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第19話

 涼子の声が聞けたことの安心感で、ほっと体の力が抜けて熟睡できた。我ながら現金なものである。


 翌日出社して仕事につこうとすると、上司が俺を手招きで呼んだ。

「何ですか」

「何ですか、じゃないだろう。昨日のことを報告しろ」

「あ、すいません」

 昨日に比べてどこかかたい雰囲気がある。よくない方に動いていることを俺は感じた。

「お話します。実はですね」

「いや、ここじゃない」

 そういって上司はオフィスの外に出た。廊下をすすんで社員談話室に入る。そこには部長が待ち構えていた。少し大事になっているようだ。だが、俺には何もうしろ暗いところはない。

「ああ、神楽くん、そこに座って。楽にして」

 こういうとき、こういう立場の人間はおかしいくらいやけに丁寧に下手に出るんだよなと思いながらしおらしく腰かけた。腹の中には疑念があふれているだろうに。

「昨日のことなんだが、新宿署の」

「はい」

「どういうわけか話してくれるね」

「もちろん」

 昨日飯田にも語ったおかげですらすらと俺は答えた。

 けれど驚いたことに部長は眉をひそめた。

「そうか。……君は本当に通りすがりで事件に巻き込まれただけなんだね」

「そうですよ」

「その後も何かと事件現場に遭遇している、と」

「ええ、なぜか」

 嫌な沈黙がきた。

「しばらく、出社は控えてくれないかな」

 突然切りだされて面食らった。

「はあ? 何でですか」

「うちはこういう会社だから、その、妙な噂がたったら困る。クライアントには知られたくないんだ」

「はあ? でも今日だって私の受けている案件もありますし」

「心配しなくても何とかなる。君も少し休んだ方がいいだろう」

 かなり腹が立ったが、確かにそれはそうだろうとも思った。それにしてもこんなに露骨に出てこられたことには不快感がこみ上げたが。

「分かりました」

 憮然として俺は答えた。

「いつまで」

「こちらから連絡する」

 断固としたいいようだ。

 俺は黙ったまま立ち上がったが、思い直して、

「では今日はもうこれで、ということで?」

 と尋ねた。

「すまんがそうしてくれ」

 彼は答えた。

 俺はオフィスに戻って、小声で飯田に「帰る。詳しくはあとで」と伝え、鞄をとった。

 飯田は不安げに俺を見送ったが、俺は小さく手を振って「大丈夫さ」と告げた。

 さて、会社の入っているビルから出ると、今日はかなり日差しが強く照りつけていた。どうする? 俺は自然とあの中野専務とやり合ったカラオケ屋の方に向かった。新宿西口前を通り、大ガード付近の交差点を突っ切って小滝橋通りをすすむ。この過程で涼子はどこにいたのかと考えた。分かりようがない。ただ、もう一度一通り「現場」を巡ってみたかった。カラオケ屋は相変わらずさびれたようなしけた雰囲気を醸し出していた。もっともこの時間ではまだ開店前だろうが。1階に古ぼけた感じの喫茶店があったので、あのチンピラどもはここで待機していたのかもしれないな、などと考えた。そんなことはすでに新宿署で調べていることだろうが。


 小滝橋通りを戻り、交差点を左折して西武新宿駅の方に進む。駅前の喫煙所を通り越して歌舞伎町の入り口に向かう。そこは俺にとってはいまや心弾む場所になっていた。今の時間はようやく酔いから醒めたような雰囲気で、窓を拭いた雑巾をあらった汚水をぶちまけているようなひっつめ髪の中年の女性が見えた。どこかの店の人だろう。奥の方がにぎやかだ。

 コマ劇場のあったころのようなうさん臭さはあまりない。かなり「浄化」されていた。

 この角のところだ。

 ここに俺があのチンピラどもに連れ込まれそうになったときに、本橋涼子は声をかけてきた。明るい声で、満面の笑顔で。適当な名前を呼んで。彼女の目、口元。一瞬も経たないうちに俺は反撃に出た。チャンスだと心より体が反応した。

 あのときの彼女の顔を思い出すだけで今でもぞくぞくとして胸が高鳴る。

 彼女は何者なんだろう。

 あまり考えないようにしていたことがふと頭をよぎった。あの機転のよさ。度胸のよさ。いくら俺が彼女に夢中でも、心に引っかからないわけではなかったのだ。

 それでも俺はどうしようもなく彼女に惹かれている。

 気の抜けたような街を再び出て、さてどうしたものかと考える。

 いちど帰宅してから、夜涼子に会うためにまた出てこようか。

 美佳のことも気にかかる。が、今俺がようすを見にあそこの家に行くのは不自然だろう。いや、そもそも家にはいないか。おそらくあの高田馬場のおばさんのところにでも身を寄せているに違いない。いや、絶対そうだ。

 歌舞伎町一番街のゲートをまたくぐって靖国通りに出る。

 初台。

 涼子は初台に住んでいるのかな。しかし探す当てもないし、探していたらまるでストーカーだ。

 けっきょく俺は帰宅することにして駅に向かった。


 ところが、西武新宿駅のホームで各停のホームに停車していた電車に乗りこみ、広々とした座席の真ん中に座っていると、スマホが振動した。

 飯田だろうか。

 表示を見て驚いた。美佳からのLINEだった。昨夜、彼女に迫られてLINEの交換をしていたのだった。でもこんなに早く連絡が入るとは。

『今日、お仕事の後、また会っていただけませんか。申し訳ないのですが』

 昨日の美佳はまだまだ何かを秘めているような気色を見せていた。まだ気にかかっていて、話したいことがあるのだ。また、親族や友人には言えないことかもしれない。


 俺は少し迷ったが、返信した。

『OK。今からすぐ大丈夫。会社休み。どこに行けばいい?』

 すぐに返事が来た。

『本当ですか。お休みのところ申し訳ありません。私の方でご都合のよいところに。ただ、家の近くや高田馬場は避けたいのです』

 本当に、中学生とは思えないしっかりとした文面だ。舌を巻く感覚。

 少し考えた。

『東中野はいかがですか。駅ビルのアトレ内とか』

『それで大丈夫です。では、私は30分ほどで行けると思います』

『こちらもすぐ行けるから。入口を入ったところで待ってて』

 俺は西武線の電車を飛び降りた。

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