やがて先ほどの男女二人の刑事が歩いてきた。
「お待たせいたしました。どうぞ、高田夫人は面会なさるそうです」
自分の中に緊張が走った。美佳は目で俺に一人でいってくれと告げている。
「じゃあ。なるべくお母さんを疲れさせないように用事だけ済ますから」
俺は言って病室に向かった。途中で振り返ると、刑事たちが美佳に話しかけていた。相変わらず美佳は気丈そうだった。
病室のドアをノックする。
「どうぞ」
案外しっかりした声が返ってきた。
「失礼します」
そういって病室に足を踏み入れた。夫人は上半身を起こして待っていた。
果物を見て、
「そんなお気遣いは。それでなくとも見ず知らずの方にこんなにお世話になっていて、落ち着いたらお礼をさせてください」
と言う。
「そんなこといいんですよ。これも何かの縁なんでしょう」
俺は答えて、一息吸い、
「実は奥さまにお伝えしておきたい大事なことがあるんです」
と告げた。夫人は怪訝な目をした。それはそうだろう。
「高田秀俊さまの、最期のお言葉を僕は聞いているんです」
夫人は目をみはった。俺は構わず、
「ただ、その意味は分かりません。ですから、きっと奥さまにはお分かりだろうと。そのままにお伝えします」
通じて欲しい、祈るような気持ちが湧いてきた。
「ミサキ、と」
「え?」
「ご主人の最期の言葉は『ミサキ』でした」
夫人の目は揺れている。
「ようやくお伝えすることができました」
俺は微笑んだ。夫人は首を傾げた。
「ありがとうございます。でも……それは美沙子……私の名前ですけど、その聞き間違い、いえ失礼。主人が死の間際に言ったことですから、語尾が不鮮明だったとか」
「……」
俺は夫人に対し違うとは断言できなかった。俺の中では確かに「ミサキ」だったと確信しているが、それを夫人に対し主張する気にはなれなかった。このようすでは夫人も「ミサキ」に心当たりはない、それならいっそ、夫が最期に自分の名を呼んだと確信した方がこの人にとっても良いことなのではないか。
「そうかもしれません。ともかく、僕はこの言葉をあなたに伝えることができてほっとしています」
そう告げて、雑談ふうに美佳のことをほめ、心配している旨を告げて俺は病室を後にした。
今日は直帰で帰宅した。いい加減疲れがたまっていた。
さすがの自分もここ数日続いた非日常に神経が過敏になっている、そう思った。中井駅を出たところの総菜屋で適当に総菜を買い求め、マンションの自室に入ると、そのままそれをキッチンテーブルの上に投げ出してベッドの上に転がった。
頭の中は相変わらずぐるぐる回っている。
少しだけ休もう、そう思っているうちにうとうとしていたらしい。
着信音がする。俺はがばりと跳ね起きた。
スマホ画面には「飯田」と表示されていた。
ややがっかりしたことを悪いなと思いながら受けた。
「平気か?」
いきなり飯田は声をひそめて聞いてきた。
「うん? 平気って何が」
「だってお前、この間からなんかやばいことに巻き込まれてるんじゃないかって気になってさ」
もう一度俺は自分を責めた。友達がいがあるやつだ。
「確かに……ちょっと非日常が続いてたな。……会社では何て言われてる?」
「いやぁ、上の連中がお前のこと、ひそひそ噂してるらしいのは分かるんだよ。詳しい内容までは知らんけど。ただ、まだそんなに深刻な感じじゃないけどな」
飯田は要領がいい方ではない。そういうところで気になってもうまく情報収集できるような奴じゃない。まあ、こいつのそういう人のいいところが俺は気に入っているんだが。
「俺、さ」
飯田がすまなそうに言う。
「俺の、その、彼女のことばっかりで頭一杯になってたから。悪かったなと思ってさ。何か困ったことになってるなら、いくらでも相談にのるぜ」
「サンキュー!」
笑って俺は言った。
それから少し考えて、簡単に端折りながらここ数日俺に起きたことを話した。
西武新宿駅前で銃撃事件に立ち会ったときに、被害者の最期の言葉を聞いたこと、俺はそれを遺族にだけ伝えようと考えていたが、他にも知りたがる連中(おそらく勘違いに基づいて)がいて厄介なことになったこと、だが今日でそれも終わったということ。こういうことを簡単に語って聞かせた。
「もう、蹴りはついたんだよ。まあ、刑事はまだ一人しつこいのがいるから、また呼び出しがかかる可能性はあるけどな」
内心ではそこまで楽観的ではなかった。美沙子夫人の襲撃事件など、新たな動きも出てきている。このままで終わる気はしなかった。ただ飯田に余計な心配はかけたくなかっただけだ。
「そう、か」
言いながら飯田は、
「今度の金曜、どうする? 木場さんに会ってもらうのはあとでいいから、休めよ」
「ああ」
正直忘れていた。
「いや、大丈夫。……の予定」
我ながら煮え切らない。
「本当に、俺のことなら気にしなくていいんだぞ。会ってもらう機会はまだまだあるし」
「うん。もし都合悪くなったら言うから。言っただろ、しつこい刑事が一人いるんだ」
「ああ、わかった」
飯田は電話を切った。いい奴だ。なるべくその木場という女性に会ってやりたいと俺は思った。
それから、俺はしばらくスマホの画面を眺めていた。
やっぱり、声が聴きたい。
発信履歴を出して、彼女を選んだ。
2回分ほどの発信で彼女は出た。
「こんばんは。どうしたの、こんな時間に」
はきはきと明るい本橋涼子の声が聞こえた。俺の疲れた耳にはどこか音楽のようにさえ聞こえてしまう。
「ごめん」
あらためて時間を見て、俺は即座に謝った。飯田からの電話があったのでつい気楽にかけてしまったが、飯田と彼女とでは親しさ度合いが違うし、何より女性にかけるには遅い時間だった。
しかし彼女は、
「ごめんて、何が?」
といぶかしそうに言う。
「いや、夜遅くかけちゃってさ」
「あら、いいのよ。まだ夜のうちに入らないよ。私ならそんな気遣うことないから」
からりと言われたので本当にほっとした。
そして何か無性にうれしくなってきた。
「いや、何ていうか、いろいろあって」
「いろいろって何?」
何を話しているんだ、俺は。これは気があると告白しているに等しいじゃないか、と思いつつ止まらない。ふと思い出した。
「……今日、俺のこと、見かけたんでしょ、新宿で」
「え?」
「おかげで助かったよ」
「……なんの話?」
「だって、君だろ。警察に連絡したのは」
「……知らない、なにか勘違いしてると思う」
俺はとまどったが、涼子が嘘をついていると思った。が、それには何か事情があるのだとも思った。
言葉のニュアンスはこうだった……『確かに私は通報したけれど、そのことには触れないでいてくれないかな』。彼女なりの事情があるのかもしれない。そもそも彼女だってあまり深入りしたい話ではないだろう。
「疲れてるみたいね」
少し声をひそめて彼女は言った。
「わかる?」
「うん、声にはりがない」
本当は涼子の声を聞けて感無量になっているだけなんだ、などとは当然言えない。
「明日、会おうか」
突然彼女は言った。
「え」
「私なら大丈夫よ。何か話したいことがあるんじゃないの。相談に乗ってもいいわよ」
年上で、姉のような気持ちなんだろうか。そういえば彼女には弟がいると言っていた。姉御肌のところがあるのかもしれない。
「会って……くれる?」
「うん、仕事なら大丈夫よ」
俺は彼女の言葉に素直に甘えることにした。