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第三話 かくれおに(後編)

 〈第三話 かくれおに(後編)〉


 そこには、スコップを持った鬼が立っていた。 


「いやあああぁ━━━━っ!」



 悲鳴が聴こえた。

 思わずボクも、隣を歩くジャッキーも辺りを見回す。

 梅雨晴れの土曜日、午前十時前である。

 ボク達は昨夜戸隠とがくし山の上でぬえが感じた殺意の発信源を探して、ふもとの街に降りてきていた。方角的にはここら辺なのだが具体的な手掛かりは無く、とりあえず朝からブラブラしていたら、さっき数人の警察官とすれ違った。

『何かあったのかな?』

『フム…もしかしたら昨夜ゆうべの件に関係あるかもな』

『けぇ』

 それでその警察官達が来た方向に向かって、この舗装されていない砂利道を歩いてきた。昨夜までの雨でまだ泥濘ぬかるんでいる道の右手は畑、左手は林でその向こうは山だ。近くに人影も無い。ならば今の悲鳴は……

 行く手の林が途切れてひらけた一角に、古いトタン造りの一軒家があった。周りには他に家は無い。

「あそこねっ…」

「けっ…」

 ボクが何か言うより早く、ジャッキーが駆け出していた。彼女の肩に留まっていたぬえが落ちそうになって一声啼く。

「どうしましたっ…大丈夫っ?」

 玄関の引き戸をガンガンと叩いて叫ぶジャッキー。遅れて辿り着いたボクが確認してみると戸には鍵が掛かっていた。留守か?いったん叩く手を止めさせて耳を澄ます。

「ああ…あああ……」

 奥の方からかすかに呻き声がする。

「裏に回ってみよう」

 ボク達は一軒家の左脇に回る。敷地を囲む塀や柵などは無い。家の外周の細い通路─〈犬走り〉も土が剥き出しで整備されておらず、その周りは雑草が伸びた空き地だ。通り抜け放題で防犯的には問題あり過ぎだが、昔の田舎の家はこんなモノか。

 その犬走りを抜けると裏庭は思ったより広い。十五坪ほどあるだろうか?駐車場にしたら車が四〜五台停められそうな広さだ。その向こうは高台の空き地で、その先は林、更に背景バックには山が聳えている。日光を遮るモノは何も無く、そんな日当たりの良さを生かしてか庭の三分の二は畑になっていて、うねが何本も並ぶ様子は家庭菜園と言うより本業の農家の様だ。小さなビニールハウスまである。しかしその畝にもビニールハウスにも芽や葉などが見当たらない。今は何も栽培されていない様だ。

 見れば畑の脇にブロックを積んで四角く囲んだ一角がある。高さはブロック二個分─20センチ程で、周囲は1メートル四方よりちょっと広いくらいだが、その上にトタン板を被せて、重しとして大きめの石が幾つか載せられていた。これも普通の庭では見ないモノだが……

「勝手口があるよ!」

 ジャッキーの声に振り向くと、確かに家の裏手にドアノブが付いた扉がある。

「やめて…来ないで……」

 その勝手口の中から呻き声が聴こえた。誰かに襲われているのか?ジャッキーが扉を開けようとするが、こちらも鍵が掛かっている。

「開けるよっ!退さがってっ!」

 緊急事態だと判断したジャッキーは勝手口に体当たりをした。古い家ならではの木製の扉は一撃で真ん中から割れた。流石、体力だけが自慢の鬼の馬鹿力。割れて歪んだドアノブの鍵が外れて、扉を引き開ける。


「お、鬼ぃ━━っ!」


 台所の床に一人の女が尻餅をいて叫んでいた。

 中年と言うには早い、まだ三十代だとは思われる。しかし肩の長さの髪はボサボサで毛先も枝毛だらけ、痩せていて頬が骨張り、酷いくまの上の血走った目ばかりが大きくギョロギョロと悪目立ちしている。化粧もしておらず、着ているTシャツもパンツもヨレヨレだ。そんな生活に疲れ果てた感が出まくっている女が、恐怖に怯えた表情カオでジャッキーを凝視していた。

「どうしてっ…鬼は退治したのにっ?どうしてぇっ……!」

 パニックになって自分を指差す女に、鬼娘ジャッキーは唖然として固まる。彼女は確かに片方だけとはいえツノがある。それで鬼だと分かって怯えているのか?いずれにしてもこのままではラチが開かないので、ボクが前に出る。

「ちょっとあんた、落ち着けよ。

 ボクは鬼じゃなくて天使だから。

 コイツも鬼だけど、そこまで鬼じゃないから、大丈夫だぞ、たぶん」

「天使……?」

 女はポカンとしてボクを見つめる。毒気を抜かれたといったカンジだ。面倒だったので雑に言ったのがかえって良かったのかもしれない。女はしばらくボクとジャッキーの顔を見比べて、呆然としたまま言った。

「わ、分からない…貴方達の顔が分からないんですけど……鬼じゃないの…?」

「あ、あたし達は他所よそから来たから、顔に見覚え無いのも当然です。でも鬼じゃないから…いや鬼だけど……とにかく大丈夫!」

 自称『鬼じゃない鬼』のフワフワした返答に、それでも女はとりあえずボク達が害を与えないと判断したのか、ホッとした様に大きく息を吐いた。ジャッキーが駆け寄る。

「どうしたの?誰かに襲われたんですか?」

「ハ、ハイ……この家には…鬼がいて……」

「え?」

 確かに目の前に邪悪鬼ジャッキーがいるが。

「その勝手口にスコップを持った鬼が立ってて…わたし怖ろしくて…頭も痛くて動けなくて……しばらくうずくまってたんだけど……」

 女は自分の両肩を抱き、震えながら周囲を見回す。

 彼女の言う通り農作業用と思われる大振りのスコップが台所の床に落ちているが、不審な人物は見当たらない。女は安堵の表情を浮かべたが、ボクは首を傾げた。

「これを持った─侵入者が中にいたって…ボクらが来た時、勝手口の鍵は掛かってたぞ?」

「あっ、じゃあそいつはまだ家の中に?」

 ジャッキーの言葉に女は弾かれた様に立ち上がる。

「に、二階に優芽ゆめが、娘がいるんですっ!」

「ホント?すぐ見に行かなきゃっ──」

「ああっ駄目っ…優芽は病気なのっ!このままじゃ日光が入ってきちゃう!」

 女は金切り声で勝手口を指差す。見れば勝手口の内側には遮光用と思われるカーテンが取り付けられているが、さっきジャッキーが強引に扉を破った際に一緒に引き千切られたらしく、カーテンレールごと外れて落ちている。扉にも穴が開いているので思い切り日光が射し込んでいた。

「わ、わたしが見てきます!扉を、カーテンを押さえて光が入らない様にしててっ!」

「あ、ちょっ…」

 ジャッキーが止める間も無く、女は台所を飛び出した。侵入者がいるなら一人で行くのは危険だ。あたふたとカーテンを押さえるジャッキーがボクに目で訴えてくるので、仕方無くボクも女の後を追う。階段を上っていると上から女の声がした。

「優芽!大丈夫、優芽っ?……ああ良かった、無事だったのね……」

 どうやら娘の部屋には侵入者はいなかった様だ。

「他の部屋はどうだ?」

「あ、いえ、まだ見てませんっ……」

 チッ。

「…分かった。あんたはそのまま娘さんといてくれ」

 階段の上はオレンジの常夜灯に照らされて、和室が二つ並んでいるのが見える。片方は襖が閉じられているので、そっちに母娘おやこがいるのだろう。僅かに襖が開いた方の部屋を確認しようと思ったが、中は真っ暗だ。こちらの窓も遮光カーテンで塞がれているのだろう。この闇の中から急に侵入者おにが襲ってきたらどうするのだ。くどいようだがボクは弱い。やっぱりジャッキーにこっちをやらせれば良かった。

 普通は鬼が探す側ではないのか?

 何故天使が隠れている鬼を探さなくてはならないのだ──

(……イチ…ニの…サン!)

 勢いを付けて襖を半分開け、部屋に飛び込んで電燈を点ける。そしてまたすぐ襖の陰に戻って恐る恐る室内を覗き込むが、幸い人の気配は無かった。

「ふう……」

 ボクはやり切ったぞ、ざまあみろ。

 それから一階に戻り、台所以外の居間や風呂場に行ってみたが誰もいない。最後に見た玄関もやはり無人で、鍵も掛かったままだ。


 つまり侵入者は、鍵の掛かった家から煙の様に姿を消した事になる──


 ボク達はとりあえず台所のカーテンを応急処置で直していたが、そこに女が戻ってきた。

「あの……」

 オドオドと周りを見回す女にボクは告げる。

「安心していいよ、家の中には誰もいなかった。

 娘はどうした?」

 脱力した女がユラリと前に倒れたので慌ててジャッキーが手を差し伸べたが、どうやらお辞儀をしただけらしい。

「ありがとうございます…娘は…優芽は、わたしの叫ぶ声が聴こえてたらしく不安そうな顔してましたけど、何でもないからって言い聞かせたら落ち着いて、笑顔も見せてくれました。とりあえず二階の部屋から出ない様に言ってきました。

 そうですか…鬼は…誰もいませんでしたか……

 すみません、毎日怖い事が続いてて、夢か幻でも視たのかもしれません。このスコップも普段家の外に出してるので、それが中にあったのが違和感で…嫌な想像が膨らんでしまったのかも。でもわたしが…な、何かで使って、外に戻すの忘れただけですよね。ちょっと記憶が曖昧なんですけど、昨日夕ご飯の準備で使ったと思うんです。長靴もあるし、スコップに泥が付いてるでしょ?きっと庭の収蔵庫から野菜を取ってきて……」

 床に転がるスコップを一瞥して、すぐに俯く女。あまりスコップを見たくないらしい。『何か』を言い淀んだのも引っ掛かる。

 ジャッキーが遠慮がちに尋ねた。

「その…怖い事が続いてるってどういう事?それが鬼の仕業なんですか?」

「いえ、それは……」

 女は目を逸らして言葉を濁す。後ろめたい事がありそうだ。

 ボクは声を低くして言った。

「実はボク達はの為にこの地域に来ていてね。昨夜ゆうべこの辺りでが起こったんじゃないか?」

 ハッと顔を上げる女。

「この家に来る途中、警察官とすれ違った。鑑識の連中もいたな。あんた、何があったか知ってるんじゃないか?

 それとも…あんたがやったのか?」

 ぬえが感知した殺意と絡めた当てずっぽうではあったが、女の顔はみるみる青める。あえて『殺意』だの『事件』だのの用語を使ったので、ボク達の事を警察関係者だと思ったのだろう。また頭痛が酷くなったのか、女は両手で頭を抱えながら語り始めた。

 単身赴任の夫が勝手に空き家バンクを利用して、この土地に引っ越しさせられた事──

 光線過敏症を抱える娘には、お節介な大家を始めとする過干渉な田舎暮らしが危険な事──

 そして階下から物音が聴こえたり、屋根や壁を叩く音がしたり、無言電話もしょっちゅう掛かってきて──

 そんな恐怖に娘共々ふるえて暮らし、ストレスで自律神経をやられて日々の家事の記憶さえ飛んでしまう事──

「わたしも優芽ももう限界なのにっ…それなのに夫は、この土地には鬼の伝説があるとか脅かすんです。だからこの家には鬼がいるんだって、わたし思い込んでっ……

 だけどそれは鬼じゃなくて、悪質なリフォーム業者の仕業だったんです。お巡りさんがその業者がウチを狙って、高額なリフォーム代を請求しようと無言電話で留守を確認して、屋根とか壁を調べてたって教えてくれて…それでわたし、鬼じゃなかったんだってホッとして……

 でもその業者が昨夜ゆうべ、ウチの周りで誰かに襲われたらしいんです!七時ちょっと前に玄関の前や壁の横とかにいた三人が次々に後ろから殴られて、犯人の顔は見てないけど女の叫ぶ声を聞いたって。

 その頃たぶん、わたしも野菜を取りに外に出てるんです。だからわたし…もしかして自分がやったんじゃないかって怖くなってっ……

 そんな夢も視たんです。赤鬼を殴って、部屋が血塗れになってっ…あれが夢じゃなくて、本当の事だったらっ……!」

 女は掠れた声でそう言って、スコップをまた一瞬だけチラリと見た。なるほど、これが凶器ではないかと思った訳か。

 眉をひそめたジャッキーがボクの顔を見る。

「ねえもしかして、ぬえちゃんが感じた殺意はその犯人の…?」

「かもしれないな。時間的には合う」

 昨夜ぬえが殺意を感知したのが午後六時三十九分だったのは、カシエルの懐中時計で確認している。

「けぇ…」

 そのぬえは首を傾げているが、もう一度同じ殺意を感知すればそれが同一人物のモノかどうかは分かるはずだ。もし本当に目の前の女が殺意を持ってそのリフォーム業者を襲い、結果死人が出たならコイツを地獄に送れるが──

「で、死んだのか?その業者」

「あ…いえ、三人共命に別状は無いって…」

 ちっ。じゃあ無駄足じゃねえか。殺生をしていないなら、とりあえず即地獄堕ちではない。

「どうしたらいいんでしょう?確かにわたしは毎日の様にウチにやって来るに怯えていました。その恐怖と生活のストレスに追い詰められて、精神的にもう限界で……よく覚えてないけど昨日は自棄ヤケになってた気もするんです。鬼が今度来たら退治してやる…って──その業者を襲ったのが本当にわたしだったらっ…!」

 女は半泣きになっているが、知った事か。

「まあテキトーに自首でもして。それじゃあ──」

「待て待て」

 テキトーに帰ろうとしたボクのパーカーのフードをジャッキーが引っ張る。伸びるから止めろ。

「天使のくせに薄情ね。この人困ってるじゃない!」

 そんなの殺人犯を地獄に送る捜査員ボクらには関係ないだろう。しかし相棒はボクを睨んで言った。

「この人は自分がやったかどうか分からないって言ってるのよ?大変な毎日で自分の記憶も信じられなくなって…それでも娘ちゃんを一生懸命護らなきゃって。

 これでもし犯人じゃないのに犯人にされちゃったら、紅葉もみじさんと同じじゃない。

 ただ我が子を護りたかっただけなのに鬼にされちゃった、あの可哀想なお母さんと同じじゃないっ……!」

 ったく…何でコイツまで目に涙を溜めてるんだ。ボクは溜息をつき、紅葉伝説の個人的解釈をこのお人好しの鬼に話した事を後悔した。

「じゃあそのさっき見たっていう鬼が犯人なんだろ。それでいいじゃん」

「またやる気の無い事言って!それこそ夢かもしれないって言ってるのにっ…」

「あー分かった分かった。

 どんなヤツだったんだよ、その鬼って」

 ジャッキーの抗議を受け流して何気なく質問すると、女は小さな声で呟いた。

「顔は見たんですけど…分からなかったんです」

「ん?」

 見たのに分からない?

「どういう事だ?覆面でも被ってたのか?」

「いえ…目とか鼻とかちゃんとあったと思うんですけど……昨夜ゆうべ夢で鬼退治してた時もそうだったんです。赤鬼がたくさん出てきたのに全然区別が付かなくて……夫が言ってました、鬼は元々姿がえないモノなんだって。それを聞いてたから、わたしは顔が分からない鬼を夢で創り出したのかも……

 でも分からない!何が現実ホントで何がウソなのか……優芽っ…優芽を護らなきゃいけないのに、わたしっ……!」

「ふうん…」

 頭を抱える女を横目に、ボクはちょっと真面目に考える。

 鬼は元々姿が視えない──女の夫が言ったのはある意味正しい。

 しかしそれは目の前のジャッキーとは鬼の事だ。

 地獄で獄卒として働くジャッキー達の様な実体のある鬼は、『悪い』『怖ろしい』或いは『強い』異形の怪物として、神話や伝説、お伽噺等を通して広く認識されている。

 しかし一方で『おに』の語源は『隠れる』の『おん』であり、元来は姿の視えないモノ、この世ならざるモノを意味するとの説が古くからある。中国由来と言われるこの説では、グゥイは死霊─死者の霊魂のことを指し、日本で言う『幽霊』に近いニュアンスとなるのだ。日本にもこの思想は入っており、人が死ぬ事を指して『鬼籍に入る』と言うのはこの為だ。

 勿論、過度な精神的ストレスが原因の幻覚とも考えられる。女はさっきからしきりに頭が痛いと訴えているが、本人曰く頭痛だけに留まらず記憶障害まで起こしているのだ。自律神経をやられると、幻聴を聴いたり妄想を視たりする事もある。

 ボクは床のスコップをもう一度眺めながら言った。

「死霊としての鬼なら顔も視えず、鍵の掛かった家にも出入り自由だ。確かにその鬼がリフォーム業者を襲った犯人ホシかもしれないが……」

「え〜テンちゃん、本気で言ってる?」

 女の背中をさすりながらジャッキーが非難がましい目を向けてくる。またボクがテキトーな事を言って話を終わらせようとしていると勘繰ったのだろう。だが──

 台所を見回す。

 テーブルの上にピンクのスマートフォンが載っている。

 そして床の上には泥が綺麗に拭き取られたスコップ。

─フム……

 やがてボクは一つの推理を組み立てていた。


─仕方無い。

 を捕まえてやるか。 



 ピンポーン♪

「ハイハイ、どなた〜?

 ああ、かえでさん……」

 玄関の戸を開けて顔を出したふくよかな女性オバちゃんは、目の前に立つ楓─優芽の母親の顔を見て一瞬笑顔になったが、すぐに怪訝な表情に変わった。楓の背後に立つボクとジャッキーが目に入ったからだ。そのオーバーオールを履いた農家のベテランママは、ボク達を値踏みする様に眺めて言う。

「見慣れねえ顔だわ。楓さんの知り合いかや?」

 しかし返事は無い。

 訝しんだオバちゃんが楓を見ると、彼女は目を見開いてオバちゃんの顔を凝視していた。

「大家さん……なんですか…?」

「は?おさん何言って──」

─やはりそうか。

「見慣れない顔……うん、普通はそう言うんだ。初対面の人に遭ったらな。だけど楓はボク達を見てこう言った──

『顔が』ってね。

 今もそうなんだろ?

 この人の顔がんだろ?」

 呆然と頷く楓。

 ボクは淡々と告げる。


だな。

 今あんたは、人の顔を識別できなくなってるんだ」


「そうぼうしつにん…?」

 振り返ってこちらを見つめる楓だが、ボクの顔も認識できていないのだろう。

〈相貌失認〉は脳の障害による〈失認〉の一種で、失認とは視覚や聴覚等の五感に異常が無いにも関わらず、認知能力が正常に機能しない状態だ。相貌失認は目・鼻・口といった個々の顔のパーツや輪郭などは知覚できるのに、全体を把握して『一つの顔』として正しく認識する事が出来ない為、人の顔の区別が付かない、覚えられない、男女の区別や表情が分からないといった症状があらわれる高次の視覚機能障害である。

「俗に『失顔しつがん症』とも呼ばれるけどね、その親しい知人の顔が突然認識できなくなるという典型的な症状は相当古くから確認されてる。紀元前の古代ギリシアでの戦争で、兵士が失顔症になった症例の記録が残ってるほどだ。現代でも著名な学者や政治家、ハリウッドの俳優など相貌失認を告白している人は結構多くてね、その数は判定の基準によっては世界の成人の5パーセントに達するとも言われてるよ」

「わたしがその…失顔症だっていうの…?そんな……」

 楓は怯えた表情でボクと大家のオバちゃん、更にはボクの後ろに立つジャッキーの顔を見比べる。その目が不安に揺れているのを見ると、自分が誰の顔も判別できていないと改めて分かってしまったに違いない。

 今朝尋ねてきた巡査の顔も認識できていなかったはずだが、相貌失認の自覚が無かった楓はその警察官の制服と聞き知っている声で相手を特定した。それで顔が見えているつもりになっていたのだろう。そういう自分にとって都合の悪い情報を無視したり、危険を過小評価したりする認知の無意識な調整──〈正常性バイアス〉が働いてしまうのが、常に心理的安定を求める人間の防衛本能だ。

 ボクはそんな楓に思い切り同情して情けない表情カオになっているジャッキーを指差す。

「だからあんた、コイツの事をいきなり『鬼』って言ったんだろ?

 鬼ってのは顔が分からないバケモノの事だと思ってたから」

 そう、初めて遭った時、楓はジャッキーをツノで鬼と認定した訳ではなかったのだ。

 楓は耐え切れなくなった様に叫ぶ。

「何でっ…昨日まではちゃんと分かってたのにっ?大家さんの顔だって昨日まではっ……!」

 パニックになりかけた楓をボクは制した。

「あんた、ずっと頭が痛いって言ってるよな。それはいつから?」

「え…」

 虚を突かれた楓は口を噤んで後頭部に手を当てる。

「今朝起きた時からだけど…片頭痛は珍しくないから……」

「確かに自律神経失調症で片頭痛ってのは代表的な症状だし、その痛みがよくあるこめかみや目の周りだけじゃなく後頭部に起こる事もある。

 けどな、相貌失認には恐らく遺伝的な要因による『発達性』のモノと、『後天性』のモノがあってね。昨日まで異状が無かったあんたの場合、どう考えても生まれ付きじゃない後天性だ。

 その後天性の相貌失認は知覚を司る脳の機能が何らかのダメージを被る事で発症するんだが、その原因となるのは例えば脳腫瘍や脳卒中、脳炎、アルツハイマー病等の神経変性疾患、或いは感染症の後遺症で相貌失認になった例も報告されている。


 そして勿論、でも、脳はダメージを受けるからな。

 楓の場合はそれだろう」


 楓が口をポカンと開ける。

「殴られた…わたしが……?」

「あんた言ってたじゃねえか。昨日夕飯の準備した頃がどうも記憶が曖昧だ、庭の収蔵庫に野菜を取りに行ったと思うけど─って。収蔵庫ってのはさっき見たけど、庭にブロックを積んで、上にトタンを被せた所だろ?」

 それは農家や家庭菜園がある場所ではちょくちょく見かけるモノで、主に大根や人参、ジャガイモ等の常温で保存が出来る根菜類が貯蔵されている。パッと見は1メートル四方でもブロックで囲まれた内側は少し地面を掘り下げてあるので、それなりの広さと深さがあるらしい。長野のこの辺りの地域では乾燥野菜が名産な事もあって、今朝から回って見たどの家でも確認できた。

昨夜ゆうべ楓が野菜を取りに庭に出たのは午後六時半過ぎなんだよな?ボク達が戸隠神社の奥社に着いた頃だ。雨も止んでいたから傘を差すまでもなく外に出られただろう。

 ただあの庭の位置関係なら普通、勝手口を開けておけば台所の明かりが収蔵庫まで届くだろうが、あの家は遮光カーテンのお陰で光が外に漏れない。

 だからあんたは、で足元を照らした」

「え?」

 声を上げたのはジャッキーだ。

「何でスマホのライトって分かるのよ?懐中電燈かもしれないじゃん」

「へっ」

 ボクは口の端を吊り上げ、思い切り小馬鹿にした目を向ける。

「ホント、鬼の目は節穴だな。台所のテーブルの上にライトが点きっ放しのスマホが載ってただろうが」

「ウソっ?」

 バーカ。

「ハイ…よく覚えてないけど、野菜を取りに行くくらいは確かにいつもスマホのライトで済ませてます」

「慣れた作業ならそれで充分だろうさ。だけどスマホのライトを足元に向けたら、それを持ってる人間にはちっとも光が当たらない。ほぼシルエットだ。


 、襲われても仕方が無い」


「あっ…」

 楓が両手で口を覆う。

「そう、リフォーム業者が来ていた時間と楓が庭に出ていた時間はちょうど被るんだ。犯人は業者が玄関や家の側壁に分かれているのを見て、全員を仕留めるには他の連中が気付く間も与えず、連続で殴っていくしかないと思ったんだろう。それで家の周りを走りながら、次々に凶器を振り下ろしていった。その暴力の短距離トラックのコース上にシルエットの楓もいて、一緒に被害に遭った訳さ。

 ただあんたは殴られてもその場を必死に逃げ、勝手口から家の中に駆け込んで鍵を掛けたんだろう。だからスマホも台所にあった。だけどその後は殴られた衝撃で朦朧として、記憶が曖昧になったんじゃないかな?それでスマホのライトも点けっ放しで放置、夕飯作りも無意識でやって、そして相貌失認を発症した──これなら筋が通ると思わないか?」

 唖然とする楓。

 代わりにジャッキーが叫ぶ。

「だ、誰なのっ?その犯人って──」


「あちゃ〜堪忍かにや。

 おら、楓さんまで殴っどうずいちゃったんだ〜」 


 あっけらかんと大家が言った。

 ジャッキーも楓も目を真ん丸にして固まる。

「ほれ、楓さん、ずうっと鬼が来て屋根に乗ったり壁叩いたりするってまんずとても悩んどったでしょう?おら心配しんぺえしとったんだけんど、ほんだら最近、悪質へぼなリフォーム業者がここいらで悪さよたしとるって聞いて、と思ってねぇ。

 ほんだもんで、おら退しちゃろうって思ったんだわ!

 そんで昨夜ゆんべ、作業着であいってく連中が私の家おらっちから見えてね。ああこいつらかって追っかけてったら、何かおめたえちの前で相談してっから、横の空き地のくさむら通って追い抜いてさ。ほんだらおさんとこのスコップが壁に立て掛けてあったんで、それ持って走ってって、家の周りに散った鬼共を片っ端から殴っどうずいたった。

『鬼は外ーっ!』て叫んでがなってねぇ。

 いやあ〜これで楓さんも優芽ちゃんももう大丈夫あんじゃねーって、せいせいしたわ〜」

 三人の男と楓をスコップで殴り付け、一人を意識不明、一人を相貌失認にした犯人は、呑気に笑いながら自白した。

「そんで家に帰って、しばらくしてから思い出したんよ。楓さんの裏庭にスコップを捨てぶちゃってきちゃった。これ、警察とかに見付かったらマズいじゃん?おら慌てて夜中にもう一度おめたえちに行ったんだけんど、時間が遅かったもんで寝ちゃっとるだにと思ってねぇ。

 ちょいと勝手口の鍵開けて、台所にスコップ入れとったにぃ」

「は?」

 大家の発言に楓の眉が吊り上がる。

「鍵を…開けて…?」

「ほんで今朝、巡査じんささん達が調べにきたんもこっそり見とったけんど、スコップは見付からんじゃったろ?もう大丈夫あんじゃね思うて、けんど泥付いとったで綺麗にしとこて、またお邪魔したんだわ。ほいだらおさん、あんなにたまげて〜!」

 クスクスと笑う大家。

 思った通りだ。楓は今朝最初に見た時の印象でスコップに泥が付いているとずっと言っていたが、ボクが見た時その泥は既に拭い取られていたのだ。

「分かったか楓?


 今朝あんたが台所で見た顔の分からないは、勝手に入ってきてスコップを拭いていたこのオバちゃんだ。

 大家の立場を利用して、合鍵を作ったんだろうな」


「合…鍵……?」

 楓の顔は怒りで朱に染まっていく。

「そんな…大家さんとはいえ勝手に他人の家に出入りするなんてっ…不法侵入です!許可無く合鍵作るなんて、どうしてそんな事をっ……」

「あちゃまあ、何怒っとんの?楓さん毎日大変えらいから、おらが助けちゃるって思っただに〜。

 ほいで洗濯とか掃除とか、昼んうちにおめたえちに行ってちょこちょこやっとったんだわ。

 そん為にゃ鍵がえと困るら?」

「なっ…」

 絶句する楓。こんな頼んでもいないハウスキーパーがいたのなら、彼女に家事の記憶が無いのも当然だ。楓が留守の間優芽が聞いていた物音は、このオバちゃんが動き回って立てていたのだ。

「けんど安心して。優芽ちゃんがお日様に当たったら駄目しけねーのはちゃんと分かっとったから、二階には上がらんかったずら。間違ってカーテン開けたりしたらいかんもんねぇ」

「な、何言ってんのっ!優芽は…その物音に怯えてっ……」

「あ?それぁリフォーム業者のせいだべ?」

 キョトンとする大家。全く悪びれた様子が無い。何だコイツは?自身の行動がどんな結果をもたらしていたのか、まるで自覚していない。

 家を調べる悪徳業者と勝手に入り込んでいたこのオバちゃんが、共同作業でこの家に幻の鬼を生み落としていたというのに。

 いくら田舎の人間がお節介で世話焼きだといっても、こうなるとそんな地域的な特徴などでは済まされない。例え善意の行動でも最悪、母娘おやこの生死にまで関わっていたかもしれない──

─コイツもしかして……


「良かたねえ楓さん、鬼退治出来て〜。

 さー、こっからもおらがおさんと優芽ちゃん護っちゃるで、元気ずく出してずーっとここんで暮らしましょ!」


 満面の笑みを浮かべ両手を広げた大家に、ボクもジャッキーも言葉を失う。

 相貌失認で相手の表情が読み取りづらくなっている楓でさえ、青めた顔で後退ずさった。このオバちゃんはその雰囲気だけで相手を恐怖させるほど、常識からかけ離れていて、異常だ。

「……冗談じゃない…何が鬼退治出来て良かったよ……

 あんたこそ鬼じゃない!

 あんたが余計な事してたせいで、わたしも優芽も苦しんできたんじゃないのっ!」

 遂に楓が爆発した。

「どうしたべ楓さん、何怒って…」

「もうこんなとこにはいたくないっ……すぐに引っ越しますし、警察にも相談しますからね!

 初めからこんな田舎に来たくなかったのよ!」

 大家の顔付きが変わった。

 口元から笑みが消え、スウッと目が細くなる。

「…おめぇ、何言ってこいてんだ?

 おらがこんだけ良くしてやっとるだに、何が気に食わんかや……?」

「ど、どうせ言っても分かってもらえないんでしょ?とにかくもう、わたし達には関わらないで──」


「おえ━━っ!」


「ひっ…」

 突然奇声を上げた大家に、楓は肩をすくめる。『おえー』は腹が立った時に使う方言で『冗談じゃない』といった意味らしい。ボクも長野に来てから何度か聞いた。

 さっきまでの狂気染みた慈愛の表情をかなぐり捨てて、大家は目を三角にして怒鳴り始めた。

「これだから他所者よそもんなんだわ!田舎に来たくなかったぁ?空き家にやっすく住まわせてやって、洗濯も掃除もしてやったんに…あんなにお世話せつしてもろて、恩を仇で返しやがってよぉ!おめぇも最初はなからおらんこと田舎もんって馬鹿にしとったんだべ?胸糞けたくそわりぃ!ああ、どうせおらぁ、こんクソ田舎でつまらないげえもねぇ人生で終わるんだ。

 おめぇの娘も散々心配しんぺえしてやったんにっ…ハン、なんがお日様に当たれん病気だ!んなもん都会の小娘こびい根性ずく無しなだけだべっ?」

 口から泡を飛ばして楓を罵る大家。

 楓はすっかり怯えている。

「ほうかいほうかい、行っちまえ行っちまえ!

 人の真心が分からん馬鹿ばあたれは今すぐ行っちまえっ!

 行かんならぶちのめすぞ、こん馬鹿者たわけえっ!」

「けええっ!」

 ジャッキーの肩の上でぬえが韻を踏んで啼き、膨らんだ。

 だ。

 きっと昨夜も戸隠山の上で、同じ波形の殺意を感知したのだろう。 

 その時もこのオバちゃんは殺意を持って、スコップで四人の被害者を次々と殴り付けていたのだ──本人はあくまでもそれが楓達を救う善行だと思って。


 やはりコイツは、


─〈メサイアコンプレックス〉ってやつか……

 メサイアコンプレックスとは『自分には価値が無い』『自分は不幸だ』などの劣等感を抱えている人間が、その自身の劣等感を他者を救う事で補おうとして、人を救うのが使命だという誇大妄想を持つ心理状態を指す。『メサイア』はヘブライ語で、英語で言えば『メシア』──『救世主』である。

 このメサイアコンプレックスの当事者は一見、率先して人助けをする好ましい人物に見える。しかし実際には他人を救う事で劣等感から解放され、自己満足を得たいだけだ。親切な自分、誰かを救える自分に酔いれていて、心の底から相手を思い遣っているとは言い難い。だからこの大家の様に相手の事情を考えず勝手に行動したり、過剰な振る舞いが平気で出来る。不法侵入で楓と優芽を精神的に追い詰めても気が付かなかったり、リフォーム業者を襲うなんて極端な手段を躊躇無く取れるのもその為だ。

 しかしそんなやり方では本人は救っているつもりでも、むしろありがた迷惑として敬遠されてしまう。そうなると周囲との人間関係はどんどん上手くいかなくなり、劣等感もいつまでも払拭できずに鬱屈していく。そんな状態から抜け出したくてまた人助けに没頭するのだが、動機があくまで自己都合な為、相手が援助を断ったり自分の思い描く結果にならなかったりすると、途端に機嫌を損ねて救うはずの相手を責めてしまうのだ。大家の楓への態度が急変して殺意まで抱いたのはそういう訳だ。

 つまりコイツにとっては自分が救世主になれるなら、もし人を殺してもそれは善──ある意味、善意で人が殺せるのだ。

 ボクはキーキー騒いでいるオバちゃんを生温かい目で眺めながら溜息をつく。案の定、どの地獄に堕とすか分かりづらい殺意の持ち主にまた遭ってしまった。

 だが今回コイツは人殺しはしていない。ボク達の仕事は即地獄行きの殺人犯を生前から見付けておく事なので、こんな傷害事件の犯人ホシは本来対象外だが……

「よおオバちゃん」

 ボクが呼び掛けると、大家はギロリとこっちを睨んだ。

「あ?おめぇも他所者よそもんか?

 こんクソ女とさっさとどっか行っちまえ!」


 ボクは──ニッコリと微笑わらった。


「どっか行くのはあんただよ。

 楓の家の周り走り回ってた靴痕は鑑識が採取してったからな、あんたの靴と照合するよう伝えとく」

 一瞬怯んだ大家は、しかしすぐに不敵な笑みを浮かべる。

「へっ、あの家は元々おらだわ。しょっちゅう出入りしとんだに、靴痕があってもぜーんぜん変じゃないずら!」

「うん、だから──」

 ボクはますます天使のエンジェルズ微笑スマイルを炸裂させた。

「録音してもらってたんだ、ホラ」

 そう言って指差した先で、楓が自分のピンクのスマホをパンツのポケットから取り出した。

「あんたさっき自分がやった事、散々嬉しそうに喋ってたからな。

 地獄に堕とせないのは残念だけど、暴行罪と住居侵入罪で監獄行ってきな」


「おっ…おえ━━━っ!」


 また奇声を上げて楓に飛び掛かろうとした大家を、素早く前に出たジャッキーが取り押さえる。

「やめっ…やめり━━つ!」

「止めるのはそっちよ。

 もう楓さんと優芽ちゃんを苦しめないで」

「おええ━━っ!」


 こうして母娘おやこを苦しめた最後の鬼は、ホンモノの鬼に捕まった。



「本当にありがとうございました。

 お陰でこれからは、優芽と静かに暮らせます」

 楓が右隣のボクに頭を下げる。

 その楓の左隣にいるジャッキーが朗らかに応えた。

「良かったね楓さん!頭の痛みはどう?」

「ハイ、今は落ち着いてるみたい」

「じゃあ早く優芽ちゃんとこ戻ろう。ずいぶん留守番させちゃったからね」

 ジャッキーはそう言って、自分よりだいぶ背の低い楓の肩を支える様に抱く。 

 あれからしばらくおえおえ喚いていた大家は、通報を受けて駆け付けた小島巡査とちょうど一緒に近辺を捜査中だった所轄の刑事に連行されていった。楓もボク達もその場で簡単に事情聴取を受けたが、楓のスマホの録音データを巡査のスマホに転送して、後はまた改めてという事で解放してもらったのだ。大家を追及する為に楓の家を出てから二時間近く経っている。その間二階の部屋で優芽がずっと待っているのだと楓が告げると、人情派の巡査はそれはすぐ帰すべきだと所轄の刑事を説得してくれた。

 それで今ボク達は楓を中心に三人並んで、トタン屋根の家を目指して砂利道を歩いている。と言っても大家の家からは200メートル程しか離れていないので、怪我人の楓に配慮してゆっくり歩いても五分で着くだろう。

 空は晴れ上がり、太陽は天頂近くに昇っている。もうすぐ正午だ。陽射しがポカポカと気持ち良く、ジャッキーの肩の上でぬえも丸くなって眠っていた。

「それにしても今日はキモチ良い天気ね〜♪

 あ、そうだ、楓さんもすぐ病院行くのよ?

 頭の怪我をちゃんと治療すれば相貌失認も治るんでしょ、テンちゃん?」

「まあ…な」

「何よ、歯切れ悪いわね」

 ボクの返答にジャッキーは不満げだが、仕方あるまい。相貌失認は治療法が完全に確立されている訳ではない。

 それでも脳卒中や脳外傷によって後天的に相貌失認が生じた場合、生まれ付きの発達性のモノよりは遥かに回復が期待できる。

「楓の場合、まずは相貌失認の原因となった外傷─頭の怪我をしっかり治す事だ。それと並行して薬物療法やリハビリをする。顔の特徴を覚える為に色んな人の写真を見ながら名前を覚えたり、表情から感情を読み取る訓練として映画を観てストーリーを追ったり…そんなリハビリメニューが有効らしい。

 そして怪我が完全に回復したら早く元の生活に戻って、人と接する機会を増やすんだ。そうやって脳の顔の認識に関わる領域を刺激するんだな。それで劇的に症状が改善した例も多くあるそうだから。もしその部分の細胞が回復しなくても、周辺の細胞がその機能を補おうと活動し、顔認識が出来るようになる可能性は高まるらしい。

 まあとにかく、あんた自身の頑張り次第だな」

「ハイ、頑張ります。優芽の為にも…!」

「何だか楓さん、元気になったね?」

 ジャッキーが少し意外そうに楓を見るが、確かに力強く返事をした彼女は最初よりだいぶ明るい表情をしている。

「たぶん…相貌失認のお陰かな」

「え?」

 思わずボクもその吹っ切れた様な顔を見た。

「わたし、ずっと優芽の光線過敏症が治るよう『頑張れ』って、その為にママは出来る事何でもしてあげるからねって、思い詰めて生きてきました。

 でも心のどこかで、わたしは娘の病気にって被害者意識があった気がします。あのコが普通に健康だったらわたしの人生はもっと……って。それが態度に出てたかもしれない。面倒見てあげてるんだから感謝しなさい。小学生になったらちゃんと学校に行って、出来る事で恩返ししなさいって……それで無理やり難しい勉強もやらせて、悲しい思いをさせてたかもしれません。でも──

 今のわたしは優芽と同じ。これから自分の病気と向き合っていかなきゃいけないんです。だから今ならあのコにハッキリ言えます。優芽にはわたしが付いていて、わたしには優芽が付いている。どっちかが支えてる引け目なんか感じなくていい。

 って!」

 なるほど…まあ前向きに生きていれば、良い方向に転がっていくだろう。

 ジャッキーもニコニコと呼応する。

「そ〜そ〜鬼もいなくなったんだしね!」

 いなくなったっておまえが言うな。

「それにしてもやっぱり親子の絆は強いのね〜。

 あたし親なんてよく覚えてない…てかいたっけ?」

 首を捻るジャッキー。

 確かに親なんて鬼にも天使にもあまり縁が無い。

 鬼の出自には人間や死霊が変化へんげしたとか、信仰や自然物から発生した一種の神や妖怪だとか様々な説があり、ハッキリとした生みの親がいるかは知らない。いわゆる『鬼親』は意味が違う。

 一方ボク達天使は、創造主が光から生み出した霊的な存在だ。創造主は一応父ではあるが血が繋がっている訳でもないし、ましてや楓の様に腹を痛めた母親はいない。

 ボクは冷たい声で言う。

「へっ、親がいたかどうかも分かんねえくせに、親子の絆云々語るな」

「え〜だってさあ、感動したんだもん。


 楓さん、人の顔が分からなくなってるんでしょ?

 でも優芽ちゃんの事はちゃんと分かってたじゃん。

 最初に悲鳴を聴いてあたし達が家に入った時、楓さん、言ってたもんね。その騒ぎで優芽ちゃんも不安そうな顔してたけど、その後落ち着いて、笑顔も見せてくれたって。

 やっぱ母親って、他の人は分からなくても娘の顔だけは分かるんだなあ〜って…」


 確かにそうだった。

 楓は優芽の顔は認識できていた。

 いや─正確には、出来ていると

 ずっと台所にいたジャッキーは勿論、二階に上がったボクも優芽には遭っていないのだ。

 と言っても光線過敏症という特別な事情があるので、部屋から出てこなくても不自然ではない。

 それに相貌失認にも程度の違いがあって、親しい人の顔は覚えられないが写真の顔の違いは分かる、或いは逆に写真や映画等の二次元の顔が見分けられない等、様々なタイプが確認されている。ベッドの隣で目覚めた朝には認識できていた配偶者の顔が、昼の外出時に予期せずスーパーで見かけたら分からなかった例もあるそうだ。

 母親が一緒に住んでいる娘の顔だけは認識できる──そんなレアケースもあり得るのかもしれない。

「そっか、確かに優芽の顔だけは分かった……

 うん、ホントに頑張れるわ、わたし…!」

 そう言って楓は青空を見上げた。


 間もなく楓の家に着いた。

 ボクとジャッキーはそのまま帰っても良かったのだが、楓が一度娘に会ってくれと言い、ジャッキーも『逢いたいっ♡』て騒いだので、仕方無くお邪魔する。

 玄関の戸はちゃんと施錠されている。

 勝手口もジャッキーが体当たりして壊した所に頑丈な布のガムテープを何重にも貼り付けて応急処置をし、しっかり鍵を掛けた。合鍵を持っていた大家が捕まった以上、もうこの家にが侵入してくる事は無い。そうじゃなければ優芽を独りで留守番などさせられない。

 ボク達は常夜灯だけが照らす薄暗い屋内に入り、楓が階段の上に声を掛ける。

「ただいま優芽ー!遅くなってゴメンね。

 お腹空いたでしょ?すぐお昼ご飯作るからー」

「いやいや楓さん、怪我してるんだから無理しないで。ご飯ならあたしが作るよ♪」

「鬼の食糧?まさか村人を狩りに……」

「行かないよっ」

 暇なので鬼娘をからかっていたが、その間二階からは何も反応が無い。

「優芽ー?寝てるのー?」

 楓が階段を上がっていく。

 やがて襖を開ける音がした次の瞬間。


「えっ、優芽?

 優芽っ、優芽ーっ?」

 楓が悲鳴を上げて、バタバタと動き回る音がする。


 瞬時にジャッキーが階段を駆け上がり、ボクも一応続く。

 二階に辿り着き、開け放たれた襖の前に行こうとした時──

「優芽ぇ━━っ!」

「キャッ…」

 部屋から飛び出してきた楓がジャッキーにぶつかる。そのまま倒れてきたらボクも巻き添えを食うところだったが、幸い頑丈な鬼の壁はビクともせず、痩せ細った女を受け止めた。

 あれ?何か黒い塊が視界を横切った様な……

「ど、どうしたの楓さんっ…」

「優芽が、優芽がいないのっ!」

「えっ?」

「隣の部屋も見たけどいなくてっ……」

「わ、分かった、一階した探そう!」

 優芽の名前を呼びながら慌てて階段を駆け下りていく二人。

 ボクは独り取り残されて──いや。

「けぇ……」

 向かいの部屋の襖を見るとこちらも開いているが、これは楓が優芽を探したからだろう。その中からぬえがフラフラと羽ばたきながら出てきた。ああ、さっき横切った黒いモノはコイツか。楓がぶつかってきた衝撃で、載っていたジャッキーの肩から吹き飛ばされたのだろう。

 階下から優芽を呼ぶ声が聴こえるが、まあ狭い家だ。とりあえずそっちはジャッキー達に任せて、ボクは優芽の部屋を覗いた。


 遮光カーテンに閉ざされた和室の中央に布団が敷かれている。

 その傍らには画用紙とクレヨンが載った小さな木のテーブルと、オモチャが入った段ボール箱。小型テレビ。

 枕元の押し入れの襖も開けられているが、その上の段には絵本が綺麗に並べられ、CDラジカセとディスクも置いてある。下の段の衣装ケースにはたくさんのぬいぐるみが座っていた。

 太陽に愛されなかった五歳の少女はこの部屋で絵を描き、ぬいぐるみと遊び、絵本の国を旅して音楽を浴びていたのだろう。

 そんな優芽の世界を常夜灯のオレンジの光が静かに包んでいる。

 しかし、そこに主の姿は無かった。


「まあ戸締まりがしてあったんだから、外に行ったとは思えないが…」

 ボクがそう呟いていたら、目の前をまた黒い綿毛がフワフワと横切った。

「けえぇ……」

─何だ…?

 ぬえは引き寄せられる様にテーブルに向かって飛んでいき、その上に留まって俯く。どうやらボクからは死角になっているテーブル板のカドをジッと見ている様だ。

「けぇ…?」

「どうした?そこに何かあるのか?」

 ボクも気になってテーブル脇に歩いていき、その角を覗き込んだ。


 血が─付いている。


 苺の粒ほどの大きさの赤黒い塊が、角にドロリとまとわりついている。鼻血が上から垂れたとか、そんな状態の血痕ではない。明らかにこの角に体の一部が激しくぶつかって、その血肉が抉られてこびり付いたモノだ。その時は真っ赤な鮮血だっただろうが、変色した今もまだ赤みがだいぶ残っている。血液の赤色は酸化が進めばどんどん黒ずみ、やがて茶色から黒色になるが、この色合いなら出血してから長くてもせいぜい半日──

 ……?

「けけ…」

 ぬえがくちばしでその血痕を突付いた。


「けぇっ」

─え?

 一気に黒い毛玉が膨れ上がった。


 

 血痕に殺意が残ってるのか?

 そこで思い出した。

 割と最近、似た様な事があったのだ。

 池袋のとある慰霊碑に祀られている被害者の無念が宿っていたのだが、同時に加害者の殺意も刻まれていて、ぬえはその過去の殺意を感知した。

 今回も同じケースだとしたら、に残っている殺意はこの血痕の主を襲った加害者のモノなのではないのか?

 これは誰の血だ?

 襲ったのは誰だ?

「優芽ーっ!どこなのぉーっ?」

 楓の声が聴こえる。

 ボクはハッとして、ぬえに尋ねた。

「おい、今お前が感じた殺意ってもしかして……


 昨夜ゆうべ感知した──?」


「けぇ!」


 ボクは優芽の部屋を飛び出した。



 優芽がいない。

 わたしの優芽が。

 この長野に来てから、自分の部屋を出ようとしなかったのに。

 二階にはいなかった。一階の居間にも、和室にもいない。物置にしてる部屋にはこの空き家に昔からあった家具を詰め込んであるけど、そのガラクタの中にもいなかった。玄関…お風呂…トイレ……

 頭がまた痛み出した。目眩もする。

 ……そうだ、東京にいた頃は外に出られない優芽とマンションの部屋の中で、よくをしたっけ……


─みぃ~つけた!

─あ〜見付かっちゃった〜!

 優芽は見付けるのホント上手ね〜。

─えへへ〜。

 ゆめ、かくれるのもうまいよ!

─ウフフ、そうね。

─じゃあつぎ、ママがおにね。

─ハーイ。

 いーち…にーい…さーん……… 


「どこなの優芽…どこに隠れてるの……?」

 頭痛に耐えながら台所に来たけど、ここにもいない。

 殴られた後頭部が脈打ち、立っているのも辛い。

 まさか外…?

 そんなはずはない!そんなはずはないけどっ……

 それとも何かあったのだろうか?

 まだわたしと優芽には不幸が続くというのか?

 やっとわずらわしい事が片付いたのに。

 鬼が全部退治できたのに……!


─ママが、おにね──


 頭が…割れる様に痛い……


「ママもう降参…出てきて優芽……

 かくれんぼはもうおしまいにしてっ……!」


 ガンガンッ。

 勝手口の扉が外から叩かれ、その音がわたしの頭蓋を更に掻き乱す。

だ!」 

「えっ、テンちゃんっ?」

 わたしと一緒に優芽を探してくれていた女の子が叫ぶ。顔は分からないけど優しいコだ。

 もう一人の不機嫌そうな声の男の子が外から呼んでいるけど、どうしたのだろう?優芽なら外にいるはずはない。

 ああ…頭が……

「早くしろ!

 娘を見付けたんだよ!」

─え?

 女の子が勝手口を物凄い勢いで開け、応急処置していた扉がまた割れた。

 頭に響く…朦朧としてきた……

─今男の子は何て……見付けた?

 誰を……

「しっかりっ…しっかりしてっ……


 !」


 わたしがフラフラと外に出ると、男の子が野菜の収蔵庫の上に被せていたトタン板を持ち上げ、女の子がしゃがんでブロックに囲まれた中からグッタリした子供を抱き上げていた。

 子供の顔は分からないが、そのピンクのパジャマは見覚えがある。


─みぃ〜つけた。 


 ……思い出した。

 わたしが優芽を、に隠したんだ。


 昨日の朝、ゴミ出しから帰ってきたところに、またがやって来た。

 無言電話が掛かってきて…屋根や壁から音がして…今ならあれはリフォーム業者の仕業だと知っているが、その時は分かるはずもない。

 トゥルルル……トゥルルル……

 ガタガタッ……

 ガンガンッ…… 

 その音だけでも気が狂いそうになってたのに。

『ママっ…ママっ……』

─やめろ……

 トゥルルルルルルルルルル…………

 わたしの可愛い優芽。

 ガタガタガタガタガタガタ…………

 時間も生活も全て捧げてきた大切な娘。

 ガンガンガンガンガンガン……………

『ママぁああぁ━━っ!』

─やめ…ろ………

 トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルル……………………

 厄介な病気を抱えて…。

 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ……………………

 夫は何も助けてくれなくて……

 ママママママママママママママママママママ……………………

 何もかもわたしに頼りやがってっ………

─やめっ……… 

 この……

─やめろっ……… 


 鬼めっ……!


『ママぁ!』

『やめろおおおおぉぉおおおお━━━━っ!』


 ……気が付いたら、優芽は部屋の隅に転がっていた。

 右手の甲がジンジン痛む。

 わたしはこの手で、優芽を殴り飛ばしたのだ。

『ゆっ、優芽!大丈夫っ……』

 我に返って抱き起こすと、優芽の顔は血だらけだった。頭からテーブルの角に突っ込んだらしい。意識も無い。

『優芽っ、優芽っ!』

 わたしは泣きながら名前を呼んだけど、優芽は起きない。

─病院に連れていかなきゃっ……


 ガタガタガタッ……

 ガンガンガンッ…… 


 鬼だ。

 家の周りは鬼だらけだ。

 もう…駄目だ……



「……自分の娘を殴って死なせてその死体を庭に埋めたとすれば、普通は殺人の隠蔽が目的だろう。

 だがあんたの場合、ボクにはどうもそうは思えない」

 ボクが話し始めても、楓は魂が抜けたかの様に何の反応も見せない。

「あんたは精神的に追い詰められ過ぎて、パンクしちまったんじゃないか?それで娘を殺してしまったと思ったら、もう何も考えられなくなったんだろう。一種の現実逃避だな。

 そうなると出来るのは普段同じパターンで無意識にやってる事──〈生活習慣ルーティン〉だけだ。だからリフォーム業者が帰って外の物音が聴こえなくなると、あんたは意識の無い優芽を放置していつも通りパートに行った。そして帰ってきて、いつも通り夕飯を作ろうとした。

 その途中、何かの用事で二階の部屋に上がって、顔を血で真っ赤に染めた優芽を見たんだろう。だけどあんたには、それは優芽ではないにしか視えなかった」

「別の…モノ……?」

 ボクの言葉を楓は機械的に繰り返す。音は入ってきても意味は分かっていないかもしれない。それほど彼女の目も表情も虚ろだった。

「決まってるだろ、さ。

 よく分からないうちに赤鬼が家に入り込んで斃れている。もういい加減、鬼への恐怖心が自分達に降りかかる理不尽な運命への怒りにシフトしていたあんたは、その赤鬼に殺意が湧いたんじゃないか?死んでいようがいまいが関係ない。とうとう中に入ってきやがった、許せないってね。

 その時の殺意をぬえが感知したんだ」

 そのぬえもジャッキーもここにはいない。

 今はボクと楓だけが、台所のダイニングテーブルに向かい合って座っている。

「それであんたは忌々しい赤鬼の死体を、さっさと庭に捨てに行った。ちょうど使っていない畑があるからそこに埋めればラクなんだけど、時刻は午後六時半を過ぎ、辺りは真っ暗だ。畑仕事するなら昼間の方がいい。だからとりあえず収蔵庫から野菜を出して、その空いたスペースに赤鬼を入れた。そしてトタン板で蓋をして、スマホのライトで足元照らして帰ろうとしたら──後ろからあの大家に殴られたのさ。

 朦朧としながらそれでも家に逃げ込んだが、記憶も飛んで、相貌失認になった。


 つまり楓が視たと思った赤鬼を殴り殺していく夢──あれは本当にあった出来事だったんだ」


 そして今朝目覚めた時から楓が視ていた優芽こそ、彼女が作り出した幻だったのだ。潜在意識では自分が優芽を手に掛けた事に気が付いていたのかもしれない。夢で鬼の顔が視えなかったのは、その自身の凶行と相貌失認になっている事を脳が警告したのではないか?しかしそれを認めてしまったらきっと自我が崩壊する。だから防衛本能で優芽が元気で側にいる妄想に逃げ込んで、自身の心を誤魔化していたのだろう。

 そんな妄想の優芽だから、相貌失認にも関わらず顔が認識できたのだ。


「……どう…して……」

「ん?」

 ずっと黙っていた楓が、絞り出す様に口を開いた。

「どうして…わたしは気が付いてしまったの…?

 優芽がいない事にどうして……

 気付かなければ…こんなに…苦しくなかったのにっ……くっ…うっ……ああっ………」

 楓は肩を震わせ嗚咽を漏らすが、枯れ果ててしまったかの様に涙は流れない。代わりにギリギリと噛み締めた下唇から血が滴る。

「…前を向いたから、なのかな」

「え…?」

 ボクが呟いた言葉に少しだけ楓の目の焦点が合う。

「あんたは優芽に対して被害者意識を持ってたんだろ?でも自分も相貌失認になって、そんな意識は捨てて共に頑張ると決めた。今まで逃げていた優芽に正面から向き合ったんだ。

 正面から向き合ったから、目を逸らしていた現実も見えてしまったのかもしれない」

「そん…な……」

 楓の顔がグニャリと歪む。

「せっかく前を向けたのに…希望が見えたのに……

 せっかく、鬼がいなくなったのにっ……

 わたしが鬼になってしまった!

 優芽を殺してしまったっ!

 これからどうすればいいの?

 これから…どうなるのっ……」

 その目から絞り出す様にやっと一滴こぼれ落ちた涙が、そこからは決壊したダムの様にとめどなく溢れ出た。唇の血と混じり合って流れる。

 血の慟哭を続ける楓にボクは静かに告げた。

「殺人─殺生は必ず地獄に堕ちる。

 あんた、地獄に行きたいか?」

「行かせて!わたしには地獄がお似合いよっ……

 鬼だものおおぉ━━っ!」

 台所に鬼のき声が響いた。


「……ホント…紅葉もみじさんと同じね、楓さん。

 なりたくなかった鬼になっちゃったね……」

 そう言いながら台所に入ってきたリアル鬼のジャッキーは、切なげに楓を見つめる。

 楓は血の涙に濡れた顔で見上げた。

「もみじ…?」

「近くの鬼無里きなさ地区にんでいたって言われる鬼女きじょよ」

「ああ…夫が言ってた……」

「その紅葉さんも自分の子供を護ろうとして頑張ってたのに、その振る舞いを周りから鬼って言われちゃったの。それで結局、大事な子供も亡くしちゃって…」

 身に詰まされたのか楓がまた涙を零す。

「ああそっか、楓も紅葉こうようするからな」

 気が付いたから言っただけなのに、ジャッキーは一瞬、非難がましくボクを睨む。

「でもね、紅葉さんが住んでた鬼無里では、彼女は決して恐れられてはいなかったの。

 紅葉さんの一家が鬼無里の村に辿り着いたのは秋も深まった頃で、戸隠の山は紅く染まっていたそうよ。彼女達が鬼無里で暮らし始めると、都から流されてきた姫君として噂になり、その美貌や振る舞いは村人達に憧れと尊敬の念を持って迎え入れられた。紅葉さんはそんな村人達に薬草から作った薬を施したり、読み書きを教えたり、都の話を聞かせたりと楽しく穏やかに過ごしたんだって。そこでは紅葉さんは鬼じゃなかった。

 だから鬼無里は『鬼のいない里』って名前になったの。

 今でも鬼無里でだけは、紅葉さんは鬼の『鬼女きじょ』ではなく、とうとい方の『貴女きじょ』って呼ばれているわ。


 楓さんもそう。

 ずっと娘の為に頑張ってきたんでしょ?

 今回は優芽ちゃんに手を上げちゃって、それは鬼って言われても仕方無いかもしれないけど……でも鬼無里の人達と同じで、優芽ちゃんは分かってくれてるよ。

 楓さんは鬼女なんかじゃない、貴女だって。

 大好きな優しいママだって…!」


 楓の涙は止まらない。

 取り返しが付かないと思っている彼女には、今の言葉はより一層の地獄の責め苦だろう。ジャッキーがそれを狙ってこんな優しい声音こわねを出しているなら、亡者をいたぶる獄卒として有能なのだが……あいにくコイツは、地獄では役立たずのお人好しだ。

 力の入らない楓をジャッキーは支えて立ち上がらせ、そのまま肩を抱いて台所を出る。

 ボクも付いて出て、階段を上り始めた二人に続く。

 ジャッキーが楓に尋ねた。

「もう一度、優芽ちゃんと暮らしたい?」

 泣きながら何度も頷く楓。

 その横顔をジャッキーは目を細めて見た。

「それじゃあ──」

 二階の子供部屋に辿り着き、襖を開ける。


「まずこのコの顔をしっかり覚えるところからだね」


「けけっ…」

「アハハ、とりさんとりさん〜♡」

 楓によく似た目の大きな女の子がぬえと遊んでいた。


「優…芽……?」

 呆然とする楓。布団の上に座って膝に載せたポワポワの黒綿菓子をたのしそうに撫でていた優芽は、その声に顔を上げる。

「あ、ママ!みてみてとりさん、かわいいよ〜」

 笑顔を見せる優芽の頭には包帯が巻いてあり、そこに濃い青色の羽根が一枚差してある。

座天使ソロネの指揮官ラファエルの羽根だ。魚の胆嚢から作った薬で盲目の人の眼も治す、癒しの天使だからな。優芽の長年の光線過敏症までは治せないが、頭の怪我と一時的な意識不明くらいなら何とかなる」

「意識不明…?じゃあ優芽は……」

 そう、優芽が死んだと思ったのは楓の早とちりだ。収蔵庫の優芽を発見した後、楓はすっかり取り乱して使い物にならなかったので、優芽の看病は今までジャッキーに任せていたのだ。

 楓はヨロヨロと優芽に近付く。まじまじと娘の顔を見つめているのは、相貌失認によって認識できないからだろう。しかしそれは目の前にいるのが自身の幻覚ではなく、本物の優芽である証拠だ。

「ママぁ〜おなかすいたぁ〜」

 昨夜から何も食べていない優芽が楓を見上げて訴える。今朝パンケーキを食べたのは幻の優芽なのだ。おそらく楓が無意識に自分で食べたのだろう。

 楓はひざまずき、震える両手で優芽の頬を包んだ。

「ゴメンね…ママ…とんでもない事を……

 許してもらえないかもしれないけど……」

「ママ…?」

 キョトンとする優芽。

 ジャッキーが優しく言い添える。

「優芽ちゃん、昨夜ゆうべの事はよく覚えてないみたいよ」 

 楓の目から再び涙が溢れた。

「優芽…すぐ…すぐご飯作るから……優芽の好きなパンケーキ、焼いてあげるから……」

「わーいパンケーキ!」

「だから……


 お顔をよく見せて……

 もう二度とママが鬼にならないように……

 大事なお顔をよく見せて……」


 ジャッキーが涙声で「パンケーキの準備しとくっ…」とその場を離れたので、ボクも後に続く。別にパンケーキの支度を手伝う気は無いが、愁嘆場は苦手なのだ。母娘おやこのお邪魔鳥になっていたぬえも空気を読んで付いてくる。

 階段を下りながらジャッキーが訊いてきた。

「大丈夫だよね?

 楓さん、もう鬼なんかにならないよね?」

 鬼娘が言う台詞としてはどうかと思うが、一応言っといてやる。

「昔、インドの鬼神王パーンチカの妻である鬼子母神きしもじんは、自身の子供達を育てる為に人間の子を奪い食べていたそうだがな。それがお釈迦様に自分の末子を隠され、子を失う悲しみを知って改心した。それで以後は人間の子を食べることを止め、子育てや安産、子供の守護神として信仰されるようになったってよ」

「そっか、楓さんも優芽ちゃんを失う悲しみ知ったんだもん、大丈夫だね!」

 まあ──たぶんな。

 しかし結局、今回も誰も地獄に堕とせなかったか。これじゃ商売上がったりだ。昨日行った戸隠神社には商売繁盛のご利益もあったんだが…… 

 仕方無い。

 とりあえず鬼無里に温泉があるそうだから、そこに寄ってから別の土地に移動するか。



「…ちょっとあんた、いつになったら奥さんと別れてくれんの?」

 茶髪の女はそう言って男を睨む。

 ベッドから上半身を起こして、豊満な全裸の胸を隠そうともしていない。そんな羞恥より目の前の男を咎める怒りの方が勝っている様だ。

 ベッド脇に立って小瓶のビールを飲んでいたバスローブ姿の男も、女を忌々しげに見て言う。

うるせえなあ…しょうがねえだろ!アイツ何でか、これからも長野で頑張るとか言っててさ。娘の看病と田舎の生活に疲れ果ててると思ったのに…」

「何よ、何の為に無理やり空き家に引っ越させて、給料安くなったって嘘までいて、奥さんにお金渡さなかったのよ。ホントは単身赴任手当たっぷり貰ってるくせにっ…それで嫌になって奥さんが逃げ出したら、『留守も守れないのか』って離婚できるって言ってたじゃない!

 あたしのお店、いつやらせてくれんのさっ?」

 最後の言葉が本音だな──男は眉をひそめる。こんな金に汚いだけの女だと、もっと早く気付くべきだった。

 辛気臭い妻と病気を抱えた厄介な娘から解放された単身赴任先で、クラブで働くこの女に出遭ってすぐ溺れてしまった。見た目が好みで愛想も良く、体の相性も抜群だったのだ。その時は本気で女と一緒になろうと思って、邪魔な妻と娘をどうしたら排除できるか考えた。男の浮気が原因で離婚しては駄目なのだ。それではこちらの有責となって、慰謝料を払わなくてはならない。妻が逃げ出した形にしないと娘の養育費まで出す羽目になってしまう。冗談じゃない、俺はコイツと新しい生活を始めるのだ──

─それが今じゃよぉ……

 男はまだ何か罵っている女にあざけりの目を向ける。

 金に汚いうえに、浮気しているのも先日知ってしまった。二人が付き合っているのを知っている同僚が、別の男とホテルに入る女を目撃したと教えてくれた。それも一人ではなく、日によって違う何人もの男と。

 男の女への気持ちはとっくに冷め、ただこうやって夜のホテルで逢って体の関係だけズルズル続けている。だからもう離婚する理由も無くなっているのだが……

「ハッ、あんたが約束守ってくれないんなら、奥さんにあんたのしてきた事全部バラすからね!浮気して、手当誤魔化して、離婚したくなるように空き家に引っ越させて…それで離婚したらあんたの有責だから、ガッポリ慰謝料持ってかれるんでしょ?ザマアミロ!」

─何だと…?


 突然はらわたが煮えくり返る。


「会社にも言いふらしてやるからね!あんたんとこの社長って愛妻家で有名なんでしょ?あんたが奥さんにやってた事知ったら、あんた、絶対に出世できないよ?ハハッ…アハハッ……」


 急激に殺意が湧く。


 勿論、女はそれだけの酷い内容の罵声を浴びせてはいるが、男は自身の負の感情の強さと唐突さに違和感を覚える。

 けれど、体はその殺意に忠実に動いてしまった。

 ビール瓶を放り出し、女に襲いかかる。

 両手で女の首を絞める。

 女はしばらく抵抗していたが、やがて顔面がどす黒く腫れ上がり、喉に指が食い込んで口からは血泡が溢れた。舌の付け根の骨─〈舌骨ぜっこつ〉が折れたのだ。力が抜けた女から手を離すと、そのままグニャリと崩折くずおれる。


 死んだ─殺した。


 男はハッと我に返り、戦慄する。

 殺す気なんか無かった。

 何故こんな事に。

 逃げなくては──

 慌ててきびすを返した男は、転がっていたビール瓶に足を取られた。前のめりに転倒した先にサイドテーブルがあり、その角に思い切りこめかみを叩き付ける。本人は知る由もないが、最近自身の娘がぶつけたのと同じ箇所だ。

 意識を失って床に倒れた男の体は間もなく痙攣し始め、耳と鼻から血を流す。やがて痙攣は止まったが血は止まらない。すぐに救急車が呼べれば何とかなったかもしれないが、同室している女が死体では通報してくれまい。このまま放置されて男も死んでいくだろう。娘は打ち所が良かったのか助かったが、父親は逆の結果になった様だ。


 そして勿論男が死ねば、女を殺した罪で地獄が待っている──



『悪が天使や人間の心に去来することがあっても、それを絶対に認めない限り、あとに汚点や禍根が残ることはなかろうと思う。だから、眠っている時に見た夢を、ああ嫌な夢だったとお前が憎んでいる以上、眼が覚めている時にそれをあえて自ら行うはずがない、とわたしは思うのだ。』


 (第三話 了)

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