〈ぬえ散歩 其の二 長野〉
「お客さん、どちらから?」
「天国だけど」
「あたしは地獄♪」
「アハハ、面白い事言う人達だべ〜」
白髪混じりで人の好さそうな運転手がルームミラーの中で笑う。
六月──シトシトと細かい雨が降り続く女梅雨の金曜日。
夕刻の長野駅前は家路を急ぐ人々が増え始めている。
天使と鬼─プラス鳥は、午後四時頃に北陸新幹線で長野に到着し、構内の立ち食い蕎麦屋で遅めの昼食だか早めの夕食だかを済ませた。蕎麦処だけあって立ち食いでもレベルが高く、天使のテンちゃんはきのこ蕎麦、鬼娘のジャッキーは天ぷら蕎麦に舌鼓を打ち、お供の
『けけけけけ…』
『もお〜ぬえちゃん、こぼさないの』
『意地汚い鳥だぜ』
そうして満腹となった二人と一羽は、駅の西側─善光寺口からタクシーに乗り込んだのである。
「
ジャッキーが行き先を告げてタクシーが走り出すと、早速運転手が話しかけてきた。
「お
「ハイ、生まれて初めて!」
愛想良く鬼が応えて、運転手もますます相好を崩す。
「観光だっぺ?ちょうど通り道だで、もちっと早く来りゃ善光寺さんの中もお詣り出来たのに」
彼の言う通り、長野随一の名刹・善光寺の本堂の参拝時間はこの時期午後四時半までだが、後部座席のテンちゃんは雨に烟る窓の外を眺めてボソリと呟く。
「仕事で来てんだよ」
「え?」
聞き取れなかった運転手が訊き返すが、愛想の無い天使は応えない。
代わりにその隣に座る鬼が返す。
「しばらく長野にいるので善光寺詣りもしときま〜す。とりあえず今日は戸隠神社で」
「ほうかね…ほんじゃあちっと急な山道通るから気ぃ付けて」
「ハーイ♡」
運転手がミラーで見れば、赤髪の美女がニコニコと笑っている。顔立ちや体付きは大人っぽいが、その笑顔は善良そうであどけない。肩の上で眠りこけている黒い塊はペットの鳥らしいが、お供がそんなフワフワなのも少女趣味な気がする。
運転手はふと真面目な顔をした。
「…そん道は坂がキツいってだけじゃないからねえ……」
「は?」
キョトンとするジャッキー。
運転手は声を低くして続ける。
「戸隠神社に向かう峠道の途中に〈七曲り〉って名前が付いてる場所があって、そん名ん通り急カーブが七回続いてる。実際には最後の折り返しも足すと八回曲がるんだけんど、とにかく全体はなだらかな道なのにそこだけ異様にクネクネしてんだ。
ほんで、その七曲り、
何か
鬼が目を丸くし、天使も横目で運転手を見る。
「ほいでね、この道を進んでいくと突然、舗装された道路の真ん中に一本の松の木が立ってんの。ホント、道のど真ん中よ。上りと下りの車線がその松を避けとんだから」
「道の真ん中に?そんなの危なくないの?」
「危ないよそりゃあ〜!
ただでさえ酔ってんのにそんな木が目の前に出てくんだから、分かっとっても毎回
ジャッキーが反応してくれたのが嬉しかったのか、運転手は口角を上げ声のトーンも上がる。
「だよね……でも何でそんなとこに松の木があるの?普通道路工事の時に切るでしょ?」
ジャッキーの素朴な疑問に、運転手はまた眉を
「おかしいべ?道の真ん中に松の木が、それも一本だけ──
でも仕方
この松には伐採できない理由があるだに。
〈七曲りの一本松〉は
鬼は息を呑み、天使は目を細める。
長野駅前から続いていた住宅街を抜けて国道に入ったが、妙に車通りが少ない。
少し雨が強くなってきた。
規則的なワイパーの音が響く中、運転手は静かに語る。
「峠道の工事は昭和九年にやったそうで、そん時やっぱり一本松は邪魔で切る予定だった。けんど伐採の数日前に現場の作業員が相次いで事故に遭ったり、病気になったりして、工事は中断してしまったんだ。すると付近の住民達は言ったそうだわ──『
元々その辺りは昔からたくさんの松の木が生えとってな。それが伐採されたり、土砂崩れで倒れてしまってどんどん無くなっちまったんだが、そん一本松だけは何故か倒れずに残っとったらしい。ほんだもんでいつん頃からか、一本松には戦国時代の霊が宿ってるって囁かれる様になった。峠道を登った先に大峰城って城跡があんだけど、周辺はあの上杉と武田の〈川中島の合戦〉で
ジャッキーが
「てぇ訳で一本松は住民からの強い反対もあって、伐採されずに残される事になった。付近の土手には石仏もたんとあってな、住民も道路工事の関係者も祟りを鎮めたかったんだろうが……
結局、残された一本松には今でも、松が立っている中央分離帯に吸い寄せられるかの様に突っ込んじまう車が後を絶たない。祟りは続いとるんだわ」
国道を右折して市道に入ると、街灯も減って辺りは格段に暗くなる。それでも運転手は何かに取り憑かれたかの様に語るのを止めない。
「そんで最近の話なんだけんど、若い女性が夜中に自宅へ帰ろうと、七曲りを車で走っとった。ほいで、さっき言った通りこの道は疲れる。まして夜だしね。気持ち悪いわ、緊張のせいか肩も凝って頭痛がするわで、彼女は七曲りを通過した所で少し休もうと車を停めた。夜中だから他に車もおらんし、道の端に停車して背筋を伸ばす。
そん時だ。
バタン。
『ひっ!』
突然後部座席の窓を叩く大きな音がして彼女は悲鳴を上げた。
しかし周りには誰もおらん。
おかしいなと思ったら──
バタバタバタバタッ。
連続で聴こえた音に彼女は縮み上がったが、やはり周囲には人や何かの動物の気配はせん。
もしかして枝か木の実が落ちてきたのか?だとしたら車体が汚れたり傷付いたりしとったら困ると思い、彼女は恐る恐るドアを開けて外に出る。そしてスマホのライトを頼りに後部座席の窓を見て──言葉を失った。
窓に無数の手の跡が付いてたんだわ。
それも、子供の手の跡がね……」
運転手の話が途切れ、静寂に包まれたタクシーは気付けば暗い山道を上っていた。片側一車線の道路の両側は鬱蒼と木々が茂り、進むにつれて舗装は古びて、道幅も車一台がやっとすれ違える程度に狭まっていく。やがて道の上を覆う
その入口に書いてある文字は『七曲り』──
「もうすぐだっぺ……」
運転手は正面を睨んだまま、掠れ声で言う。
少し
「あの、大丈夫…」
「わあっ、一本松がっ!」
不意に運転手が叫んだ。
ジャッキーが前を見ると、ヘッドライトに照らされた道路の中央に確かに松の木が生えている。明らかに不自然だ。どうしても切れない理由があったとしか思えない。しかし今何よりも不思議なのは──
「ええっ?」「何でっ…」
ジャッキーの驚きに運転手の動揺が重なる。
「何で一本松が
切ってはいけない七曲りの一本松は、根元の切り株だけを残して消えていた。
ハンドルを握る運転手の手がガタガタ震える。
「だ、誰がこんなっ……祟りがっ…一本松の祟りがっ……!」
「けえ!」
眠っていたはずのぬえが不意に啼いた。
膨らんでいる。
ジャッキーがサッと青
「えっ、殺意だなんて…今も人を呪い殺そうとしてる祟りがあるって事っ…?」
「停めてくれ」
「えっ、あ、ハイっ…」
天使の鋭い声に、運転手は慌ててハザードランプを点けてタクシーを道の端に停める。
「ドア開けて。懐中電灯とかある?」
「はあ、非常灯があるけんど…」
非常灯を受け取ったテンちゃんは車外に出ると、今行き過ぎた道を戻り始めた。運転手が動揺しながらも運転を続けていた為、一本松から100メートル程離れている。幸い雨は弱まりスノーシェッドで凌げるので、テンちゃんに続きジャッキーと、運転手も車を降りて付いてきた。
テンちゃんは一本松の切り株を非常灯で照らしながらしばらく観察していたが、やがて顔を上げて坂の上下を見渡すと、ジャッキーを一瞥してフンと鼻を鳴らした。
「どうも芝居がかってて怪しいと思ったんだ。コイツがいかにも単純そうだからって、あんまり子供騙しすんなよオッさん」
「は?誰が単純よっ…え?子供騙し?」
「何が『一本松が切られてる〜』だよ。こんな道の真ん中に無理やり残されてるんだから、何か
とっくの昔に撤去されてたんだろが」
「あちゃ〜バレたか〜」
テンちゃんの指摘に運転手は半笑いで頭を搔き、唖然としているジャッキーに両手を合わせた。
「ホントはこの松、もう二十年以上前に虫食いが酷くって切られてんだわ。だから祟りなんて
いやあ
「そ、そう…アハハ……」
気の優しいジャッキーは困った様な笑顔で済ませているが、テンちゃんは『このエロオヤジ』と言わんばかりのジトッとした目を向けている。きっとこの運転手は長野に初めて来る若い女の子に、しょっちゅう同様の
「さ〜て、ほんなら行くだ!」
誤魔化し笑いのままタクシーに向かって駆け出した運転手に、テンちゃんとジャッキーは呆れながら続く。
ふとジャッキーが気付いて天使に尋ねた。
「あれ、でもこの道通ると気持ち悪くなるって言ってたよね?あれも嘘かな?」
「それはどうかな。こうやって歩くと分かるけど、確かにこの道は急勾配だ。でもこの峠道はずっと上ってて、その勾配がもっと険しい場所もちょくちょくある。すると人間は自分のいる位置を基準に考える性質があるから、感覚的に
それにボク達は山道を上ってきて実際の七曲りに入る前にこの一本松に着いた訳だけど、逆に上から散々カーブを曲がってここに下りてきたら、気持ち悪さも段違いなんじゃないか?その状態でしかもスピードが出がちな下り坂の最後に突然こんな一本松があったら、避けきれずにぶつかる車が多いのも当然と言える。祟るまでもないさ」
「そっかあ……
あ、じゃあさっきぬえちゃんが感じたのは?この一本松に宿った殺意じゃないの?」
「ああ──」
テンちゃんは先を行く運転手に満面の笑みを向けた。
「あのオッさんがあまりに見え透いた事言ってるからさ、つい、ね。
殺したろかコイツ──って」
「キミの殺意かよっ」
「けぇ…」
テンちゃんも、彼にツッコミを入れていたジャッキーも気付いていなかったが、その時ぬえはまた少し膨らんでいた。鳥目だが、先にタクシーに辿り着いた運転手が手にした非常灯のお陰で、彼が向かう運転席のドアが見えている。
そこにベッタリと、小さな手形が幾つも付いているのも──
ペタ。
また一つ、手形が浮かび上がる。
姿の視えない何者かの殺意に、ぬえは
(其の二 了)