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第12話 観音さまを抱けない。

「ちいと、こちらでお休みなんし」


 黛は、筆を止めていた喜三郎の後ろから、肩に手をやり、隣の部屋を指さした。


 暖かな吐息が耳をくすぐる。


 喜三郎は、操られるように、矢立に筆を収めた。

 黛は、喜三郎の手を取って立たせ、奥の部屋へと導いた。


 朝まで小日向屋と戯れていた名残か。

 巡らされた屏風の隙間から、敷かれたままの夜具が見えた。縁に、『客をくくりつける』という、縁起ものの〝くくり猿〟のついた、五枚重ねの布団が仰々しく、かつ、艶めかしい。


「俺は、遊びに来たわけじゃねえ。贔屓の小日向屋さんにも、申し開きが立たねえ」


 喜三郎は、懸命に踏みとどまった。


「小日向屋さんとは、確かに〝床に入り〟やんすが、わっちの親と信じておられるゆえ、いつもただ眠るだけなんし」


 黛の瞳は真っ直ぐで、一点の曇りもなかった。


「どういうこってえ」

 喜三郎の声が、思わず知らず裏返る。


 下衆な具合に勘ぐっていた自身の心の卑しさに、恥じ入り、身体が熱くなる。


「せめて、骨休めをさせてやりたいとの親心なんし」


 小日向屋が、金に執着した裏には、色恋沙汰ではなく、純粋な親心があった。


 喜三郎の興行に〝賭けた〟のも、起死回生のための新たな商いだった。


(あんまりじゃねえか。小日向屋さんが気の毒でぇ)


 小日向屋の真心を利用していた黛の罪は重い。

 女でなければ、殴り倒したくなった。


(今すぐ、小日向屋に真実をぶちまけてやる)

 喜三郎は、息巻いたが……。


「けど、わっちゃ、心苦しうてならぬなんし」

 黛の長い睫毛が揺れた。


「わっちを吉原に〝年季奉公〟に出した親が、実の親と、わっちは信じておりやすが。大鳥なるお人は、わっちの生まれた同じ頃に、ややこを産んで亡くなったとか。わっちが本当は大鳥の子で、親と信じる夫婦(みょうと)に里子に出されたものかも知れないなんし。七つで別れたきりの親に、いまさら確かめるすべもないなんし」


 憂いの色が、黛を染め上げる。 


「確かでない話を、上手い具合に繕うて、信じるように仕向けたのは、佐野槌屋のかかさんなんし。嘘とも言えず、確かとも言えず……。騙しているような、真は真のようなで、わっちゃは苦しゅうて苦ししゅうて」


「そ、そうだったのかい」


 真実は霧の中にある。


 霧は晴れることはないのかも知れなかった。


 黛に罪はない。


 黛の、どっちつかずの憂愁が、喜三郎にも移る心地がした。

 黛に対する憎しみは、淡雪のように一気に溶けて、清水となった。 


「花魁は、お客を慰めるのが、仕事なんし。亡くなりんしたお美代ちゃんに代わって、小日向屋さんを慰めるは、わっちには、無上の喜びなんし。けんど、花魁遊びは、大きなお金が絡むなんし。孝行のつもりが、却って不孝になるなんし」


「女郎にとっちゃ、小日向屋さんは、金は落として手は出さぬ、最上級の粋客だろうがな」


 喜三郎は、絡まり合った矛盾の糸に、苦笑いするしかなかった。


「この話は、うちうちの内証なんし」


 黛は、小ぶりだが肉厚な真朱の唇に、人差し指を当てた。


「俺は、小日向屋さんと黛さんの両方を随分、誤解していたみたいです。お話を聞かせてくだすって、ありがとうございます。この話は、決して口外するもんじゃござんせん」


「ぬしさまには、助けていただいた御恩があるなんし。小日向屋さんは、わっちの気の済むようにせいとお言いなんした。わっちは女郎。わっちには、これしかお礼のすべはないなんし。遠慮は無用なんし」


 黛は、額仕立、天鵞絨の五ツ布団に誘った。夜着の襟は、黒繻子で、上に金糸で刺繍が施されている。


 黛の強い瞳に、喜三郎の目がくらむ。


 小日向屋は、絵に描き写すだけでなく、黛と和合することを承知している。


 黛の全てを知って欲しいと思っている。


 小日向屋の配慮が有難く、同じ高みを目指す同志だったと、いまさら気付いた。


 だが、観音を抱くことはできない。


 いや、抱かれて、救済されるべきなのだろうか。

 心が揺れる。


 抱きたい。


 だが……。

 喜三郎は煩悶した。

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