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第二話 殺意の色(前編)

   〈第二話 殺意こころの色(前編)〉



『だが、覚悟だけはぜひきめておいてほしいのだ──今後善きことを行うことを、われわれの仕事から一切はずし、常に悪を行うことに唯一の喜びを見出すことを。』



─貴方が好きなのはどんな色かしら?

 春の桜色?

 夏の空色?

 秋の黄昏きん色……それとも冬の真綿色かな?

 私の好きな色はね……ホラ、綺麗でしょ?

 とっても綺麗な色でしょう……?



「わあっ、綺麗〜っ!」

 隣を歩くジャッキーが急に声を上げた。うるさい鬼だ。

 ボクは眉間に皺を寄せて彼女が指差す方向を見る。

 雑木林を抜けて視界が開けた先に、テニスコート二面程度の花畑が広がっていた。よく晴れた五月の空を背景に、赤やオレンジ、黄色や白の花々が咲き誇っている。

「ポピーよね、これ。ちょうど今頃が開花の時期だっけ。あ〜ん可愛らしい花ぁ〜♡」

 ポピー畑に駆け寄ったジャッキーはニコニコしながらしゃがみ込み、直径─いや、花径十センチ弱の花に顔を寄せた。

「けぇ」

 彼女の黒いファーベストの肩に飾りの様に乗っていた拳大の毛玉がひと声啼く。シマエナガを反転させた黒い鳥─ぬえだ。

「ウフフ、ぬえちゃんもお花好きなの〜?」

「けけ」

「コラコラ、突付いちゃダメよ。

 ホラ、テンちゃんも近くで見てみたら?綺麗よぉ〜」

「テンちゃんって言うな」

 下級天使に名前が無いからってテキトーに呼びやがって……

 色取り取りの花とジャッキーの赤い髪、そして怪鳥ぬえの黒い綿毛が薫風くんぷうにサワサワと揺れる。それをムスッと見つめる白いパーカーの天使ボク──平和というか腑抜けた光景だ。とてもじゃないが、パンクしかけている地獄の裁判所をサポートする為に、天国と地獄から派遣された捜査チームには見えない。今だって別に呑気に散歩している訳ではないのだ。ボク達は地獄に送るべきがいないか、一応パトロールをしているのである。それなのに……

 そのチームの士気を最も下げている元凶の片ツノの鬼娘─名前だけいかつい邪悪鬼ジャッキーが、クンクンと花の匂いを嗅ぐ。

「…あんまり香りはしないのね。ちょっとだけ甘い様な……クシュン!」

 不意にくしゃみをするジャッキー。 

「クシュン!…あれ?」

「何だお前、風邪か?おっ、リアル『鬼のかくらん』?」

「いや別に体調は…クシュン!」

「じゃあ花粉症か」

「えっ違うよっ…クシュン!」

「あー花粉症だ。スギやヒノキなら分かるけど、ポピーとは珍しい。やっぱり鬼の体質は人間とは違うんだな」

「違うもん!子鬼の頃からずっと平気っ…クシュン!」

「花粉症になりたてのヤツは、大体そうやって認めたがらないんだよ。でも人間の花粉症も忘れた頃に、五十代後半で発症するヤツもいるんだって。お前も何百歳のオバチャンか知らないが──」

「はあっ?誰がオバチャンよっ!キミこそ見た目子供のくせに、中身意地悪なオッサンじゃないっ…クシュン、クシュン!」

「へっ、天使様を悪く言うから天罰が下るんだ」

 ボクは勝ち誇った様に見下ろし、ジャッキーはしゃがんだまま鼻を抑えて睨んでいたが、やがてあっという顔になる。

「そうだ…あたし、去年地獄で彼岸花ヒガンバナを見に行った時、何か鼻がムズムズするなって思ったんだ……まさか、ホントに花粉症になっちゃったの?」

 彼岸花はその名の通り、三途の川の彼岸むこうぎし─つまりあの世に咲く。白や黄色もあるらしいが、目にするのは大抵、長い茎の先端に細長い花びらが放射状に反り返って咲く独特な赤い花だろう。この花は地獄にも咲くが天国にも咲く。だから〈地獄花〉や〈死人しびと花〉等の不吉な別名がある一方、天国ではサンスクリット語で『天界に咲く花』を意味する〈曼珠沙華まんじゅしゃげ〉と呼ばれている。

「彼岸花の開花時期は秋だよな。春のポピーにも反応するとなると、鬼の免疫機能は花全般に対して過敏なのかもしれない」

「ええっ?それじゃお花見するたびにこうなんの?ヤダ、基本真っ黒な地獄と違って、人間界には綺麗なお花がいっぱいあるから楽しみにしてたのにぃ〜っ…花粉症じゃありませんように!南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏っ……」

 今度はリアル『鬼のそら念仏』が見れた。

 ボクは必死に手を合わせて拝むジャッキーに向かって微笑む。

「良かったなあ…人間界は一年中、何かの花が咲いてるぞ。

 花見も鼻水も好きなだけどうぞ」

「もおっ、どうしてそういう酷い事言う時だけ天使のエンジェルズ笑顔スマイルになんのよっ……クシュン!

 ……ティッシュ無い?」

 てのひらで顔の下半分を覆い、情けない目で見上げてくるジャッキー。ボクのパーカーのお腹には大きなポケットがあるが、あいにくポケットティッシュは入っていない。

「手でビーッってかんじゃえば?」

「オンナノコに何て事言うのっ」

 ジャッキーは恨めしそうな目を向けた後、立ち上がって辺りを見回す。


 埼玉県北東部の街である。駅周辺はショッピングモールや高層マンションもありそれなりに発展していたが、そこからだいぶ歩いてきて住宅街を抜けた結果、現在地周辺には広い道路も高い建物も見当たらない。林や畑、ビニールハウスばかりが目立ち、その隙間に古い一軒家が点在している、まあ田舎である。

 見ればポピー畑の向こうに細いアスファルトの道路がある。表通りから外れた私道なのか、さっきから車は一台も通っていない。と言うか、人通りも一切無い。平日の午後なので付近の住民は会社や学校に行っているのだろうが、それにしても静かだ。

 その静かな道の向こう側に二階建ての一軒家が建っていた。向かって右隣は空き地が続き、左隣はフェンスで覆われた梨畑。そして家の裏手は林になっていて、隣近所からポツンと浮いた形だ。その一階部分は何かの店舗なのか、全面シャッターが下りていた。ただ看板などは見当たらず、何の店かは分からない。しかしあのポツンと一軒家が、ボク達のいる所から一番近いのは間違いない。

「あそこ…雑貨屋さんとかならティッシュもあるかな?」

 ジャッキーは鼻をすすりながら、その家に向かう花の中の畑道を歩き出した。当然周囲の花粉濃度は上がる。

「クシュン…クシュン!…ううっ……」

 ボクはほくそ笑みながら後に付いていったが、ふと、ジャッキーの肩の上のぬえが気になった。


 少し膨らんでいる気がする。

 を感知しているのか?


 そう、この変な鳥は近くに殺意を感じ取ると、まるで人が恐怖を感じた時に産毛うぶげが逆立つみたいに体毛が膨れる。ボク達の仕事にはこのぬえの能力ちからが欠かせない。

 死者が地獄に堕ちる大前提の条件が殺生せっしょうである。ボク達はその殺生を人間同士で行なう殺人を専門に捜査し、犯人を突き止め、そいつの地獄行きを生きているうちから確定させる為に人間界に派遣されてきた。その捜査にぬえのが必要なのである。これを使えば、まさに今殺人が起ころうとしている所に先回りしたり、殺人犯をその場で特定できる。そういった現場に出くわすのを期待して、日々パトロールを続けているのだ。

 だが──

「けぇ…?」

 今のぬえの様子は少し奇妙だった。

 いつもなら殺意を感じた途端、倍くらいの大きさにブワッと膨らむ。まるで黒い綿菓子だ。殺意というのは怒りや恨み等の負の感情と共に一気に爆発するものなので、それに対するぬえの反応も本来、瞬間的で大きい。しかし今は膨らみ具合も小さいし、何だか本人も首を傾げて自身の反応を疑っている。殺意を感じたのは気のせいだったのか?

─いや、もしかしたら……

 同じ殺意でも、これが単純に目の前の相手に腹を立てて『てめえぶっ殺してやる!』って襲いかかるなら、ぬえだってすんなり膨らむだろう。人間界このよの裁判では相手を死なせた犯人に殺意があったかどうかで殺人か傷害致死かが分かれるが、それを証明するのは難しく、検察側と弁護側が対立し無駄に裁判が長引く事も多い。そんな時ぬえが証言できたらラクだろう。

 だが殺意─というか人間の心理というのは複雑で、地獄あのよの裁判でもその殺意の有無だけでは刑罰の重さが判断できない場合があるのだ。同じ殺生─殺人でもその動機や手口によって罪状が変わり、地獄の中でも行き先が分かれるのだが、特に近年そんな殺意や悪意が多様化した結果、閻魔王達地獄の裁判官がなかなか適切な判決を下せずに苦労している。だからボク達がをして、地獄の裁判所の手間を少しは減らそうとしているのだが……

 例えば高齢化社会で老老介護となってしまった仲の良い夫婦が、相手を思いってラクにさせてあげたとしたら?

 或いは快楽殺人者やプロの暗殺者は、果たして殺意で人を殺しているだろうか?

 そんなは一体どんな地獄に堕とせるのか──

「けえぇ……?」

─厄介な人殺しが近くにいる…?

 ぬえは微妙に膨らんだり縮んだりを繰り返し、ボクは長閑のどかな田舎の風景を懐疑的に見回す。

 しかしやはり辺りに人影は無く、千紫万紅せんしばんこうの花々がただ風に揺れていた。


「ずびばふぇん……」

 そうこうしているうちに目当ての家の前に辿り着いた。近付いて見ればかなり古く、相当の築年数を重ねてきたのが分かる。入口を塞ぐシャッターもだいぶ錆が目立っていて、何の店だとしても既に廃業しているのではないか?

 しかしそんな事に気付く余裕も無いジャッキーは、しつこくシャッターをノックしている。

「ずびばふぇん、どなたかいばふぇんがぁ?」

 左手で鼻を押さえてはいるが、だいぶ言葉が水っぽい。今にも垂れそうなのをオンナノコの意地だけで耐えているのだろう。ノック音がガンガンと荒くなっていくが、返事は無い。

「ゔぇ〜ん、留守ぅ〜?」

 ガンッ!

 自棄ヤケになったのか、一際ひときわ荒っぽくシャッターを叩く。

 ガタッ。

 中から音がした。誰かいる。

「いるじゃんっ!」

 遂に限界が来たオンナノコが、シャッターに手を掛けてガラッと持ち上げた。

 ガラスの格子戸を引き開けて顔を突っ込む。

「ずびばふぇんっ…」

 刹那──


「けえっ!」

 今度はハッキリとぬえが膨れた。

 ゴッ……

 鈍い打撃音と共に、ジャッキーの上半身は格子戸の中にうつぶせに落ちていく。

 続いて床に肉と骨が叩き付けられる音。

 ベチャッと液体が飛び散る音もしたが、血か鼻水か──


 さすがに一瞬唖然としていたら、格子戸が大きく開いて黒い影が飛び出してきた。大人の男と思われる少し小太りな体格で、黒いフード付きのジャンパーを着ている。

「お前も入れっ!」

 そう怒鳴ったフードの下の顔は異様だった。

 顔色は真っ白でツルンとしていて、両目と鼻、口の部分だけがポッカリと開いている。どうやらゴム製の白い覆面マスクを被っている様だ。

 その小太りなが、左手でボクの襟首を掴んで屋内に引っ張る。見れば右手には血の付いたバールを握っていた。これでジャッキーが突っ込んだ頭を上から殴り付けたのだろう。

「ああ分かった分かった」

 ボクは自分から素直に屋内に入り、下半身が外にはみ出していた俯せのジャッキーも格子戸の中に引きずり入れた。思った通り、室内の板張りの床は血塗れだ。

「おい、シャッター閉めろ!」

 小太りなスケキヨ─フトキヨが野太い声で叫ぶ。体格と声で判断する限りそんなに若くない様だ。ボクに言ったのかと思ったがそれは違った。男の背後からやはり黒フードに白覆面マスクの男が慌てて前に出る。しかしこちらのスケキヨはだいぶ痩せていた。そのヤセキヨは血溜まりに倒れているジャッキーを見て、小さく「ひっ…」と悲鳴を上げて一瞬固まる。死んでいると思ったのだろう。まあ無理もない。後頭部が見事に割れているのだ──いわゆる柘榴ザクロの様にパッカリと。普通死ぬ。

「早くしろおっ!」

 フトキヨも殺してしまったと思っているのだろう、オッサン声がヒステリックに裏返る。ヤセキヨは恐怖に震えながらも右足を上げ、足元のまたごうとした。

 ガッ。

「うわああっ!」

 に足首を掴まれて、絶叫するヤセキヨ。

 ゆっくりと顔を上げる

 その顔面は真っ赤に染まり、赤い目玉がグルリとうごめいてヤセキヨを見上げた。

 ゴボリと血を吐いた唇が動く。


「ティッシュ……ある?」


「ひい━━━っ!」

 ヤセキヨは足をバタバタさせてジャッキーの手を強引に振り払うと、そのまま表に飛び出していってしまった。


「なっ…なっ……」

 立ち竦むフトキヨの前で、ジャッキーはゆっくり立ち上がる。顔面を流れ落ちる血のお陰で鼻水が垂れていてもバレないだろう。そのままユラリとフトキヨに近付くが、傍目には完全に血塗れのゾンビに襲われている被害者だ。彼が「来るなあ━っ!」と叫んでバールを振り上げた気持ちも分からないでもない。

 ベキャッ。

 今度はジャッキーも左腕を振り回して応戦し、バールを弾き飛ばした。バールが当たった肘の先は明らかに骨が砕けた音がしたが、彼女は何事も無かったかの様に立っている。

「バ、バケモノかお前っ…」

 ガクガクと慄えながら後退ずさるフトキヨ。

「バケモノというか、鬼な。ほぼ不死身だから無駄な抵抗は止めとけ」

 そう言いつつボクはさり気なくジャッキーの背後に隠れた。こういう時は中学生並の体格が役に立つ。

 自慢じゃないが、ボクは弱いのだ。

 そもそも天使の中でも最下級の無名天使なのである。翼も無いので飛べないし、そりゃあ人間より長生きはしてるけど、鬼の様に不死身な訳でもなく力も強くない。自分より体格の良い人間と戦えば普通に負ける。だからさっきもバールで殴られるのを回避したのだ。

 天使が全て弱い訳ではない。上級天使には神の命令で堕天使─悪魔と戦う軍隊を結成する〈能天使パワーがいるし、ボク達〈天使エンジェル〉の一つ上の階級〈大天使アークエンジェル〉にもその神軍の総司令官に抜擢されたほどの戦士ミカエルがいる。しかしボククラスの下級天使はせいぜい守護天使となって人間を見守り、ちょっとしたアドバイスを与えるくらいしか出来る事は無いのだ。しかもボクはその守護天使の役割すら放棄した。ボクにはこの捜査チームで頭脳労働を担当する以外にやる事は無く、だからこそその支障になる様な余計な怪我はしたくない。労災も下りないし。

 という訳でボクより頭一つ大きいジャッキーを盾にしていたら、いつの間にかどこかに逃げていたぬえが戻ってきた。何でそれで飛べるか分からない申し訳程度の極小の翼をパタパタさせて、再びジャッキーの肩に止まる。今はすっかり元の大きさに戻っているが、さっき一瞬で膨らんだのは、目の前のフトキヨがジャッキーを殴った際の殺意に反応したのだろう。その前に花畑で妙な反応を見せていたのもこの男の影響だったのだろうか?

 しかしそれほどのしつこい殺意を持って襲ったのなら、ジャッキーが死んでいた場合、このフトキヨは明確な殺人犯として間違いなく地獄に堕とせたはずだ。どうせなら血の池に逆さまに落として、足だけ出させてたら面白かったのに…ちょっと残念かも。

 そんな事を考えていたら──

「けええ」

 再びぬえが膨らんだ。

 背伸びしてジャッキーの肩越しに見れば、フトキヨは今度は右手にナイフを握っていた。細身で刃の長さも十センチ程しかない小型のナイフだ。ズボンの尻ポケットにでも隠していたのか?

 ボクは呆れて言う。

「何だそんなオモチャ、この鬼に通用すると思ってんのか?見ろ、さっき折れた左肘はもうくっつき始めてるし、割れた後頭部もすっかり治ってる。何で襲ってきたのか知らないが、いい加減諦めて──」

 そう言いながら気付いた。

 前に立つジャッキーが、何だかる様に背中を押し付けてくる。

 これは…後退ってる?

 脇から覗き込むと、彼女の顔は青めていた。

「おい、どうした…」

「…やめて…こっち向けないでっ……!」

 小刻みに震えるジャッキー。明らかにナイフを見て怯えている。こんな細い刃物、少々刺されたってコイツなら平気だろうに……そう思いかけてハタと気付く。しまった。


 コイツはは苦手だった。


 二月の節分では、家中の鬼を祓い福を招く為に『鬼は外』と唱えながら豆を撒く。或いは恵方巻という巻き寿司を、その年の縁起の良い方角を向いて食べる。現代ではこれらの行事が一般的だが、古来、節分に鬼を撃退する魔除けの風習しきたりは他にもあった。

 ヒイラギの葉のとげイワシを玄関先に飾る〈柊鰯ヒイラギイワシ〉である。

 鰯は焼くと大量の煙と臭気を発生する。それで目を開けていられなくなった鬼がそれでも闇雲に家に侵入しようとすると、その見えない目に柊の棘が刺さるという二重のダブルトラップが柊鰯なのだ。ボクに言わせれば子供騙しの仕掛けだが、鬼は頭が良くないのでコロコロと引っ掛かっていたらしい。そんな間抜けな失敗が先祖代々続いた結果、その激痛と恐怖は遺伝子レベルで刷り込まれたとなって、後世の鬼達は柊鰯を見ただけで逃げていく様になってしまった訳だ。

 そしてそんな柊嫌いの鬼の一族には、生まれつき尖った物全てが苦手な連中も多いという。人間が遺伝的に先端恐怖症になるケースと同様で、だから鬼の武器は剣や槍の様な鋭い刺突系ではなく、金棒がメインなのではないかとボクは思っている。ジャッキーも子鬼の頃からそうだったらしく、それで地獄でも針の山には近付けず、血の池を洗って大釜を沸かす担当だったのだ。そんな彼女だから当然、ナイフなんか向けられたら竦み上がってしまうのである。しかも今は花粉症になったショックでそもそもメンタルが弱っている。

 すっかりしおらしくなったジャッキーの様子に、フトキヨは余裕を取り戻した様だ。

「へっ…何だか急に大人しくなったじゃねえか。最初からそうしろってんだ。

 オイ子供ガキ!その戸とシャッター閉めろ!」

 ナイフを構えたままフトキヨはボクに命令してきた。しかも子供ガキだと?絶対お前より歳上だぞ。激しくムッとしながらも、ジャッキーが敵わない相手にボクが敵う訳もないので粛々と言う事を聞く。

 元々室内は照明がいておらず、入口から射し込む光に照らされた所以外はよく見えていなかったが、シャッターを閉めると全体が暗くなった。どこかの窓から漏れてくる光で何となく見える程度である。しかしポケットに両手を突っ込んで振り向いたボクは視界の隅に、床に落ちたバールの輪郭を捉えた。暗さに乗じてこれでナイフを叩き落とせば或いは……だが行動に出る前にフトキヨの声がした。

「おかしな真似すんなよ、手ぇ挙げとけ」

 仕方無い。ボクはポケットから両手を出し、上に挙げた。降参の意思表示ポーズだ。

 更にフトキヨが叫ぶ。

「お前も出てきて手伝え!もう一人は逃げちまったからよっ…」

 途端、その言葉に呼応する様に天井の蛍光灯が点いた。続いて部屋の奥の格子戸が開く。その向こうはこちらの床より一段高くなっており、畳敷きの部屋になっている様だ。そこから二人の人物が出てきた。


 古風な刺繍の入った白いブラウスにグレーのロングスカートを履いた小柄な老婦人がヨロヨロと歩み出る。痩せて手足は細く、靴下のまま床に下りた足元が痛々しい。腰がすっかり曲がっていて、その上深く俯いているので、カールした白髪に包まれた顔は全く見えない。


 そしてその背後に立っているのはまたもフトキヨと同じ、フードを被った白覆面マスクである。逃げたヤセキヨ以外にも仲間がいたのだ。


「オラ、コイツら拘束しろ!」

「わ、分かりました…」

 こちらのスケキヨも勿論顔は分からないが、声は若い。オッサンのフトキヨよりもだいぶ歳下に感じる。体格もフトキヨよりは痩せているが、ヤセキヨほどガリガリでもない。身長も百七十センチ前後で、要は中肉中背の普通の体格だ。フトでもヤセでもない普通だからフツキヨか…いや、ノーマルなんだからコイツがスケキヨでいいのか?──どうでもいいか。

 そのフツキヨはまず、俯いたままの老婦人を奥の床に座らせた。見れば彼女の両手は既に黒い結束バンドを巻かれた状態で、横座りした膝の上に力無く置かれている。

 それからフツキヨは、相変わらずフトキヨのナイフで動けないジャッキーの拘束に取りかかる。始めは血塗れのジャッキーに相当怯えていたが、フトキヨに「早くしろ」と睨まれると、背中のリュックからあたふたと新しい結束バンドを取り出す。それで床に寝かせたジャッキーの両手首、両足首を固定していくが、どうにもぎこちない。フトキヨがイライラとしてかす。

「何やってんだノロマ!その女はちょっとおかしいからな、絶対に動けなくしろよ!」

「ハ、ハイっ……あっ、結束バンドがもう無いですっ!」

「じゃあ粘着テープでも巻いとけ!」

 言われてまたリュックから出したのは、白地にピンクのイチゴ模様がランダムに描かれた何とも可愛らしい粘着テープだった。パーティーなどの装飾用だろう。忘れてたのを慌てて買いに行ったらそれしか無かった感がバレバレの、犯罪の現場では明らかに緊張感をぐ代物だ。実際、両腕を背中にして胴体を苺でグルグル巻きにされているジャッキーの姿は、悲惨だが間抜けでもある。

 そして最後にボクも両手両足を苺巻きにされ、入口近くに転がされた。

「よし…そしたらお前、念の為この女にはずっとナイフ突き付けとけ。何か鬼みたいに強いらしいからよ」

「ハイ…」

 フツキヨはリュックからナイフを取り出して、ジャッキーの顔に向ける。その横でフトキヨはスマートフォンでどこかに電話を掛け始めた。

「もしもし、俺です。ハイ…いや、ババアは家にいたんですけど、思わぬ邪魔が入っちゃって。

 しかも一人トンズラこきやがったんスよ。え?あ、名前忘れちゃったけど…俺も今日初めて会ったし…とにかくそれで二人になっちゃって、ちょっと今日はもう無理かなって……

 え?いや、そ、そんなっ…指示に逆らうつもりはっ…!」

 動揺して、また声が甲高くなるフトキヨ。

「……ハイ…ハイ…分かりました。続けます。

 在処ありか、白状させます……」

 なるほど、そういう事か──

「コホン……オイ、コラ…」

 通話を終えたフトキヨは一つ咳払いをして声を低く整えてから、座っている老婦人の前にしゃがんだ。

 俯く彼女の顔にナイフの刃先を近付けて凄む。

「続きといこうか、ババア──」


「フン、闇バイトか」


 不意に放ったボクの一言に、フトキヨとフツキヨが揃ってビクリとして振り返った。二人共『何故分かった』と言わんばかりに覆面マスクから覗く目を丸くしているが、分かるに決まってるだろ馬鹿。


「今の電話、そのビビり具合は相手がだからだろ?

 こんな周り畑ばっかのポツンと一軒家にその婆ちゃんしかいないなら、狙うにはおあつらえ向きだもんな。そこに転がってるバールで裏口の窓でも割って侵入したんだろ。

 拘束の仕方もヘタクソだし、プロが苺のテープ使うかよ。しかも一人逃げてんじゃねえか。どう考えてもアマチュアのバイトだろうが」


『即日高額報酬!』

『無資格、未経験者歓迎!』

『ホワイト案件』──

 そんなSNS上の怪しい求人広告に釣られた結果、金に困っている連中が犯罪組織の手先として遣われる〈闇バイト〉。以前は振り込め詐欺の電話を掛ける〈掛け子〉や、被害者に振り込ませた金を受け取りに行く〈受け子〉をさせられるケースが大半だったが、最近はそんな詐欺が世間に周知され取り締まりも強化された結果、もっと荒っぽく、手っ取り早い方法にシフトした。

 である。

 その手口は共通していて、まず応募の時点で身分証明書を送らせて個人情報を握り、実行を拒否すれば本人や家族に危害を加えると脅迫し、逃げられない状況を作る。その上で指示役を名乗る主犯格が指示を出し、実行犯を意のままに動かして強盗をさせるのだ。

 だがあくまでバイトのつもりで集まった一般人なので、当然、住宅への不法侵入や窃盗行為に慣れている訳がない。だから強盗を指示する側は近隣に住宅が少なくて孤立していたり、築年数が経っていて防犯対策が整っていなかったり、そして特に高齢者が独り暮らししている家を最優先でターゲットに選ぶ。それならプロじゃなくても容易に侵入でき、住人がいても強く抵抗されずに済むからだ。そういう意味でこのポツンと一軒家は理想的だろう。

 そんな素人の犯罪だから、侵入手段も窓ガラスを無理やり割ったり、ドアをバールでこじ開けたりと強引なモノになる。そのバールでジャッキーの頭を柘榴にしたのも、人を殴り慣れていないので加減できない素人の証拠だ。

 黙り込む二人のスケキヨ。全て図星だったのだろう。

 そして気になるのはフトキヨの最後の台詞セリフ──

在処ありか、白状させます……』


 ボクは上半身を起こして素早く周囲を見回す。

 に入ってきた時から気になってはいた。表のシャッターが示す通り普通の住宅ではなく、格子戸を開けて入ったこの場所は十畳程の板張りの土間になっている。何かの店舗だったのは間違いないが、何の店だったのか?当初は暗くて、何も置かれていないと思ったのだが──

 壁際に天井に届くほどの高さがある本棚が並んでいた。

 暗い間はそこまでが壁に見えていたが、今は左右の壁に二つずつ、歴史を感じさせる重厚な木製の本棚が並んでいるのが分かる。どう見ても一般家庭の家具ではない。

 ここは本屋だったのだろう。

 だった─と言ったのは、本棚が全て空だったからだ。看板も無かった事と合わせると廃業した本屋だ。

─使えるモノは特に無いか……

 そんな思案げなボクを、床に転がされたジャッキーが首を捻って見ていた。

「テンちゃん…?」

 しかし目の前のフツキヨのナイフに再び「ひっ…」と息を呑む。やはりこのままじゃコイツは役に立たない。

─仕方ねえなあ……

 ボクは拘束された手足をくねらせる。

「オ、オイっ…動くな!」

 フトキヨがナイフの向きを老婦人からこちらに変えるが、間にジャッキーとフツキヨがいるので届く訳もなく、脅しになっていない。ホントに素人だ。

 ボクは膝立ちになって、バイトの犯罪者達と対峙する。

「動くなって言ってんだろっ!」

 フトキヨが身を乗り出す。

 ボクは──ニッコリと笑った。


「地獄に堕ちるからな、お前ら」


 二人のスケキヨがナイフを構えたまま固まる。

「お前らみたいにSNSで集められた実行犯には互いに面識は無く、指示役に至っては顔も名前も分からない。さっきの電話も秘匿性の高い通信アプリ使ってんだろ?そんな連中がメンバーを入れ替えながら犯罪を行なっていく闇バイトの組織は〈トクリュウ〉って呼ばれてる。『匿名・流動型犯罪グループ』の略だな。

 だがお前らバイトと違って、指示役達はプロの犯罪組織の人間だ。じゃなきゃ大人数を集めて、個人情報を掴んで支配する事は出来ない。暴力団や半グレなんかの反社会的勢力の組織が経済活動シノギでやってたり、海外から指示を出してるケースも多いからな。自分達は安全な場所から実行犯おまえらを動かしてる訳だ。

 だがプロだからこそヤツらは分かってるぜ?

 素人の強盗なんかそうそう成功しないって事を」

 ギクリとするスケキヨ共。

「ちゃんと強盗の研修受けたか?使えねえバイトだな。何だこの苺のテープ。準備もマトモに出来ないのか、間抜け。こんなんで成功するかよ、カス。

 でも指示役にはそれも織り込み済みだ。だから短いスパンでどんどんシフトを組んで強盗しごとをやらせる。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるってやつだな。そうやって数をこなせるよう、手口は手っ取り早く荒っぽい。侵入した先で金目の物が見付からなきゃ、住人から聞き出せって言われてんだろ?その為に殴れ。蹴れ。刃物で切り付けろ。バールで叩きのめせ。そしてこうやって粘着テープで手足を縛って脅迫して、金品の隠し場所と暗証番号を聞き出せ──だから。


 そこの婆ちゃんにもそうやって、の在処を訊いてたんじゃないのか?」


 老婦人は自分が話題になっても俯いたままだ。恐怖で動けないのか、顔を上げる気力も無いのか。

「だが素人は手加減知らないからな、そういう意味ではたちが悪い。それで年寄り殺しちゃった馬鹿もいたろ。まあ指示役はそうなっても構わないって思って指示してるだろうけどさ。どうせ捕まるのは自分じゃなく、お前らだから。

 けど二人共分かってんのか?そもそも強盗ってのは罪が重いんだ。関わったヤツは運転手や見張りしかしてなくたって同じ重罰が科されるぞ。

 強盗罪は五年以上の有期懲役。

 強盗致傷罪なら無期または六年以上の懲役。

 そして強盗致死罪ならまたは──」

「な……」

 フトキヨが絶句する。どうせ指示役には大した罪にならないからやれって言われてたんだろう。

 手前のフツキヨのナイフを握る手もブルブル震えている。もう一押しか。

「地獄にもそんな量刑の差があってね。

 殺人だけなら最初の〈等活とうかつ地獄〉に堕ちて、罪人同士で鉄の爪で殺し合ったり、獄卒や鬼の料理人に身体を切り刻まれ、切り裂かれ、粉砕されるだけで済む。

 しかしそこに盗みが加わるとその下の〈黒縄こくじょう地獄〉で、鬼に熱く焼いた縄で身体に縄目を付けられ、熱鉄の斧でその縄目の通りにスライスされる。また熱した鉄の山の上に張られた不安定な鉄の縄の上を渡らされ、そこから落ちて砕けるか、鉄の釜に突き落とされて煮られる。その苦しみは等活地獄の十倍だそうだぜ」

「何が地獄だ!あるかそんなもんっ…」

「あるさ。その女が鬼だって言ったのは、比喩たとえじゃないからな。ツノもあんだろ?ホンモノの地獄の鬼だよ」

「はあ?何言ってんだこのガキ──」

「そしてボクは天使。

 お前らみたいなクズ、絶対天国には行かせないからな」

 そう言って天使の微笑みエンジェルズスマイルを見下しまくった嘲笑に切り替えると、フトキヨは血相を変えて立ち上がった。

 同時に老婦人が初めて顔を上げる。やはり痩せ過ぎていて痛々しいほど儚げな印象だが、その顔付きは優しげだ。

 しかしその両方の頬は何度も殴られたのだろう、赤く腫れ上がっていた。

 やはりそうか──


 この家に来る間にぬえが微妙に反応していたのは、この老婦人が手加減も殺意の加減も知らない素人にずっと暴行を受けていたからなのだ。

 その際、ぬえのアンテナがギリギリ反応する様な微弱な殺意─が発生していたのだろう。


 ジャッキーの目が大きく見開かれ、さっきまでとは違う強い光を帯びている。計算通りだ。

 恐怖を克服するには、それよりも強い感情で上書きすればいい。

 優し過ぎる鬼には痛め付けられたお年寄りは格好の激怒案件だろう。

『怒り』というのは喜怒哀楽の中でも最もパワフルな感情なのだが、心理学ではどんなに腹が立つ場合でも、実は最初に感じるのは怒り以外なんだそうだ。『悲しみ』『虚しさ』『苦しみ』『心配』『寂しさ』そして『怖れ』。これらの〈一次感情〉の後の〈二次感情〉として怒りは湧いてくる。しかし一次感情が大きければ大きいほど、それに伴う二次感情の怒りも一瞬で最大マキシマム水準レベルとなり、元々の一次感情を忘れてしまう。或いは一次感情自体に気付かない人もいる。つまり、感情の上書きには怒りほど適したモノはないのだ。

 これでジャッキーは苦手なナイフの存在も、ついでに鼻水も一瞬忘れるはずだ。そうなれば拘束されていても、コイツの力なら引き千切って反撃できる。その時間を作る為にもスケキヨ共を挑発して、注意をボクに引き付けたのだ。

 さあ働け、邪悪鬼ジャッキー──


「てめえ、ぶっ殺してやる!」

「けえっ!」


 怒号と共にぬえの鋭い声がして、ボクは反射的に本棚を見上げた。

 さっきその上に避難しているのは見付けていたのだが、隠れて小さくなっていた殺意の綿菓子は一気に膨らんでいる。


 気が付くと、ボクの胸にナイフが刺さっていた。

 一瞬ぬえに気を取られた隙に、激昂したフトキヨが突き刺してきたらしい。


「テンちゃんっ!」

 相棒おにの叫び声を聞きながら、ボクは仰向けに倒れた──



 目の前で亡者が叫び、わめく。

 業火の釜で、つるぎの森で、刀の山で繰り返される悲鳴と命乞いをBGMにしながら、地獄の看守─獄卒はリズミカルに亡者かれらの肉を裂き、骨を砕く。

 煮て、焼いて、刺して、斬って、り潰す。

 あたしの同僚はそれをたのしんで出来るのだ。その感性をおかしいとは言わない。鬼とはそういう残虐さと攻撃性を併せ持って生まれてきた種なのである。でなければ来る日も来る日も亡者を責めさいなむ仕事は続けられない。自分が壊れてしまう。

 だから──あたしには辛い。

 どうしてこんな性格なのだろう。

 誰かが困っていれば手を差し出さずにはいられない。傷付いていれば助けてあげたい。小さくて弱い存在は愛おしく、守ってあげたくなる。

 鬼としては失格もいいところだ。

 獄卒の現場監督である牛頭ごずさんと馬頭めずさんもあたしの扱いには困って、仕方無く本来は引退したシルバーな人材おにが担当する設備管理の仕事に回してくれた。働かせてもらえるだけでありがたい。だから、針の山は怖いから近付けないけど、ドロドロになった血の池を掃除してサラサラの血液に入れ替え、大釜の煮え湯もちゃんと温度管理して空焚きしないよう気を付けて……

 でもやっぱり、亡者の叫喚は聴こえてくる。

 耳を塞いで、目を閉じて生きてきた。

 だけどもう限界──千年を超える寿命を呪った。

 地獄ここはあたしの居場所じゃない。


 そんな時に閻魔王様の宮殿に呼び出され、そこで勤務する事務方の獄卒─〈閻魔卒〉に命じられたのだ。

『人間界で天使と組んでくれ』と──


 聞けば地獄の裁判官である十王様達の負担を減らす手助けになる仕事だという。それに選ばれたの?鬼失格で役に立たないあたしが?

 新しい世界が始まる──そう思った。

 お爺さん鬼の同僚達は『ていよく厄介払いされたんだ』とか『人材の墓場に行かされる』とかからかってたけど、それでも頑張ってこいと送り出してくれた。獄卒を引退すると鬼でもだいぶ丸くなるのだ。

 でもきっと、天使ならもっと優しいに違いない。

 そんな人と一緒なら、あたしもあたしらしく生きられるかもしれない。


 使──どんな人かな〜?


 そう思ってワクワクしてたから、いっつも不機嫌でちっとも優しくないキミに出遭った時は『ええ〜ウソ〜……』ってテンションダダ下がりだった。皮肉屋で意地悪で…何よ、あたしは絶対に花粉症じゃないからね。他人ひとの事は言えないけど、キミは明らかに天使に向いてない。

 ホント…笑うとこんなに可愛いのに。

「お前らみたいなクズ、絶対天国には行かせないからな」

 またそんな酷い事言って。どうしてキミは──

 あれ?

 どうしたの、お婆ちゃん?

 そのほっぺた、何でそんなに腫れて……


 そうか。

 あんたらがやったのね。

 こんなか弱いお婆ちゃんを……

 あんたら、鬼だ。


 すぐにでも飛びかかってやろうと思った。

 だけど──ナイフがギラリと光る。

─うっ……

 一瞬怯んでしまった、その時だった。


「てめえ、ぶっ殺してやる!」

「けえっ!」


 ……どうして?

 どうしてキミにナイフが刺さってるの?

 前に言ってたじゃない。天使は鬼ほど丈夫じゃない、人間と相撲して負けた天使もいるって。怪我だってするんでしょ?ナイフなんかで刺されたら──

 目の前にはまだナイフ。

 倒れていくキミ。

「テンちゃんっ!」


 あたしの中で何かが沸騰した。


 目の前の若い男に口を開けて襲いかかり、持っていたナイフを歯で噛んで奪い取った。若い男は勢いで横に倒れ、お婆ちゃんの脇の本棚に側頭部から激突する。

 手首と足首にありったけの力を入れて、結束バンドを左右に引き千切り。

 一瞬で凶悪に尖った両手の爪で、体に巻かれた苺のテープを切り裂く。

 そしてテンちゃんにナイフを刺し終わった体勢のまま固まっていた太った男を、渾身の力で殴り飛ばした。吹き飛んだ男は後ろの本棚の棚板と棚板の間に頭から突っ込み、頭頂部が背板をぶち破ってめり込む。

 カランッ。

 咥えていたナイフを吐き捨てる。

 ナイフ。

 ハッとして駆け寄れば、仰向けのテンちゃんのちょうど左胸にナイフが突き立っていた。

 そんな…天使だってここは心臓よね?

 嫌だ。

 起きて。

 起きてよ!

 キミはっ……


 あたしの天使なんだから──!


「……おう、復活したか。

 やっぱ婆ちゃんが痛め付けられてんのは我慢できなかったろ?ホント、お前はお人好しだな。

 え?ああナイフこれ?いやあ、こんな事もあろうかとホラ、をずっと握ってたんだ。降参したフリしてポケットから出してさ。

 大天使ミカエルの羽根だよ。言ったろ?上級天使のにはちょっとした霊力ちからがあるって。ミカエルは天使の軍隊の隊長だからね、ドラゴンでも敵わない無敵のマッチョさ。この羽根のお陰でボクの体も丈夫になって、人間のナイフくらいじゃ刺さりもしない。ホラ、パーカーには穴が空いたけど、刃先は中で曲がってる。


 …あれ?どうした?

 顔の血もう乾いてたのに、目の下また濡れてんぞ。

 もしかしてお前、泣いてたのか?

 ああ、花粉症が目まできたんだろ。

 アハハ、リアル『鬼の目にも涙』だな〜」


 バカ。

 イジワル。

 大っキライ!



 せっかくボクの作戦が上手くいったのに、ジャッキーは何故かすっかりねていた。ミカエルの青い羽根の効力が切れて粘着テープを巻かれた手足が痛いのに、それも『自分でやって』とか言って外してくれない。仕方無く先が曲がったナイフで苺をシコシコ切る。

 頭から背板にめり込んだフトキヨはピクリともしないが、呼吸はしているので生きてはいるだろう。コイツはこの現場では殺人はしていないので今すぐ地獄行き確定とはならないが、目が覚めて逃げられてもシャクだから苺ロールにしておこう。

 ジャッキーは老婦人の結束バンドを外している。隠れていたぬえはまたちゃっかりと彼女の肩の上に戻ってきていた。

 その横の本棚に側頭部をぶつけた若い方のフツキヨはウンウン唸っている。こちらは意識がある様だ。

「お婆ちゃん大丈夫?」

「ええ…ありがとうね。お嬢ちゃんこそ血だらけだけど、お怪我は?」

「大丈夫!屋内だからかな、鼻も止まったし」

「お鼻?」

 ジャッキーは首を傾げる老婦人に笑いかけてから、フツキヨの前にしゃがんだ。

「キミも大丈夫?どこぶつけたの?見せてみなさい」

 そんな無能なバイトの心配までしやがって、どこまでもおめでたい鬼だ。

 ジャッキーはフツキヨの覆面マスクに手を掛ける。外して怪我の具合をるつもりだろう。フツキヨには抵抗する気力も無い様で為されるがままだ。

 やがて現れた素顔はやはり若い。二十歳ハタチそこそこ─いや、まだ十代かもしれない。しかしパーマの掛かった茶髪はグシャグシャに乱れており、青白い肌は荒れていて吹き出物も目立つ。唇もカサカサに乾いてひび割れて、随分と不健康な生活をしている様だ。ジャッキーが顔を覗き込むと、素顔になった元フツキヨは落ち窪んだタレ目をオドオドと逸らした。

 その逸らした先で、元フツキヨの方を向いていた老婦人と目が合う。今度は慌てて俯く元フツキヨ。

 しばらく黙っていた老婦人が目を丸くして言った。


「もしかして……コウ君?」


 コウタと呼ばれた男はゆっくりと顔を上げた。

 驚愕と恐怖が同居した瞳がユラユラと揺れている。


「けぇ…?」

 ぬえが不安げに啼いた。

─殺意?

 その微妙な膨らみ具合は先刻見せた反応と同じだ。

 振り返って見ると苺巻きのフトキヨはまだ気絶している。アイツの殺意では無かったのか?

 じゃあ誰の──


 老婦人とコウタは黙って見つめ合っている。


─このコウタとやらが老婦人に暴行を加えていた…?

 ぬえは基本、感知した殺意が誰のモノかは分からない。殺意を感じた瞬間に目の前に一人しかいない、或いは実際に誰かを殺そうとしている人物がいれば、照らし合わせてそいつの殺意だと分かるだけだ。複数人がいる場所で誰かが周りに気付かれない様に殺意を抱いていたら、その人物を特定する事は出来ない。ただ、今のぬえの反応を見る限り、さっき感知した殺意と同一人物のモノとは思われる。殺意は指紋の様に人によって異なる波形パターンを持っているので、一度特定できれば次からは誰の殺意か判別できるのだが……

 やがてコウタが表情を歪ませて老婦人から目を逸らした。

「お、俺はあんたなんか知らない……」

「何言ってるの。中学生の時いつもウチに来てくれた洸大君でしょ?優しい洸大君──」

 そう言いながら老婦人はゆっくりと立ち上がり、フラフラとコウタの前に行く。ひざまずき、彼の左頬にそっと手を当てた。ビクリとするコウタ。老婦人の手の甲は所々赤くただれているが、これも腫れた頬同様の暴行のあとだろうか?

「そこの人と逃げた人は私を殴ったり蹴ったりしたけど、貴方はそんな酷い事しなかった。本当は強盗なんてしたくなかったんでしょ?何か事情があったのよね…?」

 老婦人は優しく語りかける。その言葉が本当ならコウタは暴行はしていない。ではさっき逃げた痩せた白覆面マスクの男が殺意の主だろうか?あのヤセキヨがまだ近くに潜んでいて、こちらに殺意を向けているとしたら──

「けぇ?」

 ぬえが首を傾げた。膨らみかけていた体も元に戻っている。殺意が消えたのだ。

─ホントにぬえコイツの気のせいだったのか…? 

 ボクが困惑していると不意に老婦人が言った。

「何があったのか話してごらん。

 懺悔すれば天国に行けますよ。

 この天使様が聞いてくれるから──」

「は?」

「不思議な力も使えるし、ホラ、使もあるもの。本物の天使様ですよ」

 老婦人は嬉しそうに戸惑うボクの頭を指差す。確かにボクの髪は白髪のマッシュルームカットなので、電燈に照らされて〈天使の輪っか〉が出来ているのだろう。勿論、下級天使のボクにそんなモノは無く、ただの髪のツヤだ。ジャッキーがちょっとニヤついているのがムカつく。

「良かったわね、やっぱり天国はあったのよ。

 貴方が行きたがってた天国、本当にあったのよ…」

 そう言って老婦人はコウタの頬を撫でた。

 バシッ。

 コウタが老婦人の手を払い除ける。

「天国なんか無え!

 俺には地獄しか無かったよ!」


 そしてコウタは、吐き捨てる様に語り出した── 


 (後編に続く)

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