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第23話  全部、終わっちまった

 喜三郎は、朝四つ時から、庄助と、地廻り酒を酌み交わしていた。


 江戸での仮住まい先の〝九尺二間〟の裏長屋で、呑めぬ酒を呑む。


 興行が始まった頃に、祝儀のつもりか、小日向屋から届けられた角樽の中身は、今日の今日まで、ほとんど減っていなかった。

 だが、今日一日で、随分と目減りした。


 井戸端で談笑する、おかみさんたちの、姦しい声や、子供の遊ぶ、笑い声、泣き声が響いてくる。


 お蔦が住む、右隣からは、ことりとも音がしない。

 今頃、蛇のお玉を相手に、大張り切りで、太夫仕事の真っ最中なのだろう。


 長屋の路地の奥まった場所に作られた、共同の便所である〝惣後架そうこうか〟や、大芥溜おおごみためから、風の向きによって、独特の臭いが流れてくる。


「あー。全部、終わっちまった」


 喜三郎は、粗末な土塗りの壁に凭れながら、大きく伸びをした。


 予想より早く、二日で大小屋の片付けは終わった。


 小屋の内に残っているのは、祭りの後の虚しさに似た匂いだけだった。

 その匂いさえ、すぐに消え去るだろう。


 小屋の取り壊しと、撤去は、辰五郎の子分の鳶の者たちの出番である。


「明日には、小屋も取り払われて、何もなかったみたいに、なりまんねんな。平らな地面だけが残るわけでんなあ」


 庄助は摘みに買って来た茹で豆を頬張り、喜三郎の茶碗に、とっくりの酒を注いだ。


「跡地に、何の小屋が建つか、あるいは、何軒もの露店が並ぶのか」


 奥山一帯を差配する、辰五郎の胸先三寸の思案である。


「全部、荷造りすりゃ、こうは簡単に片付かなかったってえわけだが」


 喜三郎は、何も口にせず、酒ばかりを呷った。


 部分に分けて、きちんと荷造りした人形もあるが、解体せず、辰五郎の所有する蔵に、そのまま運ばせた人形も多かった。


 次の当てもなく、大坂にすごすご戻るとしても、大事な人形は、必ず持って帰るので、梱包した。


 中途半端な人形は、頭や手などのみ取り外し、胴体などは、捨てねばならない。

 各部分を、わざわざ、ばらばらにして荷物に纏めておく手間が、全く無駄になるので、小屋に飾った姿のまま保管を頼んだ。


「急に、暇になっちまった」


 明日にでも、あらためて辰五郎の家や、小日向屋に出向いて、挨拶するつもりだが、気が滅入る。


 庄助は、手酌で、酒を注ぎ、一気に喉に流し込んだ。低い天井を仰いで、長嘆息する。


「あー。面白くねえ。折角、俺の人生が花ぁ開いたって、有頂天だったってえのによ。奈落の底に叩き落とされちまった」


 喜三郎は、酒を飲んでいた茶碗を、畳に投げつけた。


 部屋の隅には、畳んだ布団を隠すために置かれた、枕屏風がある。

 茶碗は、畳の上を滑って、手習いの反故紙で継ぎ接ぎされた、屏風に当たって止まった。


 庄助が「まあまあ。気持ち、ようわかりまっっけどな」と、ぶつぶつ呟きながら、ごそごそ這って行き、茶碗を拾って、喜三郎の手に渡した。


 怒りの矛先を何処へ持っていくべきかも定かでない。


「お奉行はんは、江戸にいたはるうちは、日本橋濱町の上屋敷と、お城を行き来したはるだけの、雲の上のお方ですがな。下々も下、うちらの下賤な見世物なんか、見かけるどころか、興行の〝こ〟の字ぃも頭の隅にもありまへんがな。なんで、お偉いお奉行はんが、うちらに目をつけはったか、っちゅう話ですわな」


 庄助の言葉に、豊吉の顔が目に浮かんだ。


「妬み、嫉みは、怖えもんだ。お召し捕りにならなかっただけ、有難いのかもしれねえ」


 興行に関して、過去、お召し捕りになった事例には、事欠かない。


「昔なんかは、もっと、問答無用で、厳しいお沙汰もあったそうでっからな」


「二百年以上前、寛永から正保に移る頃に、『高貴なおかたのなさる蹴鞠を卑賤の庶民に見せた』ってえだけで、伊豆大島に遠島になった外良右近が、見世物興行では、最初の犠牲者だったそうだが」


「享保には、女軽業が、小屋を打ち壊されて、女太夫どもは、全員、召し捕りになってまんがな。ちょっと派手な衣装を着てた、ちゅうだけやのに、酷い話でっせ」


「つい百年ほど前にも、幻術を見世物にしていた、生田中務とかいう男が、死罪になっているからな。この程度で済んで喜ぶべきか」


「そこでんがな」

 庄助は、身を乗り出し、ごくりと唾を飲み込んだ。


「兄ぃは知ってまっか。世間では『忠臣蔵』の場面の中に、恐れ多いお方に似せた人形があったことが、差し止めの理由やて、噂してる連中もおます。ほんまに、そういう言いがかりをつけられてたら、不敬の極みで、どないな罪状にされてたことやら。くわばら、くわばら」


 人の運命は、何処でどう暗転するやも知れない。


「いまさら、言いがかりが付加されるなんてえのは、御免被りたい話でえ」


 喜三郎は茶碗を投げ捨て、すり減り、赤茶けた畳の上に、ごろりと横になった。

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