「その時点ではあの若い連中はいなかったんですね」
若い連中とはチンピラどものことだ。
「おそらくカラオケボックスの屋内に、俺たちが行く前から待機してたんじゃないですか」
「事前に部屋も借りてチンピラを中に隠して。計画的な犯行ですな。」
「50万円、しっかり用意してましたからね」
ふと疑念が湧く。涼子はチンピラたちの姿を見ていなかったことになる。それで通報などするだろうか。それにはじめて会ったときの彼女の機転のよさ、勇敢さからしても、彼女が怖いので警察に通報する方を選んだというのはあまりあり得ない気がした。本当は自分でも苦しい解釈のようには思っていたことだ。
「で、何をしようとしてたんですかな」
「高田社長から秘密を聞いていないかということらしい」
「やはりそこですな。で?」
「俺は、奥さんの名前をつぶやいていただけだと言いました」
「そうだったんですか」
馬場はわざとらしく驚いた。そう、馬場も高田社長の最期の言葉について前に尋ねてきた。ずっと、家族以外に大切な最期の言葉を伝えるのはやめようと俺は思って黙ってきたので、ここでも嘘をつく。
「そうです。美沙子……と」
美沙子と「ミサキ」。かなり響きは似ている。でも俺の聞き違いではない。なぜか俺は確証があった。確かに語尾は「コ」ではなく「キ」と発音されていたのだ。
けれど、こうしておけば万が一俺が「ミサキ」という言葉に口を閉ざしていたのが問題になったとしても、聞き違いだったと言い逃れができる余地もできた。俺にとってはかえって好都合だった。
「よく逃れましたね。相手はサバイバルナイフを持って脅したんでしょう」
「足は速いんで、隙を見て逃げました。ご存じのように多少腕にも自信があったもので」
「なぜそれを我々に通報しなかったんですか。いや、その後あなたは私とゆっくり話す機会さえあったのに」
とくに悔しそうとかいうわけでもなく、馬場は訊く。こいつにも俺という人間の質が分かってきたのかもしれない。
「大事にはならなかったですし。訳も分からなかった。はっきりしないのにあえてけーさつに言うと面倒なことになると」
「なんとも面倒な方ですな」
馬場はそれ以上は追及しない。
「通報した女性とはどういう関係で」
「……」
「何ですか」
「別にいう必要はない。彼女に迷惑はかけたくないしね」
「警察ですよ。万が一の彼女の身の安全もある」
「死体が出ないと動かないってよく言うじゃないですか」
「推理小説の読みすぎですな」
俺はミステリはあまり読まない。どこで聞いた言葉だったろうかと自分で考えてしまった。
俺は焦れてきた。本当はこちらから聞きたいことがある。もうこれ以上おとなしく話につき合う必要はないだろう。
「あの女の子、美佳さんのようすは?」
「ああ?」
「娘さんですよ、高田社長の」
「分かりませんよ」
「はぁ?」
「担当が違うので」
俺は鼻を鳴らす。
「気になる。こんなことが続いて大丈夫だろうか」
「大丈夫、我々もしっかりガードしてます」
「というと」
「父が殺され、母が襲われた。……あの一家に恨みを持つ者の犯行だという線が強くなってきた」
「……」
「今後は彼女は我々がガードします」
「どこで」
「ええ?」
「彼女の家ですか」
「一応、まあ」
会いに行こうと決めた。
「美沙子夫人は」
「まだ入院中ですな。後頭部を鈍器のようなもので殴られてる。しかし幸いたんこぶ程度だったそうです。あと左腕を骨折していた。逃げようと抵抗したときに受けた傷かもしれません」
「そうですか。面会は」
「さあ、時間までは把握してませんが、豊島区内の近くの病院でしたね。古沢病院といったかな」
「これから会いに行く」
馬場が目だけ上げた。目の周りの肉が動く。どこか爬虫類のような感じがする。
「会えるかどうかは分かりませんよ」
「分かってる」
馬場の事情聴取の後、俺はさらに会社に電話して、急用のため時間給を要求した。それもすんなり受け入れられた。今日は仕事にならないとあらかじめ思われていたらしい。
新宿署を辞すと俺はまた例によって西武新宿駅に向かう。あの銃撃事件のあと、ただの通勤路以上の意味を持つようになってしまった場所だ。相変わらず、先日とは違う海外のアーティストの映像が流れていた。喫煙所まえは素通りして、俺は駅舎の中に入った。
すでにスマホで病院の場所は把握していた。下落合からタクシーで行くことに決めていた。
下落合駅から新目白通りに出る。いつかのようにスカイツリーが道路の真正面にやけに大きく見えた。少し待つとタクシーがきた。俺は古沢病院の名を告げる。
今度こそ。
今度こそ美沙子夫人に、高田秀俊の遺族にあの言葉を伝えられる。俺は高揚した。
案外小さな病院だったが、高田家のかかりつけかもしれない。狭いロータリーにタクシーが停まる。
俺はカードで支払いをすませ、病院玄関に直行した。病院の仕組みは分からないので受付で趣旨を話す。
幸い面会時間中で可能だという。
「ただ、先にいらっしゃっている方が……」
受付の女性が言い募るのも構わず俺は指示された入院棟の方に足早に歩きだした。
白っぽい廊下。入院病棟とは奇妙に明るいのだなと思った。
教えられた病室の戸をノックする。さすがに個室だ。社長夫人だ。
「誰ですか」
思いがけず野太い声。そうか、警察の連中も今来ていたのか。
がっかりしながらもドアを開けた。昨日の場所で見かけた中年の名前を知らない刑事ともう一人女性刑事らしいのがいた。そして……美佳。
中年刑事はわりとしゃれこんでいるが、馬場のようなねちっこい雰囲気とはずいぶん趣きが違った。
「ああ、あなたでしたか」
さわやかとさえいえる声で笑顔をつくってその男が言った。同じ刑事でもあたりはずいぶん違うものだ。