一夜明けて卓球室の緑色の床には明るい日が反射していた。死刑囚が最後に歩く道の色とそっくりである。Nの中学時代は火の気がなく、真冬に白い息を吐いて練習していた。それが今や冷暖房完備の室内で、休憩用に使用できる。今朝も爽やかな晴れの空の下、笑顔が弾けている。昨夜の酔いも今いずこ、早足の鈴虫が遊びに来たら、球の音に美声をかき消されてしまうだろう。春野は輝いている。白いシャツもまぶしく、ショートパンツから伸びた脚も華麗に動いている。笑顔が弾け、夕食の献立を期待する。男性なら、誰もがそう思うに違いない。いや、待てよ。さすがに旦那がいる家へは邪魔できない。旦那が目の前の妻と知らない男性に興奮するなら、喜んで、喜んで遊びに行ける。
ラリーは続いた。
「あの、Nさん。ちょっといいですか」
Nは手を止めなかった。右手で打ち返しては白い肌に球を送った。左手は自由になるため、例えば後ろから鷲づかみも可能だった。もっと、距離が近ければ。
「編集長に渡す原稿、二編あったとお聞きしました。そのうちの一編が女の子と教師の話。私が読みましたよね。ずっと気になってたんですけど、もう一編はボツになったんでしょうか。ぜひ、読みたいです」
春野からの球は確実にNの胸元へと届いた。ほら、両手を背中に回すには充分堪える。爪の痕が付けば、もう立派な大人。なんてね。
幸い春野の指先は綺麗に磨かれ、派手な色も着色していない。
「正確には、ゴンザレス氏に渡すのをためらったんだ。今も手元にあるよ」
球が消えた。
巣に急ぐツバメと同じ速さでNの喉元をかすめた。決まった。春野の必殺スマッシュだ。
「読みたいです。読ませてください!」
Nはラケットを置いた。
「じゃあ、今から僕が朗読するよ。これ、遠くの恋人について詠った詩なんだ」
「その前に、ラリーもっと続けましょう!」
「いいよ」
球の音が再び響いた。
くり貫かれた目玉のごとく、球は本当によく飛んだ。ツバメは口にくわえたその餌を、無事ヒナの元へと運ぶのだった。
ラリーを終えたNは言う。
「やっぱりやめた。代わりに春野さんが読んでほしい。元々、誰かに読ませるための原稿だから」
「……旦那には、内緒でいいですか?」
「もちろん。僕だって編集長には内緒にするよ。盆前の朝から既婚者と遊んだこと」
こうして春野は原稿を受け取った。たった今、USBメモリからプリントアウトしたものだった。緑色の卓球室の中ではあまりに白く映えた。というより、そこには何も、一文字も書いていない。白紙であった。それは真夏の雲の色とよく似ていた。
「それ、何も書いてないんだ。なぜかわかる? 受け取った人が考えてほしいからさ。もし遠くの恋人に思いを伝えるなら、春野さんはどうする? それを知りたい。なんでも構わない」
春野は頑なに口を開けようとしない。
「それに、もう一つ聞きたいことがあるんだ。どうして、僕の原稿を読もうとしたの? 教えてよ」
春野は答えず顔色を変えない。きょとんとしている。不敵な笑みを浮かべると、両手をクロスし、一気にシャツを下から捲り上げるふりをした。
ピカッと射し込んだ日の光のもと、春野は微笑んでいた。静かな朝だった。窓の外には、誰もいないように見える。
(了)