安政三年二月二十五日(一八五六年三月三十一日)
「今日も、満員で客止めたあ、結構な塩梅でぇ」
喜三郎は、小屋の入口が見渡せる銀杏の根元に立って、ほくそ笑みながら独りごちた。
〝雨の銀杏〟と呼ばれる、大銀杏は、いまだ葉を落としたままであるが、新たな命が芽吹き始めている。
喜三郎の大小屋は、今日も今日とて、朝から長蛇の列ができ、押すな押すなの大賑わいである。
今日の庄助は、木戸口に出て、得意の名調子で客を寄せている。
木札を配る木戸番の、腹掛け一枚になった男衆も、客の応対に汗だく、喧嘩腰である。
正月に興行を始めて以来、連日、大当たりとあって、小屋の前に置かれた『招き人形』の『近江のお兼』の見得を切る顔も、心なしか、ほころんで見える。
「この先、俺が自ら太夫元になって興行を張るのも、夢じゃねえ」
喜三郎は、まもなく獲れそうな狸の皮の皮算用をしていた。
元手を貯め込んで、自分の名前で何もかも自由に出し物を創造したい。
金をふんだんに注ぎ込んで、お客があっと驚くような場面を見せたい。
思いのままに人形を作るには、喜三郎自らが太夫元になるしかなかった。
「喜三郎」
怒声に近い大声が、喜三郎の耳に入った。
(またまたお隣の豊吉爺ぃかよ)
毎度のことなので、聞こえぬ振りをした。
女軽業が、大銀杏から二~三十間ほど先の高小屋で興行している。
軽業小屋につきもの賑やかな音曲が、離れていても、耳がおかしくなりそうなほど、かまびすしい。
「おい。喜三郎。てめえ、聞いてんのかよ」
笛、太鼓、三味線の、派手な鳴り物の音を縫って、男の声はさらに甲高くなった。
「てめえんちの小屋のおかげで、こちとらは商売あがったりでえ。おらっちの小屋の目の前まで、てめえっちの客の列がはみ出して、邪魔でしょうがねえんだよ」
隣の小屋で楽屋番をしている豊吉が詰め寄ってきた。
六十を過ぎて見える、豊吉は、下品が、小汚い半纏を着たような男だった。しかも、やたら小男である。
(豊吉爺ぃは、二百年も昔の延宝年間に『大女房およめ』と並んで、見世物で大当たりをとった『一寸法師』の頭大甫春の生まれ変わりじゃねえか)
頭大甫春は、身長僅か、一尺二寸だったと言われる。
豊吉はそこまで小さくはないが、身長の割りに頭が異常に大きい身体つきまでも似ている。
「ええ。どういう了見なんでえ。何とか言わんか。こら。木偶作りの木偶の坊」
豊吉は、長身の喜三郎を見上げながら、精一杯、爪先立ちし、興奮のあまりか、ぴょんぴょんと跳ねている。
「そりゃあ、お門違いというもんでえ。豊吉さん」
喜三郎は鼻先で笑った。
「あんたの小屋の見世物がつまらねえから、入りが悪いだけじゃねえのかい。誰のせいでもあるまいよ」
懐手した、指の長い手で、少し角張った顎を撫でた。
裏隣にある、蛇遣いの見世物小屋は、喜三郎の大小屋の、桁外れの勢いに飲み込まれ、存在しないも同様な体たらくである。
(気の毒といえば、気の毒だが。相も代わり映えしねえ蛇の出し物じゃ、客も飽きて、寄りつかねえよ)
喜三郎は、隣の小屋に目をやった。
見るからに見窄らしい小屋だが、貧相なら貧相なりに、表には、十本ほども幟が立てられ、木戸口には、大きな絵看板が掲げられている。
「……大蛇の綱渡り、一本竹。美人太夫が、蝮を口中に入れ、あるいは吹き出して御覧に入れます」
木戸口に立った、ひょろ長い体をした口上が、声を張り上げて、必死に客を呼び込んでいる。
掠れた声が、時折ふっと風向き具合で、喜三郎の耳にも切れ切れに達する。
が、見向きする客は一切いない。
群衆の顔は、全部が全部、並べられた人形のように、喜三郎の小屋の木戸口へ向いている。
(客が入らなきゃ、舞台も始まらねえだろうな)
蛇遣い小屋の奥の様子を思い浮かべた。
(一度、何かのおりに、裏木戸から楽屋を覗いたことがあったが……)
張った綱に、衣装や浴衣が乱雑に掛けられ、粗末な衣装葛篭や、蛇を入れた、黒塗りと朱塗りの桶が、無造作に土間に置かれていた。
鏡台や化粧道具、茶碗や土瓶が、今日も自堕落に散乱していることだろう。
(まあ、うちの小屋だって、大きいだけで、安っぽい作りは同じなんだけどよ)
見世物は所詮、見世物である。
小屋が立つ間だけ存在する、徒花に過ぎない。
中村、市村、守田といった歌舞伎三座のように、常設小屋が許されている歌舞伎芝居とは違う。
見世物は、歌舞伎芝居のように、興行地域を与えられることはない。
いつでも取り壊せる〝仮小屋〟での興行と定められている。
興行が終われば、小屋は綺麗さっぱり取り払われ、元の平らな地面に戻る。
取り払いが前提なので、興行ができれば足りる、簡素な仮小屋でしかなかった。
喜三郎の小屋のように、上部を藁筵、下部を駄板で囲って、一部に桟敷も設けている大小屋は、最上等の部類である。
それでも、葭簀で囲った、筵小屋、葭簀張りの簡略さに変わりはない。
小屋掛けの菰などは、酒樽の使い古しなので、よく見れば『剣菱』や『七ツ梅』などの銘酒印が読み取れた。
「いま、人気があるったって、いい気になるなよ」
豊吉が下方から、誰彼かまわず吠えまくる駄犬のように、がなりたてている。
「次の興行じゃ、飽きられて、閑古鳥の巣になってらあ」
豊吉が、ますます悪口雑言を繰り出すが、哀れな老人の繰り言と、喜三郎は聞き流した。
不意に女軽業の音曲が、小さくなった。
「どうせ〝竹田からくり〟の二番煎じのくせに」
途切れ途切れにしか耳に入らなかった、豊吉のダミ声が、耳に鮮明に飛び込んで来た。
「竹田だとお」
喜三郎は、自分の耳がぴくりと動くのを感じた。
豊吉が「喜三郎!」と血相を変えて畳みかける。
「てめえの人形は、ただの木偶だ。竹田みたいに、動くわけじゃねえ。ただの細工もんで、工夫がねえ」
竹田絡繰を引き合いに出されると、喜三郎も面白くない。
(小男の爺ぃが相手では、喧嘩も馬鹿らしいと、聞き流してやるつもりだったが、だんだんと腹が立ってきやがった)
怒りだすと、急に、頭の中の薬罐の中の湯が、煮え立った。
「なんだとお。爺ぃの戯言だと思って、言わせておきゃあ、なんだ。もう我慢できねえ」
思わず、豊吉の胸ぐらをつかみかけた。
体臭の染みついた古い半纏の臭いが、喜三郎の鼻をつく。
(ま、待てよ。これじゃ、弱い者虐めみたいじゃねえか)
手を引っ込めて、その場で仁王立ちになった。
「爺ィ。よっく聞け」
小さい体を見下ろしながら、喜三郎が吠える。
「竹田は竹田。絡繰で動いても、人形そのものは、生きちゃいねえんだよ」
「負け惜しみを言うない。生人形なんて詰まらねえ木偶より、竹田の絡繰り人形が一番でえ」
見上げる豊吉も負けてはいない。
こめかみの青筋が、ますます際立った。
(この顔は使えるぞ)
喜三郎の意識が、怒りとは、別の世界に、ひょいと横っ飛びした。
(豊吉爺ぃの、皺くちゃで渋紙色した間抜け面を、悪霊役の人形にでも仕立ててやる)
喜三郎は、いつ何時でも、人間の表情や動きの観察に余念がない。
人形作りの算段が、頭の大半を占めている。
「おい。木偶の坊。聞いてんのかよ」
豊吉がまたまた、喜三郎を喧嘩の渦中へ引っぱり戻す。
「黛花魁の美談を取り上げたから、当たっただけじゃねえか」
痛いところを突いてきた。
「確かに、見世物は、『当代性』が命でえ。けどよ。俺っちの人形の出来が良いからこその当て込みなんだよ。悔しかったら、同じ蛇を使うにしても、客が喜ぶよう、もっともっと工夫してみろってんだ」
「人形の出来がいいだとお。笑わせるない。黛花魁は、もっとずっと上等だい」
しがない見世物小屋の楽屋番でも、ちらりとくらいなら、黛の姿を拝んだことがあったかも知れない。
江戸の町中で仮宅営業を営んでいるのだから。
あるいは、錦絵になった黛の姿と比べているのかも知れなかった。
「てめえなんぞに、俺の人形の善し悪しがわかるかってんだ」
言い返したものの、気持ちが収まらない。
煮え立った、頭の中の薬罐の湯が、油と化して、火事になりそうな勢いである。
「まあ、まあ。お待ちになってくださいよ」
悠揚迫らぬ太い声に、喜三郎も豊吉も、揃って声のした方向に振り向いた。