睦美さんの腕は硬くて、綺麗だ。それが第一印象だった。
ほぼ真っ白で、日に焼ける気配が微塵もない。なぜ硬いかというと、バドミントン部で鍛えた跡があるから。兄もその腕を誇りにしていた。
「一緒に行くか」
誘いを受けた瞬間、即座に断る気でいた。
「あいつ急に言い出したんだよ。車で帰りたいってさ」
この他人事みたいな、地方都市とは思えないような兄の言い草。なるほど、一度都会に出ると口調まで変わってしまう。一八まで、同じキッチンにいた家族なのに。
金沢まで兄が運転、助手席に睦美さん。もちろん、私は後部座席で口を閉じる。自慢の愛車(中古だけど)で一緒に付いていくかどうか。それを聞いている。
「私……」
「行くんだな、そう返事するぞ」
思わずつぶやいたことを後悔した。何度目だろう。睦美さんを待たせたくない。それは、たぶん正しい。
「咲奈ちゃんと予定あるとか」
こうして抜群のフェイントをくれるのも一度ではない。幼馴染の咲奈とは数え切れないほど予定を組んできた。
「いいよ。断る。あの子も睦美さん知ってるし」
「それならいい。珍しく付いて来るって言うからさ」
兄は食卓に置いたノートパソコンから目を逸らさない。
朝から日差しが強くて、何もしなくても汗がどっと出ている。もうすぐ、兄の彼女が来る。そう思うと、落ち着きがなくなるどころか、どこかに隠れたい気分になった。
実家に戻ってからの兄は実年齢より上のような気がした。日がな一日、仕事らしいことをしている。自分で撮った映像を編集している。他は何も知らない。年齢差もあって、会話が弾むことは少なかった。
茶の間に男性何人かの声が飛ぶと、部屋へ避難した。彼らが帰る頃を見計らい、申し訳程度にドアを開け、声が途絶えたことを確認する。そんな性格だからか、母も助言めいたことは言わない。「もっと妹らしく」なんて口が裂けても言えない。昔から数えきれないほど、半開きのドアを採用してきた。兄の友人たちは、私の顔すら知らないままだ。
玄関のカレンダーが暗黙の裡に見ている。中学最後の年を迎えた私を監視しては「もっと話せ」と急いている。
「大阪まで二本ってさ……」
その夜、電話口から漏れた愚痴を思い出せる。女性の声だった。
どうやら新幹線延伸について活発な議論を交わしているらしかった。
「大阪金沢間がなくなったわけでしょ。敦賀で止まるわけでしょ。切符、増えるわけでしょ」
睦美さんが押し黙るわけない。度々、大阪に出かけては派手にお金を落としてきている。土産話を兄の口から聞いて、旅を愛している人なのだとわかった。
サンダーバードが我が福井で終点。それも乗り換えのために停車する。この一大事に、思うところがあったようだ。
「でも、立ち寄れるからいいかもね。あなたのところ」
不思議な人だと思う。石川県の人って、わざわざうちに寄ることは少なかったはず。金沢から大阪の途中、窓に見えるのは、私の今いる小さな町だ。ぴかぴかに眼鏡のレンズを磨いたって、変わらない。
「眼鏡の産地! 日本一! 金沢でも買えるよ」
会話の中で、やけに強調するのも複雑だった。眼鏡は、石川でも買える。有名なのは、私ではない。
ぼんやりしていると、「鯖江に行くよ。それじゃ」と捨て台詞が聞こえた。
キッチンで電話を終えた兄を横目で見た。立ったままグラスを手に、残りのビールを飲み干した。喉仏がどくん、と動く。私は信じられない量の言葉を呑んだ気がした。
「睦美が愚痴くらい聞いてくれっていうから。電話代も甘くねえのに」
確かにメールを丁寧に打つ睦美さんは似合わない。隣の県なのに、この人はなぜかすごく遠い街にいる気がした。
声がいつになく得意気だった。
「睦美の顔、見たことないよな?」
「……声だけなら」
そうだ。隣で聞いているだけだ。
「ほら、これが睦美。ついさっき特急にいちゃもん付けてた美人」
スマートフォンの画面を覗いた。初めて写真を見た。そこには、私の知らない年上の女性が兄の手を組んでいた。
唾液も呑み込んだ。なぜこんな人と付き合っているのか、考えることすら無駄だとわかった。
「知ってるか? スマホだって鯖江のやつ使ってるんだぜ。この画面の元、ベルベット。鯖江の産業資材」
そうだった。液晶パネルには、見えない所にこの町の技が宿っている。
「新幹線で東京が近くなってさ。俺たち、田舎が近いってだけで続いてるんだよ。俺の映像、あちこちに売り込んでくれるし」
嬉しそうな兄から離れ、外に出た。
ずっと先、線路の向こうにその人がいる。私より九つも上で、きっと高い美容室に通っている。
また弾んだ声がした。
「なんだよ、兄貴の話聞かねえの?」
耳を塞ぎたくなった。ついさっき写真で見た女性が目に浮かんだ。ショートボブで、小顔で、嫌みのない微笑み。まるでカメラレンズを味方にするような微笑み。同じ大学で出会ったらしい。出身地が近いため、話しも合ったようだ。今から五年前、私が十歳の頃に、テレビで見るような街に住んでいた。 キャンパスに向かう背が、凄まじく大人だ。
ノースリーブが似合っていた。紺色の生地ゆえに、肌の白さが際立っていた。中学からバドミントンをしている、と聞いた。運動をしない自分との比較をやめたかった。ラケットを持った私の横に、燕みたいな勢いでシャトルが落ちる。遥か向こうで睦美さんと兄が笑う。
そんな風景は、一生なくていい。
「ハピラインに乗るのかな。何か遥々ね」
咲奈が言った。気付くと、この人まで口調が変わっている。なぜだろう。北陸らしくない、妙な響き。茶の間での会話を伝えたせいで感化したのかもしれない。
学校までが遠かった。これは私の会話力のなさに起因している。咲奈のように言葉が簡単じゃないし、近くのひまわり通りも今朝だけは蛇のお腹に見えた。長く湿った舌で圧してくる。手のひらで額の汗を拭っても、ひたすら滴り落ちてきた。
「私さ……」
最初の一言が、重い。こっちまで変な言い方、プチ標準になっている。
「……私も、乗っていくの。金沢まで送る」
目一杯の答えに、咲奈は笑って、
「いいじゃん。私も行きたい」
「嫌。来ないで」
「……めいわく?」
「うん。すごく嫌」
こうして私が却下。通学路でしつこいほど繰り返した台詞のやり取りだ。
出発の朝を想像してみる。咲奈が乗るとしたら、私の隣しかない。きっと、いや確実に助手席の女性と上手く話すだろう。時折、ハンドルを握る兄の横顔を見て愉快に笑う人。その間に、私たち鯖江代表女子が茶々を入れる。
たとえ咲奈が相槌を打っても、私は放送部の特性を生かせないに決まっている。まして睦美さんに後ろから何かを聞こうなんて、秘境の橋を渡るに等しい。
「長い日曜になりそうだね」
大きく頷く他なかった。
週末、兄の車の後部座席で地蔵になる。その準備は、たぶんできている。昨夜、部屋の姿見で踵を上げてみた。兄の恋人の肩より、断然低い。
「私さ……」
喉が苦しかった。
「……私、睦美さんと初めて会うんだ。初めて、お話する」
咲奈が驚いたように目を向けている。私の頬が変色したからだ。廊下で、かっこいい男子と話した時と似ていた。急に家を飛び出した際、背中で聞こえた声の主も同じ丸い目だったと思う。私は右手、大きな赤い眼鏡のある駅を見たくなかった。
線路の彼方から、笑顔で遊びに来る年上の女性にこの頬を見せたくなかった。アクセルを踏む兄の後ろ、自分は自分の心臓を両手で抱えたままだろう。制服の下で胸が鳴り続けている。朝日に足音さえもかき消されて、歩く影だけが雄弁に伸びている。