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第三話 かくれおに(前編)

 〈第三話 かくれおに(前編)〉


『彼は、魔法を用いて想像を司る彼女のいろんな機能に影響を及ぼし、それらを利用して自分の思うとおりに、様々な幻想や妄想や夢をそこに造り出そうとしていた。』



─この家には鬼がいる。 

 わたし達は毎日、その鬼に怯えながら暮らしている……



「わあ…神秘的……」

 鬼がうっとりとした表情カオで頭上を見上げた。

 昏くけぶった雨上がりの宵の空に、杉の巨木が連なってそびえている。それは確かに天を支える柱の様な神々しさだった。


 ここは日本国内屈指のパワースポットと呼ばれる長野県戸隠山とがくしやまの古社──創建は二千年前に遡るという〈戸隠神社〉の参道である。


 砂利道の両側に並ぶ杉達はどれも樹齢四百年を超え、高さは30メートル、幹の太さも3メートルから5メートルを超すモノもあるそうだ。ボク達はそんなバケモノ級の樹が二百本並び、500メートルも続く杉並木の下を並んで歩いていた。梅雨曇つゆぐもりの空は沈んだばかりの陽の名残りでほの明るく、鬼娘のジャッキーのは残照にキラキラときらめき、その肩の上で黒い怪鳥とりのぬえがクークー寝腐っている。

 ボクは呑気な連中にしかめ面で吐き捨てた。

「へっ、言ってもせいぜい四百年だろ?それも人間が植えたんだからな、大してありがたくもない。エデンの園の生命の樹や知識の樹なんて人類誕生前からあるぞ」

「キミねえ…そりゃ創世紀の樹と比べたら可哀想でしょ」

 呆れた様に言うジャッキー。

 ボクはニッコリと微笑む。

「まあ地獄にはロクな樹無いもんな。一流を知らないからこの程度でもありがたがるんだろ?

 愛欲に溺れた馬鹿が堕ちる〈衆合しゅごう地獄〉の〈刀葉林とうようりん〉だっけ?樹の上に幻の美女がいて、それに釣られて登ろうとするスケベ亡者共が刀の葉っぱでズタズタにされるヤツ。あれと比べたら…うんうん、神秘的ぃ〜」

「ホンっト腹立つ天使!」

 ツンと拗ねたジャッキーを横目にボクは笑顔を引っ込める。フン、長い事山道を歩かされている意趣返しだ。今は午後六時過ぎ、参道を歩いているのはボク達だけだ。もう一時間近く歩いているが、目的地はまだか。

 目指しているのはこの参道を進んだ先の戸隠神社の本社──〈奥社おくしゃ〉だ。

 戸隠神社は奥社以外にも、参拝の起点となる〈中社ちゅうしゃ〉、そして〈九頭龍社くずりゅうしゃ〉〈宝光社ほうこうしゃ〉〈火之御子社ひのみこしゃ〉の合わせて五社が戸隠山山中に点在しており、それらが〈戸隠古道〉という林間道で結ばれている。別名を神道かんみちと呼ばれるこの山道を徒歩で周れば、全てのやしろを参拝するのに三時間近くかかる結構ハードなトレッキングとなる。昼間なら周辺を巡るバスも通っているがそれも終わってしまったこの時間、参拝客がいないのはまあ当然だろう。

 まして今日は平日─金曜日である。そもそも観光客が少ないし、雨も降っていた。幸い中社に着いた午後五時頃には雨は止んでいたが、おみくじや御朱印を売っている授与所もその五時で閉まってしまった。長野駅前からそこまで運んでくれたタクシーの運転手も、ボク達がこの後宿泊施設も無い戸隠山でどうやって過ごすのか気にしながら戻っていった。こんな山奥ではそれこそ朝までブラブラとトレッキングするくらいしか、確かにやる事は無い。

 しかしそれでいいのだ。

 ボク達はパワースポットで金運や恋愛運をアップしに来た訳ではない。

 殺人犯を見付けて地獄に送る為に、ぬえの殺意アンテナを頼りにブラブラするのがボク達の仕事なのだ。

 基本、ボク達のパトロールには特に当ては無い。どうせ人殺しを企んでるやからは日本中どこにでもいるので、これまでもテキトーに全国をブラブラしてきた。勿論、殺意を持った人間を探すなら本来、こんな山奥ではなく人が多い住宅地や繁華街の方が良い。単純に数撃ちゃ当たるのだ。なのにわざわざこんな人里離れた場所にやって来たのは、ジャッキーの希望だ。当てが無さ過ぎるのも行き先を決めかねるので、互いに行きたい所を指定し合っているのである。

 この戸隠山には天照大神あまてらすおおみかみが籠っていた天の岩戸の一部が山になったという伝説があるのだが、彼女がずっと気になっていたもあるらしい。

 とりあえずそんな山を御神体とする神社を最初に見たいという事で、ボク達は今ここにいる。五社全部巡ろうと張り切るジャッキーのマッチョな提案を頭脳労働専門の天使ボクは断固として拒否して、中社と奥社だけにしたのだが──


 杉並木を抜けると上り坂の石段が続き、ゼェゼェと息が上がった。

「テンちゃん大丈夫?おんぶしてあげよっか?」

「テンちゃんじゃねえ……子供扱いも…やめろ……」

 こちらを覗き込んでくる体力オバケが本気で心配しているのが余計に腹が立つ。ホントにお人好しでお節介な鬼だ。

 何とか意地だけで石段を登り切った先に、奥社の社殿があった。戸隠山の山中には修験者が使用した洞窟である〈三十三窟〉が残っているそうだが、その第一窟の前に本を開いて伏せた様な形の切妻屋根の社殿が建てられている。まさに第一の聖域という訳だ。その由緒板には『御祭神 天手力雄命あめのたぢからおのみこと』とある。例の天の岩戸をブチ開けて弾き飛ばし戸隠山の元を造ったという大力の神で、そのお陰でここにはスポーツ選手も多く必勝祈願に来るらしい。

「ハァハァ…お前の馬鹿力が続きますようにって…お参り…したかったんだな…ハァハァ……」

「違う!息切れしてる時くらい憎まれ口も休みなさいよっ」

「じゃあ…気になってる伝説って…何だよ…?」

「うん……


 この戸隠山にね、紅葉もみじって鬼女きじょがいたんだって。

 とっても…可哀想な鬼が……」


 切なげな表情カオのジャッキーがしばらく口を閉ざしたので、とりあえずボク達は奥社に手を合わせた。天使と鬼が日本の神を参拝して良いのかよく分からないけれど、まあ挨拶って事で。

 社殿を離れ、上ってきた石段を見下ろしながらジャッキーは語り始めた。

「昔…平安時代の〈応天門の変〉で処断された伴善男とものよしおの子孫として、女の子が生まれたんだって。呉葉くれはって名前で、幼い頃から利発だったのが更に教養を身に付け、琴も上手に弾ける美しい少女に成長した。だけどこの子にはずっと嫌な噂が付きまとってたの。両親が長い間子供に恵まれなかった為、霊験があるとされる第六天の魔王に祈った結果生まれた子だって噂。それで怪しい妖術も使うって言われる様にもなったんだって」

「妖術ねえ…実例があったのか?」

「うん…近くに住むお金持ちの息子が呉葉を好きになって、お嫁さんに寄越せって脅されたんだって。地元の有力者の圧力に両親も困り果てたらしいんだけど、呉葉が第六天に祈って術を使い、瓜二つのもうひとりの自分を呼び出した。それを身代わりに嫁入りさせて、呉葉の一家は結納金を持って都へ逃げたって──

 そして呉葉は紅葉と名を改めて京の都に住み着くんだけど、その美貌と琴の音色が清和源氏の祖とされる源経基みなもとのつねもとの目に留まって、召し抱えられるの。そこで経基の寵愛を受けて子供も授かるんだけど、その頃経基の正妻が病気になった。それを家臣達は紅葉の妖術のせいだと怪しんで、彼女は両親共々この戸隠山へと流されてしまう。

 流された紅葉とその両親は戸隠の人達に『経基の子を宿して正室の嫉妬に遭い、無実の罪で流されて来た』という話をしていたそうよ。それで経若丸つねわかまるって男の子を産むんだけど、その子が成長すると父親の経基に会わせたくなったのね。その為の都に上る軍資金欲しさに紅葉は男装をし、少し離れた周辺の村に盗みに入るようになった。更には戸隠山の北東にある黒姫山を根城にしていた盗賊と手を組み、悪事を重ねていったわ。それですっかり鬼女として評判になってしまった。

 そして遂に時の冷泉天皇から紅葉討伐の勅諚がくだり、平維茂たいらのこれもちがその任に当たった。維茂の軍勢を風や火の雨、洪水等の様々な妖術で退ける紅葉。窮した維茂に部下が『紅葉の使っているのは幻術ではなく鬼神の術である』『神仏への加護祈願をすべし』と進言し、それを受けて観音様に妖賊破滅の祈願を行なうと、維茂は霊夢で小剣を授かる。

 維茂軍は総攻撃を仕掛け、まず息子の経若丸を討ち取った。それで怒り狂った紅葉は鬼の本性をあらわし、維茂に襲いかかったわ。

 髪を振り乱し目を赤く光らせて、その姿はまさしく悪鬼──

 そして壮絶な死闘の末、紅葉は毒を盛られ、弱ったところに霊剣を使った矢を右肩に受けて、最後には首をねられてようやく征伐された。

 その時紅葉三十三歳。

 山々はその悲しみを映すように、深紅に染まっていたんだって……

 これが、この戸隠山に伝わる鬼の伝説よ。


 あたし…何だかこの紅葉が可哀想で仕方無いの。何故って言われると自分でも分かんないし、確かに悪い事いっぱいしてるんだけど……

 ねえ、キミはどう思う?

 本当に紅葉は鬼だったと思う?」 


 ジャッキーは涙目になってボクを見つめる。

 あいにくボクは紅葉伝説を詳しく知らなかった。能や歌舞伎に『紅葉狩』というこの伝説を元にした鬼退治の演目があり、それが秋に色付いた葉を愛でる風習の名称になったと記憶していただけだ。しかし今の話を普通に聞けば、彼女はまあ鬼だろう。実在の人物が妖術を使う訳もなく、酒呑童子しゅてんどうじや桃太郎の鬼ヶ島の様なお伽噺の一種だとも捉えられる。だがもし実話だとしたら──


「…そうだな、紅葉はたぶん、んだろう」


「え?」

 目を丸くするこちらはホンモノの鬼。

「ポイントは一番初めにお前が言った応天門の変だ。紅葉の祖先の伴善男は応天門に放火した罪で流罪になり、それで名族伴氏は没落した。でもそれは当時の権力者藤原北家が仕組んだとも言われているからな。つまり伴氏は一方では終わった一族として蔑まれ、一方では再びその権勢が復活しない様警戒されていた特殊な存在だったんだ。時の政府にも目を付けられていただろう。

 だからその子孫である紅葉の一家は、周りの一般人からは関わりたくない厄介者として疎まれていたんだ。それで地元でも孤立し、妖術を使うなんて噂も立てられた。紅葉が成金の求婚に身代わりを立てて金持って逃げたのも、そんな周囲への反発と憎悪故じゃねえか?」

「あ…そういう事……」

 鬼の目からウロコが落ちる。

「そうして京の都に移り住み、そこで源経基に見初められて、紅葉はようやく幸せになれると安堵したろうな。でもそこでも地元と同じ事が起きたんだ。経基の寵愛を受けて子を授かった紅葉は正妻に妬み疎まれ、後継ぎを奪われるのではと警戒された。そしてまた妖術を使ったって口実で追い出されたんだ。『無実の罪で流された』と言った彼女の言葉は真実だったんじゃないかな。

 戸隠山に来た紅葉が盗賊に成り果てたのは、自身を排斥し続けてきた世間への復讐という意図もあったろう。だけど何よりシングルマザーとなった彼女は、自力で息子を護らなきゃいけなかった。食っていく為にをしなくちゃってのもあるけど、経基の正妻が後継ぎ候補を抹殺に来るかもしれないからな。それで盗賊団と手を組んで武装した。男装していたのも正体を隠すのと同時に、徹底的に戦うって意思表示だったかもしれない。

 けれどその武装集団を結成した事が、結局政府の警戒心を煽ってしまったんだ。伴氏の末裔が反乱を企んでるぞってね。そうじゃなかったらわざわざ天皇が討伐の勅諚なんか出すもんか。

 そして抵抗虚しく、戸隠山の鬼は討ち取られた……」

「じゃあ紅葉…さんはただのお母さんだったの?

 維茂の軍勢を苦しめた鬼の妖術ちからは?」

「勝った方が好きな事言える──それが歴史さ。

 天皇の命令でただの盗賊団を惨殺したとは言えないだろ。だから紅葉は国を護る為に倒さなきゃいけない、手強い鬼に

 勿論、ただの推論だ。

 しかしジャッキーはポロポロと涙を流している。

 理由も分からず紅葉を『可哀想』だと感じていたのは、なりたくなかった鬼にされてしまった彼女を自身に重ねていたからかもしれない。


「……紅葉さんは地獄に堕ちたかしら…?」

「たぶんな」


 しばらくうつむいていたジャッキーだったが、やがて拳でグイッと顔を拭う。

 そしてボクに向かって笑顔で宣言した。

「よ〜し、紅葉さんに関係あるとこ全部回って、安らかにお眠りくださいってお祈りしてこうね!」 

 戸隠山の鬼に関係のある所とは、すなわちどこも山の上だろう。

 嫌だ。

 疲れる。

 ボクはとっとと山を降りてどこか温泉にでも行きたい。長野には良い温泉があるじゃないか。そこで『あ〜極楽極楽』ってやりたい。天使には極楽が似合うんだ。

 そう思って、やる気に満ちている鬼娘に抵抗しようと身構えた時──


「けええ━━っ」

 眠っていたはずのぬえが一声鋭く啼いた。

 その体の羽毛がプックリと膨らんでいる。

 を感じたのだ。


 ボクとジャッキーは素早く辺りを見回す。

 誰の殺意なのか──

 しかし誰もいない。

 ボクはパーカーのポケットから小さな懐中時計を取り出す。大天使アークエンジェルカシエルから貰った、決して狂わないという時計だ。と言ってもそんな大天使がボクみたいな無名の下級天使にプレゼントをくれる訳も無い。平和と調和を司るカシエルはそのキッチリした性格から天界のスケジュール管理を担当していて、『時間の天使』とも呼ばれている。それでボク同様、地上で殺人犯を特定して地獄に堕とす仕事に就いた下級天使全員にこの時計を支給したのだ。

 曰く、犯人ホシのアリバイを崩すには正確な時間を把握しなくてはならない──クソ真面目な上司だ。何故か全国の鉄道の時刻表とかも渡そうとしてきたので、それは重たいから断った。

 その時計を見ると午後六時三十九分。

 社務所が開いている時間もとっくに過ぎて、参拝客は勿論、神社の関係者も帰ってしまったのだろう。

「どういう事…?」

 戸惑うジャッキーの肩から、綿菓子の様なぬえが極小の翼でパタパタと飛び立つ。そのまま奥社社殿の5メートルほど上空まで浮かび上がった。

「けえええぇ……」

 ぬえはどこか遠くの場所に向かって啼いていた。まるで犬の遠吠えの様に──

 ボクは閃く。

「そうか…アンテナのが上がったな」

「感度?」

「何たってこの奥社のある場所は標高1300メートル超えてるからな。スカイツリーの倍以上高い。電波と同じで殺意も広範囲に遠くまで感知出来るんだろ」

「そうなの?今までそんな事無かったけど……」

 眉をひそめて応えるジャッキーだが、ぬえの生態は分からない部分も多く、ボクにも確証は無い。しかしあり得る話だ。

 ボクは上空の黒い綿風船に声を掛ける。

「おーい、どっちの方角から殺意感じたんだ?」

「けぇ」

 ぬえはパタパタと向きを変え、右の翼を南の方角に向けた。

「フム…まさに今誰かが山の中で人を殺してる可能性もあるが、ぬえの様子だとだいぶ遠くの殺意を感じてるみたいだな。だとすると山のふもとの街で何か起こった可能性が高いか……」

 昔の山賊が旅人を襲ってるとかなら強盗殺人で即地獄だが、現代では簡単に裁けない殺意が多い。実際ここ最近、地獄に送りにくい犯人ホシにばかり出遭ってきた。今回は殺意じゃなければいいが……

 しかしまあ、それよりも。 

「…よし、街に行ってみよう」

「えっ、紅葉伝説巡りは?」

「仕事が先だろ」

 ボクが真面目な顔で言うと、ジャッキーはハッとして「そうよね、ゴメンなさい」と頭を下げた。よしよし、素直な鬼だ。これで山を降りられる──そっちの方が重要だ。

(戸隠山の麓に温泉あったかな?)

 ボクは内心ほくそ笑みながら、来た時より軽い足取りで石段を降り始めた。




「お早うござんす、かえでさん!

 毎日雨でだじゃね〜」

「そうですね…」

 燃えるゴミの袋を持って玄関の戸を開けたところで、前の私道にいた大家さんが声を掛けてきた。まるで待ち構えていた様なタイミングだがいつもの事だ。わたしは力無く愛想笑いをして、傘とゴミ袋を持って表に出る。

 しかし一歩踏み出してすぐに後悔した。シトシトと降り続く女梅雨で舗装されていない私道は乾く間も無く泥濘ぬかるんでいて、履き潰したスニーカーに水が染み込む。長靴を履けば良かった。ここからゴミ捨て場までは歩いて十分以上かかるのだ。東京のマンションなら敷地内に集積所があったのに…これだから田舎は……デニムの太ももに降り掛かる雨がみて冷たい。それでも徒歩で行けるだけまだマシではある。集落の端に住んでいる人はいつも車で捨てに行っているのだ。自家用車どころか免許も無いわたしには出来ない。そうじゃなくても色々出来ないのに…わたしには出来ないのに……

 当然の様にわたしと並んで歩き出した大家さんが話しかけてきた。

「一体いつ梅雨明けすんのかやぁ?ホラ、ここいらって乾燥野菜が名物ずら?おら達もそれで商売しとるから、梅雨が長引くのは困るんだわ。冬の寒干し大根だけじゃなく、春の山菜や夏のナスとかも人気でね。けんど獲ったらすぐ天日干しせんといけんから、雨じゃ作れないんよ。天日で乾燥させっと栄養価だけでなく甘みもえらく増すからね、味も濃厚で美味うんまいんよ〜。それがこんな雨続きじゃ、貯蔵庫ん中の野菜が皆腐るら?楓さんとこの裏庭にもあるずら?貯蔵庫。あっこあそこに雨入れたらいかんにぃ」

 六十代後半のふくよかな体型の女性で、ゆったりした農作業用のズボン─オーバーオールを履いている。足はしっかり長靴で明らかに外を出歩く気満々な格好だけど、傘以外には何も持っていない。ゴミを捨てに行く訳ではないのだ。ただ、わたしに付いてきたいだけ──その意図が分かりやすく伝わってくる。一方的に喋り続ける大家さんに、わたしは「はあ」とか「ええ」とかいつもの様に適当に相槌を打つ事しか出来ない。そして──

「ほんでどお?優芽ゆめちゃんの具合は?」

 これもいつもの事だが、わたしの愛想笑いは引きる。どうしてこちらが触れて欲しくない部分にズカズカと土足で入ってこれるのか。親切心なのだろうが、正直鬱陶うっとうしい。

 前に住んでいた東京ではこんな事は無かった。よほど親しくない限り、他人の家庭の事情には不干渉なのが暗黙の了解ルールだった。或いは無関心だったのかもしれないが、その方がラクなのでどちらでも構わない。なのにどうして田舎の人はこんなに距離が近いのだ。この長野に引っ越してきて二ヶ月経つがどうしても慣れない。迷惑─いや、だ。

「優芽は…相変わらずです。でも元気ですので……」

大変あだじゃねぇ〜お日様に当たれないんしょ?」

 そう、五歳になるわたしの娘の優芽は、生まれつきの〈光線過敏症〉──日光アレルギーだ。

 その症状の出方には様々なタイプがあるのだが、優芽の場合は日光にさらされると〈膨疹ぼうしん〉という虫刺されみたいな皮疹が出て数時間で消える〈日光蕁麻疹じんましん〉である。数時間で消えるなら軽いのではと思うかもしれないが、これが猛烈にかゆく非常に辛い。歩ける様になったばかりの優芽を連れて散歩に出かけた時初めてこの症状が出たのだか、その時のあの子の泣き喚く姿は今でも思い出すと胸が潰れそうになる。しかもこの日光蕁麻疹が長時間続いたり広範囲に発症したりすると、頭痛や目眩めまい、吐き気や呼吸困難等の〈アナフィラキシーショック〉を引き起こす場合もあるそうだ。決して軽くなどない。

 そんな光線過敏症でも何か他の病気の影響ならその治療をすれば良いが、優芽の場合は遺伝子由来で原因不明だ。それでも肌を露出しない服装で直射日光を避ければ予防は出来るし、発症してもステロイド外用薬で皮膚の赤みや痒みを抑える対症療法もある。しかし最初に辛過ぎる体験をしてしまったあの子は、恐怖心で昼間は一切外に出られなくなってしまった。屋内で日光を避けて暮らすしかない。幼稚園にも行けず、都内のカーテンを閉め切ったマンションでわたしと二人、ずっと一緒に生きてきた。なのに……

「けんどたまにはお日様に当たらんと、別の病気になるじゃんか?おらまだ優芽ちゃんの顔は見た事ないけんど、楓さんも相当顔色おぞいわ。疲れてごしてぇんだべ。梅雨が明けて良い天気ええあんばいになったら、ちったあ二人で散歩でもしてみ?ここいらは緑も綺麗だに。木陰ならそんねに陽も当たらんから平気ずら?

 野菜だって天日干しせにゃあ──」

 野菜と一緒にしないで欲しい。カチンとくるが、グッと呑み込む。こういう事情も知らないくせに距離感が近い田舎の無神経さが、優芽には危険なのだ。引っ越してきた時も大家さんは頼んでもいないのに片付けの手伝いに来て、窓を全開にして掃除を始めようとした。わたしは慌てて事情を説明して帰ってもらったが、どうにもピンときていない様子がありありと伝わってきた。日焼けが嫌で紫外線を避けている女の子くらいに思っているのかもしれない。

 大家さんだけではない。一番近いスーパーまで歩いて三十分かかるのだが、優芽をなるべく一人にしたくなくて食料品の配達を頼んだ。人の好さそうな中年男性の店主が軽トラックで運んできてくれたのだが、いきなり『こんちわー!』という声と共にガラガラと引き戸を開け放った。当然家中に日光が射し込む。幸い優芽は二階の奥の部屋にいたので影響は無かったが、こんなの都会では絶対にあり得ない事だ。わたしが悲鳴を上げて玄関先に出ていくと、店主は全く悪びれずに笑って言った──『何すか奥さんおかっさま、わざわざ出てこんでも台所まで運んでやっただに』と。高齢者も多いこの地域では、荷物を取りに行く手間が省けるとしてこういうお節介はむしろありがたがられるのだろう。しかし優芽には危険であり、害でしかない。だから大家さんだけでなく、この土地の人には誰も優芽を会わせていないのだ。


 こんな田舎に来たくなかった。

 わたしが望んだ転居ではない。

 全て夫が勝手に決めたのだ。


 大家さんとの不毛な会話に辟易へきえきとしながら、何とかゴミ捨てを終えて家に帰ってきた。往復で三十分近くかかっている。これから優芽の昼ご飯を支度して仕事に出ないといけないわたしは、話し足りない様子の大家さんを「優芽が待ってますので」と何とか振り切った。

「…ほいじゃ困った事があったら、いつでも言ってくんなんし」

 そう言って200メートル程離れた自宅に戻っていく大家さん。それでも間に畑や林を挟んだ一番近いだ。この地域の距離感は心情的には近いくせに物理的には遠い。去っていく傘を見送ったわたしは溜息をついて、不本意ながらの我が家を見上げる。

 昭和の初期に建てられた築百年近い家らしいが、いわゆる古民家というほどの風情が無いのが腹立たしい。二階建ての5LDKと広いのだが、屋根も外壁もトタン製で赤錆が目立つ。家の前は私道と畑で周囲は空き地、裏庭の向こうには山が聳えて、日光を遮る建物など一切無い。なのに窓には薄いカーテンが付けられているのみで、雨戸は一階の居間にしか無かった。引っ越し直前に下見に来たわたしは大急ぎで全室の遮光カーテンを注文し、そして関西に単身赴任中の夫に電話で叫んだのだ。『こんな所に引っ越して優芽を殺す気か』と──

 しかし夫はなだめる様な口調で返す。

『俺だって収入が減って、お前達に充分な生活費を渡せないのが申し訳ないんだよ。

 でもその家なら家賃三万なんだから!』

 そう、この家の家賃は安い。一軒家が一ヶ月三万円で借りられるなんて東京ではあり得ない─というか、長野だって破格中の破格だろう。勿論安いのには理由がある。

 ここは元々だったのだ。

 大家さんの親族が住んでいたらしいが、その一家が絶えてもう二十年以上誰も住んでいなかったらしい。最低限の管理だけは続けていたが持て余して困っていたところ、近年自治体が始めた〈空き家バンク〉の事を知って申し込んだそうだ。

 近年増加し続ける空き家への対応として、二〇一五年に『空家等対策の推進に関する特別措置法』が施行された。これは放置されている空き家には固定資産税の税率軽減が適用されなくなり、倒壊などの危険がある場合は所有者が応じなくても自治体がその家を強制的に解体して費用を徴収できるという法律だ。しかしそれでも空き家は未だに増え続けているのが現状で、その解決への一手として国主導で生まれたのが空き家バンクである。

 一言で言えば空き家のだ。

 このサイトでは全国の自治体に登録されている空き家情報を検索・閲覧する事が出来るのだが、その登録物件は売買でも賃貸でも格安のモノが多い。中には何とゼロ円というケースもある。それでも所有者とすれば法律が変わった事で、空き家のままでは税金だけ取られて損しかしない。家賃が無料タダでも誰かが住んで管理してくれた方がよほど良い訳だ。それでこの家もこんなに安く借りられたのだ。

 夫の収入が下がっているのも本当だ。夫はわたしより一つ歳上の三十八歳で、建築会社の中堅社員である。大型商業ビルの建築現場を監督する立場として単身派遣されるのが決まったのは、タイミングの悪い事に優芽が光線過敏症を発症した直後だった。あれから三年近く経つがまだビルは完成せず、どうも工事の遅れの責任を問われて給料を減額されたらしい。その苦しくなった生活をわたしもパートに出てカバーしていたが、自宅から出られない優芽を一人で留守番させるのは長くても三時間が限度で、それも毎日は無理だ。月に五万円も稼げない。家賃三万円は確かにありがたい。

 そしてもう一つ、空き家バンクを利用して移住してきた子育て世帯には、引っ越し費用や小・中学校の給食費等に対して自治体の支援金が支給されるのも魅力だった。今は幼稚園に行けない優芽だが、再来年には小学生になるのだ。それまでには何とか外に出られる様にしてあげたいが、そうなったら服装や薬代も今よりかかるだろう。その為にもお金は可能な限り節約しなくては。

 だからわたしは、自分勝手な夫への不満も危険な田舎の暮らしも我慢しようと覚悟した。

 優芽だって自然豊かな土地で穏やかに暮らせば、病気も治るかもしれない……

 そう無理やり自分を納得させ、わたし達はこの長野で暮らし始めた。


 だけど。

 だけどこの家には──


 トゥルルル……トゥルルル……

 家に入ろうとしてハッとした。

 電話が鳴っている。


「いやああ━っ!ママぁ━━っ!」

 中から優芽の悲鳴が聴こえた。


 わたしは心臓が破裂しそうになりながら、それでも慎重に玄関の引き戸を開ける。慌てて開けたら、内側に取り付けた遮光カーテンがめくれてしまう。例え雨でも光は入ってくるのだ。そしてカーテンの隙間から室内に滑り込んで、この世で一番大切な名前を呼ぶ。

「優芽!落ち着いて優芽っ!」

 トゥルルル……トゥルルル……

「ママぁ━━っ!」

 トゥルルル…ガチャ。

『ただ今、留守にしております。ご用件のある方は発信音の後にメッセージをお話しください』

 ピーという発信音が鳴り、わたしは玄関脇の電話台の上にある固定の電話機を睨み付ける。

『…………』

 相手は何も言わず、電話を切った。

 無言電話だ。

 プツリと電話機が沈黙した。

 そしてしばらくは遮光カーテンの向こうから、トタン屋根に跳ねる雨音だけがパラパラと聴こえていたのだが……


 ガタッ……

 天井から物音がした。


 ああ…やっぱり……


 この家には鬼がいる。 

 わたし達は毎日、その鬼に怯えながら暮らしている。


 引っ越してきてから二週間程経った頃、優芽が震える声で言った。

『ママ…このおうち、なんか……』

 昼間二階の部屋で優芽が過ごしていると、一階から物音が聴こえたそうだ。

 わたしはその時間パートに出ていた。家賃が三万円でも生活費はやはり足りないのだ。大家さんもそうだが近隣は農家が多く、ウチの裏庭にも畑があるのでそこで自給自足出来ればいいが、都会育ちのわたしにそんなスキルなどある訳ない。だから仕事を探したのだが長時間働けないのは変わらないので、昼は近所の小売所で農産物の箱詰め作業のパート、夜は自宅でキーホルダーや缶バッジの部品を組み立てる内職をしていた。そうやって企業や個人のデザインをインターネットを通してグッズ化してくれる会社があるのだ。

 そうまでして何とかこの家で暮らそうとしているのに…いる?これ以上の厄介事は沢山なのに……

 だから物音と言ってもせいぜいネズミか、それとも名前の通り昼寝をしていた優芽の夢か──大した事はないだろうと思い込む事にした。そうであって欲しい。

 しかし、数日後の昼間だった。

 その日パートが休みだったわたしは、二階の部屋で優芽と過ごしていた。遊んでいたのではない。この子がいざ学校に通い始めた時に、全然勉強に付いていけなかったらと思うと不安でたまらない。ただでさえハンデを抱えているのだ。だから読み書きや計算、アルファベットなどを時間のある限り教えていた。

『違う!りんごは十二個あるの!どうして三人で分けたら一人二個なの?』

『だって…だって……』

『もう一度ちゃんと考えて!』

 優芽は泣きべそをかいている。

 厳しいかもしれないがこの子の為だ。

 この土地で優芽を知る者はわたしだけなのだ。

 優芽にはわたししかいない。

 わたしが護るしかない。

 そうやって思い詰めていたら──


 ガタッ……


 頭の上から突然聴こえた物音に、わたしも優芽も固まる。天井裏に誰かいる?いや、この家には屋根裏部屋などは無く、せいぜい屋根を支えるはりに電気の配線が張り巡らされているくらいだ。やはりネズミか……或いは屋根の上?だったら野良猫か……いや、梁の一部が外れただけかも………


 ガタッ……ガタッ……


 音が移動していく。

 重たい音だ。ネズミなんかではない。

 優芽の顔を見る。

 その目が恐怖に見開かれていた。


 ──


 けれど外を確認する事は出来ない。カーテンも窓も開ける訳にはいかないのだ。


 トゥルルル……トゥルルル……

『ひっ…』

 一階の電話が鳴って、優芽が短い悲鳴を上げた。

 トゥルルル……トゥルルル……

 わたしが恐る恐る立ち上がろうとすると、優芽がしがみついてくる。

『いかないでママっ…ゆめをおいてかないでっ!』

 トゥルルル……トゥルルル……ガチャ。

『ただ今、留守にしております。ご用件のある方は発信音の後に──』


 ガタッ……ガタガタッ……

 天井の上からの音が大きくなった。


 ガンガンッ……

 今度は壁を叩く音がした。

『いやあっ…!』

 優芽はますます強くしがみついてくる。

 ガンガンッ…ガンガンッ……

 音は一階の壁をグルリと回り、やがて玄関の方に移動して戸も叩き始めた。

 ガンガンッ…ガンガンッ……

『はいってくるっ…なんか、はいってくるよおっ……!』

 優芽が泣き叫ぶ。

 わたしはウチの玄関の鍵が壊れている事を思い出して背筋が凍った。鍵を掛けても強く引けば開いてしまうのだ。引っ越してきてすぐに気付いて大家さんに修理をお願いしたが、昔馴染みの住民しか住んでいないこの辺りは鍵を掛ける習慣が無い家も多い。大家さんは春の引っ越しシーズンで業者がなかなか手配できないと呑気に笑っていた。

 ガンガンッ!

『ママぁっ!』

 わたしは必死に声を張り上げた。

『どっ…どなたですかあ━━っ?』


 ──ピタッと、全ての音が止んだ。

 娘が言う『入ってこようとしたモノ』は、鳴りを潜めた。

 何?何なの?

 何が入ってこようとしていたの?

 わたしは優芽を抱き締めながら、ガクガクとふるえていた。

 それからしばらく静寂が続き、もう大丈夫かと思った時──


 ガンガンッ。

『ひいっ!』

 再び戸を叩く音。

 ガンガンッ。

 ガラガラッ……

 戸が開けられた。

『いぃやああああぁ━━━っ!』

 優芽がパニックを起こす。


『楓さぁーん?

 をおひたしにしたもんで〜食べて〜!』

 勝手に玄関に入ってきた大家さんのたのしそうな声が聴こえた。

 聞けば彼女は今来たばかりで、玄関前には誰もいなかったと言う。その長野の春の味だという山菜をお裾分けしてもらいながら、わたしは大至急鍵を直してくれるよう懇願した──


 あの怖ろしい体験から一ヶ月以上経つ。

 鍵は修理してもらえたが優芽は今でもわたしがいない日中、毎日の様に一階を歩き回る様な音や戸や壁を叩く音、そして無言電話を聴くそうだ。無言電話はわたしがいる時にも掛かってくるが、受話器を取って様子を伺っていると後は何も起きない。一体何なのだ!大家さんにも一応相談してみたが『ほんじゃあおらが優芽ちゃんと留守番しずか?』と嬉しそうに言ってきたので、やっぱり自分達で何とかすると伝えた。優芽を天日干しされては堪らない。

 優芽はすっかり怯えきって全く部屋から出てこなくなった。食事もわたしが部屋に運び、トイレも付いてきてくれと泣かれる。光線過敏症でも都内に住んでいた時には、マンションの室内は一人で動き回れていたのに…。夜も寝付くまで添い寝をせがまれ、わたしは優芽が眠るのを見届けてから明け方まで内職をして、翌朝寝不足のままパートに出ようとすると優芽に引き留められて泣き喚かれる──

『いかないでママぁ!

 いかないでいかないでいかないで………』 

 そんな毎日にわたしはすっかり疲弊して、ストレスも溜まっていく一方だ。自律神経をやられたのか頭痛や目眩めまいに悩まされるようになり、家事もロクに出来ない。釜に残った冷たいご飯を何日も食べ続け、おかずは小売所で分けて貰った野菜とスーパーの売れ残りの惣菜。行き届かない掃除…溜まる洗濯物……

 けれど更に怖ろしいのは、そんな掃除や洗濯を事があるのだ。

 パートが長引き、優芽の夕ご飯を急いで作らなきゃと走って帰っている間、洗い物が大量に溜まっている光景が頭の中をグルグル回っていた。全部投げ出したくなる。頭痛がして吐きそうだ。それでも必死に家に辿り着き、台所に駆け込むと──洗い終わった皿やコップが水切りカゴに並んでいる。

 わたしには洗い物をした記憶なんて無いのに。

─何これ…どうして……?

 怖くなって調べたら、記憶が飛んだり物忘れが激しくなるのは自律神経失調症の症状のうちでも重いモノらしい。或る日にはトイレが隅々まで綺麗に磨かれ、或る日には洗濯されたわたしの下着まで外に干してあった。何もかも覚えていない。もう限界だ──


 なのに夫には話が通じなかった。

 気のせいだろうと鼻で笑われた。

 わたし自身は夫や仕事先との連絡は全てスマホなのだが、そちらには無言電話など掛かってこない。間違いなく、そのはこの家に執着している。ここはもしかしたら事故物件ではないのか、過去に何かあったのではとも訊いてみたが、そんな話は契約の時にも聞かされていないと言う。もし事故物件なら賃貸契約でも三年以内に起きた事はオーナーから借主に報告する義務があるそうだが、そもそも二十年以上空き家だったのだ。

『何かあったとしても大昔さ。気にすんな』

 そう言って笑う夫の鈍感さに心底失望した。

 わたしは夫に何度も帰ってきて欲しい、それが駄目ならわたしと優芽も単身赴任先で一緒に暮らしたいと訴えた。しかし夫は単身赴任手当があくまで夫一人分の住居費しかカバーしてくれない事を理由に首を縦に振ってくれない。逆に優芽の将来も考えてこの家を見付けた自分の努力を無駄にするのかと責められた。

(勝手に決めたくせに…!)

 そんなわたしの鬱屈に構わず、夫は呑気に言った。


『そういやその地域のすぐそばに〈鬼無里きなさ〉って地区とこあるだろ?そこには昔─平安時代かな、鬼が棲み着いてたらしいんだけど、それが退治されていなくなったんだって。それで「鬼がいなくなった里」って意味で鬼無里になったんだけど……

 もしかしてそこを追い出された鬼が、周りの土地に棲まわせてくれ〜って来てるのかもな!』


 ふざけるな。

 どうしてそんな冗談が言えるのだ。

 わたしは夫に頼るのを諦めた。

 やっぱり優芽はわたしが護るしかないんだ……


 トゥルルル……トゥルルル……

 そして今日もまた無言電話が掛かってきた。

 何故ウチなのだ。

 何故優芽なのだ。

 何故、わたしなのだ──

 恐怖を通り越して、猛烈な怒りが湧いてくる。

 トゥルルル……トゥルルル……

 留守電の設定を解除してしまっていたらしく、呼び出し音が止まらない。わたしは鳴り続ける電話を無視して、まだ啜り泣きが聴こえる二階へと上がっていった。

「ママ…ママぁ……」

「大丈夫よ優芽…大丈夫…」

 トゥルルル……トゥルルル……

 止まらない電話。

 パタパタ……

 これは階段を上がるわたしの足音。


 ガタッ。

 天井から鬼の足音。


「ママぁ!」

「大丈夫……」


 ガンガンッ。

 壁を叩く鬼。

「ママっ!」


─やめて……

 トゥルルル……トゥルルル……

 ガタガタッ……

 ガンガンッ…… 

「ママっ…ママっ……」 


─やめろ……


 トゥルルルルルルルルルル…………

 ガタガタガタガタガタガタ…………

 ガンガンガンガンガンガン……………

「ママぁああぁ━━っ!」

─やめ…ろ………


 トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルル……………………

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ……………………


─やめろっ……… 


 この…鬼めっ……!


「やめろおおおおぉぉおおおお━━━━っ!」



 ………家の中に次々と鬼が入ってくる。

 皆赤い肌をしている。赤鬼という事か。

 顔も真っ赤なのだが、何故かどんな顔をしているのか分からない。目があって、鼻と口があって…というのは分かるけれど、顔の区別が付かない。鬼とはそういうモノなのだろうか?そういえば夫が何か言っていた。鬼は元々は姿の見えないモノだとか何とか……だから顔も見えないのか?夫に腹を立てていたわたしには、それ以上の説明は耳に入らなかったけれど。

 わたしは気が狂った様に叫びながら、手を振り回している。手が痛い。赤鬼を殴り付けているのだ。無我夢中で殴り続けて、やがて疲れ果ててへたり込んだ。ゼェゼェ言いながら霞む目で辺りを見回す。

 真っ赤だった。

 たおれている赤鬼達も、部屋の壁もカーテンも天井も、全てが赤い。わたしの手も赤く染まっている。赤い静寂の中でわたしの息遣いだけがこだましていた。

 涙とよだれが赤い畳にボタボタ落ちる。

退…出来たんだ…… 

 そうして笑ったわたしも、きっと真っ赤なのだろう。鬼を残らず退治して、ホッとして──


 頭に衝撃を受けた。


 わたしは赤鬼達のむくろの中に斃れていった…………



 ……ゆるゆると自然に目が開き、オレンジの光に焦点が合っていく。天井の常夜灯か。お陰でカーテンを閉め切っていても部屋の様子が分かる。わたしは二階の子供部屋で仰向けに寝ていた。隣を見ると優芽が並んで布団に入り、スヤスヤと眠っている。

 今は夜…だろうか?添い寝をしているうちに眠ってしまったのか?もしかして朝?この部屋には時計が無い。スマホで時間を確認しようと起き上がりかけて──

 不意に激しい頭痛に襲われた。

 後頭部がズキズキする。ストレスが慢性化しているので片頭痛も珍しくないが、今朝はだいぶ酷い。相当疲れが溜まっている様だ。

 それでもしばらく体育座りの格好でジッとしていたら落ち着いてきたので、改めてスマホを探す。しかし見当たらない。いつもなら寝過ごさないよう、目覚ましのアラームをバイブにして枕元に置いておくのだ。内職をしなくてはならないのに……そこまで考えて気が付いた。

 今日は土曜日だ。パートも無い。昨日パート先の同僚達が、土日の休みに何をするかで盛り上がっていたのを聴いた。内職も昼間に出来る。早起きの必要が無かったので、スマホもついどこかに置きっ放しにしたのだろう。

 わたしは優芽を起こさないように布団からそっと抜け出して、二階の部屋を出る。一階に下りて台所の窓のカーテンを少し捲ると、外は明るかった。やはり朝になっていたのだ。しかもいつ以来か分からない梅雨晴れだ。本当なら気持ちの良い朝だろう。しかし相変わらず頭痛の波が襲ってくる。

 そのせいか、を忘れている気がする。

─何だろう…昨日何かしたっけ……?

 どうも記憶が曖昧だ。昨日は朝ゴミを出して…午後パートに行って…それから……夕ご飯は何を作ったかしら?裏庭の収蔵庫から野菜を出して使った気がするけど……わたしはまた、自分でやった家事を忘れてしまったのか?

 ふと勝手口を見た。

 扉は閉まり鍵もちゃんと掛かっているが、扉の内側には泥だらけの長靴が並んでいる。この長靴は玄関に置いていた気がするので、それがここにあるという事はやはり泥濘んだ庭に出たのだろう。

 その横に立て掛けてある長さ1メートル程の大きなスコップにも泥が付いている。こちらも普段は家の外に出してあるモノだ。これも使ったのだろうか?野菜は埋めてある訳ではないが、大量のジャガイモなどはスコップに載せて運ぶ事もある。

 でも何より、優芽の笑顔を見た記憶が無い。きっとまた、疲れて手抜き料理をしたのだろう。メニューも忘れてしまうくらいテキトーに。

─…ゴメンね、優芽。

 頭は痛い。でもせっかくの良い天気の土曜日だ。

 久し振りにちゃんと朝ご飯を作ろう。

─あのコの好きなパンケーキを焼いてあげようかな……


 ガンガン。


 玄関の戸を叩く音がして血の気が引く。

 そんな、まさか。

 しかしすぐに声がした。

「ごめんなして!奥さんおかっさま、いらっしゃるかね?」

「ハ、ハイっ…」

 鬼ではないらしい。対応に出ようとしてハッと自分の格好を確認する。パジャマではあまりにも…そう思ったが、見れば部屋着のTシャツとコットンパンツだった。昨夜ゆうべは着替えもせずに寝落ちしてしまった様だ。苦笑しながら玄関に行き、引き戸の前のカーテンを捲った。りガラス越しに人影が見える。

「どちら様ですか…?」

「ああ、申しゃげねえ、駐在所の小島ですわ」

 お巡りさん?

 言われてみれば確かに声に聞き覚えがある。引っ越し後すぐに巡回に来てくれて、駐在所や消防団の詰所など防犯・防災に関わる場所を教えてくれた。体はゴツいが人の好さそうな髭面の五十代の男性巡査だ。わたしは慌てて大家さんが直してくれた鍵を回して戸を開ける。久々の晴天に眩しくて目を細めると、逆光の中に間違いなく制帽を被り制服を着た警察官が立っていた。

「あの、何か…?」

「ハイ。実は今悪質へぼが三人、捕まっとるんだけど、そいつらがおめたえち標的ターゲットにしとったんが分かってねぇ」

「は?」

 業者?一体何の事だ?

「いやあ、ここんとこ近隣の地域で問題になっとったんですわ。急に知らん連中が訪ねてきて、屋根や雨樋が壊れとる、修理せにゃならんとか言っこいてくるって。ここいらでも注意喚起されとったけんど、聞いてねえかや?」

 わたしは黙って首を振る。優芽に有害な田舎の人と仲良くなる気は無く、パート先でも私語を交わす相手などいない。大家さんが話してくれたかもしれないが、彼女の話はわたしの耳を素通りしている。

 しかし次の小島巡査の言葉はわたしの脳に突き刺さった。

「そん業者はねぇ、調査の為とかって──」 

─え?

「ほんで調査の結果、すぐにでも雨漏りするって強引げえに決め付ける。そんだけならまだいいけんど、放っとくと雨で腐食した屋根が急に崩れ落ちるかもしれんって続けて、ほったら命の危険も勿論あるし、周りの住宅にまで被害が及んだらそん賠償金もえれえ事になる。管理責任を問われて逮捕されるかもしれん──まあ大袈裟さでくりに脅してくるそうだわ。そんなんされたらここいらの住人はお人好しの爺さ婆さばっかだからね、皆えらいこった、修理しておくらいって頼んじまうべ。ほったら連中の思う壺でね、相場より十倍くれえバカ高え見積書渡してきて何百万とむしり取るんだ。

 そないして儲けとる馬鹿ばあたれななんだわ。

 そん業者がここ最近、おさんとこ狙って何度も押しかけてたって自白しとんだに。何せここは古い家だもんで、リフォームした方が良い箇所は山ほどあるだ。なんぼでも吹っ掛けられるら?

 しかも…これぁ我々おらほとしては申しゃげねえ話なんだけんど……


 空き家バンクに登録されとった個人情報が流出してなぁ、奥さんおかっさまと娘さんの二人暮らしなんがそん業者にバレとった。

 ほんでそいつら、おめたえちの電話番号まで知っとってね。

 無言電話して奥さんおかっさまが在宅してるかどうか確認しては、留守を狙って、勝手に屋根に上ったり壁を叩いとったそうだわ。その調を元に、もうあっちゃこっちゃリフォームする必要があるっちゅうて見積書作って契約結んじまえば、一応違法にはならんだに。

 最初ん時は奥さんおかっさまが中におるのに気付いて慌ててややけて逃げたそうだけんど、それからしつこく来とったそうで……」


 そういう…事だったの。

 それが、鬼の正体だったんだ……


 その業者が家中を調べていたのなら、優芽が一人の時に聴いたという階下の物音も、外からの音を勘違いしたのではないか?わたしは衝撃で言葉が出ず、その様子を小島巡査が心配したのだろう。「とにかくごったくゴミ共は今警察におるからね、もう大丈夫あんじゃーない!」と明るい声を掛けてくれた。

「ありがとうございます……」

 ようやく声を振り絞って頭を下げながら、わたしはふと気付く。昨日の午前もその業者は来ていたのだ。いつ逮捕されたのだろう?それを巡査に尋ねてみると、彼は途端に言い淀んだ。捜査上の秘密というやつだろうか?

「うーん……まあ…捕まっとるっちゅうても、正確にはまだ被害届が出とらんから、逮捕ではなくてされとるんだけんどねぇ…」

「は?保護?」

「ハイ。

 そいつら昨夜ゆんべ、病院に入院してね」

「入院?」

「近くの救急病院に自分達の車で来たんだけんど、三人とも怪我しとって、一人は意識不明だったんだわ。何か後ろから殴られたみてぇで、全員後頭部や首に打撲痕があった。まあしばらくしたら意識も戻って、全員命に別状は無いけんどねぇ。そんで殴られたんなら傷害事件だべ?病院から連絡貰って行ってみたら、何か挙動不審な訳。作業着着とんのにどこの会社とか言わねえし…ほんで所轄の応援呼んで調べてみたら例のバカだけえリフォームの見積書持ってたんで、あっ、こいつらがあの調子に乗ったちょんこづいた業者なんかって。ほいでとにかく治療終わって、落ち着いたとこで事情聴取したんだわ。

 そしたらここんのリフォームの見積書が出来たんだけんど、奥さんおかっさま、昼間は仕事行っとるら?そんで昨日、夜なら在宅してんだろって六時半頃訪ねてきたんだって。ほいで見積書を持った一人は玄関に向かい、後の二人は分かれて、また家の横の壁やら裏の雨樋を見ようとしとったらしい。そしたら──


 三人が突然次々と、後ろからで殴られた。

 全員振り向く暇も無く倒れたし、暗かったんで殴った相手の顔は見とらんそうだが……殴りながら何か叫んでたのは聞いたそうだべ。

 女の声だったらしいけんど……」


 小島巡査に昨夜その現場を見たり、変わった物音を聴かなかったかと言われてわたしは首を振る。連れてきた鑑識の人達と家の周りを調べてもいいかと尋ねられて頷く。話を訊きたいとも頼まれたが、娘に朝ご飯を作ってあげたいと言うと是非そっちを優先してくれと優しい声で応えてくれた。優芽が病気で外に出られないのを知っているのだ。台所でパンケーキの素を混ぜていると窓の外から巡査の声がして、泥濘んだ家の周囲で踏み荒らされた複数の足跡を採取したので帰るという。わたしは「ご苦労様でした」と応えながら、震えが止まらなかった。

 巡査の話を聞いているうちにまた頭痛がぶり返し、同時に記憶が甦ってきた。今朝視た夢の記憶だ。赤鬼を次々と殴り斃していく夢──

 あれはだったのではないか?

 そのリフォーム業者を襲ったのはだったのではないか?

 あの真っ赤な光景は退の結果、実際に見たモノではないのか──

 勝手口のスコップに目を遣る。

 これが…凶器……?

 我が家の夕ご飯は大体午後七時頃だ。その前に野菜を取りに出たなら、ちょうどその業者が訪ねてきたという六時半頃に外に出ていてもおかしくない。

 頭の血管がドクドクと脈打つ。

 そんなはずはない、そんなはずは……

 わたしはやっていない。

 やった記憶は無い。

 けれどわたしは…わたしの記憶に自信が無い……

 いや。


 やったとしても──捕まる訳にはいかない。

 わたしが捕まったら、誰が優芽を護るのだ。


 歯を食いしばって、パンケーキを焼く。ふっくらと焼き上がったパンケーキにマーガリンの欠片かけらを載せて、優芽の大好きな蜂蜜を掛ける。うん、良い出来だ。

「優芽━朝ご飯出来たよ━!優芽━?」

 返事が無い。まだ寝ているのだろうか?

 仕方無いのでパンケーキの皿と牛乳のコップをお盆に載せて二階に持っていくと、優芽は布団の上に座ってニコニコと待ち構えていた。まるでホテルのルームサービスだ。わたしも思わず笑顔になる。


 そうだ、鬼はもう来ない。

 やっとこの子が笑顔になれたのだ。

 これからはこの笑顔を護るのだ。

 殴られた連中も死んだ訳ではない。警察もそこまで厳しい捜査はしないのではないか?小島巡査もわたしに話を訊きたがっていたが、優芽の事を持ち出したら帰ってくれた。きっとそれほど疑ってはいない。可哀想な母娘おやこアピールを続けていればきっと見逃してくれる。同情を引く為ならどんな憐れみも乞う。涙を流してすがり付いてやる。

 わたしは──絶対に捕まらない。


 食べ終えた食器を持って台所に戻った。

 勝手口を見て、心臓が凍り付く。


 スコップを持った鬼が立っていた。 


「いやあああぁ━━━━っ!」


 (後編に続く)

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