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虹色の塔 4

 足元が不安定だと思ってた。でも私のシューズ、乾いた土にぴったりだった。ひびが割れている。

 陽が砂漠に消えたら、あの塔も、自分の影も見えなくなって、空っぽの胃を忘れるのかな。星空を眺めて、哀れむしかないよね。口やかましい中年になったら、その口を封じるために、自分でお菓子を無理にでも入れたい。そう思った。

 春の風は冷たくて、温度差を感じた。塔が、まっすぐ向こうに見える。

 腕を強く振った。右手にはペットボトル。もちろん、途中で飲むことはしない。呼吸を乱すことなんてない。砂漠の上を駆けた。地面が固くて、蹴り上げる音が正確に、朝のランニングと同じ響きで耳を刺激した。走っている。知らない砂漠と、風に触れて。あの塔がゴールだよ。あの塔こそゴールだよ。胸の中で何度も言い聞かせて、足を止めることを避けた。右手の水が揺れている。もう少し細ければ、リレーのバトンみたい。体育大会は得意だった。走れば、目立つことができた。中学も、高校も、トラックの周りを走り続けて、先生と母に励まされてきた。今も。ひとりぼっちの砂漠の中でも。

 塔までたどり着いたら、干からびた体に水を入れる。すべてを忘れて、太陽の真下で水を飲むんだ。

塔が見える。あれが遊園地の名残なんて信じられない。ぽつんと、残された感じがしない。父の手の温もり。弟と、私の幼い声。母が、姉が、手を広げて待っている気がした。

 わかってるよ、あの日じゃないってことくらい。だから、毎朝白い息を吐いて走ることができた。倒れたくなかった。倒れたく、なかったんだよ。

 空腹でも、一応は眠れる。夢の中でパンを買っていた。おばあちゃんがやっている店だった。甘いものがほしいと、店内でパンを見ながら思った。優しそうなおばあちゃん。私がお金を渡すと、皺だらけの顔でパンが入った袋をくれた。

 ある朝、冷たいフローリングの上を歩いて、トイレに向かった。肌寒かった。ガムも残り少なくなってる。ふりかけはあるけど、ご飯が届くまでは使えない。次にロフトへ上がれば、降りることができなくなるかも。羽毛布団って、どんな味なんだろう。綿菓子みたいに甘いの、どうなの。それとも砂漠に朽ちた動物たちと同じなの。

 右の腕を見た。かぶりついたら、お腹いっぱいになりそう。骨が見えるまで、噛み砕いてみたい。そうすれば、床に鮮血が落ちる。笑顔だ。なぜって、そのまま市民プールに飛び込むから。鏡の中の、頬がこけた顔のまま飛び込むから。私、血を流しながら水に溶けた陽をつかもうとしてる。焼いた七面鳥を運んだ片方の手で、きらめく光の束をつかもうとしてる。

 ビキニを着て姿見の前で笑ってた。どれくらい前の夏なのか、思い出せないけど。そう、友達がそばにいたから、きっと高校生くらいだったんじゃないかな。朝からはしゃいで、日暮れの海でキスをした。女の子同士だって、それくらいできるもんね。

 もう部屋に置いた姿見を見たくなかった。友人の影が、私の思い出が、後ろから出てくる気がした。

 行きのバスの中で、帽子を被った少年が私の前にいた。一緒に過ごした弟と重なった。小学五年生か、六年生くらいかな。

 塔の扉の前で人影に気付いた瞬間、あの少年だと気付いた。私が走った距離を、一人で走ってきたんだ。誰かが追っているとわかってた。振り返ることはしたくなかった。たとえ少年の姿でも、愛する弟のようでも。

 どうして、私を追うの。

 お姉さん、水しか持ってないよ、

 それでいい?

 少年の方を見た。言葉をなくしているみたい。風が強くて、彼の帽子を奪い去ってしまいそう。

 右手に持ったペットボトル。この場所まで、開けないと決めていた。透明な水が満タンに入っている。

 少年の目線は、その水に注がれていた。泣いていた。まだ小さな手で涙を拭いている。きっと砂漠にとっては、雨よりも軽い雫に過ぎない。喉の渇き。もうバスの中から、何度も何度も唾液を飲み込んでいる。唾液でさえ、熱くなっているのがわかった。少量の唾液でも、水分が残っていると言い聞かせると、水を我慢できた。まだ飲まない。飲めない。塔まで、お預け。

 額から汗が流れ落ちてきた。走ることを止めたからだった。胸と背中が、真っ赤に焼けた気がした。ジャケットを脱げば、この熱も地平線に放出できる。今すぐに。でも左手は、ジッパーに触れることを避けた。右手の水を離さない限り、ジャケットは脱げない。

 そうだった。胃の中に、何時間ぶりの水。トマトソースで絡めたパスタも、ローストチキンを挟んだサンドイッチも、温めたシナモンロールも、一切れのバナナも林檎も、赤い果肉のグレープフルーツも入ってない。代わりにチャージできないカードが一枚だけ、財布に残ってた。

 水を地面に置くことはしたくなかった。これは、私の水。私の、水。

 少年は倒れた。泣きながら倒れて、うつぶせになった。水がほしいの、全部あげようか、それともお姉さんが飲むところ、見たくないの、はっきりしなよ、私は、このキャップをはずして飲むからね、そのために来たんだから、文句ないでしょ、肉も、魚も、何日も食べてないんだよ、わかる? わかるでしょ? 男の子なんだから、気付いてよ、ねえ、お願い……。

 風の音で、すすり泣く声が消えそうだった。少年はうずくまっていた。

 帰りのバスに乗った。水で空腹が満たされた体は、眠ることを拒んだ。窓を見た。ついさっき私が主役になれたコースがある。ひび割れた、整備の行き届かない競技場だったけど、一番のコースだった。

耳元で両親が会話していたのを覚えている。家族で旅行に行った日だ。隣には小学生の弟がいた。帽子を深く被って、私に寄りかかって夢の中だった。



 電車の中で、静かにね。いい?

 そう忠告したのは私だった。喧嘩もした。母は仲裁に入って、お姉ちゃんなんだからと責めた。姉も、同じく責めた。父だけは、いつも頼りだった。

 明日、お米が届く。私は部屋のドアを開けるだろう。配達員に、この顔を晒すだろう。目の下のクマと、こけた頬。生気のない目つき。蛇口の水と、ガムでつないだ顔色。

 相変わらずロフトまでが遠い気がした。砂漠で水を飲んでも遠い気がした。梯子を上がって、布団に横たわれば、今度こそ骨と皮と化す。

 わかってる。新しいお米が必要。それだけしか、言えないんだってば。もう何度も、何度も言ってきたんだよ、何度も。

 そう、初めて部屋に来た日も。同じくらい、眩しかったよね。友達に、さよならと言って、駅で別れたんだ。十八だった。今日だって、カーテンを開けた部屋に、こんなにも陽の光があふれてくる。

 ペットボトルの水がなくなっていた。飲み干したんだ。おいしいとか、そういう感じがしなかった。胸の中で、ほっとしただけ。

 窓からの陽を浴びて、もう一度目を閉じた。砂漠の土と地平線が焼きついている。太陽が、私を押さえ込むように照らしている。少年が起き上がるのを手伝った。二人で、水を分けた。笑顔だった。私たちの背後には、塔が一本だけあった。

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