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第10話  匂やかな肌を、人形に仕立てたい

 そのとき「お待たせなんし」と、痩せぎすの番頭新造が、障子を開けた。


 番頭新造は、年季明け後も郭奉公を続ける新造なので、三十過ぎの心得顔の女である。


(来た、来た)


 真冬でも足袋を履かぬ、黛の白い素足が、静かに敷居を跨ぐ。


 廊下の向こうの光を背に受けて、一瞬、黛の後ろに後光が差しているように見えた。


「う」


 息が詰まった。

 心臓が跳ねる。


 逆光になって、黛の顔は見えない。


(俺は、何を錯覚をしてんだ。なんで、後光なんぞ……)


 我に返った喜三郎は、己の馬鹿馬鹿しさに苦笑いした。


「待っていたぞ。黛」


 小日向屋が、転びそうな勢いで黛に駆け寄り、手を取って、自分の隣の上席に案内した。


(どんな気持ちで、黛の顔を見ろってんだ)


 血が繋がった同士の、汚らわしい交情を知った現在、どういう顔をして接すればよいか、激しく戸惑った。


(俺は、黛の似面絵を描きゃいいだけでえ)


 雑念を振り解き、黛の姿を正視した。


 黛は、横を向き、袂で顔を隠している。

 洗い髪のままで、立兵庫髷に結っていなかった。

 浴衣の上に、松の裾模様の寝巻き仕掛けを羽織っている。


(こんなだったっけ)


 喜三郎は、声を失った。

 黛の小ささ、頼りなさに、心が奇妙に揺れる。


「黛の素の姿を見てもらおうと思ってね。嫌がるのを無理に、湯上がりのまま呼んでもらったのですよ」


 小日向屋が、親らしい、慈愛溢れる眼差しで、黛を見やった。


「先だっては、ありがとうなんした」


 黛が、ようやく顔を上げた。


 喜三郎と目が合う。


「あ、あの……」


 二の句が継げなかった。


(こうまで違うものなのか)


 目の前にいる黛は、地震の日に見た、仰々しい、人形のような女郎ではなかった。


 大輪の牡丹のような徒花ではなく、純白で清楚な梅花空木の小花だった。


 血の通った、生身の女だった。

 不自然な白塗りよりも、透き通った素の肌のほうが、よほど輝いている。


(俺は、何を見てたんだ)


 この前は、ごてごてした〝仕掛け〟の豪華さ、花魁特有の髪や髪の飾りのあざとさにばかりに、目を奪われていた。


 一幅の絵を鑑賞するおりに、〝表装〟の派手派手しさばかり目について、肝心の絵を見ていなかったようなものだった。


 美しいものは美しい。


 綺麗な花の中身に対する、個人的な好悪はともかく……。


(早く、描き写したい。この匂やかな肌を、人形に仕立てたい)

 絵心と、人形師魂が激しく疼く。


「じゃ、庄助さん。場を外そうかね」


 小日向屋は、振袖新造に目配せした。


 振袖新造は、昨今、客を取る者が多い。

 庄助の手を新造が取って部屋を出る。

 ようやく目を覚ました禿も、慌てて、ばたばたと後に続いた。


「では、存分に下絵を描いてくださいよ。暁七ツ(午前四時)まで、わたしが黛を買いきっていますからね。描き終えるまで、人払いしていますし、ごゆるりと」


 黛を抱いても構わないという含みだろうか。


 小日向屋は、意味ありげな顔で、座敷を後にした。

 長い廊下を、重い足音が、ゆっくり遠ざかる。




 がらんとした広い座敷に、喜三郎と黛だけが取り残された。


 障子のうちが、急に静まり返る。

 笑いさざめく女郎たちの声も遠い。

 外を行き交う、魚に花、下駄、油等、様々な棒手振の声は、雪のために密やかである。


 黛は何も言わない。


「では、早速……」


 喜三郎は、黙って矢立を取り出し、漉き返し紙を広げた。

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