年が明け、浅草奥山、若宮稲荷前で、初春興行が始まった。
黛の美談の当て込みは、大当たりである。
興行前から、絵師たちが何人も訪れて描き写し、絵双紙屋から、何種もの錦絵が売りに出された。
前評判も高まった。
客が押し寄せ、何度も満員御礼の札止めになり、初日だけで、一万人、百両の入りとなりそうである。
長蛇の列を成す観客たちは、まずは木戸銭を三十二文を払って、木戸口をくぐる。
招き人形『近江お兼』の婀娜っぽい流し目で、大いに期待を膨らませた客たちは、一転。浅茅ヶ原一ツ家の前で、姥の形相に度肝を抜かれる。
あまからやと同じく、大坂出身の著名な口上、〝あらこ〟の名口上で、一気におどろおどろしい世界に引き込まれる。
気分を変えて、為朝の島廻りの雄壮な奇譚に酔い、中銭を十六文、支払ってから、次なる場面へと通路を進む。
粂の仙人が、布洗女の白い太股に迷って、空から真っ逆さまに落ちる場面に、大笑いする。
『水滸伝豪傑』の異体に驚き、さらに十六文の中銭を惜しげもなく支払って、いよいよ呼び物『吉原仮宅 内証』の場面へと向かう。
しつらえられた桟敷に客たちが座ると、場面の前に下ろされていた幕が開く。
『吉原仮宅』の黛人形は、女髪結いに髪を結わせながら、誇らしげに見得を切って、観客を魅了している。
膝元、浮世茣蓙の上には、櫛、笄、簪の入った箱が置かれている。
痘痕面の番頭が驚き、滑稽な仕草でのけぞる。
遣手や番頭新造も、呆れ顔である。
朋輩の花魁が、赤塗りの羅宇がいやに長い煙管を、黛に手渡している。まさに受け取ろうとする黛の腕のしなやかさ。
喜三郎は、当初の構想通り、黛の上半身を顕わにした。
男の卑しい歓心を誘うためでなく、類い希な柔肌を見せたいがためだった。
喜三郎は、裏方から客の反応を見つつ、呟いた。
「庄助も、なかなか良いじゃねえか。一皮剥けたな」
あまからや庄助が、桟敷の客に向かって、名調子を唸る。
黛や、廓の番頭、その他、男女の声色を七色に使い分け、その場に居合わせるかのように再現している。
「このぶんなら、百五十日間でも興行が続けられそうだな」
次の興行ではもっと客を楽しませたい。
驚かせたい。
魅了したい。
喜三郎の夢は広がった。
むろん、悔いも残った。
やり残した心持ちは、次へ持ち越しとなった。
「黛の、あの肌の微妙な色が、どうしても出せなかった。何日も寝ずに、肌の色の調合に励んだんだが」
人の表面に塗る胡粉は、貝殻を焼いて作った白色粉末である。
胡粉に日本画の基本顔料を溶かして肌の色を工夫する。
霧吹きのやりかたで巧みに蒔くと、自然な人肌に仕上がる……はずだが、いつものようにはいかなかった。
「あの色艶に、柔らかさ、滑らかさ。人じゃねえからこそ、あんな綺麗な肌なのか……」
黛を初めて見たとき、過剰に反発を感じたのも、好意を抱いていた裏返しと、今は了知していた。
小日向屋との仲を〝邪推〟したのも、お門違いの嫉妬ゆえだった。
時間は無情だった。
黛のためにも、小日向屋のためにも興行は始めなければならなかった。
喜三郎自身、納得の行かぬ肌の出来具合だったが、目を瞑って、この初日を迎えた。
「きっと、いつか、もっともっと腕を磨き、ほんとうの黛の肌を生人形に写してみせる」
誓いを胸に秘め、精進を期した。
二度と、この世で黛と会うことはないだろう。
喜三郎は、黛と会うことを自ら禁じた。
観音は観音のまま、美しく心に止めておきたかった。
いや、〝信心〟が深まり、度を超す愚かさが怖かったのかも知れない。
黛の姿は、生涯、目に焼き付いて離れはしない。
お遍路に、弘法大師が付き添うように、黛の面影が、人形道の遍路路を辿る〝同行二人〟となった。