夕七つ半もだいぶ過ぎ、暮れ六つの鐘が鳴る刻限に近くなった。
路地の溝板の上に七輪を出して真鰯を焼く、香ばしい匂いが、喜三郎の家の内にも、遠慮無く漂ってくる。
喜三郎の家では、庄助と二人きりの酒盛りが、延々と続いていた。
お互い、何を話しているのか、分からぬほど、べろべろになっている。
「今晩は、とことん、兄ぃに付き合いまっさかいなー」
お秀がいれば、庄助も多少の遠慮はするだろう。
だが、お秀はいない。
庄助は、酔い潰れて、そのまま泊まるつもりらしい。
「なんか、焼き魚の匂いに負けん、ええ匂いがしまんがなー」
勝手知ったる、喜三郎の家である。
庄助は、断りもなく蝿帳を開け、中から、小鉢に入った糠味噌漬の大根を取り出した。
喜三郎が、買い置きしていた沢庵を、小気味の良い音をさせながら、食べ始める。
「なかなか、おつな味でんがなー」
沢庵を、ばりばりと噛み砕く音が、妙に耳障りに聞こえる。
気になり出だすと、ちょっとした苛立ちに変わる。
「〝あまからや〟さんは、口上じゃぁ〝大看板〟だ。今日明日にでも、親父さんのところへ、引き合いが、来るんじゃねえか。けっこうなこってえ」
ついつい、揶揄する言葉が、喜三郎の口を吐いた。
「えー。まだ何も来てまっかいなー」
庄助も酔っている。喜三郎の嫌味に気付かず、沢庵をもう一切れ、口に放り込んだ。
「見世物には、口上は〝付き物〟ってこった」
喜三郎は、四つん這いになって、土間に向かった。
水瓶を開けて、柄杓で水を汲み、喉を潤す。
酔いで火照った体に、冷たい水が染み渡った。
「見世物と口上は、女と簪、馬に鞍ってか」
喜三郎は、庄助に背を向けたまま、半ば聞こえるように呟いた。
女の髪を飾る簪は、確かに、女の顔を引き立たせる。
だが、絶対に不可欠というわけではない。
逆に、女がいなければ、簪は意味をなくしてしまう。
馬と鞍の関係も同じである。
鞍は、馬あっての、あくまで道具である。
しかも、喜三郎の小屋の場合、口上の役割りは、他の見世物小屋よりも軽い。
喜三郎が考えた宣伝文の〝稟白〟を、口上が面白可笑しい語り口で演じているだけである。
言外に『俺の見世物あっての口上でしかない』という心持ちが、酔いに任せて、ついつい出てしまった。
「そら、口上がないと、見世物は、さっぱりでんがなぁ」
喜三郎の意図に気付かず、庄助は得意げに、胡座を組み直した。
「口上次第で、客は入りまっさかいなあ」
と、鼻の穴を膨らませる。
「まずは、客足を呼び込まんと、見世物は成り立ちまへんさかいな。口上の力で、客を小屋の内に引っ張り込んだあと、初めて、見世物の出来不出来云々が、問題になるわけですわな」
庄助の独演に、喜三郎は、返事をせず、一切れだけ残った沢庵に手を伸ばした。
「見世物の中には、口上の舌先三寸だけが頼りの、いや、嘘八百の〝いかさま〟の興行かて、仰山、ありまっさかいなあ」
庄助の口は、止まらない。
下卑た笑い声が、喜三郎の苛立ちを募らせた。
「『一丈二尺の大いたち』が〝大板血〟で、立てかけた板に、朱の絵の具が塗られてるとか、駄洒落のような子供騙しもありまんがな。ふへへ。口上の面白さに釣られて入って、『騙されたあ』とわかって、『かかか』と笑いとばすのが、〝お約束〟や。くく。怒るのは野暮ちゅうもんになってますわなぁ」
『客が入りさえすればよい。呼び込めば、もうこっちのものだ』といわんばかりの、無責任さが、口上の身上である。
喜三郎の目に、庄助の笑い顔が、醜く映る。
大坂訛りも、間が抜けていて、くどい。
「確かに、口上は大事でえ。仮に、庄助の親父さんが、あの蛇遣い小屋の呼び込みをしていたら、おそらく、あんな悲惨な入りじゃなかったろうな」
喜三郎は、空になった小鉢を、投げつけるように、部屋の隅に押しやった。
小鉢が、畳の上を滑り、長らく空のままの、藁で編まれたお櫃に当たって止まった。
「そら、どういう意味だっか」
鈍感な庄助も、流石に腹を立てた。
河豚のように頬を膨らませる。
「親父は凄腕の口上やけど、わいは、二十九にもなって、まだまだ一人前の口上になれてへん、いうことでっか」
すっくと立ち上がる。
よろけながらも、足を踏ん張り、仁王立ちになった。
「親父を雇うついでに、出来損ないの猿も使うたろか、てことでしたんかい。わいの未熟さが、兄ぃ、いや、喜三郎はんの興行の足を引っ張ってたて、言わはるんでっか」
〝兄ぃ〟呼びが、他人行儀な〝喜三郎はん〟に変わった。
唐辛子売りで、弁舌を鍛えた庄助の父は、〝あまからや〟の名前で家業を興した。
上方風の独特の語りが滑稽で、大いに受けて、名人芸と賞賛されている。
庄助は、まだまだ、父親には、遠く及ばない。
〝偉大な〟父に、拭いがたい劣等感を持っている。
顔を真朱に染めて、拳を握りしめる庄助に、喜三郎は、哀れさを感じ、少し冷静さを取り戻した。
(大坂以来、ずっと仲良くやってきたんだ。ここで二人して揉めることもねえやな)
「まあまあ」という手振りで、庄助に座るよう促した。
「庄助の親父さんには、世話になったな」
喜三郎は、話を逸らすことにた。
「忘れもしねえ。大坂で、ようやく興行できると決まった、嘉永六年だった」
喜三郎は、庄助に酒を注いでやり、芝居じみた所作で、神棚を見上げた。
神棚の榊は、水がなくなったのか、萎れ、半ば枯れている。
すぐ横には、大きな風呂敷包みが、天井からぶら下がっている。
「そやそや。親父は一目で、兄ぃの生人形を気に入りよってからに。可笑しいくらいな惚れ込みようやったんですわ。曲馬の口上をするはずやったのに、興行直前に断ってしもて。あのときは、曲馬の太夫元がかんかんで、取りなしに苦労しましたでぇ」
庄助も、思い出話に乗っかり、斜めになっていた機嫌を、真っ直ぐに立て直した。
「ところで、兄ぃ。兄ぃは、なんで見世物をやろうと思わはったんでっかぁ」
庄助は剽軽な動きで、喜三郎に酌をした。
「俺が、見世物小屋をやりてえと思ったってえのは……」
路地は狭い。
軒先がくっつき合っていて、昼日中でも日差しが入りにくい。
暮れかけると、暗くなるのも早い。
喜三郎は、火のない、長火鉢の中の火箸を抜き、意味もなく、灰の中をつついた。
「見世物小屋の、あの独特の暗さが、好きだったのかもなあ」
お天道さまが眩しい昼間でも、見世物小屋の中は仄暗い。
嘘臭さ、胡乱さを誤魔化すために、わざわざ日差しを遮っている。
中に、何があるのか、覗い知れない。
得体の知れぬ、この世ならぬものの巣。
それが、見世物小屋である。
見世物小屋の木戸口で、口上が、客を寄せる、
「そりゃ、御覧じろ」やら「おい。それ。最初とりたて御覧に入れまするが……」などの、誘い文句で始まる口上は、品がないが、何処か懐かしく、哀愁がある。
「餓鬼の頃、熊本の地蔵祭にも、毎年、何軒も見世物小屋が立っていたんだ」
今でも目に浮かぶ。
むろん、大きな小屋ではない。
悲しいほど、情けないほどにみすぼらしい小屋掛けだった。
「蛇遣いの小屋も立ってた。美人の太夫に、客が大勢、詰めかけてたんだ」
喜三郎の話に引き込まれた庄助が、金壺眼を輝かせる。
「美人太夫でっかいな。お蔦はんみたいでしたんかいな。いや、お蔦はんには負けてたと思いまっけどな」
どうやら、庄助には、お蔦が飛びきりの美女の見えるらしかった。
「蛇遣いの女は、皆、似ているのかな。お蔦を見たとき、すぐに、むかし見た、蛇遣いの女を思い出したくれえだからな」
「ひょえ~。そないにお蔦ちゃんに似てたんでっかいな」
庄助は、膝頭に手をやって、喜三郎のほうに、半歩、躙り寄った。
「縁続きだったりするのかも知れねえよ。案外、親子だったりしてな。はは」
喜三郎は、話を合わせながら、記憶の糸をさらに、手繰り寄せた。
「貧乏所帯の餓鬼だったからな。木戸銭がねえから、木戸口からは入れねえ。どうにかして中の様子が見えねえもんかと、小屋の楽屋口から覗いたことがあったんだ」
「それで。それで」
庄助は、ますます身を乗り出した。
「中では……」
つい昨日のように、楽屋裏のありさまが、色も鮮やかに蘇る。
楽屋では、女太夫が一人、所在なげに一服していた。
まず、目に飛び込んだのは、立て膝をして、顕わになっていた、白い太腿だった。
煙管を手にした太夫の、妙に艶めかしかった眼差し。
幼い喜三郎は、見てはならない、秘密を垣間見た気がして、家に駆け戻った。
怖かった。
怖さが、喜三郎を惹きつけた。
「いや。どうだったかな。なんてったって、小せえ餓鬼の頃のこった。小屋の中の様子が、見えたのか、見えなかったのかも、今じゃ、忘れちまった」
話せば、胸に秘めていた思い出が、雲散霧消しそうな心持ちになった。
庄助に、喜三郎の細かな感情など、伝わりそうもない。
『見世物興行を志さはった動機が、美人太夫のお色気でしたんかいな。堅物の兄ぃも、やっぱり男でしてんな』などと、笑い飛ばされそうである。
「子を買う、子買お」
「どの子が目つけ」
子供の遊ぶ声が、聞こえてくる。
夕餉の時間は近い。
路地の奥の、少し広い場所で、「もう少し遊ぼう」「もうちょっとだけ」と、名残惜しげに遊んでいるのだろう。
遊び歌は、とかく、意味が通っていないものが多い。
解釈の仕方によっては、もの悲しくも、不気味にも聞こえる。
子供は、怖いものに怯えるくせに、怖いものが好きである。
言い表せぬ、奇妙な懐かしさが込み上げる。
「なるべくしてなった稼業だったな」
長じて、自分が小屋を張ることができた。
薄暗い小屋の光の中で、生人形が、秘めやかに、不気味に、客を魅了する。
「だが、この先、また同じように興行ができるかどうか」
現実が、喜三郎の喉元に鋭い刃を向ける。
「俺は、やはり、見世物興行をやって行きたいんだ。もっともっと、この、仄暗く、おどろおどろしい〝胎内〟に、客を呼び込みたい」
惨めさ、不安が、またも鎌首をもたげる。
鎌首をもたげた蛇は、蛇遣いの蛇のように、精気を抜き取られてはいない。
「お武家さまに何が分かるってんだ。俺たち庶民の楽しみを分からねえくせに」
喜三郎の口から、憤懣が、堰を切って流れ出した。
「小日向屋だって、所詮は金持ちの道楽でえ。辰五郎親方だって、俺の人形なんて、どうとも思っちゃいねえ。俺の替わりなら……。竹田絡繰りなり、早竹虎吉の軽業なり、なんなり、金づるにできる見世物小屋なんて、いくらでもある。一向に困りゃしねえ」
『愚痴はいうまい』という、理性の囁きを、耳元に感じるものの、身の奥底から湧き上がる、声高な怨嗟の声に、喜三郎は突き動かされた。
「目新しいうちは、周りの誰もが、俺の生人形を、褒めそやしてくれたもんだが。所詮は何ほどのもんでもねえ。俺の興行がなくなったって、誰一人として残念にも思わねえ。すぐに、あったことさえ忘れられちまう」
喜三郎は、目の前の茶碗と徳利を薙ぎ払った。
徳利が妙な方向に大きく円を描いて転がった。
残った酒を畳に撒き散らす。
畳に大きな染みができた。
「まだ、終わってまへんがな。兄ぃ」
庄助が、さも心配そうな顔を作り、宥めに懸かった。
憂い顔にも関わらず、同時に、不似合いな、薄笑いが浮かんでいる。
「兄ぃ、悪酔いしてまんな。へへ」
庄助が、馴れ馴れしく、喜三郎の肩に手をやった。
目の前にある、隅のできた目や、節くれ立った手が、気の毒な喜三郎を哀れんでいる。
醜い猿顔が、歪んで見える。
「うるせえ。俺の気持ちが分かってたまるもんけえ」
庄助の手を払いのける。
庄助が、一瞬びくっと、動きを止めた。
「わいかて、口上で命張ってるんでっせ。口上を馬鹿にせんといてください」
庄助は握り拳で、畳を叩いた。
積もった埃が舞い上がる。
どんどん、場が険悪になる。
だが、もう止まらない。
「庄助。小屋が潰れて、口上が、責任を取るかい。口上が、見世物小屋の太夫元になったなんて、聞かねえな。あくまで、無責任な雇われもんだ。呼ばれりゃ、『へえへえ』と、二つ返事で馳せ参じる、太鼓持ちと同じじゃねえか」
「喜三郎はんが、そないな口、利く人やとは思わんかった。いや、元から、冷たいとこがある人やったけどな」
庄助の〝冷たい〟という一語が、ぐさりと胸に突き刺さる。
「この際やから、言わせてもらいまっけどな。喜三郎はんは、生身の人間に冷た過ぎるわ。人形が大事で、人間ちゅうもんを、ちゃんと見てはらへん。上辺ばっかし見て、よう、生きた人形が作れるもんや」
「どういう意味でえ」
庄助の言いたいことは重々わかっている。
だが、聞き返さずにいられなかった。
「喜三郎はん自身が、ほんまは人やのうて、心がない人形なんやろ。ほんで、人形を仰山作って、仲間を増やしてはるだけや。生人形の〝生〟の字ぃが、聞いて呆れるわ。〝生〟の字ぃを外しなはれ」
「俺が、人の心がわからねえだと。じゃあ、てめえはどれだけ、俺の気持ちがわかるってんだよ」
喜三郎は、庄助の胸ぐらを掴んだ。
「あのお蔦ちゃんの気持ちかて、ちょっとは考えたったら、どないだ」
「え」
急にお蔦の名前が出て、喜三郎は、庄助の襟に掛けた手を放した。
「あ、まあ、お蔦ちゃんの件は……。その……。せっかくお蔦ちゃんみたいな、ええ女がその気やっちゅうのに、もったいないて、いうことですがな。へへ」
庄助は襟元を直しながら、卑屈な笑いを浮かべ、言葉を濁した。
庄助は、醜男である。
色恋沙汰の埒外にいるだけに、女にとって、気軽に話しやすい男である。
お蔦が、庄助に愚痴なり相談なりしていたのだ。
「それにや。お秀はんにかて、冷たいでんがな。女房とは名ばかりで、体ていの良い〝飯炊き女〟や。喜三郎はんは、人形だけを見過ぎてる。仕事に熱心なんはええけど、人の気持ちがわからんと、ええ人形もでけへんということに、気付いてもええんと違ちゃいまっか」
庄助は、さらに痛いところを抉った。
「帰れ。もう二度と来るな」
喜三郎は、声を絞り出した。
怒りが頂点に達すると、却って、言葉が出なくなる。
「ちょっと窮地に陥ったら、八つ当たりでっかいな。わいかて、どないもこないも、愛想が尽き果てましたわ。わいは、帰らしてもらいまっさ。金輪際、ここへは来まへんよって、安心しとくれやす」
庄助は、いきり立って、土間に降りた。
足下が覚束ない。
水桶に足をぶつける。
舌打ちしながら、草履を突っ掛ける。
大きな音をさせながら、〝喜三郎〟と墨書きされた、立て付けの悪い腰高障子を開き、夕暮れの路地に飛び出して行った。
「なんでえ。やっぱ、庄助も、俺を見限ってやがったんだな。調子良く、一緒に心配したり、同情する素振りを見せたって、とどのつまり、口上は口上でえ。金で繋がった縁が切れれば、お仕舞い。二度と会うこともあるめえ」
日差しが完全に陰ると、いよいよ家の中は暗くなった。
路地からの風が、急に、寒の戻りを感じさせた。
「なんでえ。なんでえ」
喜三郎が、腰高障子を閉めようとした、そのときだった。
「喜三郎さん。大丈夫かい」
開け放たれた戸口から、お蔦が、するりと滑り込むように、喜三郎の家に上がり込んだ。
お蔦の動きは、蛇に似ていて、喜三郎は寒気を感じた。
背筋を駆け上る悪寒は、不快な感覚ではなかった。