火葬場の遺体安置室は、寒さと静寂に支配されていた。
照明は薄暗く、蛍光灯が低い音を立てながら不規則に揺れている。
安置台の上に横たわるのは、さきほど見た身元不明の遺体――口を黒い糸で縫い合わされた死者。
「……この口。」
佐伯の声が静寂を破った。
彼女の視線が遺体の口元に釘付けになる。
眉をひそめ、しばらく観察した後、呟いた。
「この縫い方、尋常じゃないですね。」
「普通の死後処置じゃないですよね?」
成瀬が問いかけると、佐伯は軽く頷いた。
「町の風習らしいですよ。死者の口を封じる、とかなんとか。」佐伯が遺体を確認しながら説明する。
「死者の口を封じることで、何かを防ぐ……そういう習慣があったと記録されています。」
「何かを防ぐ?」
「ええ。口を開いたまま死んだ者は、死後に“語る”から、らしいです。」
「語る……?」
成瀬は違和感を覚えた。
「そんな迷信が、こんな強引な縫合につながるのか?」
死後硬直を無視して、皮膚が裂けるほどに縫い合わされた口。
明らかに“開いてはいけない”何かを閉じ込めようとした痕跡だ。
「……この遺体の身元は?」
佐伯がデータを確認する。
「いや、それが――」
成瀬が答えようとしたとき、遺体の唇が微かに動いた。
「……!」
佐伯の指が一瞬止まる。
「……今、動きましたよね?」
「見間違いか?」
佐伯は目を細め、遺体の口元を凝視する。
成瀬は、息をのんで遺体を見つめた。
動くはずがない。
死体は、生きていないのだから。
――だが。
次の瞬間。
「き……を…つ…け……ろ」
はっきりと、遺体の口から言葉が漏れた。
二人は凍りついたように動けない。
佐伯も、表情を変えずに遺体を凝視しているが、指先が微かに震えている。
佐伯は小さく息を吸って冷静さを取り戻す。
「空気が肺から抜けただけかも…」
だが、その言葉には確信がなかった。
成瀬は首を振った。
「いや……何かが、おかしい。」
そのとき――
コトン……
安置室の奥で、何かが音を立てた。
「……?」
二人は互いに目を合わせた。
そこには、他の遺体を収めたはずの保管庫が並んでいる。
暗がりの中で、わずかに開いた扉が揺れていた。
誰もいないはずの空間で、“何か”が動いた。
佐伯が静かに低い声で囁く。
「……何か、いる?」
成瀬は、恐る恐る保管庫の方へ目を向けた。
暗闇の中、冷たい金属の扉が、わずかに開いたまま静止している。
彼の脳裏に、不吉な考えがよぎった。
「ここには……8体の遺体があるはずですよね?」
佐伯が資料をめくり、頷く。
「ええ、間違いなく8体のはずです。」
成瀬が保管庫を全て確認する。
「ひとつ足りない……」
成瀬は冷たい悪寒が背筋を駆け上るのを感じた。
――7体しかない。
遺体が、1体……消えている。
「……ありえない。」
佐伯が呟いた。
「遺体が、自分で動いた……とでも?」
言葉にすればするほど、現実味がなくなる。
だが、目の前の光景は否応なく彼らに異常を突きつけていた。
消えた遺体。
封じられた口。
「気をつけろ」と囁いたのは、死者だったのか――?
それは、誰に向けられた警告だったのか?
この火葬場は、何かがおかしい。
――「死者の口を封じる」。
それは、ただの迷信なのか?
それとも……封じなければならない理由があるのか?
「……戻りましょう。」
佐伯が静かに言った。
冬の吹雪が荒れ狂う中、夕闇がゆっくりと火葬場を包み込んでいく。
成瀬と佐伯は、静寂の中に漂う得体の知れない気配を感じていた。
それは決して目には見えない――だが、確かにここに“何か”がいる。