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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 11

 一夜明けて卓球室の緑色の床には明るい日が反射していた。死刑囚が最後に歩く道の色とそっくりである。Nの中学時代は火の気がなく、真冬に白い息を吐いて練習していた。それが今や冷暖房完備の室内で、休憩用に使用できる。今朝も爽やかな晴れの空の下、笑顔が弾けている。昨夜の酔いも今いずこ、早足の鈴虫が遊びに来たら、球の音に美声をかき消されてしまうだろう。春野は輝いている。白いシャツもまぶしく、ショートパンツから伸びた脚も華麗に動いている。笑顔が弾け、夕食の献立を期待する。男性なら、誰もがそう思うに違いない。いや、待てよ。さすがに旦那がいる家へは邪魔できない。旦那が目の前の妻と知らない男性に興奮するなら、喜んで、喜んで遊びに行ける。

 ラリーは続いた。

「あの、Nさん。ちょっといいですか」

 Nは手を止めなかった。右手で打ち返しては白い肌に球を送った。左手は自由になるため、例えば後ろから鷲づかみも可能だった。もっと、距離が近ければ。

「編集長に渡す原稿、二編あったとお聞きしました。そのうちの一編が女の子と教師の話。私が読みましたよね。ずっと気になってたんですけど、もう一編はボツになったんでしょうか。ぜひ、読みたいです」

 春野からの球は確実にNの胸元へと届いた。ほら、両手を背中に回すには充分堪える。爪の痕が付けば、もう立派な大人。なんてね。

 幸い春野の指先は綺麗に磨かれ、派手な色も着色していない。

「正確には、ゴンザレス氏に渡すのをためらったんだ。今も手元にあるよ」

 球が消えた。

 巣に急ぐツバメと同じ速さでNの喉元をかすめた。決まった。春野の必殺スマッシュだ。

「読みたいです。読ませてください!」

 Nはラケットを置いた。

「じゃあ、今から僕が朗読するよ。これ、遠くの恋人について詠った詩なんだ」

「その前に、ラリーもっと続けましょう!」

「いいよ」

 球の音が再び響いた。

 くり貫かれた目玉のごとく、球は本当によく飛んだ。ツバメは口にくわえたその餌を、無事ヒナの元へと運ぶのだった。

 ラリーを終えたNは言う。

「やっぱりやめた。代わりに春野さんが読んでほしい。元々、誰かに読ませるための原稿だから」

「……旦那には、内緒でいいですか?」

「もちろん。僕だって編集長には内緒にするよ。盆前の朝から既婚者と遊んだこと」

 こうして春野は原稿を受け取った。たった今、USBメモリからプリントアウトしたものだった。緑色の卓球室の中ではあまりに白く映えた。というより、そこには何も、一文字も書いていない。白紙であった。それは真夏の雲の色とよく似ていた。

「それ、何も書いてないんだ。なぜかわかる? 受け取った人が考えてほしいからさ。もし遠くの恋人に思いを伝えるなら、春野さんはどうする? それを知りたい。なんでも構わない」

 春野は頑なに口を開けようとしない。

「それに、もう一つ聞きたいことがあるんだ。どうして、僕の原稿を読もうとしたの? 教えてよ」

 春野は答えず顔色を変えない。きょとんとしている。不敵な笑みを浮かべると、両手をクロスし、一気にシャツを下から捲り上げるふりをした。

 ピカッと射し込んだ日の光のもと、春野は微笑んでいた。静かな朝だった。窓の外には、誰もいないように見える。


(了)

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