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第二話 殺意の色(後編)  

   〈殺意こころの色(後編)〉


「良かったわね洸大コウタ君、やっぱり天国はあったのよ。

 貴方が行きたがってた天国、本当にあったのよ…」

 そう言って老婦人は闇バイト強盗の青年─コウタの頬を撫でた。

 バシッ。

 コウタが老婦人の手を払い除ける。

「天国なんか無え!

 俺には地獄しか無かったよ!」


 そしてコウタは、吐き捨てる様に語り出した── 



 あの頃──中学生だった俺には何も無かった。勉強も出来ない。スポーツも苦手。チビで痩せっぽちで、人と目を合わせて喋れない。だから友達もいないし、ついでに父親もいなかった。生活も母子家庭で余裕が無く、楽しみといえば母さんが職場の美容院から貰ってくる漫画を繰り返し読む事くらい。と言ってもボロボロになった昔の漫画で、待合室でも要らなくなった代物だよ。昭和のホラー漫画とか少女漫画とか今時の中学生が読む様なジャンルではなく、同級生と話題が合う訳もない。

 だから…だろうか。二年生になった俺は同級生のグループにイジメられていた。

 教科書やノートはゴミ箱に捨てられ、通学鞄には踏み荒らされた靴跡がいっぱい。『お化粧』と称して黒板拭きで顔をはたかれてチョークの粉塗れにされ、トイレに入れば一緒に付いてきた連中が掃除のフリをしてホースで水を浴びせてくる。今思い出しても酷いイジメだ。小学校でも無視されたり仲間外れにされたりした事はあったが、その方がずっとマシだった。

 そのグループのイジメの対象になっていたのは俺だけじゃなく、クラスメイト間のSNSではその被害者達の悪口が飛び交ってたらしい。そこではグループの誰かが『アイツキモいよな』とか言い始めると、普段イジメに加担していない一般生徒までそうだそうだと同調する。そうしないと今度は自分達が標的にされちまうからだ。だけどそうやって被害者を悪く言う側に一度でも回った連中には、もうイジメを止める事は出来ない。SNSではクラスのほぼ全員が、言葉でのイジメに加担していた共犯だ。

 幸い─なのか、貧乏な俺はスマホなんか買ってもらえなかったんで、そんな心抉られる会話は見ずに済んだ。でもそっちで反応が無かったのが余計にかんに障ったんだろうな。イジメグループのリーダー格の男子は或る日、ニヤニヤしながら俺に宣言したんだ。

『お前、今日から〈ランクZ〉な』

 彼らはイジメの対象を定期的にランク付けしていて、その最低ランク─ランクZには、一定期間特に執拗に絡んでいた。何をされるのか他の生徒には分からない。だけど俺の前にランクZに指定された女子は、不登校になった末に転校しちまったよ。

 でもその際にイジメグループ側が処罰されたという話は聞かなかった。グループのリーダーは表向きは勉強もスポーツも出来る優等生で、教師や父兄には陽キャの人気者だと認識されている男子だ。彼を告発するには明確なイジメの証拠が必要だけれど、SNSの公開は共犯関係にある一般生徒も絶対したがらないし、持ち物を捨てたり水を掛けたりの行為は掃除中の手違いや『ふざけてました』で胡魔化されてしまう。その時ヤツは教師の前で俺達に、いかにも親しげに『ホントにゴメンね』って謝ってくるんだ。ランクZの相手に対しても暴力を振るったりすればその傷痕が残るから、きっと証拠が残らない巧妙な手口でイジメているんだろうと思ってた。一体何をされるのか──

 怯える俺が放課後連れていかれたのは、学校近くのスーパーだった。遅くまで働く母さんの代わりに、よく夕食の買い物をしていく馴染みの店だ。俺がリーダーに背中を押される様に入店すると、カートを整理していた顔馴染みのパートのオバサンが笑顔で『いらっしゃい』って声を掛けてくれた。リーダー以外に二人付いてきたグループの男子が顔を見合わせて笑う。そしてリーダーが俺の耳元で囁いたんだ。


『何でもいいから万引きしてこいよ』って──


 出来るはずが無い。俺は必死に断ったが、三人に散々脅された。やらなかったら学校で、帰り道で、どんな目に遭わされるかをネチネチと聞かされたよ。それでも抵抗していたらリーダーが真顔で言ったのは『出来ないんならお袋の財布から金盗んでこい』──俺はマトモな休みも取らずに働き続けている母さんの顔を思い浮かべて、泣きながら頷くしかなかった。

 スーパーの中を彷徨うろついて回る俺の心臓は、今にも爆発しそうだった。何せ制服姿なのだ、見付かったら学校にもすぐ連絡が行く。逃げられるはずがない。買い物中だと見せかける為の買い物カゴを抱える手が震える。さり気なく見上げると、店内の天井の所々に防犯カメラがあった。あれに写されたらおしまいだ。喉がカラカラに乾いて、息苦しくなってきた。

 その時、太めの中年の男が真横に立った。ちょうど俺と防犯カメラの間だ。痩せっぽちの俺はその陰に完全に隠れる。男は何かを探して前の棚を見回していて、こちらには見向きもしない。

 今しかない。

 俺は目の前の商品をサッと掴んで、素早く制服の上着の下に隠した。ズボンのウエストに挟みそのままその場を離れるが、急に早足になったら怪しまれるかもしれない。俺はまだ商品を物色しているフリを続けながら、ゆっくりと出口に向かう。

 でも本当は緊張と恐怖で、今にも叫び声を上げて逃げ出したかった。心の中で『母さん助けて』と繰り返しながら、いかにも目当てのモノが無かったかの様に溜息をついて、出口近くの集積場所にカゴを置く。そして外に出ると、リーダー達がニヤニヤと寄ってきた。俺が制服の下から商品を取り出すと他の二人は歓声を上げたが、リーダーは呆れた様に言った。

『何お前、そんなモンってきたの?バカじゃね?』

 見れば俺が握っていたのは、チューブタイプの生わさびだった。目の前にあった商品を無我夢中で掴んだだけで、自分でも何を盗んだか分かっていなかったのだ。俺は三人に『おめでとう』って言われながら蹴られ、ご褒美だとしてわさびを口にじ込まれた。散々せて涙と鼻水をダラダラと流しながら、それでもこれで解放されると内心安堵していたんだ。だからリーダーの一言に愕然とした。

 アイツは愉しそうに嗤ったんだ。

『明日はマシなモン盗んでこいよ』って──

 それから毎日、地獄だった。

 ヤツらは俺に色々な店で万引きさせ続けた。

 お菓子、漫画本、ゲーム、CD……

 怖ろしかったのは、俺の万引きがどんどん上手くなっていった事だ。店によっては防犯カメラだけでなく、いわゆる〈万引きGメン〉と呼ばれる万引き犯を捕まえるプロの警備員がいる。大型店舗ではそんなGメンが何人かで連携して監視していて、彼らを欺いて犯行を行なうのは至難の業だ。だけど俺は自分の為は勿論、母さんの嘆き悲しむ顔を想像すると、絶対に捕まる訳にはいかなかった。だから必死に集中してカメラやGメンの目を掻い潜り、二重底にした通学用の手提げや手縫いして大きくした制服の内ポケットに盗品を入れて、巧妙に店外に持ち出した。

 しかし或る日、駅前の交番のすぐ傍の自転車屋で店頭の新車を盗むよう命令された。さすがに勘弁してくれと言ったら、リーダーは得意げにスマホを見せてきたんだ。その画面を見て俺は絶望したよ。

 そこには万引きする俺の姿がしっかり映っていた。

 それも辺りに鋭い視線を送りながら、素早く手提げに商品を滑り込ませている連続写真だ。どう見ても常習犯の手口じゃねえか。

『命令に逆らったら、これを親や学校に見せる。

 勿論、警察にもな』

 そう言ってリーダーはゲラゲラ嗤った。

 狡猾ズル過ぎる。これじゃ俺の窃盗行為は明らかなのに、イジメの証拠は何も無い。責められるのは俺だけだ。どうして前のランクZの女子が逃げる様に転校したかが分かった。だけどウチは母さんの働き口が他所よそで見付かる保証も、引っ越す為のお金も無い。逃げられない。俺は地獄から逃げられない……


 そんな時──梅雨明けしてすぐの七月上旬だったと思う。ジリジリとした日差しの下で次のターゲットを探して歩いている時、リーダーが立ち止まって言ったんだ。

にしよう』って。

 見上げた看板に書いてあったのは『工藤古書店』──



「ウチね」

 老婦人が静かに言った。

 コウタのなかなかに悲惨な話に聴き入っていたボクもジャッキーも、思わず彼女の顔を見る。ここは元は古書店だったのか。

「あの頃…七年前かしら?

 お父さんが亡くなって、私は独りでこのお店を続けてました。私達には子供もいなかったから本当に独り。ええ、勿論、孫もいませんよ。どうせ独りだから早くお父さんの所に…天国に行きたいなって思ってて、ただ私が亡くなるまでこのお店が続けられたらいいなって、それだけが望みだったの。それだけを望んで、独りで毎日お勘定台に座って……

 そんな辛気臭い店で、扱ってるのも古い学術書とか専門書が多いですからね、お客さんなんて日に数えるほどしか来ない。それに私はお父さんみたいに本に詳しくないから、何の本がどのくらいの価値があるのかよく分かってないの。洋書なんて全く読めなくて、常連さんに値段付けてもらってたもの。そんな昔からのお客さんは当然お年を召した方がほとんどで、若い人はたまに古い資料や小説の文庫本を漁りに来るくらいだった。

 だから洸大君が来た時は驚いたし、嬉しかった。

 ああ、こんな中学生が来てくれるなんて…孫がいたらこのくらいかしらって、ずっと洸大君を見てた……」

「……へっ、だから万引きがバレた訳か……」

 コウタが自虐気味に笑った。

「あの時のイジメのリーダーがさ、言ったんだよ。この本屋はババアが独りでやってるから楽勝だって!だから俺も油断しちまったんだな、きっと。まさか見付かるなんて…それまで上手くやってきたのによおっ!」

 自棄ヤケになった様に声を荒げるコウタ。

 その時だった。


 ポーン♪


 スマホの通知音が鳴る。それも一つではない。

 コウタがギクリとしたのを見てジャッキーがサッと動き、その尻ポケットからスマホを取り上げた。

 もう一つの通知音はボクの背後から聴こえて、見れば相変わらず意識の無いフトキヨのポケットからもスマホがはみ出している。

 その二台のスマホには同じ内容のメールが届いていた。

『お宝は見付かったか?』

 指示役からだろう。さっきもフトキヨが電話でお宝の在処を白状させると言っていた。その為に老婦人に暴行を加えさせていた訳で、指示役はその成果を気にして今度は実行犯全員に一斉メールを送ってきた──

 待てよ。

 指示役に操られた素人が独り暮らしの高齢女性宅に不法侵入し、金目の物の在処を聞き出そうと暴行を加える──今回のスケキヨ共の手口は典型的な闇バイト強盗だ。しかしただ一点、気になっていた事がある。

 強盗に入る時間帯として昼間というのは珍しい。

 本来犯罪の発覚を怖れるなら、住人が寝ている深夜から早朝にかけて実行するのがセオリーだろう。それなら気付かれずに室内を物色して収穫があればそのまま逃げればいいし、今回の様に家人に金品の在処を聞き出した後でも拘束しておけば、朝まで事件の発覚を遅らせる事が出来る。近所の住民に目撃されて通報されるリスクも少ないので、闇バイトに限らず強盗事件の多くはその深夜帯に発生するのだ。

 しかしコイツらはこんな真っ昼間に犯行に及んでいるのだ。当然勝手にやったのではなく、指示役の指示だろう。指示役ヤツらは素人じゃない。狙った家について必ず下調べをし、その結果に基づいて犯罪計画を立てている。そういう意味では確かにこの家は近所から隔絶され、車も人もいなかった。明るい時間帯でも侵入は容易たやすい。空き巣被害の数も深夜の次に多いのは住民が出かけている昼の時間だというデータもあるから、それで無人のタイミングを狙ったというのなら分かる。だがここは留守ではなかった。老婦人の生活パターンを調べた上で敢えてこの時間帯に侵入するよう指示したのなら、それには特別な意図がある──

の在処、白状させます』


ってのはただ金目の物を指してるんじゃなく、ここにはホントのがあるんだな?

 この強盗は初めからそれが狙いだったか」 


 ボクの言葉にコウタの目が泳ぐ。明らかに動揺している。

 ポーン♪

 またメールが届いた。 


『ババアを殺してでもお宝手に入れろ。

 じゃないとお前か家族、殺すよ?』


 ボクがスマホの画面を見せると、コウタの顔がみるみる青めていった。陳腐な脅し文句に過ぎず、本気で殺そうなんて思っていない。それこそぬえがメールを送った人間の傍にいれば、殺意が無い事は一目瞭然だろう。しかし個人情報を握られて洗脳コントロールされている実行犯を動かすにはこれで充分だ。実際にコウタは妙な光を帯びた目で、やはりスマホを覗き込んでいる老婦人を見た。

 老婦人はのんびりとした口調で言う。

「そう…貴方達お金が欲しいんじゃなかったのね。私は年金暮らしで貯金も無いから、あの太った人にお宝はどこだって言われて困ってたのよ。そうだったの……」

 そう言った老婦人はゆっくりと立ち上がった。僅かによろけたのをジャッキーに支えてもらいながら奥の部屋に向かう。半分開いていた格子戸に手を掛けながら、一段高くなったかまち部分を大儀そうに上がり、そして振り返ってニッコリと微笑んだ。


「いらっしゃい。

 を見せてあげましょう」



 覚えてるはずが無い──そう思っていた。

 何も無かったイジメられっ子なんか、誰の記憶にも残っているはずがない。俺に人と違う何かがあったとしたら、唯一万引きの才能だったかもしれない。命令されて犯罪を犯しておきながら、それが繰り返し成功している事にどこかで満足感を覚えてもいたのだ。大馬鹿野郎だ。だからこの古書店で制服に文庫本をサッと隠して外に出ようとした時、ショックだった──『それ百円よ』って言われて。

 振り向くとこの…ババアが、ジッと俺を見ていた。

 俺は頭が真っ白になって立ち尽くしていた。店の入口から覗いていたイジメグループの三人は『コイツ万引きしやがった!』『お巡りさ〜ん!』と口々に囃し立てながら逃げていく。そうだ、アイツらは俺の万引きが成功する事など望んでいなかった。むしろなかなか捕まらないのを苦々しく思っていたのだろう。

 背後からババアが近付いてくる。

─ああ、捕まるんだ…通報されるんだ……

 頭に母さんの顔が浮かぶ。

 俺の両目から大量の涙が溢れ出した。

『ゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいっ……ぼくイジメられてっ…万引きしろって命令されてっ……お母さんしかいないからっ…お母さん、毎日毎日夜遅くまで働いて、ぼくを育ててくれてっ……そのお母さんからお金なんて盗めないからっ!だから万引きにしてもらったんだっ!ぼくが警察に捕まったらお母さんっ……死にます!死んで謝りますから、警察にだけはっ………ゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいっ……死にます死にます死にます死にますっ………』

 支離滅裂な言葉を吐き散らしながら、途中で俺は思っていた。そうか、死ぬのはだ。俺もイジメられなくなるし、母さんも自分の生活費だけ稼げばいい。ラクになれる。俺が死んだら母さんは一瞬悲しむかもしれないけど、どうせ何も無い俺の事なんかすぐ忘れるだろう──

『……そんな死に方じゃ、天国には行けませんよ』

 背中から掛けられた言葉にハッとするが、構わず叫ぶ。

『天国なんか無いよ!』

『ありますとも』

『あるもんか!神様なんていないんだから、天国だって無いに決まってるっ……神様がいるんだったら何でイジメを止めてくれないのさ!』

『そんな事言ったら地獄に行ってしまうわ』

『いいよ地獄に行ったってっ……どうせ生きてたって地獄だっ…地獄しかないんだよ、ぼくには━━っ!』

『……』

 泣き喚く俺の後ろでババアはしばらく黙っていたが、やがて両肩に手を掛けてきた。年寄りとは思えない強い力だった。

─やっぱり警察に突き出す気なんだっ……あんなに謝ったのに!

 俺は振り向き、憎しみを込めてババアを睨んだ。盗人猛々しいとはまさにこの事だろう。

 だけどババアは──ニッコリと微笑んだ。


『いらっしゃい。

 を見せてあげましょう』


 その時と同じ台詞セリフを言いやがった。

 覚えてたのかよ、ババア……


 おばあちゃん……



 ボク達が格子戸をくぐるとそこは三畳の小さな和室で、家具は何も無かった。正面と向かって右側が襖になっている。正面の襖は開いていて奥の台所が見えるが、そこから出てきた複数の靴跡が畳に付いていた。裏口から侵入した強盗犯が土足で踏み荒らした跡だろう。先にブーツを脱いで上がったジャッキーがギロリとコウタを睨み、畳を手でパンパンとはたく。育ちの良い鬼だ。怒られそうなのでボクもコウタも靴を脱いで上がる。

「昔はね、ここにお勘定台を置いてたの。私はいつもこの戸を開けてお座布団を敷いて、お店が見える様に座ってた。懐かしいわねえ…あ、そうか、お座布団」

 老婦人がそう言いながら右側の襖を開けると、そこは上下二段の押し入れになっていた。上の段には数枚の座布団が重ねてあるが、下の段には古びた木製の箱らしきモノが仕舞ってある。横長で抽斗ひきだしが二つ並んで付いていて、おそらくこれが昔使っていたという勘定台だろう。老婦人が座布団を出そうとするとジャッキーが慌てて駆け寄った。

「あたしが出すわ、お婆ちゃん」

「あらまあ、優しいお嬢ちゃん。ありがとうねえ…」

「いえいえ♪」

 ジャッキーが座布団を四枚並べて全員が車座になると、互いに顔を突き合わせるほど狭い。ジャッキーが座る前に押し入れの襖を閉めようとすると、老婦人がそれを制して下の段の勘定台の前に屈む。そしておもむろに抽斗の一つを開けた。

「なあに?」

 覗き込むジャッキーだったが、不意に鼻をムズムズさせたかと思うと──

「クシュン!クシュン!」

「何だお前、急に花粉症がぶり返したのか?」

「だから花粉症じゃないって……クシュン!」

「あらあら、埃が溜まってたのかしら。最近はずっと開けてなかったから…ゴメンなさい、大丈夫?」

「あ、あい、らいりょうぶれふ……ティッヒュくらはい……」

「ティッシュね、奥の台所にあるから待ってて」

 そう言って立ち上がった老婦人が台所から箱ティッシュを持ってきて、正面の襖を後ろ手に閉める。慌ててビービー鼻をかむジャッキー。

 ボクは一体これは何の時間だよと呆れていたが、ジャッキーの肩の上のぬえを見て眉を顰めた。

 また少し膨らんでいる。

 ……やがて落ち着いたジャッキーが老婦人の左隣に座った。そこから右回りにコウタ、そしてボクが座ったので、老婦人の正面にコウタが座る形になる。そのコウタの前に老婦人は抽斗から取り出したモノを置いた。

「これが私のなんですよ。

 お父さんの形見なの」

 それは、一冊の本だった。

 大きさはB5のノートサイズで、厚さは3センチほどだろうか。

 中のページが見えている部分は上下の天地も脇の小口こぐちも変色して、細かい褐色の斑点状のカビ─〈フォクシング〉が点々と星の様に散らばっている。けぶった薫りがするのはそのせいだろう、相当古い本なのは間違いない。いまだにティッシュで押さえているジャッキーの鼻はこの黴に反応したのかもしれないが……

 しかし何といっても特徴的なのはその表紙である。

 昔の洋書にはよくあった布製の表紙なのだが、その色は──

「わあっ、ひでいなみろり色ーっ」

 ちゃんと言えないならややこしいから黙れ鬼。

 確かにそれは『綺麗な緑色』だが鮮やかで美しいエメラルドグリーンで、そこに金文字でタイトルが書かれていた。

『Gan Eden』──ラテン語だ。

 英語なら『Garden of Eden』──

『エデンの園』である。

 老婦人がパラパラとページをめくって見せてくれたが、中身もラテン語で書かれている様だ。

「この本は天国がどれだけ美しくて素晴らしい所か、綺麗な挿絵入りで書かれてるの。元々はお父さんのお父さんが手に入れた物だそうだけど、家宝だって気に入って売り物にはしなかったそう。でもしょっちゅうお客さんに自慢して見せびらかしていて、お父さんも子供の頃から絵本代わりに愛読してたって。それでお父さんも同じ様に常連さんにいつも見せてあげてて、私は外国語全然分からないけど、お父さんが繰り返し読んでくださったからすっかり内容を覚えてしまったわ。

 お父さん…いつかこんな天国に一緒に行こうねって言ってたのに、一人で先に行ってしまって……煙草タバコは喫わない人だったのに肺癌だなんてねえ……

 私、お父さんが亡くなった後もいつもこの本見てたの。あの人の声が今にも聴こえてきそうで……」

 老婦人はその表紙を掌で愛おしそうに撫でながら、遠い目をして言う。確かにエデンの園はアダムとイヴ─エヴァが知恵の実を食べてしまった為に追放された理想郷だと『創世記』に書かれており、天国と同義と言ってもいい。その楽園をひたすら紹介する本なら、老夫婦がいい旅夢気分に浸れる平和な内容なのだろう。

 だが……

「けぇ…?」

 ぬえがまた啼いた。

「クシュン!」

 ジャッキーも再びくしゃみをする。

─ホントに花粉症じゃないとしたら、コイツが反応しているのは──

 老婦人はついと顔を上げて、正面のコウタを見る。

「ねえ洸大君、懐かしいでしょ?私もこの本、あれから見てなかったのよ。

 貴方と毎日一緒に見てた、あの頃以来……」

 コウタの表情カオが歪んだ。



『貴方が好きなのはどんな色かしら?

 春の桜色?

 夏の空色?

 秋の黄昏きん色……それとも冬の真綿色かな?

 私の好きな色はね……ホラ、綺麗でしょ?

 とっても綺麗な色でしょう……?』

 地獄しかないと言った俺に、おばあちゃんはそのを見せてくれた。

 それは本当に綺麗な緑色をしていた。こんな緑色は初めてだ。俺はその表紙に惹き付けられ、おばあちゃんが語る天国の物語と美しい挿絵の数々に魅入られた。母さんが持って帰ってきてくれる漫画本の何十倍も面白かった。

 夢中になっているうちに辺りはすっかり暗くなり、帰るように促しながらおばあちゃんは言った。

『明日から毎日おいで。イジメっ子にはこう言うのよ、意地悪婆さんに「毎日手伝いに来ないと警察に突き出す」って怒鳴られたって。そうすればもう、万引きしなくて済むでしょう?もう辛い事も悪い事もしなくていいの。ね?

 一緒に天国に行きましょう』

『うん…!』

 その時俺が変な半泣きの顔になったのはたぶん、笑ったのが数ヶ月ぶりだったからだろう。

 そして俺は毎日学校が終わると、この本屋に直行するようになった。毎日おばあちゃんに天国の本を見せてもらって、お茶とお菓子、アイスも貰って、本当に楽しかった。緑色の表紙のツルツルした感触が何だかキモチ良くて、おばあちゃんが接客している間に頬りしていたら、見付かって大笑いされた。

 そのうち夏休みに入る頃には俺もすっかり内容を覚えて、お気に入りの描写と挿絵が幾つも出来た。するとおばあちゃんがその部分を読んで欲しいと言う。どういう事かと首を傾げると、亡くなった旦那さんに読み聞かせてもらっていたのが懐かしいのだそうだ。

『私は貴方に宝物を見せてあげる。

 貴方は私に宝物を見せてね』

 そう言っておばあちゃんは優しく微笑み、俺は幸せな気分に包まれて、張り切って読み聞かせをした。

 本当に天国だった。

 俺の人生でこの期間だけが地獄じゃなかった──今でもそう思っている。


 でもそんな天国は、やっぱり長くは続かなかった。


 イジメグループの連中も最初は、脅されて店の手伝いをさせられているという俺の言い分を信じていた。けれど夏休みに入ってもいそいそと通う様子にリーダーが不審感を抱き、グループのメンバーにこっそりと後をけさせ、そいつに別れ際に笑顔で手を振り合う俺とおばあちゃんの姿を見られてしまったのだ。

 翌日、校舎の屋上に呼び出された俺はイジメグループの三人に取り囲まれ、毎日何をしに行っているのかと詰問された。俺は最初こそ頑なに返答を拒んでいたが、精神的な圧力からか喉がカラカラに乾いて吐き気がしてきて……やがて柵のギリギリまで追い詰められ、リーダーが『ここから落ちたら痛いだろうなあ』と嗤った邪悪さに耐え切れず、遂に口走ってしまったんだ。

『毎日を見に行っていた』と──

 ……しばらく呆然とした後ハッと気付くと、屋上には俺一人しかいなかった。ギラギラと照り付ける真夏の陽光ひかりに目眩を覚えながら、俺は自分を責めた。俺が告白した後、憎々しげに『せっかくの楽しみをジャマしやがって』と吐き捨てたリーダーの吊り上がった目を思い出す。

 きっとあの悪魔はおばあちゃんに害を為す。

 俺の…ぼくの天国が、侵される。

─知らせなきゃっ……

 俺はそのまま階段を駆け降り、校門を飛び出し、工藤古書店へと走った。その頃は現在いまよりも家が少なく、学校の周りも畑や林ばかりだ。暑さのあまり蝉も鳴かない不気味な静寂の中、農道を走る俺の粘っこい足音だけが響く。アスファルトの照り返しに体中が焼けて汗が噴き出す。あっという間に息が切れて肺が悲鳴を上げ、顔が、手が、ビリビリと痙攣し始めた。痒い。

─駄目だっ…ぼくが倒れたら天国が…おばあちゃんがっ……

 よろめいて、道端に吐いた。

 目の前が昏くなり意識が遠退く。

─ああ……

 ゴメン………なさい……………


 目を覚ました時、俺は病院にいた。

 農道の脇に倒れているところを通行人に発見され、救急搬送されたらしい。学生証から身元が判明し、駆け付けた母さんは枕元で泣き崩れていた。

 てっきり熱中症かと思っていたが、呼吸器に異状があり貧血も酷く、顔や腕に皮膚炎も起こしているとの事でそのまま入院した。原因がよく分からないので入院は長引き、十日後に退院しても自宅療養が続いた。俺の看病の為に母さんは無理を続け、八月後半には二人共倒れてしまう。そのまま迎えた夏休み最終日、ようやく仕事に復帰した母さんがいない隙に俺は無理をして、ずっと気に懸かっていた古書店に向かった。

 一ヶ月以上訪れていなかった店舗は昼間だというのにシャッターが閉まり、中からは人の気配がしない。おばあちゃんはどうしたのだろう──


『ババアも入院したってよ』


 背後からの声に振り返ると、イジメグループのリーダーが立っていた。

『お前がいなくなったからさ、しょうがなくランクZを何人も増やしたんだ。そいつらに毎日ここで万引きさせてさ、そろそろかなってとこで入口から手紙投げ込んだ。「これ以上万引きされたくなかったら寄越せ」ってな。なんか凄えモンなんだろ?最近小遣い足んなくてさあ……でもババア、表に生意気な貼り紙しやがったんだ。

「宝物は誰にも見せられません」だとよ!

 だからオレもアっタマきてさ。ピンポンダッシュさせたり、ゴミ投げ込ませたり、あと電話帳に番号載ってたから無言電話も何回もしたんだよ。それでも反応無いからもう火でも付けさせるかって思ってたら…ババアのヤツ、入院しちまった。近所で聞き込みさせたらストレスのせいとか言ってたな。ったく、つまんねえ──』

 そう言って悪魔は嗤った。

 もう俺の…ぼくの天国は失われたのだ。

 また地獄の日々が戻ってくる。

 その場でアイツを殴れたら、俺の人生ももう少しマシになっていたかもしれない。

 でも何も出来なかった。

 目に涙を溜めて、また吐き気に襲われながら、フラフラと家に逃げ帰る事しか出来なかった。

 そしてやはり仕事からフラフラしながら帰ってきた母さんに全てを打ち明けた。イジメの事…万引きの事…おばあちゃんの事……泣きながら、吐きながら、打ち明けて土下座した。

 ゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさい………

 話を聞いた母さんもまた泣き崩れて、イジメに気付けなかった事を繰り返し詫びる。

 ゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさい…………

 二人で謝って、泣き疲れて寝落ちして、翌日にはもうこの街を離れようという話になった。俺も何もかも嫌になって抜け殻になっていたから、転居も転校も受け容れた。そして母さんが働いていた美容院で知り合いを紹介してもらえて、隣の県に逃げたんだ。

 だけどそこにも天国は無かった。イジメこそされなかったが、元々取り柄の無い俺がイジメられた反動の被害妄想で更にコミュ障になった結果、誰一人友達は出来ない。謎の体調不良も相変わらず続き、学校にもほとんど行けなかった。何とか中学校は卒業できたものの、働き過ぎた母さんがまた倒れた。俺は中卒で自動車の修理工場に就職して働き始めたが、そこでも体力が保たず休みがちになり二年足らずで解雇。それからはアルバイトで食い繋いでいる。

 やっぱり地獄だ。

 俺には地獄しかない。


 そしてつい最近、やはり体調不良でガソリンスタンドのアルバイトを馘首クビになった直後にネットで見付けたのが、このだったのだ。


 世間で闇バイトが流行はやっていたのは知っていた。だけど母さんの通院費が早急に必要で、焦りで判断力が無くなっていた。報酬に釣られて募集メールに返信し、言われるがままに個人情報を渡し、そして逃げられなくなった。

 二件の強盗事件の見張り役をやったが、どちらも住人に見付かって何も盗らずに逃げた。報酬もゼロだ。身も心もいよいよ追い詰められて、母さんを道連れに本当の地獄に行く事も考え始めた時、送られてきた新しい強盗しごと先の住所を見て目を疑った。

 それは忘れようとしても忘れられない、俺の唯一の天国──

 今日初めて遭った痩せた男の運転で、俺は逃げ出した街に戻ってきた。その道中、この場のリーダー役に指名された太ったオッサンが言った。

『散々万引きに遭って潰れた古本屋らしいんだけどさ、独り暮らしのババアが凄いを隠してるって噂があんだって。何かわざわざ宝物があるって貼り紙でアピールしてたとか…それを聞き出して頂いてこいって指示よ。

 俺の予想だとタンス貯金じゃねえかな?年寄りって自宅に現金貯め込むヤツ多いからさ……』

 万引き被害でおばあちゃんの本屋が潰れていた──それだけでもう震えが止まらなかったけれど、何より俺が迂闊に喋ったせいで、宝物の話が広まっていたのがショックだった。全部俺のせいじゃないか。おばあちゃんの過去むかし現在いまも、全て俺のせいで狂っている。なのに俺は逃げ出した。そして今も、逃げ出したい……

 俯く俺の顔を、太ったオッサンが覗き込む。

『お前、ビビってんのか?指示役に聞いたが、二連チャンで失敗してんだろ?俺だって切羽詰まってっからお前の失敗で捕まるなんてゴメンだし、指示役も言ってたぜ。

 今度失敗したら、ホントに家族がどうなっても知らねえって!』

 俺は痩せ細った母さんを思い出して、黙って言う通りにするしかなかった。

 中学生の時の万引きの様に──


 そんな俺なのに。

 おばあちゃんはあの頃と同じ笑顔を向けてくれた。

 もあの頃同様に俺を魅了する。

 おばあちゃんはパラパラとページをめくっては、俺がお気に入りだった描写と挿絵を嬉しそうに見せてくる。

「こうやってお互いに読み聞かせをしたわよね?

 私が貴方に、貴方が私に……」

 ホントに覚えてくれているんだ…こんなクズみたいな俺の事を……

 そして本を閉じて両手で持ち上げ、俺の眼前に表紙を近付けた。懐かしい黴の匂いがして、天国という意味のタイトルが目に入る。

「大丈夫よ洸大君、貴方は天国に行けますよ。

 そこはきっと、このに書いてある通りの素敵な場所だから……ね?

 一緒に天国に行きましょう」 

 そんな資格は無い。

 万引きを繰り返し……

 おばあちゃんを助けられず、見捨てて逃げて……

 そして闇に足を突っ込んだ俺には…地獄しか………

「貴方が好きなのはどんな色かしら?

 私の好きな色はね──」

 緑色の向こうでおばあちゃんが笑う。

 あの日と同じだ。

 地獄の中にも天国は見付けられると知ったあの日──


─やり直していいのかな……?


「けえっ!」

 黒い毛玉みたいな鳥が啼いた。



 ぬえが高く啼いた次の瞬間、台所に繋がる襖が乱暴に開けられた。

を寄越せえぇ━━っ!」

 突入してきたのは最初に逃げた痩せた男─ヤセキヨだ。右手にはどこから持ってきたのか鉄パイプを握っており、それを振り上げて本を持った老婦人に襲いかかる。

「お婆ちゃんっ…!」

 タイミング悪くまた鼻をかんでいたジャッキーのサポートが遅れた。ジャッキーが間に合わないならボクが間に合う訳もない。鉄パイプが振り下ろされる。

 ガスッ。

 重く鈍い音。


 鉄パイプは、老婦人の前に庇う様に膝立ちしたコウタの後頭部を直撃していた。


「洸大君っ…!」

 老婦人の悲鳴が響く中、コウタはそのまま前のめりに勢い良く倒れ、飛び出そうとしていたジャッキーを巻き込んで押し入れの襖に激突した。老婦人が二人に覆い被さる様に抱き付く。

「洸大君っ…お嬢ちゃんっ!しっかりっ……」

「あ、あたしは平気…」

 ジャッキーはともかくコウタは死んだかもしれない。そう思って確認してみると、意識は失っている様だが呼吸いきはしている。

「大丈夫?今、手当てをっ…」

 言いかけた老婦人はしかし、弾かれた様に顔を上げた。

「天国の本はっ…?」

 その両手には何も持っていない。室内を見回すが座布団が散らかっているのみで、本も無ければ闖入者も見当たらない。

 ボクは静かに告げた。

「婆ちゃん、襲われた時に弾みで放り投げたんだよ。

 襲った馬鹿が拾って逃げてったぜ。ヤツもを持って帰んないと殺すってメール、受け取っただろうからなあ…」

「大変、追いかけなきゃっ…!」

 ジャッキーが慌てて立ち上がりかけるが、ボクはその腕を引いて止める。物問いたげに見下ろすジャッキー。ボクは構わず老婦人に話しかける。

「なあ婆ちゃん、あの本って旦那さんの形見で、亡くなった後もいつも見てたって言ってたよな?」

「え?ええ…」

「でもおかしいな。さっきはあの本、このコウタと見てた頃以来久し振りに見た、それが入ってた抽斗も久し振りに開けたって言ってなかったか?」

「……」

 老婦人は記憶を探るかの様に首を傾げた。

「コウタと出遭ったのは七年前だったよな。あの本を見なくなったのはその直前なんじゃないか?


 あんたはその時、あれがだって知ったんだ」


「え?どういう事?」

 中腰だったジャッキーがしゃがんでボクの顔を覗き込むが、老婦人は気を失っているコウタの前に正座したまま黙り込んでいる。

「あの本の表紙は布製だよな。あれは十九世紀のヨーロッパで出版されたモノだろう?その時代は産業革命により様々な分野で工業化が進み、製紙業も急速な発展を遂げていた。それで一部の富裕層だけがお気に入りの製本職人に皮革かわの装丁本を大枚はたいて作らせるのではなく、クロス装やペーパーバックの安価な本が大量に製造・販売されるようになっていたんだ。

 その頃、あの表紙のエメラルドグリーン──いや、この場合は〈シェーレ・グリーン〉或いは〈パリ・グリーン〉かな。そう呼ばれていた緑色の人工色材は欧米で大流行していてね。何故って、薬品を混ぜて作ったのに天然のモノより明るくて鮮やか、しかも防虫効果もあったんだ。それでドレスや壁紙・造花等の様々な布製品や紙製品、そして本の表紙の着色にも広く使われたんだよ」

「へえ…確かに綺麗な色だもんね。そっか、防虫効果もあるから、そんな昔の本なのに今でもあんなに鮮やかなのねえ〜」

 ボクは冷たい目で無知な鬼に言ってやった。

「そりゃ防虫効果はあるさ。


 なんだから」


「は?」

 目を丸くしたジャッキーに構わず続ける。

「シェーレ・グリーンの主成分は亜ヒ酸銅やアセト亜ヒ酸銅──有毒なだ。

 ヒ素及びヒ素化合物は発癌性もある猛毒で、かつては日本軍の毒ガスにも使われていたほどだ。大量に飲み込めば急性症状で吐き気や嘔吐、下痢、激しい腹痛を引き起こし、ショック状態から死亡する。

 慢性症状で多いのは剥離性の皮膚炎だな」

 老婦人が膝に載せた両手をグッと握った。

 その手の甲の皮膚は赤く爛れている。

「ヒ素自体は十三世紀に発見されて以来、無味無臭かつ無色な毒としてヨーロッパや中国でもしばしば暗殺の道具に用いられてた。しかし混ぜて薄めたから平気だとでも思ったのか、シェーレ・グリーンの危険性は当初指摘されていなかったんだ。売る方としちゃ手放したくない人気商品だしね。だけど緑のドレスを着た貴婦人やクリスマスパーティーで緑色の蝋燭を吹き消した子供、緑色のペンキを塗った工場労働者がバタバタと倒れていくんで、こりゃおかしいってなったのさ。あのナポレオンが死んだのも、自宅の壁紙をグリーンで統一してたからだっていうし。

 それで十九世紀後半にようやく規制されたけど、大量に売られて流通しちゃったそのヒ素表紙本が今でも残ってた訳。

『エデンの園』はそのうちの一冊なんじゃないか?」

 老婦人は応えない。

 代わりにジャッキーが恐る恐る言う。

「そ、それって確かなの…?似た様な色の本ってだけじゃ……」

「ボクだってそれだけでは決め付けないさ。

 でもお前、くしゃみしたろ?」

「へ?」

「面白がっちゃいたけどな、鬼が花粉症ってのも確かに違和感があったんだ。でもお前が反応したのは彼岸花ヒガンバナとポピー、そしてこの本だ。

 彼岸花は経口摂取すると吐き気や下痢を起こし、重症化すると中枢神経の麻痺から死に至る事もある、作用の激しいアルカロイドを含む有毒植物だ。

 ケシ科のポピーも同様の有毒アルカロイドを有してるぜ。

 つまりお前は、毒に反応してたんだよ。

 鬼は元々、毒には敏感だからな」

 ジャッキーはポカンとしているが、鬼が投げられただけで悲鳴を上げて逃げていく節分の豆──それに使われる生の大豆にもレクチンという毒素が含まれている。

「だから断定はしないが、あの本も毒の可能性は高い。


 はそれを知っていて、あの本をコウタに見せたんだ」


 老婦人は顔を上げ、能面の様な無表情でボクを見る。

 ジャッキーはショックを隠し切れない。

「ウソ…知ってて…?」

「実はシェーレ・グリーンを使った本は近年まで、もう残ってないと思われていた。それがデンマークの図書館で現存するヒ素表紙本が発見されたのは二〇一八年──まさにあんたがコウタと出遭ったの初夏の事だ。その時点で他にもあるんじゃないかと注意喚起され、結果、現在までに世界各国の図書館や古書店、個人の蔵書から三百冊以上が発見されている。日本でも二十冊は見付かったよ。

 書店を経営してるあんたも当時そのニュースを見て、『エデンの園』がヒ素本だと気が付いたんだろ?そしてショックを受けた。

 旦那の死因がそのである可能性に思い至ったからだ。

 あんたの旦那、煙草を喫わないのに肺癌になったって言ったよな?ヒ素に発癌性リスクがあるのはさっき言った通りさ。

 だからコウタと出遭った頃にはあんたはあの本を見るのをめ、旦那や先代がやってたみたいに客に見せびらかすのも止めていた。違うかい?」

 ボクの問いに老婦人は応えないが、ジャッキーが悲痛な声を上げる。

「何で?何でその自分も見るのを止めてた本をこの人に見せたの?見たら死ぬかもって本を、何でっ…?」

「それはついさっき、婆ちゃんが自分で言ってたろ」

「え?」


って」


 ジャッキーが両手で口を覆い、老婦人は──

 薄っすらと微笑んだ。

「もう私は…独りで生きてたって仕方無いもの。

 早くお父さんのところに行きたかった……

 だからあの本が、毎日見てたあのがお父さんのだと分かった時、最初は『何で?』とも思ったけど、すぐ安心したわ。だって私もこのままずっとあの本を見続ければ、お父さんと同じ死に方が出来る、同じ天国に行けるんだって。

 でも気が付いたの。お父さんはあの本が毒だって知らなかった。知らずに自分は病死だと思って亡くなった。

 だけど私は知ってしまったでしょ。毒だと知っている本を毎日読み続けてそれで死んだら、それは病死になるのかしら?

 それは…じゃないのかしら?

 キリスト教の教えにもあるけど、自殺したら天国には行けないんでしょう?」

 ボクは頷く。

 彼女の言う通り、自分を殺す自殺も殺生であり、当然地獄に堕ちる──

「だから私はあの本を読むのを止めました。お客さんに見せるのも止めた。だって、それだとになるでしょ?殺人も地獄に堕ちちゃうわよね?」

 読書をさせて相手を殺す──そんなミステリーもあった気がするが、あの『エデンの園』を読ませればそれは現実に可能なのだ。まさにである。

「そんな時、この洸大君が来たの。生きていても地獄しか無いって…話を聞いて本当に可哀想な子だと思った。だから私は決意したんです、この子を天国へ行かせてあげようって。早く楽にしてあげようって…だから……」

「毒を読ませたか」

「ええ」

「だがシェーレ・グリーンがいくらヒ素を含んでると言っても二百年前のモノだ。あの表紙を丸ごと飲み込みでもしない限り、急性のヒ素中毒にはならない。

 実際あんたの旦那も急性ではなく、長年ヒ素に触れ粒子を吸い込んでいたのが肺癌の原因になった─かもしれないだけだろ」

「分かってるわ。だから──」


 ぬえがふるふると膨らんだ。

 殺意だ。

 老婦人は爛れた両手を胸の前で組んで、目を閉じた。

「私は祈っていただけなの。

 この子が天国に行けますようにって──」


「それで…それでこのコウタ君は毎日あの本を読んで…ヒ素中毒になって、それで謎の体調不良になったの?それで入院して、中学校にも通えなくなって、仕事も続かなくって闇バイトになった…?そんな…そんな事って……!」

 ジャッキーの目から涙が落ちる。

 老婦人は聖女の様に微笑む。

「この子はまだ地獄にいるのね…やっぱり天国へ行かせてあげなくちゃ──

 本は?あの本はどこに行ったの?

 ねえ『エデンの園』はどこっ……?」

「お婆ちゃん…?」

 急に取り乱した老婦人に、ジャッキーは涙を流したまま困惑する。

 ボクは、ニッコリ笑って言ってやった。


「婆ちゃん──天使をナメるなよ」


 キョトンと見返す老婦人。

「コウタの為とか言ってるけど、ホントは違うだろ。

 あんたは自分が死にたい、早く旦那の処に行きたいだけだ。

 だが『エデンの園』が毒本なのを知ってしまったからには、それを自分の意志で読み続けたら自殺になる。それじゃ天国には行けない。だからいったん読むのを止めてたんだろ?なのにコウタと出遭って、そのを再開した。繰り返し繰り返しコウタに読ませて、内容を覚えさせた。コイツがあんたに読み聞かせできるくらいにな。


 例え毒の本でも他人が読んでくれるなら自殺にはならない──そう思ったんだろ?」 


 そう、この老婦人はずっと、自分を殺したがってきた。それがぬえの感じた不可思議な殺意の正体だ。

 この家に来る前にその殺意を感じたのも、闇バイトに暴行を受けながら『このまま死ねたら』という老婦人のだったのだろう。


 だが、彼女の理屈は完全に狂っている。

 結局は自分が毒だと知っているモノを使って、自身とコウタを殺そうとしているだけだ。このままだとどちらかでもヒ素が原因で死ねば、老婦人は殺生の罪で地獄に堕ちる。

 今回の犯人ホシはこの老婦人だ。

 しかし──

「どこ?『エデンの園』はどこ?

 私の天国はどこに行ったのっ…?」

 また老婦人が取り乱し始めた。

 ボクは笑顔を引っ込める。

「…う…うん……」

 騒ぐ声に反応してコウタが目を覚ました。

「あっ洸大君、大丈夫?」

「おばあ…ちゃん……本は…宝物は……?」

「ゴメンなさい、無くなっちゃったの。また貴方と天国に行こうと思ったのに、ゴメンなさいね…せっかく久し振りに貴方が遊びに来てくれたのに……」

「遊びに…?」

 ジャッキーが物問いたげにこちらを見る。

 ボクはゆっくりと首を振った。

 おそらくこの老婦人はだいぶ認知機能が衰え、記憶も混濁している。今日の出来事もどこまで正確に理解しているか分からない。しかし認知症の場合、過去の出来事の方ほどよく覚えているとも言う。或いは『エデンの園』がただの天国の案内書ではなく本当はどんな本だったのか、それを使って自分が何をしようとしていたのかも曖昧なのかもしれない。

「天使様もいらしてくれたのにねえ……」

 老婦人はボクの頭の上をうっとりと見る。

─本当に天使の輪っかが視えていたか……

 もしかしたらこれが、長年ヒ素にむしばまれた結果なのだろうか──

 体を起こしたコウタが、老婦人の前で土下座をした。

「ゴメンなさい、おばあちゃんっ……

 ぼくはこれから警察に連絡して自首します。

 それで罪を償ってくるから、もし許してもらえるならまた遊びに来てもいいかな…?

 天国の本は無くなっちゃったかもしれないけど……」

「そうねえ…どこかにあるといいのだけれど。

 ええ、待ってるから是非いらっしゃい」

 呑気に言う老婦人の言葉を、コウタはまた同じ本を仕入れるつもりぐらいに受け取っただろう。小さく笑って頷いた。盗まれた事を忘れてしまった老婦人は、きっと家の中の何処どこかにあると思っているのだろうが……


 ジャッキーがポツリと呟く。

「あたしもね…誰かが自分を救ってくれるって信じてたら、生きる居場所が見付かる気がしてるの……」

 何の話だ?

 そしてお人好しの鬼は、泣き笑いの表情カオで言った。

「いいよね…?二人共天国に行かせてあげても……」

「今のところはな」 

 ボクは不機嫌に応える。

 元凶の毒の本は盗まれた。老婦人がこれ以上誰かの命を脅かす事も無い。逮捕されたコウタも刑務所で体調不良を起こせば、そこで精密検査をしてもらえるだろう。誰も地獄に堕とせない結末は個人的にはつまらないのだが──

 今回は本当に、つまらない。



 その男はキングサイズのダブルベットの上にバスローブ姿で座っていた。華奢だが筋肉質な体付きはバランスが良く、肩まである長髪を所々青く染め、顎の細いその顔は色白だが精悍だ。

 カーテンを全開にした窓の外には、眼下に都心の夜景が広がっている。

 高級ホテルの高層階にあるその瀟洒なベッドルームからの眺めと、さっきまで堪能していた女の感触は、まだ若いその男の野心を心地好く満たしていた。散々なぶった女は涙と血を流して反抗的な目をしたので、裸のまま部屋から追い出してやった。しかし嗜虐を愛する男にはそれも一興──

 彼は口の端に残忍な笑みを浮かべて煌めく下界を睥睨へいげいした後、手にしていた本に目を落とした。

 美しいその緑色の表紙に。

「これが…?

 な〜んだ、つまんねえの」

 自らが中枢を務めるグループの簿に、見覚えのある名前を見付けた。それが自分がリーダーとして散々イジメてやった中学校の同級生だと気付いた時には、久し振りに大笑いしたものだ。そして思い出したのがあの潰してやった古本屋──生意気な『宝物は誰にも見せられません』の貼り紙には、今でもはらわたが煮えくり返る。

 そうだ、あの万引きだけは上手かった同級生に、今度こそ宝物を盗ませてやろう──そう思い付いた時はゾクゾクするほど愉しかった。その同級生も今回リーダーに指名したギャンブルで借金塗れのオッサンも警察に捕まってしまったが、唯一逃げてきた大学生がそのをゲットしたと聞いて、ワクワクしていたのだが……

「こんなカビ臭い本だったとはな。これのどこが宝──」

 訝しげだった男の顔が固まる。

 しばらく黙ってその本を見つめ、やがて彼の目は異常な光を宿し始めた。

 魅入られた様に、爛々と輝く。

 口元の笑みが裂けんばかりに広がっていく。

「…そうか…これは毒だ……

 毒だ……」

 よだれをダラダラと垂らし始めた男は、もう我慢ならないとばかりにその本にかぶり付く。狂気の表情で緑の表紙を舐め回し、歯で削り、食い千切っては咀嚼する。

 やがて表も裏も背表紙まで、緑色の部分をむしり取って食べ尽くしてしまった男は、満足げに大の字になった。一つ大きくゲップをする。

 そしてそのまま、深い眠りへと堕ちていった……


 翌日の昼──チェックアウトの時間を過ぎても連絡が取れなかった男がホテルの清掃係に発見された時には、自身の吐瀉物に塗れて既に息絶えていた。

 変死として司法解剖された結果、所見は急性ヒ素中毒により仰向けで嘔吐し、その吐瀉物を喉に詰まらせた窒息死。

 男はあの本が毒だと分かっていて、よろこんで食べた。 

 だから──だ。

 その殺生に様々な罪が重なって、男は深く深く堕ちていくだろう……



『お前も一緒に食べるがよい。お前は今でも幸福だが、さらに偉大な者にはなりえなくとも、今以上に幸福な者にはなりうる。さあ、これを味わうのだ』


 (第二話 了)

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