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第11話  こ、こりゃあ……観音さまだ!

  一枚。また一枚。


 筆が不思議なほど走った。


 息をすることも忘れ、喜三郎は、黛の顔を、漉き返し紙の上に写し取っていく。


 描くことが楽しい。

 嬉しい。

 人形を作るための、ただの下準備という感覚とは違った。


 子供の頃に断念した、絵師になる夢が蘇る。

 人形師ではなく、絵師になるべきだったのではないかとさえ思えてくる。


(やはり、化粧の前の姿でなければいけなかったんだ。小日向屋は、俺の生人形のことをよくわかっていないと思っていたが、俺の思い違いだったか)


 黒髪の流れ、生え際の美妙さ。

 白が、嫌味な白さではない肌。

 伏し目がちにした睫毛の長さ。


 ふとした仕草が、舞のように滑らかで美しい。

 見る角度によって、表情が、幼くも、妖艶にも変化する。


「わっちは……」

 黛が何か言いかけた。


 が、喜三郎は無視した。


 女郎の話に真実などない。

 ましてや、実の父と思われる男と平気で睦み合う女の打ち明け話など、聞きたくもなかった。


(うんと、扇情的な場面にしてやる。ただれた縁の親娘なら、むしろ喜ぶに違いない)

 ふっと、意地悪い気持ちが膨らむ。


 人形を見せる場面の構想が次々に浮かんだ。


「良い着想ができましたよ。湯上がりに黛さんが、髪を結わせ、化粧をしながら、番頭さんと話す図です。番頭さんが『花魁。ほんとうに、髪の飾りを、かたに出して、ようござんすか』と、喫驚する場面です」


 両肌脱ぎになり、たわわな胸も顕わになった、蓮っ葉な黛を作るつもりである。


(そのためにゃ、黛の肌を、もっと見たいが……)


「脱いでくれ」とは言い出せなかった。


 何かが怖かった。


 何が恐ろしいのか、正体は心の奥底にある。


「身仕舞いの場なれば……」


 以心伝心なのか、黛は、すっくと立ち上がった。


 仕掛けを脱ぎ、細い指で、衣桁に掛ける。

 巻帯を、するすると解く。浴衣が、はらりと畳の上に滑り落ちた。


 喜三郎の前に立った黛は、男の手垢が染みついた身体とは、とうてい思えなかった。 


 上半身を反り身に控えて立つ姿は、気高さが匂いたっている。


 空気が微かに揺らぎ、仄甘い香りがたゆたう。


(こ、こりゃあ……。観音さまだ)


 観音菩薩がこの世に現れたとすれば、眼前の黛のような姿に違いない。

 目を細めれば、黛の姿が、白い象に乗った、神々しい観音菩薩の姿に見える。


(いや、騙されちゃいけねえ。『外面如菩薩内心如夜叉』ってえ言葉もあるじゃねえか)


 花魁は、世の女性の髪型や着物のお手本になる、ある意味、憧れの存在である。


 だが、花魁とて、女郎は女郎である。

 惑わされては、冷静になれない。

 ありのまま人形に写し取れないのではないかと、怖くなった。


(けどよ……)

 心が根元から揺れる。


(観音さまは、三十三の姿に化身して、衆生を救うというじゃねえか。観音さまは、あらゆる姿で現れなさる)


 観音菩薩が、卑しい遊女の姿で現れてもおかしくはない。


 観阿弥が作り、世阿弥が改作した能の一つ『江口』にもある。

 諸国一見の僧の前に、摂津の国江口の里の遊女の亡霊が現れ、西行との歌の贈答の故事を語り、普賢菩薩となって西の空に消えたという。


 湯上がりの黛の肢体が、僅かに上気している。

 どこからか隙間風が冷たく水を差す。


「わっちは、お上から、銀二枚をいただいたなんし」

 黛は、独り言のように話し始めた。



「けんど、褒められとうて、お救小屋に鍋を施したわけではないなんし」


「じゃあ、どういう了見で施しをなすったんで?」

 喜三郎は筆を止め、黛の目を見た。


「あの地震で、実のととさん、かかさんは、何処でどうしていなさるかと、気になったなんし。施しをして、ひとの噂になりでもすりゃあ、『親から便りが来ぬとも限らねえ』と、生みの親に巡り会いたい一心ゆえなんし」


(話が違うじゃねえか)


〝隠すより現る〟 なのか。

 図らずも、黛本人の口から、真実が明らかになった。


(黛は、大鳥とかいう女郎の娘だなんて、いい加減な嘘をでっち上げて、小日向屋を惑わし、金蔓にしてやがるんだな。なんて奴でえ)


 黛への反感が、大きく膨れ上がった。


(女郎ってえ奴は……)


 西鶴の『好色一代男』の中には、爪商いから屍の髪や爪を買い取って、客に贈り、客への真心を示す〝心中立て〟に使う話が出てくる。


 山田浅右衛門から死罪人の小指を買い入れ、多数の客を騙した女郎の噂もあった。

 女郎に嘘はつきもので、嘘を楽しむ男が群がる。


  だが、目の前の黛は、汚れた手練手管など無縁のように見えた。


(まあ、真相なんて、どうでもいい。俺の感じた通りの黛を作ればいい。見たままの黛を、人形に写しゃあいい)と雑念を振り払った。


 喜三郎の筆に、さらに力がこもる。

 子細に観察して、姿を描き取れば、黛の心の内まで、透けて見えてくるに違いない。


 絵に写し取ることは、心を写すことのはずだった。


 だが、心は杳として見えなかった。


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