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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 1

 去る八月の暑い朝、村でただ一つの中学校に異変が起きた。少子化に伴い、近年では男子卓球部の人数も激減、テコ入れのため、遥々山の向こうから一人の男がやってきたのである。

 クマゼミが俺の季節とばかり鳴き続けていた。それにしても暑かった。レッツ、ピンポンと胸が高鳴る朝だ。

 今日は登校日。青い空もうつくしい。日が射す窓の向こう、勤務先の学校も光の涯に輝くようだった。卓球部の顧問って、どんな仕事なんだろ。教師Nの胸は弾む。生徒たちは夏休みの途中経過を報告、それから部活動に入るらしい。断る気はなかった。なぜって元卓球部にして初めての顧問を務めるのだ。一日だけとは言えこれ以上の機会はない。手当? なくたっていいさ。だって今日はもう一人、女子を連れているもん。

 体操着に着替えた胸のふくらみは否応なしに男子たちを惹きつけている。洋ナシが入っているのだろうか。否、ただ膨らんでいるだけであった。


「はじめまして。私の名は有希です。三年生になってから、今日の朝まで一度も学校に来ていません。みんな、今日はよろしくね!」

 はい! 

 と、響き渡ったのは言うまでもない。何を隠そう、男だらけの卓球室に天使が舞い降りたのである。

 Nは言った。

「では有希さんと一人ずつ対戦してもらうね。みんな、いいかな?」

 反応はなかった。まるで谷底に落としたボールみたい。そりゃそうだ。恥ずかしくて急に対戦はできない。なんたって目の前には巨乳。またの名を有機性果実。手を挙げるとなると相当な勇気がいる。誰が言ったか「鎮まる卓球部ほど熱心」とは至言である。 

「ちょっと、みんな私とヤリたくないの?」

 さらに凍り付いたのは言うまでもない。Nはとりあえず一人の男子を指名した。

 練習場は体育館の上にある。二階から覗くとバスケ部がいつも練習している。時に罵声も飛びつつ、みんな部活に汗を流す。ピンポン然り。Nが選んだ生徒もまた、この暑さの中で自分に当たらないようにと願った顔である。みんながいる後ろ、目立たないように息を潜めていた。

 彼、どう見ても運動部の気配がない。色白で背も低い。メガネである。尤も、わが国では眼鏡率の上昇とピンポン熱は比例している。

 声が飛んだ。

「もう一回、しようよ」

 有希は笑顔を見せる。胸躍らせて球を打ち、少年たちをどこまでも鼓舞する姿は、紛れもなく天使であった。


 その数時間前のこと。Nと有希は灼熱のグラウンドに立っていた。別に季節外れのバレンタインを奏でるわけではなさそうだ。

 空は見渡す限り青だった。雲一つ見えない。これではカラスも黒い天使のままである。イルカのように悠々と泳いで眼下の人を狙うようだ。何も落ちてくる気配はない。落下物から子供たちを守るには力がいる。コンビニの前でたむろする若者を退けたり、痴漢を取り押さえたり、冤罪を仕込む女の子の頬をビンタするくらいの力が必要だ。

「あの、先生……」

 少女の声は細かった。ついさっき廊下で聞いた声と変わらない。頭上に戦闘機が通り過ぎてもNの耳は生徒に向けられたままである。

 廊下での会話。遅れた生徒を迎えて一言、

「有希ちゃん……」

 おっと、ちゃん付けは規定違反になるため、姓で呼ぶ必要があった。

「有希ちゃん、今日が登校日だって知ってた?」

「はい。でもめんどくさいと思って行きたくなかったんです」

「僕もそう思ってた。本当は遅刻した理由について、廊下で吐かすつもりだったんだよ。一学期に皆勤賞を取った君が休むわけないと思ってたからさ。みんながいる教室に戻らせず。そう言い聞かせていたんだよ」

「あ、それ万引きした子に言ってください。ヤラせてくれたら許してやるみたいな」

「すごいこと言うね」

「だって何も言わないって嫌じゃないですか。マスクした大人みたいで」

 Nは生徒の肩に手を掛けて廊下を歩いた。夏の光があふれている。二人の影が仲良く並んで床に伸びている。なぜこの子が学校に遅れたのか、今さら知る由もない。別に近所の悪がきにスカートを引っ張られたわけでもないだろうし。

 授業が終わったら、グラウンドで遅刻の理由を吐かそう、とNは思った。廊下や職員室では人の声が聞こえて耳障りなためである。かくしてNは有希を外へと連れ出した。夏の太陽が照りつけている。熱く湿った風が吹いている。きつね色に焼いたグラウンドには人の影がない。ここで部活動でもすればいいのに。あ、水を飲んではいけないから駄目なのかしら。

 有希はNの前を堂々と歩いた。夏服がまぶしかった。

「有希ちゃん。もしこのグラウンドが透明なら、どうする?」

「下着を履きます」

「先生が聞きたいのはね、スカートの中身じゃなくて、空の色をしっかり直視できるかってこと。うつむいたままでも見えるけど、しっかり上を向いてほしい。だって透明なガラス張りなら、太陽が反射して目が潰れちゃうだろ?」

「あの、先生。ちょっといいですか? 私、ちゃんと上を向いて生きてますよ」

「じゃあ証明しなきゃ」

 殺人的な日射しのもと、Nは決意した。放課後の部活で暴れてやろう。せっかく卓球部の特別顧問を頼まれたんだから。男子諸君よ、今から女の子を連れていくから、その目に刻んでおけ。

 Nは胸躍るのだった。

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