〈ぬえ散歩 其の三
「けえぇ……」
森に怪鳥ぬえの啼き声が響く。
周囲に人影は無い。深緑にその声が虚しく吸い込まれていくのみである。いつもなら不機嫌な天使とニコニコした鬼が一緒なのだが、今は風に流された
また──はぐれた。
七月十六日の水曜日である。
早朝、この茨城県南部の美浦村に着いた。
間もなく梅雨明けを迎える関東地方は高温多湿で既に連日の真夏日、曇り空の隙間から強い陽射しが覗く今日は猛暑日になるかもしれない。いつもの様にブラブラパトロールするにも暑過ぎる。そこでこの村に来たのだ。ここはその『美しい浦』という名前の通り日本で二番目に大きい淡水湖〈霞ヶ浦〉に面しており、湖の
しかしまだ午前七時過ぎにも関わらず直射日光に曝されると問答無用で暑く、木陰を求めて森の中へと歩み入った。道無き道を適当に進んでいたが、こういう場所ではつい餌を探してしまうのが鳥の本能である。ぬえもパタパタと飛び回って虫や木の実などを突付いていたが、その餌探しに夢中になっているうちに連れの二人とはぐれてしまったのだ。
「けけ……」
キョロキョロと辺りを見回しながら天使と鬼を探す。殺意を感知するこの世ならぬ
しかしここは一体何なのだろう?ぬえは首を傾げながら飛んでいた。
対岸が霞んで見えるというほどの湖面の広さを誇る霞ヶ浦は、古くから詩歌・絵画等にその景観の美しさを讃えられてきた。湖面に浮かぶ船、ヨシやマコモ等の水生植物、白鳥や
けれど今ぬえがいるこの場所は、手付かずの自然ではなかった。少し樹が
「けぇ?」
ふとその林が途切れ、拓けた場所に出たぬえは更に戸惑う。
目の前に綺麗に刈り込まれた芝生が広がっていた。真っ平らではなく、なだらかな起伏のある鮮やかな緑の広場だ。向こう正面に池があり、左手には白い砂が入った砂場が幾つか見える。明らかに人工的に整備されたモノだ。これは一体…?
ヒュンッ……
不意に風切り音が聴こえた直後。
ガササッ!カココッ!
「けえっ?」
近くの樹上から何かが飛び込んできて、枝や幹に跳ね返る。あたふたするぬえは林の奥へ逃げようとして、根元に落ちている
何かの卵の様な、白くて丸いモノ──
「けぇ…?」
傍らの地面に降り立ち、そのモノをしばらく眺める。表面が何だか
「何だよ、ふざけやがって!」
「けえ!」
体中の
それもその殺意は、ぬえの方に向けられている。
振り返ると手に金属の棒を持った中年の男が、怒りの形相で近寄ってきていた。
殺される──?
「けけっ…」
慌てて飛び上がるぬえだが、半袖シャツとスラックス姿の男はぬえには見向きもしない。彼が睨み付けていたのは例の白くて丸いモノだった。
「何でこんなとこに根っこ出てんだよ!くそっ、これじゃ
男は舌打ちして、被っているキャップのツバを左手でギュッと押し下げる。そして凶悪な目付きで素早く左右を見回し、横の枝に
「何だ?見てんじゃねえぞ、変な鳥」
吐き捨てる様に言った男だが、その瞳が僅かに揺らいで見えた。何か後ろめたい事があるのか…?
「オラ、どっか行けよ鳥!」
男は手にした金属の棒を振りかざす。棒の先にはやはり金属の刃が付いているのでぬえは恐怖に震え上がったが、よく見るとそれは鎌の様な鋭いモノではない。刃と言うより丸みのある三角形の板で、表面に何本もの溝が掘ってあった。
ぬえは知らなかったが、それはゴルフで使う道具──
中年男性は
ぬえはPWを振りかざす凶悪なゴルファーを前に固まって動けない。男は再び舌打ちをし、足元のボールを見た。そしてまた周囲を見回すと、そのボールを右足で蹴る。ボールは樹の根元から少し拓けた
「けぇ…」
同時にぬえも息を吐いた。膨らんでいた体も急速に
そして男はその動かしたボールの横に立ち、PWを地面に付けて構え──
「へえ…
背後から掛けられた女性の声に、男はギクリと背筋を伸ばす。
ぬえもビクッと体を震わせた。匂いがする──自分と同じ、この世ならぬ匂いが。瞬間脳裡に優しい鬼娘の笑顔が浮かび、振り返る。
そこには確かに鬼娘がいた。
腕組みをして立つ全身は高身長でスリムなのだが、真っ赤なタートルネックのワンピースのミニスカートが形の良い胸とくびれた腰、柔らかいヒップラインを強調している。スラリと伸びた長い脚の先には赤いゴルフシューズを履いていた。頭に被ったサンバイザーも赤く、かなりの長髪と思われる
そしてその頭部の左右には
やはり彼女が人ならぬ鬼なのは間違いない。
しかしぬえが馴染みの鬼─ジャッキーなら、
ではこの鬼は──?
その麗しい鬼が艶然とした笑顔で言った。
「ゴルフはそれがどんなに不利な
それなのに貴方は今、その打ちにくい場所にあったボールを故意に動かしました。これはゴルフの精神に反する許し難き行為です。しかも…」
そこでその鬼娘はチラリとぬえを見る。
「今その鳥─ぬえが膨らんでましたわね?それは貴方が殺意を発していた証拠です。貴方は自身がミスショットをして林の中に打ち込んだにも関わらず、その状況に対して怒り、醜い八つ当たりをして、あろう事か殺意まで発したのですね。その挙げ句の不正行為──
貴方、地獄に堕ちますわよ?」
細めた切れ長の目も引き上げられた薄い唇もあくまで上品で美しい。しかし男もそしてぬえも、心臓が縮む様な恐怖を感じた。
ただぬえはこの表情に近いニュアンスの笑顔を知っている。それはあの性根がねじ曲がった天使が、誰かを追い詰める時の
すっかり萎縮していた男が思い出したかの様に抵抗した。
「じ、地獄だなんて…い、いいじゃねえか、ちょっとくらい。このまま根っこ打ったりしたら手首怪我するかもしんないしっ……」
「ならば〈アンプレイヤブル〉を宣言して、横に動かせばよろしいのですわ。こういう時の救済として『一打のペナルティを払えば打ちやすい所に動かしていい』というルールが定められているのです」
「そんな…俺らアマチュアだし、今日はコンペとかでもないプライベートのラウンドだぜ?
最後は卑屈に笑いながら話を曖昧に済ませようとする男だが、鬼娘はその怖ろしい笑顔を崩さない。
「そう、わたくし達はせっかくの休暇を
そこに貴方が混ぜて欲しいといらして、それは別に構わなかったのですが、こんなゴルファーにあるまじき振る舞いをされるのならご同伴は致しかねますわ」
「そんなっ…俺だってここでゴルフしたいからわざわざっ……」
自身の反則行為を棚に上げて憤る男。
しかしその語尾は掠れて消えていく。
鬼娘の後ろから、二人の男が現れたからだ。
どちらも身長は2メートルを超し、筋骨隆々の体を包むゴルフウェアははち切れそうだ。そしてその気配と匂いでぬえには分かっていた──二人共キャップを被っているが、その下にはポニーテールの彼女同様の鬼の
「どうした、マキちゃん?」
「そいつが何かしたのか?」
「アオキさん、オザキさん、実はですね……」
マキと呼ばれた鬼娘が男の不正行為を淡々と説明すると、二人の顔がまさに鬼の形相に変わっていく。顔面蒼白となって
「てめえ、八つ裂きにしてやろうかあっ?」
「ひいっ…す、すみませんでしたあっ!」
一喝するオザキの口に鋭い牙が生えているのを見て、男は一目散に逃げていった。
フンと鼻を鳴らすオザキの横で、アオキがカラカラと
「情けない野郎だ。アイツがホントに地獄に来たらどうするね、マキちゃん?」
「そうですわね…」
いったん笑みを消して思案するマキ。しかしすぐにまた微笑む。
「首から下を埋めてさしあげて、頭が何ヤード飛ばせるかドライバーの練習を致しましょうか。どうせ地獄に堕ちた亡者は殺しても殺してもすぐに再生して責め苦を受け続けるのですから、無限に打ち続けられる自動ティアップの練習場ですわ」
「おお、そりゃいいな。俺のスライスも直せそうだ!」
そう言ったアオキもオザキも愉しそうに笑った。
「ところで──」
ひとしきり笑いが収まったタイミングで、いまだに枝に留まっているぬえをマキが見た。
「貴方はどこから来たのかしら?
「確かになあ…」
オザキも頷き、三人の鬼の視線を受けてぬえが小さくなっていた、その時である。
「ぬえちゃ〜ん、どこ〜?」
「けえ!けえけえぇ!」
聞き慣れたジャッキーの声が聴こえてきて、ぬえは勇んで返事をした。それが届いたのか、やがて森の奥からガサガサと茂みを掻き分けて赤髪の鬼娘が現れた。
「あっ、こんなとこにいたの?もう心配してっ…」
安堵の笑顔を浮かべていたジャッキーの表情が固まる。
その背後から天使のテンちゃんが遅れてやって来た。息を切らしているのは鬼娘より体力が無いからだ。
「ゼェゼェ…い、いたか、迷子の馬鹿鳥は……って、あれ?何だこいつら、鬼じゃねえか?」
テンちゃんの問い掛けに、しかしジャッキーは応えない。呆然としたまま眼前の人物の名を呼んだ。
「マキ……」
「あら、ジャッキーじゃありませんの?
地獄から追い出されたと思ったら、こんな所にいたんですのね……」
そう言って地獄から来たもう一人の鬼娘──
「けぇ…?」
そのマキを見つめる
(其の三 了)