目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第14話 蛇遣い小屋の爺さんと大喧嘩

 安政三年二月二十五日(一八五六年三月三十一日)


「今日も、満員で客止めたあ、結構な塩梅でぇ」


 喜三郎は、小屋の入口が見渡せる銀杏の根元に立って、ほくそ笑みながら独りごちた。


〝雨の銀杏〟と呼ばれる、大銀杏は、いまだ葉を落としたままであるが、新たな命が芽吹き始めている。


  喜三郎の大小屋は、今日も今日とて、朝から長蛇の列ができ、押すな押すなの大賑わいである。


 今日の庄助は、木戸口に出て、得意の名調子で客を寄せている。


 木札を配る木戸番の、腹掛け一枚になった男衆も、客の応対に汗だく、喧嘩腰である。


 正月に興行を始めて以来、連日、大当たりとあって、小屋の前に置かれた『招き人形』の『近江のお兼』の見得を切る顔も、心なしか、ほころんで見える。


「この先、俺が自ら太夫元になって興行を張るのも、夢じゃねえ」


 喜三郎は、まもなく獲れそうな狸の皮の皮算用をしていた。


 元手を貯め込んで、自分の名前で何もかも自由に出し物を創造したい。

 金をふんだんに注ぎ込んで、お客があっと驚くような場面を見せたい。

 思いのままに人形を作るには、喜三郎自らが太夫元になるしかなかった。


「喜三郎」

 怒声に近い大声が、喜三郎の耳に入った。


(またまたお隣の豊吉爺ぃかよ)


 毎度のことなので、聞こえぬ振りをした。


 女軽業が、大銀杏から二~三十間ほど先の高小屋で興行している。

 軽業小屋につきもの賑やかな音曲が、離れていても、耳がおかしくなりそうなほど、かまびすしい。


「おい。喜三郎。てめえ、聞いてんのかよ」


 笛、太鼓、三味線の、派手な鳴り物の音を縫って、男の声はさらに甲高くなった。


「てめえんちの小屋のおかげで、こちとらは商売あがったりでえ。おらっちの小屋の目の前まで、てめえっちの客の列がはみ出して、邪魔でしょうがねえんだよ」


  隣の小屋で楽屋番をしている豊吉が詰め寄ってきた。


 六十を過ぎて見える、豊吉は、下品が、小汚い半纏を着たような男だった。しかも、やたら小男である。


(豊吉爺ぃは、二百年も昔の延宝年間に『大女房およめ』と並んで、見世物で大当たりをとった『一寸法師』の頭大甫春の生まれ変わりじゃねえか)


 頭大甫春は、身長僅か、一尺二寸だったと言われる。

 豊吉はそこまで小さくはないが、身長の割りに頭が異常に大きい身体つきまでも似ている。


「ええ。どういう了見なんでえ。何とか言わんか。こら。木偶作りの木偶の坊」


 豊吉は、長身の喜三郎を見上げながら、精一杯、爪先立ちし、興奮のあまりか、ぴょんぴょんと跳ねている。


「そりゃあ、お門違いというもんでえ。豊吉さん」

 喜三郎は鼻先で笑った。


「あんたの小屋の見世物がつまらねえから、入りが悪いだけじゃねえのかい。誰のせいでもあるまいよ」


 懐手した、指の長い手で、少し角張った顎を撫でた。


 裏隣にある、蛇遣いの見世物小屋は、喜三郎の大小屋の、桁外れの勢いに飲み込まれ、存在しないも同様な体たらくである。


(気の毒といえば、気の毒だが。相も代わり映えしねえ蛇の出し物じゃ、客も飽きて、寄りつかねえよ)


 喜三郎は、隣の小屋に目をやった。


 見るからに見窄らしい小屋だが、貧相なら貧相なりに、表には、十本ほども幟が立てられ、木戸口には、大きな絵看板が掲げられている。


「……大蛇の綱渡り、一本竹。美人太夫が、蝮を口中に入れ、あるいは吹き出して御覧に入れます」


 木戸口に立った、ひょろ長い体をした口上が、声を張り上げて、必死に客を呼び込んでいる。


 掠れた声が、時折ふっと風向き具合で、喜三郎の耳にも切れ切れに達する。


 が、見向きする客は一切いない。


 群衆の顔は、全部が全部、並べられた人形のように、喜三郎の小屋の木戸口へ向いている。


(客が入らなきゃ、舞台も始まらねえだろうな)


 蛇遣い小屋の奥の様子を思い浮かべた。


(一度、何かのおりに、裏木戸から楽屋を覗いたことがあったが……)


 張った綱に、衣装や浴衣が乱雑に掛けられ、粗末な衣装葛篭や、蛇を入れた、黒塗りと朱塗りの桶が、無造作に土間に置かれていた。


 鏡台や化粧道具、茶碗や土瓶が、今日も自堕落に散乱していることだろう。


(まあ、うちの小屋だって、大きいだけで、安っぽい作りは同じなんだけどよ)


 見世物は所詮、見世物である。

 小屋が立つ間だけ存在する、徒花に過ぎない。


 中村、市村、守田といった歌舞伎三座のように、常設小屋が許されている歌舞伎芝居とは違う。


 見世物は、歌舞伎芝居のように、興行地域を与えられることはない。

 いつでも取り壊せる〝仮小屋〟での興行と定められている。


 興行が終われば、小屋は綺麗さっぱり取り払われ、元の平らな地面に戻る。

 取り払いが前提なので、興行ができれば足りる、簡素な仮小屋でしかなかった。


 喜三郎の小屋のように、上部を藁筵、下部を駄板で囲って、一部に桟敷も設けている大小屋は、最上等の部類である。

 それでも、葭簀で囲った、筵小屋、葭簀張りの簡略さに変わりはない。


 小屋掛けの菰などは、酒樽の使い古しなので、よく見れば『剣菱』や『七ツ梅』などの銘酒印が読み取れた。


「いま、人気があるったって、いい気になるなよ」


 豊吉が下方から、誰彼かまわず吠えまくる駄犬のように、がなりたてている。


「次の興行じゃ、飽きられて、閑古鳥の巣になってらあ」


 豊吉が、ますます悪口雑言を繰り出すが、哀れな老人の繰り言と、喜三郎は聞き流した。


 不意に女軽業の音曲が、小さくなった。


「どうせ〝竹田からくり〟の二番煎じのくせに」


 途切れ途切れにしか耳に入らなかった、豊吉のダミ声が、耳に鮮明に飛び込んで来た。


「竹田だとお」

 喜三郎は、自分の耳がぴくりと動くのを感じた。


 豊吉が「喜三郎!」と血相を変えて畳みかける。


「てめえの人形は、ただの木偶だ。竹田みたいに、動くわけじゃねえ。ただの細工もんで、工夫がねえ」


 竹田絡繰を引き合いに出されると、喜三郎も面白くない。


(小男の爺ぃが相手では、喧嘩も馬鹿らしいと、聞き流してやるつもりだったが、だんだんと腹が立ってきやがった)


 怒りだすと、急に、頭の中の薬罐の中の湯が、煮え立った。


「なんだとお。爺ぃの戯言だと思って、言わせておきゃあ、なんだ。もう我慢できねえ」


 思わず、豊吉の胸ぐらをつかみかけた。

 体臭の染みついた古い半纏の臭いが、喜三郎の鼻をつく。


(ま、待てよ。これじゃ、弱い者虐めみたいじゃねえか)


 手を引っ込めて、その場で仁王立ちになった。


「爺ィ。よっく聞け」

 小さい体を見下ろしながら、喜三郎が吠える。


「竹田は竹田。絡繰で動いても、人形そのものは、生きちゃいねえんだよ」


「負け惜しみを言うない。生人形なんて詰まらねえ木偶より、竹田の絡繰り人形が一番でえ」


 見上げる豊吉も負けてはいない。

 こめかみの青筋が、ますます際立った。


(この顔は使えるぞ)


 喜三郎の意識が、怒りとは、別の世界に、ひょいと横っ飛びした。


(豊吉爺ぃの、皺くちゃで渋紙色した間抜け面を、悪霊役の人形にでも仕立ててやる)


 喜三郎は、いつ何時でも、人間の表情や動きの観察に余念がない。

 人形作りの算段が、頭の大半を占めている。


「おい。木偶の坊。聞いてんのかよ」


 豊吉がまたまた、喜三郎を喧嘩の渦中へ引っぱり戻す。


「黛花魁の美談を取り上げたから、当たっただけじゃねえか」

 痛いところを突いてきた。


「確かに、見世物は、『当代性』が命でえ。けどよ。俺っちの人形の出来が良いからこその当て込みなんだよ。悔しかったら、同じ蛇を使うにしても、客が喜ぶよう、もっともっと工夫してみろってんだ」


「人形の出来がいいだとお。笑わせるない。黛花魁は、もっとずっと上等だい」


 しがない見世物小屋の楽屋番でも、ちらりとくらいなら、黛の姿を拝んだことがあったかも知れない。

 江戸の町中で仮宅営業を営んでいるのだから。

 あるいは、錦絵になった黛の姿と比べているのかも知れなかった。


「てめえなんぞに、俺の人形の善し悪しがわかるかってんだ」


 言い返したものの、気持ちが収まらない。

 煮え立った、頭の中の薬罐の湯が、油と化して、火事になりそうな勢いである。


「まあ、まあ。お待ちになってくださいよ」


 悠揚迫らぬ太い声に、喜三郎も豊吉も、揃って声のした方向に振り向いた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?