。

 蝉の声は止んでいない。狂おしいまでに鳴き続けている。もしシャワーの音が聞こえたら、二学期からの給与もなくなるだろう。

 そしてこんな声も聞こえてくる。


「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 

「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 

「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 


 相も変わらず姓を知らない。ゆき。ある日突然、綿雪のように降りた名前である。

 八月が長い、とは誰が決めたのか。十五日までが遠いのか、十五日からが早いのか。盆が過ぎて腐乱死体が出る部屋になってはいけない。そのため蛇口をいつでもひねっては、とりあえず温い水を口に運んでみる。不味かった。

 Nはワイシャツに着替えた。女子のような姿見がないため、こうして歯磨きと同じ鏡で整えなければいけない。当然ユニットバスは狭い。当然のごとく足場も余裕がない。唯一の鏡がこんなサイズで上半身のみ判別が辛うじてつく。ヒゲも剃った。あとは長い一日を迎えようと、ため息混じりで学校へと向かう。それにしても狭い洗面所であった。女子生徒が一人入るのがやっとである。

 部屋に飾ったカレンダーを直視、1、2、3と四角い中に数字が入っている。チェスみたいに隅の方をなぞるわけにもいかない。

 学校までの道路に異変が起きていた。作業に入る人が大勢いる。誰が見ても「真っすぐは無理だ」と思うはずである。近寄ってはいけない。何かが始まるようだった。

 さて、教室の扉を開ける。何日かぶりに会った生徒の顔は日焼けしていた。痩せた子はさらに痩せ細り、太った子はやはり太ったままであった。

 そういえば。

 男子卓球部の顧問を頼まれていた!

 事の発端は〈N先生、登校日だけお願い❤〉とメールが来たからである。なぜかニヤニヤしていたのも今は昔。

 あ、そういえば。

「中学の頃、卓球部だったんです」と、二つ返事で引き受けたのだった。おそらく新米教師に仕事を増やそうと仕組んでいたに違いない。蚊取り線香が燃え尽きるまで、一体どれだけの蝉が産声を上げるのだろう。登校日だけお願いと言われ、意気揚々としたのも束の間、やはり暑さは堪えるのだった。

 夕暮れが誰かの悪戯なわけがない。日が沈むその時まで時間は充分に残されていた。

 教師Nと有希は仲良く下校している。


「先生、来年も、会えますか」

「わからない。君が女子高生になれるなら、いつでも会える気がするよ」

「私、ほんとは学校なんか行きたくないです……好きなことばかりやっていたいんです」

「そういえば卓球室で言ってたね。三年生になってから、今日の朝まで一度も学校に来てないって」

「あれは芝居です。初めて遅刻した日なんですよ。なぜかわかりますか?」

 Nは考えた。まさか、俺に告白の準備をしていたからなのかしら。

 それとも。

 遅刻についての証明を解きたかったからなのかい? 

「正解は道路が封鎖したせいです。以上」

「そういえば」

「はい。不発弾を発見したとかなんとか。誰が落としたか知りませんけど」

「撤去したみたいだよ。先生も回り道したけど。おかげで君と出会ったわけ」

「私、グラウンドで聞いたこと。実行できるかわかんないです」

「大丈夫。面白くないとはっきり言える、そんな自分を高める場所に行けばいい。グラウンドじゃなくてもいいし、どこかの練習場じゃなきゃいけないルールもない。そこを強みにして、ステージを駆け上がってごらんよ。意外にそのあとは、面白いと言えるかもしれないし」

「嫌なんです。そう言われても、ぴんと来ません。弟にも冷たい目で見られてます。だから、私の場所なんか……私の場所なんか……!」

「そんなことない」

「わかりました」

「……怒ってる?」

「怒ってなんかないです。JKになればいいって、今、思いました」

「僕もこれから旅に出るけど、戻る理由ができたよ」

「私と会いに」

「うん。来年も夏服に身を通すならね」

 行き先の知らない町であっても、Nは気にしなかった。教師としての夏が終わる。空は青く、どこまでも澄んでいた。

「ところで先生」

 有希の声は一段と弾んでいる。

「私と対戦したあの子」

「眼鏡の」

「はい。あれ、弟なんです」

 Nの隣、ついさっきまでピンポンをしていた女の子が微笑んでいる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?