吹雪の音がガラス窓を揺らし、外の視界は真っ白に閉ざされていた。
山間にぽつんと建つ 田舎町の火葬場。 ここは昼間でも訪れる者はほとんどなく、夜になれば 完全に静寂に包まれる。
成瀬宗一郎は、火葬場の遺体安置室で一人、遺体の処理をしていた。
彼は遺体衛生保全士として、搬送されてきた遺体の管理を任されていた。普段は別の町で働いているが、人手不足の影響で、週末だけこの火葬場の夜勤を担当している。
雪の影響で、町との交通は完全に遮断されていた。朝になれば交代の職員が来るはずだったが、この大雪ではそれも望めそうにない。成瀬はしばらくの間、ここに閉じ込められることになる。
「……まったく、……災難だな」
ゴム手袋をはめ直しながら、成瀬は遺体保管庫の扉を開けた。冷たい空気が流れ出し、薄暗い室内に死臭とは異なる、鉄のような冷ややかな匂いが漂う。
引き出された担架の上には、一体の遺体が静かに横たわっていた。
身元不明の遺体。
明日、火葬される予定だった。
成瀬はいつものように遺体の状態を確認する。
顔を覆う白布をめくると―― 異様なもの が目に飛び込んできた。
「……なんだ、これ?」
遺体の 口が、黒い糸でしっかりと縫い合わされていた。
不自然なまでに強く縫い留められた唇。まるで 絶対に口を開いてはならない かのように固く締められていた。
「……気味が悪いな…」
成瀬は小さく舌打ちをしながら、ピンセットと小型のハサミを手に取った。
このままでは遺族に見せることもできないし、火葬するにも不自然すぎる。
慎重に、糸を一本ずつ切り始めた――その瞬間。
「に……げ…ろ」
かすかな声が、 遺体の口から漏れた。
「っ!?」
指先からピンセットが滑り落ちる。
成瀬は反射的に数歩後ずさり、遺体を凝視した。
動いている気配はない。
静まり返った安置室で、ただ冷たい空気だけが流れていた。
――今の声は何だ?
ただの錯覚か? それとも、何かが――?
成瀬は乱れた呼吸を整えようとしたが、安置室の冷気とは別の、得体の知れない寒気が背筋を這い上がっていくのを感じた。
もう一度、遺体の顔を覗き込む。口を縫っていた糸は半分ほど切られていたが、やはり動く気配はない。
――気のせいか?
あるいは、疲れのせいだろうか。
軽く首を振り、成瀬はゴム手袋を外した。
少し気を落ち着けよう。
そう思い、1階の自動販売機へ向かう。
階段を上がる間も、耳鳴りのようなざわめきが消えなかった。まるで、どこか遠くから誰かが囁く声が聞こえる気がする。
……にげろ……
「……くそ、何考えてんだ」
自販機の前で深く息をつき、ホットのお茶を買う。カツンと缶が落ちてきた音が妙に大きく響いた。缶を取り出し、蓋を開けようとした、そのとき――
ガタン!
突然、外の扉が開いた音がした。
吹き込んできた冷たい風に、成瀬は反射的に振り返る。
外は猛吹雪。
視界は真っ白で、何も見えない。
――いや、違う。何かがいる。
ぼんやりとした影が、吹雪の向こうから現れた。
靴の音がゆっくりとこちらに近づいてくる。
数秒後、誰かが入り口に立った。
「すみません、責任者の方はいらっしゃいますか?」
女性の声だった。
成瀬は一瞬、ホッと息をついた。
「……あなたは?」
成瀬が警戒するように問いかけると、女性は肩についた雪を払いながら、ゆっくりとフードを外した。長い黒髪が揺れる。
「佐伯綾乃。刑事です。」
成瀬は思わず眉をひそめる。
「……刑事?」
「この町で起きている連続失踪事件を調べています。」
「失踪事件?」
「ええ。ここ数ヶ月で、数名の住民が行方不明になっているんです。それも、いずれも忽然と消え、遺留品すら見つからない。」
佐伯はコートの内ポケットから小さなメモ帳を取り出し、数ページめくった。
「先週、この火葬場の近くで、また一人消えました。村上悠斗という記者です。」
「記者……?」
「彼は町の古い言い伝えや未解決事件を調査していたようです。」
成瀬の脳裏に、ついさっき見た黒い糸で縫い合わされた遺体が浮かび上がる。
「あなたが担当している遺体――身元不明のものですよね?」
佐伯の視線が鋭くなる。
佐伯はポケットから写真を取り出し、成瀬の前に差し出した。
そこには、数体の遺体が写っていた。
どれも口を黒い糸で縫われている。
「これまでに発見された遺体です。みんな、失踪者だった者たちです。」
「……じゃあ、今 安置室にある遺体も……?」
佐伯は頷いた。
「その可能性が高い。だから、調べさせてほしいんです。」
成瀬は冷たい缶を強く握りしめた。
「……わかりました。でも、もしあなたの言うことが本当なら……俺は何か、とんでもないものに関わっている気がする。」
佐伯の表情が険しくなる。
「ええ。私も、そう思います。」
成瀬の脳裏には、先ほど聞こえた囁きがこびりついて離れなかった。
――に……げ…ろ。
それは、死者の言葉なのか。
それとも、もっと恐ろしい何かの警告なのか。
外では、吹雪がますます激しさを増していた。