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第3話 消えた遺体

火葬場の遺体安置室は、寒さと静寂に支配されていた。

照明は薄暗く、蛍光灯が低い音を立てながら不規則に揺れている。


安置台の上に横たわるのは、さきほど見た身元不明の遺体――口を黒い糸で縫い合わされた死者。


「……この口。」


佐伯の声が静寂を破った。


彼女の視線が遺体の口元に釘付けになる。

眉をひそめ、しばらく観察した後、呟いた。


「この縫い方、尋常じゃないですね。」


「普通の死後処置じゃないですよね?」


成瀬が問いかけると、佐伯は軽く頷いた。


「町の風習らしいですよ。死者の口を封じる、とかなんとか。」佐伯が遺体を確認しながら説明する。


「死者の口を封じることで、何かを防ぐ……そういう習慣があったと記録されています。」


「何かを防ぐ?」


「ええ。口を開いたまま死んだ者は、死後に“語る”から、らしいです。」


「語る……?」


成瀬は違和感を覚えた。


「そんな迷信が、こんな強引な縫合につながるのか?」


死後硬直を無視して、皮膚が裂けるほどに縫い合わされた口。


明らかに“開いてはいけない”何かを閉じ込めようとした痕跡だ。


「……この遺体の身元は?」


佐伯がデータを確認する。


「いや、それが――」


成瀬が答えようとしたとき、遺体の唇が微かに動いた。


「……!」


佐伯の指が一瞬止まる。


「……今、動きましたよね?」


「見間違いか?」


佐伯は目を細め、遺体の口元を凝視する。


成瀬は、息をのんで遺体を見つめた。


動くはずがない。


死体は、生きていないのだから。


――だが。


次の瞬間。



「き……を…つ…け……ろ」




はっきりと、遺体の口から言葉が漏れた。


二人は凍りついたように動けない。


佐伯も、表情を変えずに遺体を凝視しているが、指先が微かに震えている。


佐伯は小さく息を吸って冷静さを取り戻す。


「空気が肺から抜けただけかも…」


だが、その言葉には確信がなかった。


成瀬は首を振った。


「いや……何かが、おかしい。」



そのとき――


コトン……


安置室の奥で、何かが音を立てた。


「……?」


二人は互いに目を合わせた。


そこには、他の遺体を収めたはずの保管庫が並んでいる。


暗がりの中で、わずかに開いた扉が揺れていた。


誰もいないはずの空間で、“何か”が動いた。


佐伯が静かに低い声で囁く。


「……何か、いる?」


成瀬は、恐る恐る保管庫の方へ目を向けた。


暗闇の中、冷たい金属の扉が、わずかに開いたまま静止している。


彼の脳裏に、不吉な考えがよぎった。


「ここには……8体の遺体があるはずですよね?」


佐伯が資料をめくり、頷く。


「ええ、間違いなく8体のはずです。」


成瀬が保管庫を全て確認する。


「ひとつ足りない……」


成瀬は冷たい悪寒が背筋を駆け上るのを感じた。


――7体しかない。


遺体が、1体……消えている。


「……ありえない。」


佐伯が呟いた。


「遺体が、自分で動いた……とでも?」


言葉にすればするほど、現実味がなくなる。

だが、目の前の光景は否応なく彼らに異常を突きつけていた。


消えた遺体。

封じられた口。


「気をつけろ」と囁いたのは、死者だったのか――?


それは、誰に向けられた警告だったのか?


この火葬場は、何かがおかしい。


――「死者の口を封じる」。


それは、ただの迷信なのか?

それとも……封じなければならない理由があるのか?


「……戻りましょう。」


佐伯が静かに言った。



冬の吹雪が荒れ狂う中、夕闇がゆっくりと火葬場を包み込んでいく。

成瀬と佐伯は、静寂の中に漂う得体の知れない気配を感じていた。

それは決して目には見えない――だが、確かにここに“何か”がいる。

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