そのとき「お待たせなんし」と、痩せぎすの番頭新造が、障子を開けた。
番頭新造は、年季明け後も郭奉公を続ける新造なので、三十過ぎの心得顔の女である。
(来た、来た)
真冬でも足袋を履かぬ、黛の白い素足が、静かに敷居を跨ぐ。
廊下の向こうの光を背に受けて、一瞬、黛の後ろに後光が差しているように見えた。
「う」
息が詰まった。
心臓が跳ねる。
逆光になって、黛の顔は見えない。
(俺は、何を錯覚をしてんだ。なんで、後光なんぞ……)
我に返った喜三郎は、己の馬鹿馬鹿しさに苦笑いした。
「待っていたぞ。黛」
小日向屋が、転びそうな勢いで黛に駆け寄り、手を取って、自分の隣の上席に案内した。
(どんな気持ちで、黛の顔を見ろってんだ)
血が繋がった同士の、汚らわしい交情を知った現在、どういう顔をして接すればよいか、激しく戸惑った。
(俺は、黛の似面絵を描きゃいいだけでえ)
雑念を振り解き、黛の姿を正視した。
黛は、横を向き、袂で顔を隠している。
洗い髪のままで、立兵庫髷に結っていなかった。
浴衣の上に、松の裾模様の寝巻き仕掛けを羽織っている。
(こんなだったっけ)
喜三郎は、声を失った。
黛の小ささ、頼りなさに、心が奇妙に揺れる。
「黛の素の姿を見てもらおうと思ってね。嫌がるのを無理に、湯上がりのまま呼んでもらったのですよ」
小日向屋が、親らしい、慈愛溢れる眼差しで、黛を見やった。
「先だっては、ありがとうなんした」
黛が、ようやく顔を上げた。
喜三郎と目が合う。
「あ、あの……」
二の句が継げなかった。
(こうまで違うものなのか)
目の前にいる黛は、地震の日に見た、仰々しい、人形のような女郎ではなかった。
大輪の牡丹のような徒花ではなく、純白で清楚な梅花空木の小花だった。
血の通った、生身の女だった。
不自然な白塗りよりも、透き通った素の肌のほうが、よほど輝いている。
(俺は、何を見てたんだ)
この前は、ごてごてした〝仕掛け〟の豪華さ、花魁特有の髪や髪の飾りのあざとさにばかりに、目を奪われていた。
一幅の絵を鑑賞するおりに、〝表装〟の派手派手しさばかり目について、肝心の絵を見ていなかったようなものだった。
美しいものは美しい。
綺麗な花の中身に対する、個人的な好悪はともかく……。
(早く、描き写したい。この匂やかな肌を、人形に仕立てたい)
絵心と、人形師魂が激しく疼く。
「じゃ、庄助さん。場を外そうかね」
小日向屋は、振袖新造に目配せした。
振袖新造は、昨今、客を取る者が多い。
庄助の手を新造が取って部屋を出る。
ようやく目を覚ました禿も、慌てて、ばたばたと後に続いた。
「では、存分に下絵を描いてくださいよ。暁七ツ(午前四時)まで、わたしが黛を買いきっていますからね。描き終えるまで、人払いしていますし、ごゆるりと」
黛を抱いても構わないという含みだろうか。
小日向屋は、意味ありげな顔で、座敷を後にした。
長い廊下を、重い足音が、ゆっくり遠ざかる。
がらんとした広い座敷に、喜三郎と黛だけが取り残された。
障子のうちが、急に静まり返る。
笑いさざめく女郎たちの声も遠い。
外を行き交う、魚に花、下駄、油等、様々な棒手振の声は、雪のために密やかである。
黛は何も言わない。
「では、早速……」
喜三郎は、黙って矢立を取り出し、漉き返し紙を広げた。