〈第三話 かくれおに(前編)〉
『彼は、魔法を用いて想像を司る彼女のいろんな機能に影響を及ぼし、それらを利用して自分の思うとおりに、様々な幻想や妄想や夢をそこに造り出そうとしていた。』
─この家には鬼がいる。
わたし達は毎日、その鬼に怯えながら暮らしている……
「わあ…神秘的……」
鬼がうっとりとした
昏く
ここは日本国内屈指のパワースポットと呼ばれる長野県
砂利道の両側に並ぶ杉達はどれも樹齢四百年を超え、高さは30メートル、幹の太さも3メートルから5メートルを超すモノもあるそうだ。ボク達はそんなバケモノ級の樹が二百本並び、500メートルも続く杉並木の下を並んで歩いていた。
ボクは呑気な連中に
「へっ、言ってもせいぜい四百年だろ?それも人間が植えたんだからな、大してありがたくもない。エデンの園の生命の樹や知識の樹なんて人類誕生前からあるぞ」
「キミねえ…そりゃ創世紀の樹と比べたら可哀想でしょ」
呆れた様に言うジャッキー。
ボクはニッコリと微笑む。
「まあ地獄にはロクな樹無いもんな。一流を知らないからこの程度でもありがたがるんだろ?
愛欲に溺れた馬鹿が堕ちる〈
「ホンっト腹立つ天使!」
ツンと拗ねたジャッキーを横目にボクは笑顔を引っ込める。フン、長い事山道を歩かされている意趣返しだ。今は午後六時過ぎ、参道を歩いているのはボク達だけだ。もう一時間近く歩いているが、目的地はまだか。
目指しているのはこの参道を進んだ先の戸隠神社の本社──〈
戸隠神社は奥社以外にも、参拝の起点となる〈
まして今日は平日─金曜日である。そもそも観光客が少ないし、雨も降っていた。幸い中社に着いた午後五時頃には雨は止んでいたが、おみくじや御朱印を売っている授与所もその五時で閉まってしまった。長野駅前からそこまで運んでくれたタクシーの運転手も、ボク達がこの後宿泊施設も無い戸隠山でどうやって過ごすのか気にしながら戻っていった。こんな山奥ではそれこそ朝までブラブラとトレッキングするくらいしか、確かにやる事は無い。
しかしそれでいいのだ。
ボク達はパワースポットで金運や恋愛運をアップしに来た訳ではない。
殺人犯を見付けて地獄に送る為に、ぬえの殺意アンテナを頼りにブラブラ
基本、ボク達のパトロールには特に当ては無い。どうせ人殺しを企んでる
この戸隠山には
とりあえずそんな山を御神体とする神社を最初に見たいという事で、ボク達は今ここにいる。五社全部巡ろうと張り切るジャッキーのマッチョな提案を頭脳労働専門の
杉並木を抜けると上り坂の石段が続き、ゼェゼェと息が上がった。
「テンちゃん大丈夫?おんぶしてあげよっか?」
「テンちゃんじゃねえ……子供扱いも…やめろ……」
こちらを覗き込んでくる体力オバケが本気で心配しているのが余計に腹が立つ。ホントにお人好しでお節介な鬼だ。
何とか意地だけで石段を登り切った先に、奥社の社殿があった。戸隠山の山中には修験者が使用した洞窟である〈三十三窟〉が残っているそうだが、その第一窟の前に本を開いて伏せた様な形の切妻屋根の社殿が建てられている。まさに第一の聖域という訳だ。その由緒板には『御祭神
「ハァハァ…お前の馬鹿力が続きますようにって…お参り…したかったんだな…ハァハァ……」
「違う!息切れしてる時くらい憎まれ口も休みなさいよっ」
「じゃあ…気になってる伝説って…何だよ…?」
「うん……
この戸隠山にね、
とっても…可哀想な鬼が……」
切なげな
社殿を離れ、上ってきた石段を見下ろしながらジャッキーは語り始めた。
「昔…平安時代の〈応天門の変〉で処断された
「妖術ねえ…実例があったのか?」
「うん…近くに住むお金持ちの息子が呉葉を好きになって、お嫁さんに寄越せって脅されたんだって。地元の有力者の圧力に両親も困り果てたらしいんだけど、呉葉が第六天に祈って術を使い、瓜二つのもうひとりの自分を呼び出した。それを身代わりに嫁入りさせて、呉葉の一家は結納金を持って都へ逃げたって──
そして呉葉は紅葉と名を改めて京の都に住み着くんだけど、その美貌と琴の音色が清和源氏の祖とされる
流された紅葉とその両親は戸隠の人達に『経基の子を宿して正室の嫉妬に遭い、無実の罪で流されて来た』という話をしていたそうよ。それで
そして遂に時の冷泉天皇から紅葉討伐の勅諚が
維茂軍は総攻撃を仕掛け、まず息子の経若丸を討ち取った。それで怒り狂った紅葉は鬼の本性を
髪を振り乱し目を赤く光らせて、その姿はまさしく悪鬼──
そして壮絶な死闘の末、紅葉は毒を盛られ、弱ったところに霊剣を使った矢を右肩に受けて、最後には首を
その時紅葉三十三歳。
山々はその悲しみを映すように、深紅に染まっていたんだって……
これが、この戸隠山に伝わる鬼の伝説よ。
あたし…何だかこの紅葉が可哀想で仕方無いの。何故って言われると自分でも分かんないし、確かに悪い事いっぱいしてるんだけど……
ねえ、キミはどう思う?
本当に紅葉は鬼だったと思う?」
ジャッキーは涙目になってボクを見つめる。
あいにくボクは紅葉伝説を詳しく知らなかった。能や歌舞伎に『紅葉狩』というこの伝説を元にした鬼退治の演目があり、それが秋に色付いた葉を愛でる風習の名称になったと記憶していただけだ。しかし今の話を普通に聞けば、彼女はまあ鬼だろう。実在の人物が妖術を使う訳もなく、
「…そうだな、紅葉はたぶん、
「え?」
目を丸くするこちらはホンモノの鬼。
「ポイントは一番初めにお前が言った応天門の変だ。紅葉の祖先の伴善男は応天門に放火した罪で流罪になり、それで名族伴氏は没落した。でもそれは当時の権力者藤原北家が仕組んだとも言われているからな。つまり伴氏は一方では終わった一族として蔑まれ、一方では再びその権勢が復活しない様警戒されていた特殊な存在だったんだ。時の政府にも目を付けられていただろう。
だからその子孫である紅葉の一家は、周りの一般人からは関わりたくない厄介者として疎まれていたんだ。それで地元でも孤立し、妖術を使うなんて噂も立てられた。紅葉が成金の求婚に身代わりを立てて金持って逃げたのも、そんな周囲への反発と憎悪故じゃねえか?」
「あ…そういう事……」
鬼の目から
「そうして京の都に移り住み、そこで源経基に見初められて、紅葉はようやく幸せになれると安堵したろうな。でもそこでも地元と同じ事が起きたんだ。経基の寵愛を受けて子を授かった紅葉は正妻に妬み疎まれ、後継ぎを奪われるのではと警戒された。そしてまた妖術を使ったって口実で追い出されたんだ。『無実の罪で流された』と言った彼女の言葉は真実だったんじゃないかな。
戸隠山に来た紅葉が盗賊に成り果てたのは、自身を排斥し続けてきた世間への復讐という意図もあったろう。だけど何よりシングルマザーとなった彼女は、自力で息子を護らなきゃいけなかった。食っていく為に
けれどその武装集団を結成した事が、結局政府の警戒心を煽ってしまったんだ。伴氏の末裔が反乱を企んでるぞってね。そうじゃなかったらわざわざ天皇が討伐の勅諚なんか出すもんか。
そして抵抗虚しく、戸隠山の鬼は討ち取られた……」
「じゃあ紅葉…さんはただのお母さんだったの?
維茂の軍勢を苦しめた鬼の
「勝った方が好きな事言える──それが歴史さ。
天皇の命令でただの盗賊団を惨殺したとは言えないだろ。だから紅葉は国を護る為に倒さなきゃいけない、手強い鬼に
勿論、ただの推論だ。
しかしジャッキーはポロポロと涙を流している。
理由も分からず紅葉を『可哀想』だと感じていたのは、なりたくなかった鬼にされてしまった彼女を自身に重ねていたからかもしれない。
「……紅葉さんは地獄に堕ちたかしら…?」
「たぶんな」
しばらく
そしてボクに向かって笑顔で宣言した。
「よ〜し、紅葉さんに関係あるとこ全部回って、安らかにお眠りくださいってお祈りしてこうね!」
戸隠山の鬼に関係のある所とは、すなわちどこも山の上だろう。
嫌だ。
疲れる。
ボクはとっとと山を降りてどこか温泉にでも行きたい。長野には良い温泉があるじゃないか。そこで『あ〜極楽極楽』ってやりたい。天使には極楽が似合うんだ。
そう思って、やる気に満ちている鬼娘に抵抗しようと身構えた時──
「けええ━━っ」
眠っていたはずのぬえが一声鋭く啼いた。
その体の
ボクとジャッキーは素早く辺りを見回す。
誰の殺意なのか──
しかし誰もいない。
ボクはパーカーのポケットから小さな懐中時計を取り出す。
曰く、
その時計を見ると午後六時三十九分。
社務所が開いている時間もとっくに過ぎて、参拝客は勿論、神社の関係者も帰ってしまったのだろう。
「どういう事…?」
戸惑うジャッキーの肩から、綿菓子の様なぬえが極小の翼でパタパタと飛び立つ。そのまま奥社社殿の5メートルほど上空まで浮かび上がった。
「けえええぇ……」
ぬえはどこか遠くの場所に向かって啼いていた。まるで犬の遠吠えの様に──
ボクは閃く。
「そうか…アンテナの
「感度?」
「何たってこの奥社のある場所は標高1300メートル超えてるからな。スカイツリーの倍以上高い。電波と同じで殺意も広範囲に遠くまで感知出来るんだろ」
「そうなの?今までそんな事無かったけど……」
眉を
ボクは上空の黒い綿風船に声を掛ける。
「おーい、どっちの方角から殺意感じたんだ?」
「けぇ」
ぬえはパタパタと向きを変え、右の翼を南の方角に向けた。
「フム…まさに今誰かが山の中で人を殺してる可能性もあるが、ぬえの様子だとだいぶ遠くの殺意を感じてるみたいだな。だとすると山の
昔の山賊が旅人を襲ってるとかなら強盗殺人で即地獄だが、現代では簡単に裁けない殺意が多い。実際ここ最近、地獄に送りにくい
しかしまあ、それよりも。
「…よし、街に行ってみよう」
「えっ、紅葉伝説巡りは?」
「仕事が先だろ」
ボクが真面目な顔で言うと、ジャッキーはハッとして「そうよね、ゴメンなさい」と頭を下げた。よしよし、素直な鬼だ。これで山を降りられる──そっちの方が重要だ。
(戸隠山の麓に温泉あったかな?)
ボクは内心ほくそ笑みながら、来た時より軽い足取りで石段を降り始めた。
「お早うござんす、
毎日雨で
「そうですね…」
燃えるゴミの袋を持って玄関の戸を開けたところで、前の私道にいた大家さんが声を掛けてきた。まるで待ち構えていた様なタイミングだがいつもの事だ。わたしは力無く愛想笑いをして、傘とゴミ袋を持って表に出る。
しかし一歩踏み出してすぐに後悔した。シトシトと降り続く女梅雨で舗装されていない私道は乾く間も無く
当然の様にわたしと並んで歩き出した大家さんが話しかけてきた。
「一体いつ梅雨明けすんのかやぁ?ホラ、ここいらって乾燥野菜が名物ずら?
六十代後半のふくよかな体型の女性で、ゆったりした農作業用のズボン─オーバーオールを履いている。足はしっかり長靴で明らかに外を出歩く気満々な格好だけど、傘以外には何も持っていない。ゴミを捨てに行く訳ではないのだ。ただ、わたしに付いてきたいだけ──その意図が分かりやすく伝わってくる。一方的に喋り続ける大家さんに、わたしは「はあ」とか「ええ」とかいつもの様に適当に相槌を打つ事しか出来ない。そして──
「ほんでどお?
これもいつもの事だが、わたしの愛想笑いは引き
前に住んでいた東京ではこんな事は無かった。よほど親しくない限り、他人の家庭の事情には不干渉なのが暗黙の
「優芽は…相変わらずです。でも元気ですので……」
「
そう、五歳になるわたしの娘の優芽は、生まれつきの〈光線過敏症〉──日光アレルギーだ。
その症状の出方には様々なタイプがあるのだが、優芽の場合は日光に
そんな光線過敏症でも何か他の病気の影響ならその治療をすれば良いが、優芽の場合は遺伝子由来で原因不明だ。それでも肌を露出しない服装で直射日光を避ければ予防は出来るし、発症してもステロイド外用薬で皮膚の赤みや痒みを抑える対症療法もある。しかし最初に辛過ぎる体験をしてしまったあの子は、恐怖心で昼間は一切外に出られなくなってしまった。屋内で日光を避けて暮らすしかない。幼稚園にも行けず、都内のカーテンを閉め切ったマンションでわたしと二人、ずっと一緒に生きてきた。なのに……
「けんど
野菜だって天日干しせにゃあ──」
野菜と一緒にしないで欲しい。カチンとくるが、グッと呑み込む。こういう事情も知らないくせに距離感が近い田舎の無神経さが、優芽には危険なのだ。引っ越してきた時も大家さんは頼んでもいないのに片付けの手伝いに来て、窓を全開にして掃除を始めようとした。わたしは慌てて事情を説明して帰ってもらったが、どうにもピンときていない様子がありありと伝わってきた。日焼けが嫌で紫外線を避けている女の子くらいに思っているのかもしれない。
大家さんだけではない。一番近いスーパーまで歩いて三十分かかるのだが、優芽をなるべく一人にしたくなくて食料品の配達を頼んだ。人の好さそうな中年男性の店主が軽トラックで運んできてくれたのだが、いきなり『こんちわー!』という声と共にガラガラと引き戸を開け放った。当然家中に日光が射し込む。幸い優芽は二階の奥の部屋にいたので影響は無かったが、こんなの都会では絶対にあり得ない事だ。わたしが悲鳴を上げて玄関先に出ていくと、店主は全く悪びれずに笑って言った──『何すか
こんな田舎に来たくなかった。
わたしが望んだ転居ではない。
全て夫が勝手に決めたのだ。
大家さんとの不毛な会話に
「…ほいじゃ困った事があったら、いつでも言ってくんなんし」
そう言って200メートル程離れた自宅に戻っていく大家さん。それでも間に畑や林を挟んだ一番近い
昭和の初期に建てられた築百年近い家らしいが、いわゆる古民家というほどの風情が無いのが腹立たしい。二階建ての5LDKと広いのだが、屋根も外壁もトタン製で赤錆が目立つ。家の前は私道と畑で周囲は空き地、裏庭の向こうには山が聳えて、日光を遮る建物など一切無い。なのに窓には薄いカーテンが付けられているのみで、雨戸は一階の居間にしか無かった。引っ越し直前に下見に来たわたしは大急ぎで全室の遮光カーテンを注文し、そして関西に単身赴任中の夫に電話で叫んだのだ。『こんな所に引っ越して優芽を殺す気か』と──
しかし夫は
『俺だって収入が減って、お前達に充分な生活費を渡せないのが申し訳ないんだよ。
でもその家なら家賃三万なんだから!』
そう、この家の家賃は安い。一軒家が一ヶ月三万円で借りられるなんて東京ではあり得ない─というか、長野だって破格中の破格だろう。勿論安いのには理由がある。
ここは元々
大家さんの親族が住んでいたらしいが、その一家が絶えてもう二十年以上誰も住んでいなかったらしい。最低限の管理だけは続けていたが持て余して困っていたところ、近年自治体が始めた〈空き家バンク〉の事を知って申し込んだそうだ。
近年増加し続ける空き家への対応として、二〇一五年に『空家等対策の推進に関する特別措置法』が施行された。これは放置されている空き家には固定資産税の税率軽減が適用されなくなり、倒壊などの危険がある場合は所有者が応じなくても自治体がその家を強制的に解体して費用を徴収できるという法律だ。しかしそれでも空き家は未だに増え続けているのが現状で、その解決への一手として国主導で生まれたのが空き家バンクである。
一言で言えば空き家の
このサイトでは全国の自治体に登録されている空き家情報を検索・閲覧する事が出来るのだが、その登録物件は売買でも賃貸でも格安のモノが多い。中には何と
夫の収入が下がっているのも本当だ。夫はわたしより一つ歳上の三十八歳で、建築会社の中堅社員である。大型商業ビルの建築現場を監督する立場として単身派遣されるのが決まったのは、タイミングの悪い事に優芽が光線過敏症を発症した直後だった。あれから三年近く経つがまだビルは完成せず、どうも工事の遅れの責任を問われて給料を減額されたらしい。その苦しくなった生活をわたしもパートに出てカバーしていたが、自宅から出られない優芽を一人で留守番させるのは長くても三時間が限度で、それも毎日は無理だ。月に五万円も稼げない。家賃三万円は確かにありがたい。
そしてもう一つ、空き家バンクを利用して移住してきた子育て世帯には、引っ越し費用や小・中学校の給食費等に対して自治体の支援金が支給されるのも魅力だった。今は幼稚園に行けない優芽だが、再来年には小学生になるのだ。それまでには何とか外に出られる様にしてあげたいが、そうなったら服装や薬代も今よりかかるだろう。その為にもお金は可能な限り節約しなくては。
だからわたしは、自分勝手な夫への不満も危険な田舎の暮らしも我慢しようと覚悟した。
優芽だって自然豊かな土地で穏やかに暮らせば、病気も治るかもしれない……
そう無理やり自分を納得させ、わたし達はこの長野で暮らし始めた。
だけど。
だけどこの家には──
トゥルルル……トゥルルル……
家に入ろうとしてハッとした。
電話が鳴っている。
「いやああ━っ!ママぁ━━っ!」
中から優芽の悲鳴が聴こえた。
わたしは心臓が破裂しそうになりながら、それでも慎重に玄関の引き戸を開ける。慌てて開けたら、内側に取り付けた遮光カーテンが
「優芽!落ち着いて優芽っ!」
トゥルルル……トゥルルル……
「ママぁ━━っ!」
トゥルルル…ガチャ。
『ただ今、留守にしております。ご用件のある方は発信音の後にメッセージをお話しください』
ピーという発信音が鳴り、わたしは玄関脇の電話台の上にある固定の電話機を睨み付ける。
『…………』
相手は何も言わず、電話を切った。
プツリと電話機が沈黙した。
そしてしばらくは遮光カーテンの向こうから、トタン屋根に跳ねる雨音だけがパラパラと聴こえていたのだが……
ガタッ……
天井から物音がした。
ああ…やっぱり……
この家には鬼がいる。
わたし達は毎日、その鬼に怯えながら暮らしている。
引っ越してきてから二週間程経った頃、優芽が震える声で言った。
『ママ…このおうち、なんか
昼間二階の部屋で優芽が過ごしていると、一階から物音が聴こえたそうだ。
わたしはその時間パートに出ていた。家賃が三万円でも生活費はやはり足りないのだ。大家さんもそうだが近隣は農家が多く、ウチの裏庭にも畑があるのでそこで自給自足出来ればいいが、都会育ちのわたしにそんなスキルなどある訳ない。だから仕事を探したのだが長時間働けないのは変わらないので、昼は近所の小売所で農産物の箱詰め作業のパート、夜は自宅でキーホルダーや缶バッジの部品を組み立てる内職をしていた。そうやって企業や個人のデザインをインターネットを通してグッズ化してくれる会社があるのだ。
そうまでして何とかこの家で暮らそうとしているのに…
だから物音と言ってもせいぜい
しかし、数日後の昼間だった。
その日パートが休みだったわたしは、二階の部屋で優芽と過ごしていた。遊んでいたのではない。この子がいざ学校に通い始めた時に、全然勉強に付いていけなかったらと思うと不安で
『違う!りんごは十二個あるの!どうして三人で分けたら一人二個なの?』
『だって…だって……』
『もう一度ちゃんと考えて!』
優芽は泣きべそをかいている。
厳しいかもしれないがこの子の為だ。
この土地で優芽を知る者はわたしだけなのだ。
優芽にはわたししかいない。
わたしが護るしかない。
そうやって思い詰めていたら──
ガタッ……
頭の上から突然聴こえた物音に、わたしも優芽も固まる。天井裏に誰かいる?いや、この家には屋根裏部屋などは無く、せいぜい屋根を支える
ガタッ……ガタッ……
音が移動していく。
重たい音だ。
優芽の顔を見る。
その目が恐怖に見開かれていた。
けれど外を確認する事は出来ない。カーテンも窓も開ける訳にはいかないのだ。
トゥルルル……トゥルルル……
『ひっ…』
一階の電話が鳴って、優芽が短い悲鳴を上げた。
トゥルルル……トゥルルル……
わたしが恐る恐る立ち上がろうとすると、優芽がしがみついてくる。
『いかないでママっ…ゆめをおいてかないでっ!』
トゥルルル……トゥルルル……ガチャ。
『ただ今、留守にしております。ご用件のある方は発信音の後に──』
ガタッ……ガタガタッ……
天井の上からの音が大きくなった。
ガンガンッ……
今度は壁を叩く音がした。
『いやあっ…!』
優芽はますます強くしがみついてくる。
ガンガンッ…ガンガンッ……
音は一階の壁をグルリと回り、やがて玄関の方に移動して戸も叩き始めた。
ガンガンッ…ガンガンッ……
『はいってくるっ…なんか、はいってくるよおっ……!』
優芽が泣き叫ぶ。
わたしは
ガンガンッ!
『ママぁっ!』
わたしは必死に声を張り上げた。
『どっ…どなたですかあ━━っ?』
──ピタッと、全ての音が止んだ。
娘が言う『入ってこようとしたモノ』は、鳴りを潜めた。
何?何なの?
何が入ってこようとしていたの?
わたしは優芽を抱き締めながら、ガクガクと
それからしばらく静寂が続き、もう大丈夫かと思った時──
ガンガンッ。
『ひいっ!』
再び戸を叩く音。
ガンガンッ。
ガラガラッ……
戸が開けられた。
『いぃやああああぁ━━━っ!』
優芽がパニックを起こす。
『楓さぁーん?
勝手に玄関に入ってきた大家さんの
聞けば彼女は今来たばかりで、玄関前には誰もいなかったと言う。その長野の春の味だという山菜をお裾分けしてもらいながら、わたしは大至急鍵を直してくれるよう懇願した──
あの怖ろしい体験から一ヶ月以上経つ。
鍵は修理してもらえたが優芽は今でもわたしがいない日中、毎日の様に一階を歩き回る様な音や戸や壁を叩く音、そして無言電話を聴くそうだ。無言電話はわたしがいる時にも掛かってくるが、受話器を取って様子を伺っていると後は何も起きない。一体何なのだ!大家さんにも一応相談してみたが『ほんじゃあ
優芽はすっかり怯えきって全く部屋から出てこなくなった。食事もわたしが部屋に運び、トイレも付いてきてくれと泣かれる。光線過敏症でも都内に住んでいた時には、マンションの室内は一人で動き回れていたのに…。夜も寝付くまで添い寝をせがまれ、わたしは優芽が眠るのを見届けてから明け方まで内職をして、翌朝寝不足のままパートに出ようとすると優芽に引き留められて泣き喚かれる──
『いかないでママぁ!
いかないでいかないでいかないで………』
そんな毎日にわたしはすっかり疲弊して、ストレスも溜まっていく一方だ。自律神経をやられたのか頭痛や
けれど更に怖ろしいのは、そんな掃除や洗濯を
パートが長引き、優芽の夕ご飯を急いで作らなきゃと走って帰っている間、洗い物が大量に溜まっている光景が頭の中をグルグル回っていた。全部投げ出したくなる。頭痛がして吐きそうだ。それでも必死に家に辿り着き、台所に駆け込むと──洗い終わった皿やコップが水切りカゴに並んでいる。
わたしには洗い物をした記憶なんて無いのに。
─何これ…どうして……?
怖くなって調べたら、記憶が飛んだり物忘れが激しくなるのは自律神経失調症の症状のうちでも重いモノらしい。或る日にはトイレが隅々まで綺麗に磨かれ、或る日には洗濯されたわたしの下着まで外に干してあった。何もかも覚えていない。もう限界だ──
なのに夫には話が通じなかった。
気のせいだろうと鼻で笑われた。
わたし自身は夫や仕事先との連絡は全てスマホなのだが、そちらには無言電話など掛かってこない。間違いなく、その
『何かあったとしても大昔さ。気にすんな』
そう言って笑う夫の鈍感さに心底失望した。
わたしは夫に何度も帰ってきて欲しい、それが駄目ならわたしと優芽も単身赴任先で一緒に暮らしたいと訴えた。しかし夫は単身赴任手当があくまで夫一人分の住居費しかカバーしてくれない事を理由に首を縦に振ってくれない。逆に優芽の将来も考えてこの家を見付けた自分の努力を無駄にするのかと責められた。
(勝手に決めたくせに…!)
そんなわたしの鬱屈に構わず、夫は呑気に言った。
『そういやその地域のすぐ
もしかしてそこを追い出された鬼が、周りの土地に棲まわせてくれ〜って来てるのかもな!』
ふざけるな。
どうしてそんな冗談が言えるのだ。
わたしは夫に頼るのを諦めた。
やっぱり優芽はわたしが護るしかないんだ……
トゥルルル……トゥルルル……
そして今日もまた無言電話が掛かってきた。
何故
何故優芽なのだ。
何故、わたしなのだ──
恐怖を通り越して、猛烈な怒りが湧いてくる。
トゥルルル……トゥルルル……
留守電の設定を解除してしまっていたらしく、呼び出し音が止まらない。わたしは鳴り続ける電話を無視して、まだ啜り泣きが聴こえる二階へと上がっていった。
「ママ…ママぁ……」
「大丈夫よ優芽…大丈夫…」
トゥルルル……トゥルルル……
止まらない電話。
パタパタ……
これは階段を上がるわたしの足音。
ガタッ。
天井から鬼の足音。
「ママぁ!」
「大丈夫……」
ガンガンッ。
壁を叩く鬼。
「ママっ!」
─やめて……
トゥルルル……トゥルルル……
ガタガタッ……
ガンガンッ……
「ママっ…ママっ……」
─やめろ……
トゥルルルルルルルルルル…………
ガタガタガタガタガタガタ…………
ガンガンガンガンガンガン……………
「ママぁああぁ━━っ!」
─やめ…ろ………
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルル……………………
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ……………………
─やめろっ………
この…鬼めっ……!
「やめろおおおおぉぉおおおお━━━━っ!」
………家の中に次々と鬼が入ってくる。
皆赤い肌をしている。赤鬼という事か。
顔も真っ赤なのだが、何故かどんな顔をしているのか分からない。目があって、鼻と口があって…というのは分かるけれど、顔の区別が付かない。鬼とはそういうモノなのだろうか?そういえば夫が何か言っていた。鬼は元々は姿の見えないモノだとか何とか……だから顔も見えないのか?夫に腹を立てていたわたしには、それ以上の説明は耳に入らなかったけれど。
わたしは気が狂った様に叫びながら、手を振り回している。手が痛い。赤鬼を殴り付けているのだ。無我夢中で殴り続けて、やがて疲れ果ててへたり込んだ。ゼェゼェ言いながら霞む目で辺りを見回す。
真っ赤だった。
涙と
─
そうして笑ったわたしも、きっと真っ赤なのだろう。鬼を残らず退治して、ホッとして──
頭に衝撃を受けた。
わたしは赤鬼達の
……ゆるゆると自然に目が開き、オレンジの光に焦点が合っていく。天井の常夜灯か。お陰でカーテンを閉め切っていても部屋の様子が分かる。わたしは二階の子供部屋で仰向けに寝ていた。隣を見ると優芽が並んで布団に入り、スヤスヤと眠っている。
今は夜…だろうか?添い寝をしているうちに眠ってしまったのか?もしかして朝?この部屋には時計が無い。スマホで時間を確認しようと起き上がりかけて──
不意に激しい頭痛に襲われた。
後頭部がズキズキする。ストレスが慢性化しているので片頭痛も珍しくないが、今朝はだいぶ酷い。相当疲れが溜まっている様だ。
それでもしばらく体育座りの格好でジッとしていたら落ち着いてきたので、改めてスマホを探す。しかし見当たらない。いつもなら寝過ごさないよう、目覚ましのアラームをバイブにして枕元に置いておくのだ。内職をしなくてはならないのに……そこまで考えて気が付いた。
今日は土曜日だ。パートも無い。昨日パート先の同僚達が、土日の休みに何をするかで盛り上がっていたのを聴いた。内職も昼間に出来る。早起きの必要が無かったので、スマホもついどこかに置きっ放しにしたのだろう。
わたしは優芽を起こさないように布団からそっと抜け出して、二階の部屋を出る。一階に下りて台所の窓のカーテンを少し捲ると、外は明るかった。やはり朝になっていたのだ。しかもいつ以来か分からない梅雨晴れだ。本当なら気持ちの良い朝だろう。しかし相変わらず頭痛の波が襲ってくる。
そのせいか、
─何だろう…昨日何かしたっけ……?
どうも記憶が曖昧だ。昨日は朝ゴミを出して…午後パートに行って…それから……夕ご飯は何を作ったかしら?裏庭の収蔵庫から野菜を出して使った気がするけど……わたしはまた、自分でやった家事を忘れてしまったのか?
ふと勝手口を見た。
扉は閉まり鍵もちゃんと掛かっているが、扉の内側には泥だらけの長靴が並んでいる。この長靴は玄関に置いていた気がするので、それがここにあるという事はやはり泥濘んだ庭に出たのだろう。
その横に立て掛けてある長さ1メートル程の大きなスコップにも泥が付いている。こちらも普段は家の外に出してあるモノだ。これも使ったのだろうか?野菜は埋めてある訳ではないが、大量のジャガイモなどはスコップに載せて運ぶ事もある。
でも何より、優芽の笑顔を見た記憶が無い。きっとまた、疲れて手抜き料理をしたのだろう。メニューも忘れてしまうくらいテキトーに。
─…ゴメンね、優芽。
頭は痛い。でもせっかくの良い天気の土曜日だ。
久し振りにちゃんと朝ご飯を作ろう。
─あのコの好きなパンケーキを焼いてあげようかな……
ガンガン。
玄関の戸を叩く音がして血の気が引く。
そんな、まさか。
しかしすぐに声がした。
「ごめんなして!
「ハ、ハイっ…」
鬼ではないらしい。対応に出ようとしてハッと自分の格好を確認する。パジャマではあまりにも…そう思ったが、見れば部屋着のTシャツとコットンパンツだった。
「どちら様ですか…?」
「ああ、申し
お巡りさん?
言われてみれば確かに声に聞き覚えがある。引っ越し後すぐに巡回に来てくれて、駐在所や消防団の詰所など防犯・防災に関わる場所を教えてくれた。体はゴツいが人の好さそうな髭面の五十代の男性巡査だ。わたしは慌てて大家さんが直してくれた鍵を回して戸を開ける。久々の晴天に眩しくて目を細めると、逆光の中に間違いなく制帽を被り制服を着た警察官が立っていた。
「あの、何か…?」
「ハイ。実は今
「は?」
業者?一体何の事だ?
「いやあ、ここんとこ近隣の地域で問題になっとったんですわ。急に知らん連中が訪ねてきて、屋根や雨樋が壊れとる、修理せにゃならんとか
わたしは黙って首を振る。優芽に有害な田舎の人と仲良くなる気は無く、パート先でも私語を交わす相手などいない。大家さんが話してくれたかもしれないが、彼女の話はわたしの耳を素通りしている。
しかし次の小島巡査の言葉はわたしの脳に突き刺さった。
「そん業者はねぇ、調査の為とかって
─え?
「ほんで調査の結果、すぐにでも雨漏りするって
そないして儲けとる
そん業者がここ最近、お
しかも…これぁ
空き家バンクに登録されとった個人情報が流出してなぁ、
ほんでそいつら、お
無言電話して
最初ん時は
そういう…事だったの。
それが、鬼の正体だったんだ……
その業者が家中を調べていたのなら、優芽が一人の時に聴いたという階下の物音も、外からの音を勘違いしたのではないか?わたしは衝撃で言葉が出ず、その様子を小島巡査が心配したのだろう。「とにかく
「ありがとうございます……」
ようやく声を振り絞って頭を下げながら、わたしはふと気付く。昨日の午前もその業者は来ていたのだ。いつ逮捕されたのだろう?それを巡査に尋ねてみると、彼は途端に言い淀んだ。捜査上の秘密というやつだろうか?
「うーん……まあ…捕まっとるっちゅうても、正確にはまだ被害届が出とらんから、逮捕ではなくて
「は?保護?」
「ハイ。
そいつら
「入院?」
「近くの救急病院に自分達の車で来たんだけんど、三人とも怪我しとって、一人は意識不明だったんだわ。何か後ろから殴られたみてぇで、全員後頭部や首に打撲痕があった。まあしばらくしたら意識も戻って、全員命に別状は無いけんどねぇ。そんで殴られたんなら傷害事件だべ?病院から連絡貰って行ってみたら、何か挙動不審な訳。作業着着とんのにどこの会社とか言わねえし…ほんで所轄の応援呼んで調べてみたら例のバカ
そしたらここん
三人が突然次々と、後ろから
全員振り向く暇も無く倒れたし、暗かったんで殴った相手の顔は見とらんそうだが……殴りながら何か叫んでたのは聞いたそうだべ。
女の声だったらしいけんど……」
小島巡査に昨夜その現場を見たり、変わった物音を聴かなかったかと言われてわたしは首を振る。連れてきた鑑識の人達と家の周りを調べてもいいかと尋ねられて頷く。話を訊きたいとも頼まれたが、娘に朝ご飯を作ってあげたいと言うと是非そっちを優先してくれと優しい声で応えてくれた。優芽が病気で外に出られないのを知っているのだ。台所でパンケーキの素を混ぜていると窓の外から巡査の声がして、泥濘んだ家の周囲で踏み荒らされた複数の足跡を採取したので帰るという。わたしは「ご苦労様でした」と応えながら、震えが止まらなかった。
巡査の話を聞いているうちにまた頭痛がぶり返し、同時に記憶が甦ってきた。今朝視た夢の記憶だ。赤鬼を次々と殴り斃していく夢──
あれは
そのリフォーム業者を襲ったのは
あの真っ赤な光景は
勝手口のスコップに目を遣る。
これが…凶器……?
我が家の夕ご飯は大体午後七時頃だ。その前に野菜を取りに出たなら、ちょうどその業者が訪ねてきたという六時半頃に外に出ていてもおかしくない。
頭の血管がドクドクと脈打つ。
そんなはずはない、そんなはずは……
わたしはやっていない。
やった記憶は無い。
けれどわたしは…わたしの記憶に自信が無い……
いや。
やったとしても──捕まる訳にはいかない。
わたしが捕まったら、誰が優芽を護るのだ。
歯を食いしばって、パンケーキを焼く。ふっくらと焼き上がったパンケーキにマーガリンの
「優芽━朝ご飯出来たよ━!優芽━?」
返事が無い。まだ寝ているのだろうか?
仕方無いのでパンケーキの皿と牛乳のコップをお盆に載せて二階に持っていくと、優芽は布団の上に座ってニコニコと待ち構えていた。まるでホテルのルームサービスだ。わたしも思わず笑顔になる。
そうだ、鬼はもう来ない。
やっとこの子が笑顔になれたのだ。
これからはこの笑顔を護るのだ。
殴られた連中も死んだ訳ではない。警察もそこまで厳しい捜査はしないのではないか?小島巡査もわたしに話を訊きたがっていたが、優芽の事を持ち出したら帰ってくれた。きっとそれほど疑ってはいない。可哀想な
わたしは──絶対に捕まらない。
食べ終えた食器を持って台所に戻った。
勝手口を見て、心臓が凍り付く。
スコップを持った鬼が立っていた。
「いやあああぁ━━━━っ!」
(後編に続く)