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第2話 異変の始まり

吹雪の音がガラス窓を揺らし、外の視界は真っ白に閉ざされていた。

山間にぽつんと建つ 田舎町の火葬場。 ここは昼間でも訪れる者はほとんどなく、夜になれば 完全に静寂に包まれる。


成瀬宗一郎は、火葬場の遺体安置室で一人、遺体の処理をしていた。


彼は遺体衛生保全士として、搬送されてきた遺体の管理を任されていた。普段は別の町で働いているが、人手不足の影響で、週末だけこの火葬場の夜勤を担当している。


雪の影響で、町との交通は完全に遮断されていた。朝になれば交代の職員が来るはずだったが、この大雪ではそれも望めそうにない。成瀬はしばらくの間、ここに閉じ込められることになる。


「……まったく、……災難だな」


ゴム手袋をはめ直しながら、成瀬は遺体保管庫の扉を開けた。冷たい空気が流れ出し、薄暗い室内に死臭とは異なる、鉄のような冷ややかな匂いが漂う。


引き出された担架の上には、一体の遺体が静かに横たわっていた。


身元不明の遺体。

明日、火葬される予定だった。


成瀬はいつものように遺体の状態を確認する。

顔を覆う白布をめくると―― 異様なもの が目に飛び込んできた。


「……なんだ、これ?」


遺体の 口が、黒い糸でしっかりと縫い合わされていた。


不自然なまでに強く縫い留められた唇。まるで 絶対に口を開いてはならない かのように固く締められていた。


「……気味が悪いな…」


成瀬は小さく舌打ちをしながら、ピンセットと小型のハサミを手に取った。


このままでは遺族に見せることもできないし、火葬するにも不自然すぎる。


慎重に、糸を一本ずつ切り始めた――その瞬間。


「に……げ…ろ」


かすかな声が、 遺体の口から漏れた。


「っ!?」


指先からピンセットが滑り落ちる。

成瀬は反射的に数歩後ずさり、遺体を凝視した。


動いている気配はない。


静まり返った安置室で、ただ冷たい空気だけが流れていた。



――今の声は何だ?

ただの錯覚か? それとも、何かが――?



成瀬は乱れた呼吸を整えようとしたが、安置室の冷気とは別の、得体の知れない寒気が背筋を這い上がっていくのを感じた。


もう一度、遺体の顔を覗き込む。口を縫っていた糸は半分ほど切られていたが、やはり動く気配はない。



――気のせいか?



あるいは、疲れのせいだろうか。


軽く首を振り、成瀬はゴム手袋を外した。

少し気を落ち着けよう。

そう思い、1階の自動販売機へ向かう。



階段を上がる間も、耳鳴りのようなざわめきが消えなかった。まるで、どこか遠くから誰かが囁く声が聞こえる気がする。


……にげろ……


「……くそ、何考えてんだ」



自販機の前で深く息をつき、ホットのお茶を買う。カツンと缶が落ちてきた音が妙に大きく響いた。缶を取り出し、蓋を開けようとした、そのとき――



ガタン!



突然、外の扉が開いた音がした。


吹き込んできた冷たい風に、成瀬は反射的に振り返る。



外は猛吹雪。

視界は真っ白で、何も見えない。


――いや、違う。何かがいる。



ぼんやりとした影が、吹雪の向こうから現れた。


靴の音がゆっくりとこちらに近づいてくる。


数秒後、誰かが入り口に立った。


「すみません、責任者の方はいらっしゃいますか?」


女性の声だった。


成瀬は一瞬、ホッと息をついた。



「……あなたは?」


成瀬が警戒するように問いかけると、女性は肩についた雪を払いながら、ゆっくりとフードを外した。長い黒髪が揺れる。


「佐伯綾乃。刑事です。」


成瀬は思わず眉をひそめる。


「……刑事?」


「この町で起きている連続失踪事件を調べています。」


「失踪事件?」


「ええ。ここ数ヶ月で、数名の住民が行方不明になっているんです。それも、いずれも忽然と消え、遺留品すら見つからない。」


佐伯はコートの内ポケットから小さなメモ帳を取り出し、数ページめくった。


「先週、この火葬場の近くで、また一人消えました。村上悠斗という記者です。」


「記者……?」


「彼は町の古い言い伝えや未解決事件を調査していたようです。」



成瀬の脳裏に、ついさっき見た黒い糸で縫い合わされた遺体が浮かび上がる。


「あなたが担当している遺体――身元不明のものですよね?」


佐伯の視線が鋭くなる。


佐伯はポケットから写真を取り出し、成瀬の前に差し出した。


そこには、数体の遺体が写っていた。


どれも口を黒い糸で縫われている。


「これまでに発見された遺体です。みんな、失踪者だった者たちです。」


「……じゃあ、今 安置室にある遺体も……?」


佐伯は頷いた。


「その可能性が高い。だから、調べさせてほしいんです。」


成瀬は冷たい缶を強く握りしめた。


「……わかりました。でも、もしあなたの言うことが本当なら……俺は何か、とんでもないものに関わっている気がする。」


佐伯の表情が険しくなる。


「ええ。私も、そう思います。」


成瀬の脳裏には、先ほど聞こえた囁きがこびりついて離れなかった。


――に……げ…ろ。


それは、死者の言葉なのか。

それとも、もっと恐ろしい何かの警告なのか。


外では、吹雪がますます激しさを増していた。

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