目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第四話 歯車人形の殺人(前編)

 〈第四話 歯車人形ギアレムの殺人(前編)〉


『あなたこそわたしの父であり、あなたこそわたしの創造主つくりぬしであり、あなたこそわたしに生命いのちを与えて下さった方なのです!

 そうだとしたら、あなた以外の誰にわたしは従ったらよいのでしょうか?』



 どうして…どうして……

 俺は薄れゆく意識の中で、ただそればかりを思っていた。

 どうして…俺はこんな目に遭ったのだろう?

 ただこの湖畔の広場で寝ていただけじゃないか。作業所を馘首クビになったんだから、寮にだって住めないんだ。風呂に入れなくたって仕方無い。汚いって目を逸らされ、臭いって逃げられても、仕方無いじゃないか…これから、これからやり直すつもりだったんだ。今はただちょっと、疲れて立ち止まってただけなんだよ。なのに……

 突然殴るなんて…金槌カナヅチだったのかな?何度も何度も殴るなんて……頭も背中も痛過ぎて、もうよく分からない。ここは昼間バードウォッチングに使ったりするとこで街灯なんて無い。真っ暗で誰に殴られたのかも分からなかった。

 しばらくうつぶせに倒れていた。暗闇の中から湖の波の音が聴こえてくる。耳はまだ生きているのか。でも他はどこも動かせないし、目も腫れ上がって開けられない。誰が見ても死んでる様にしか見えないだろう。と言っても夜中にこんな暗い場所に来る物好きはいない。だから俺だって…人目に付きたくないからここで寝てたんだ。こんなとこ…こんな俺…誰も助けには来てくれない……


 ザリ…


 足音…?


 ザリ…

 ザリ…


 誰か近付いてくる。誰だ…?


 キュイーン……


 何だ?


 キュイーン……


 何かの金属音…?


 ザリ…ザリ…キュイーン……


 何が、近付いてきてるんだ…?

 俺は開かない目を必死に開けて、を見た。


 キュイーン……ザリ……


 黒い足が俺の顔の前の地面を踏みしめる。上手く目の焦点が合わないが、普通の足じゃない事は分かる。

 骨が足の外に出ていて、そこにが付いていた。


 キュイーン……


 歯車が回る。

 次の瞬間、俺の体はフワリと持ち上げられた。

 ああ、助けてくれるのか?

 歯車仕掛けの人形が俺を助けに来てくれたんだ──


 そんな期待も虚しく、俺はその人形の手で湖に捨てられた。

 湖岸から投げ込まれる最期の瞬間に俺が聴いたのは、あの歯車が回る音だった──



「ぬえちゃ〜ん!ぬえちゃあ〜ん!」

 森の中で鬼娘のジャッキーが懸命に呼ぶ。

 あの黒いシマエナガ風の鳥─ぬえが迷子になりやがった。

 七月十六日─水曜日の朝である。

 梅雨明け間近の晴れ間から射すの光はキツく、まだ七時を過ぎたばかりだが既に気温も三十度を超しているのではないか?木陰とはいえウロウロしたくない陽気だ。だからお人好しの鬼は本気でぬえを心配している様だが、ボクはウンザリしていた。別にあの鳥は可愛いペットでもなければ非常食でもないので、本来どうでもいい。ただいなくなるとに差し支えがあるので仕方無く探しているだけだ。

 煩雑化している地獄の裁判を簡略化できるように、殺人犯の地獄行きを生前から決定しておく──それが天使ボクジャッキーの仕事である。

 その為に人が発するを感知できるぬえの能力を手掛かりにして、誰かをあやめた犯人ホシを探して各地をブラブラとパトロールしているのだ。

 今回その仕事先に選んだのが、今いる茨城県南部の美浦みほ村である。

『美しい浦』の名の通り、日本で二番目に広いという淡水湖〈霞ヶ浦〉に面していて、自然豊かな土地だ。そんな湖畔の地域なら他所よそより少しは涼しくパトロールブラブラできるのではと思ったのだ。

 昨夜の終電で最寄りの土浦駅に着いたボク達は、バスやタクシーも見当たらなかったのでとりあえず目に付いた駅前のカラオケ店で朝を待った。ジャッキーが『学園天国』とか『天使のウィンク』とか天国の歌を歌い、ボクが『地獄へ道連れ』とか『地獄のズバット』とか地獄の歌を歌って時間を潰した。

 やがて始発電車が動く頃にはタクシーを拾えて霞ヶ浦沿いの国道を走ってきたのだが、途中目に付いた古い不動堂で降ろしてもらった。ジャッキーが寄りたいと言い出したのだ。

『お堂に祀られてる不動明王に祈願すると、煩悩退散のご利益があるんだって。百八つの煩悩が人を悪の道へと誘うんだもん、誰も地獄に堕ちませんようにってお祈りしとこうよ!』

 いや、地獄に堕とすのがボク達の仕事だろうが…ホントにこの鬼は能天気な博愛主義者過ぎる。

 そうしてその緑に苔むした境内にある、小さな朱塗りの〈馬掛まがき不動堂〉を参拝したのだが、その間にどんどん気温が上がってきた。湖上を抜けてくる風が涼しかったのは最初のうちだけである。昔の夏はこんなに暑くなかったのに…地球温暖化の影響は天使にも深刻だ。それで木陰を求めてテキトーに森の中に入ってウロウロしているうちに、気が付いたらジャッキーの肩の上にまっていたぬえがいなくなっていた。餌でも探してはぐれたのだろう。食い意地の張った鳥め。

「ぬえちゃ〜ん!」

 ジャッキーはズンズン森に分け入っていく。その後ろを行くボクは、無駄に体だけ丈夫な鬼が突っ込んでしならせた枝葉の跳ね返りをビシバシ食らう。

イテっ…コラっ…ちょっと待っ…」

「ぬえちゃ〜ん、どこ〜?」

「てめっ…人の話を聞けっ…」 


「けえ!けえけえぇ!」


 ぬえの声だ。

「ぬえちゃん!」

 パッと顔を輝かせたジャッキーが、声が聴こえた方向の茂みに勢いを増してガサガサと突入していく。仕方無いのでボクもボクサーの様に両手で顔面をガードしながら続くが……痛い。身長差があるのでジャッキーが胸の前で掻き分けた辺りが、ちょうどボクの顔の高さなのだ。痛っ…何かの棘が耳に刺さった。ふざけるな鬼っ……

「あっ、こんなとこにいたの?もう心配してっ…」

 先に茂みを抜けたジャッキーの声が聴こえてきた。どうやら見付かったらしい。

 しかし急に言葉が途切れた様だが…?

 そしてボクもようやく茂みを抜けた。 

「ゼェゼェ…い、いたか、迷子の馬鹿鳥は……って、あれ?」


 拓けたその先はだった。

 芝が綺麗に刈り込まれていて、真っ平らではなくなだらかな起伏がある。正面には池、左方には白い砂場があり、その整った美しさは明らかに自然物ではなく人工的に整備されたモノ──

 だ。

 確かにこの美浦には幾つかのゴルフ場があり、どうやらそのうちのどこかの敷地内に入り込んでいたらしい。


 そのコース上に、三人のゴルファーがこちらを向いて立っていた。

 二人はどちらも身長2メートルを超す巨漢で、片方はアフロヘアーを、もう片方は金色に染めた短髪をキャップに収めている。アフロの方が少し細身だが、それでも二人共ゴルフウェアのシャツもズボンもはち切れんばかりの筋骨隆々の体である。

 そして腕組みをして立つもう一人は、真っ赤なタートルネックのワンピースミニのウェアを着た高身長でスリムな女性ゴルファーだ。シューズも頭に被ったサンバイザーも赤く、みどりの黒髪を後ろでポニーテールにまとめたスポーティな格好だが、白く透き通った肌と整った顔立ちには落ち着いた気品がある。例えるなら古風な日本人形の様な、相当の美女と言っていい。


 だが何より目を惹くのは、その頭部の左右にツノが生えている事──


「何だこいつら、鬼じゃねえか?」

 ボクの問い掛けにしかし、こちらに背中を向けたまま固まっているジャッキーの返事は無い。

 やがて彼女は掠れた声で呟いた。

「マキ……」

「あら、ジャッキーじゃありませんの?

 地獄から追い出されたと思ったら、こんな所にいたんですのね……」

 マキと呼ばれた鬼娘ゴルファーは艶然と微笑んだ。

 それに比べて赤髪の鬼娘の声は硬い。

「どうして……マキがここにいるの…?」

「どうしてって、ですから。

 それでこの名門の美浦ゴルフ倶楽部を予約して、ラウンドしに来たんですわ。

 わたくし、こちらのアオキさんとオザキさんとはゴルフ仲間ですもの」

 マキは笑みを崩さず、背後の二人を順にてのひらで指し示す。しなやかな白い指が優雅に動く様は、日本舞踊の達人を思わせた。

 そのアオキと呼ばれたアフロの鬼とオザキと呼ばれた金髪マッチョな鬼は、ジャッキーを見てニヤニヤしている。明らかな嘲笑だ。

 ジャッキーの表情は背後のボクには見えないが、何となく得心した。地獄で亡者達を責めさいなむのが鬼─獄卒の仕事だが、コイツはそれが苦手なのだ。情にもろいお人好しで特技が人助けという落ちこぼれの鬼を、同族達がどう思っているのか──

 マキがその切れ長の目をスッと細め、薄い唇を酷薄に吊り上げた。

貴女あなたはずいぶん長い夏休みを取ってらっしゃるのね。地獄への帰りの切符が取れないのかしら?

 それとも…片ツノでも現世こちらなら、何かの役に立ってますの?」

「ハハハッ、まさかな〜っ!」

 マキの言葉にアオキとオザキが哄笑した。二人の大きく開けた口からは牙が覗いている。

 ジャッキーの肩は僅かに震えていた。泣きそうなのかもしれない。まあ、別にどうでもいいのだが……

 ザワザワと梢が鳴る。

 ボクは何気なく言った。

「ああ、夏休みって閻魔賽日えんまさいにちの事か。

『地獄の釜の蓋が開く』って言われる日だな。

 でもそれって、?」

 マキが細めていた目を見開く。

 アオキとオザキも馬鹿笑いを引っ込めて、ボクを訝しげに睨んだ。

「江戸時代に盛んに広まった習慣で〈やぶ入り〉ってのがある。商家などに勤める奉公人達が年に二回だけ、親元に帰郷するのを許された休日の事なんだがな。その頃は貧乏な家の子供達は大抵十歳位で奉公に出されてたんだが、奉公先が四六時中休ませず働かせている超ブラックな職場でも、年二の休みだけは必ず取らせてくれて、土産を持たせて親元に送り出してくれたそうだ。

 ただ商家では繁忙期が過ぎて店が一段落する時期だから、人手が足りてるんで休ませて人件費削減したかったって話もあってさ。だからまあ、良い話だか酷い話だか微妙なんだが……

 その藪入りが一月十六日と七月十六日なんだよ。

 そんな習慣が今でも正月とお盆に帰省するって形で残ってるんだ。

 元々の由来はハッキリせず、嫁入りした娘が実家へ帰れた日だとか幾つかの説が伝わっているんだが……

 いつしかそこに、こんな斜めからの解釈が加わった。


 あんな地獄の様なブラックな店でも休ませてくれる藪入りは、本家の地獄もお休みだろう。

 その日は仕事熱心な鬼達も休んで、亡者達への責め苦も一時ストップするんだろうってね。


 それで藪入りの二日間は地獄の地方裁判所長官・閻魔王の縁日─賽日とされて、人々はこの日各地で閻魔王を祀ってる閻魔堂を参拝したり、閻魔王像のご開帳や護摩焚きなんかも行なわれるようになった──とされているんだが……

 実際には閻魔賽日の方が先な訳だ。

 、そうやってホントに休んでるんだから」

 ボクの言葉にアオキとオザキは『コイツは何を言ってるんだ?』とばかりに顔を見合わせ、マキは薄く笑ったままこちらをジッと見ている。

「その閻魔賽日を『地獄の釜の蓋が開く日』って言うのは、『釜茹で用の釜の蓋を開けて営業停止してる』って事だと捉えてる人間が大半なんだけどさ。でも考えたらおかしいよな。あの釜に普段、蓋なんてしないだろ?地獄の様子を描いた絵巻物見たって、煮立った釜にあんたら鬼がポンポン亡者投げ込んでどんどん煮てるじゃん。蓋をして煮崩れや煮詰まりを防いでる暇なんか無い。だから釜の蓋が開いてる時はむしろ、絶賛営業中だよな?

 それでボクはある仮説を立てていてね、ずっと地獄の連中に訊いてみたかったんだ。


 あんたら、自分達が休んでる間に亡者が逃げ出さないよう、釜の中にそいつらをギュウギュウに詰め込んで蓋してるんじゃないの?

 そして休みが終わって帰ってきた時、その蓋を開ける。だから地獄のを釜の蓋が開くって表現する様になった──違うかな?」


「…ええ、そうですけど……」

 マキの返答にボクは頷く。長年の疑問が一つ解消した。

貴方あなた、そんな事をずっと気にしてらしたの?」

「ああ、細かい事が気になるのがボクの悪い癖でね」

「ふうん……」

 マキは値踏みをする様な目でボクを眺める。

「変わった人間…いえ、がしますわね。異界の匂いが。

 もしかして貴方が、ジャッキーと組んでらっしゃる天使?」

「へえ、コイツが何で地獄を追い出されたかは知ってたんだ。それじゃボク達が仕事中なのも分かるだろ?ヘタクソなゴルフしてるあんたらと違って暇じゃないんでね、さあ行くぞ」

 そう背中に声を掛けると、ようやくジャッキーは振り向いた。やっぱり潤ませていた目を見開いて、ボクを真っすぐ見つめてくる。

 しかしきびすを返そうとしたボクの肩を、ニュッと伸びてきた腕が掴んだ。力が強い。痛い。

「オイ待て、誰がヘタクソだって?八つ裂きにすんぞ!」

 見れば金髪のオザキが鬼の形相で睨んでいる。

 ジャッキーが素早くボクとオザキの間に割って入った。

「テンちゃんに触んないでっ!」

「は?テンちゃん?」「プッ」

 オザキは呆れた様な表情で手を離し、後ろでアオキが噴き出す。

 マキは右手を口にたおやかに当てた。

「あらあら、可愛いお名前ですこと〜」

 ボクはジトッとジャッキーを睨む。だから無名天使に変な呼び名を付けるなって言ってんのに……その隙にオザキが尻ポケットから手帳の様なモノを取り出し、こちらに開いて見せてきた。マス目が切られたカードに三人の名前と数字が書いてある。

『魔鬼』──これがマキだろう。ジャッキーも『邪悪鬼』って書くからな。

『鴉悪鬼』がアオキか。

 ならもう一つの名前がオザキなんだろうが、『邪暗暴殴裂鬼』…?長いな……

「このスコアカード見ろよ、まだスタートして8ホール目だが、三人でパー十個獲ってんぜ?マキちゃんなんかバーディもある。これでヘタクソとかっ…」

 そう自慢げに言ったオザキにボクは無感動に応えた。

「ふうん……ボクは自分でゴルフやった事は無いしそこまで詳しくもないけど、独特な地形だけじゃなく風とか雨とか、自然を相手にするのがゴルフなんだろ?だからラッキーで自分の実力以上のスコアが出る事もあれば、一流の上級者でもアンラッキーで酷いスコアになる事もあるんだよな?でもそんなのに一喜一憂しないで、自然への畏敬の念を持って淡々とプレーを愉しむ──それがゴルフの精神で、まさに人生そのものだって聞いたぞ?

 そういう意味じゃスコア自慢は、さもしい人生なんじゃねえか?」

「なっ……」

 オザキの顔が怒りなのか羞恥なのか真っ赤になっていく。うん、赤鬼だ。

「てめっ…ゴルフやった事ねえヤツが偉そうにっ…!」

「いや、ボクには言う資格がある。

 だって『自然相手のゴルフではままならない結果も受け入れろ』って意味の格言があるんだろ?

『スコアは天使のさじ加減』ってさ」

 いよいよ赤鬼が襲い掛かってくるかと思った時である。


 ピーッ。ピーッ。


 不意に信号音が聴こえて、音のした右手の方を見ると、コースの途中にオモチャの車の様な乗り物がある。ゴルフカートというヤツだ。後ろにゴルフバッグを積んでいて、三人はこれに乗ってコースをまわっているらしい。音はそのカートの運転席から聴こえてくる。

「いけね、プレーの進行が遅いって合図だぜ」

 アオキが焦って言い、マキも呼応する。

「参りましょう。スロープレーはゴルファーとして、周りにご迷惑を掛けるマナー違反ですわ」

 オザキも舌打ちをしてスコアカードを仕舞い、三人はカートに向かう。


 ボクはその背中に言ってやった──ニッコリと嗤って。

「マナー違反は良くないなあ。

 地獄に堕ちるぞ?」


 オザキとアオキが勢い良く振り向いて憤怒の表情で睨んだ後、ドスドスと駆けていった。

 マキも一瞬ポニーテールを揺らして肩越しに視線を寄越したが、すぐに向き直って歩き去る。その口元には笑みをたたえたまま、目が妖しく光っていた。


「テンちゃん…」

 三人組が去った後、ジャッキーがまたこちらを真っすぐ見つめてきた。何だその捨てられた仔犬みたいな目は?

「あの…何か、話逸らしてくれて…ありがと……」

 は?何の事だ?ボクは気になっていた事を質問しただけだが……あ。

「そうだ、さっきの連中だけど──」

「マキの事?」

 ジャッキーの顔が途端に曇る。

「あのコはあたしの幼馴染なんだけど、あたしと違ってでね。もう誰よりも地獄の亡者を痛め付けるのが巧いの。

 獄卒にもランクがあって、新人の若い鬼はまず最上層の〈等活とうかつ地獄〉に配属される。その初級の地獄に殺生せっしょうの罪を犯して堕ちてきた亡者を、刀や包丁で切り刻む下積みから始めるんだ。あたしにはもうそこから無理だったんだけど……あのコ、初日から亡者の体を見事な〈かつらき〉にしたのよね。ホラ、大根や人参とかを途中で千切れないように薄く、長い帯状に剥く切り方。それで先輩からも凄いって褒められて、どんどん下層の上級な地獄の担当に出世していってね。

 今では最高ランクの最下層〈無間むけん地獄〉で極悪人達を剣で三枚に下ろして、熱した斧でミンチにして、極熱の業火でフランベして……それはもう芸術的な──」

 いや、ミシュランで星貰った料理人の半生かよ。

 と言うか、気になったのはそこじゃない。

「さっきのオザキって鬼、名前が読めなかったんだけど?」

 ジャッキーは「ああ」という顔をする。

「八つ裂きのオザキさんね。

 あれ、『邪暗ジャン暴殴裂鬼ボオザキ』って読むのよ」

 何か…どうでもよくなってきた。

 ボクが溜息をついたところで、近くの樹の枝に留まっていたぬえがパタパタと飛んできて、定位置のジャッキーの肩に載った。そうだ、コイツを探してたんだっけ。

「けぇ」

「よしよし、もうはぐれないでね」

 そう言ってぬえの綿毛を撫でるジャッキー。口元にようやく笑みが戻ってきた。まあ確かに、コイツは鬼としてはポンコツだろうが……

「…しょうがねえから、ホントに仕事パトロールするか」

「うん!」

 ジャッキーは急に元気になって、ボクの横に並んでくる。何だか距離が近い。暑いんだから寄るな。というか、ゴタゴタしていたうちに更に気温が上がった気がする。陽射しを避けてまた森の中に戻る。

 だが何せ林間の道無き道である。怪力鬼神のジャッキーが林道を造る重機のごとくザックザックと茂みを切り拓いても、なかなか前進できない。美浦ゴルフ倶楽部から南に一時間程下ったが、距離にしたらせいぜい2キロ程度しか進んでいないだろう。まあボクは鬼が開拓した道を呑気に森林浴出来たから良いが、ジャッキーは汗だくだ。しかもノースリーブのベストとミニスカートという露出の多い格好なので、枝やら棘やらで手も脚も細かい傷だらけになっている。しかし何故か昨夜のカラオケの曲を鼻歌でフンフン歌って楽しそうだ。えっとこれは何とかクラブの『天使のボディガード』だったかな…?

 まあでも、実際にはこんな森の中をパトロールしても、殺人犯なんて見付からないだろう。そう思っていたのだが──

「…ん?」

「あれ?」

「け?」


 死体は見付けた。



 どうして…どうして……

 何故私はこんな目に遭ったの?

 私が何かした?

 ただいつもの様に犬の…ポオ君の散歩をしてただけなのに。コンビニのバイトが夜までのシフトだから、散歩はいつも帰ってきてから、だいぶ遅くなっちゃうんだけど…暗いからポオ君に光る首輪着けて、ちゃんと車通りの多いとこは避けて川沿いの道を通って、危なくない様にしてたのに。

 同じ時間にジョギングするオバさん──まあ私もオバさんなんだけど、その人と顔馴染みになって、いつものとこでちょっとお喋りして。勿論夜だから小声で。

 そしてその後は必ず、その川が霞ヶ浦に流れ込む所まで足を伸ばす。道としてはそのまま湖沿いに続く街灯も何も無いただのカーブだけど、私はそこから真っ暗な湖面を眺めるのがお気に入りなのだ。何か心が落ち着いて、その後よく眠れるから。梅雨の間は雨で行かなかった日も多かったけど、晴れた今夜は勿論行こうと思ってた。オバさんと別れて歩き出して──なのに。

『馬鹿にしやがってっ……!』

 急に誰かがすぐ後ろでそう言って、振り向く間も無く首を絞められた。誰?何で…?

 苦しくてもがいたから、ポオ君のリードもギュウッと握ってだいぶ引っ張ってしまった。キャンキャンと鳴くポオ君。ゴメンね…ゴメ…ン……

 今…離してあげるから…逃げ……て………



 樹の根元に横たわっていたのは、ジャージ姿の女だった。

 ボクとジャッキーはしゃがみ込んで、その死体を観察する。

 死んでからそんなに時間は経っていない。ボクは死後硬直や死斑を正確に見極められるほどの検視が出来る訳ではないが、さすがにこの暑い季節、ナマモノは時間が経てばあっという間に傷むだろう。だがコイツは見た目も酷くなく、死臭も気にならない。何日もここで日光に曝されていたら大変な事になっていたはずだ。この程度で済んでいるからには死んだのはせいぜい半日前──昨日の夜ではないか?

 背の低い棒の様に痩せた女だ。セミロングの茶髪を上げて額を出し、ヘアバンドをしているので、仰向けに斃れたその顔はよく見える。しかし苦悶に満ちた表情のせいで年齢は判断しづらく、若い様なそうでもない様な…四十代位だと思うが……

 しかし何よりも目立っていたのは、首にどす黒く浮き上がった指の痕だった。

「フム…背後から両手で首を絞められたんだな」

「殺人…よね?」

「自分でこんな絞め方出来る器用なヤツがいるかよ」

「だよねえ…」

 つまりこれは明らかな殺人─として、犯人を確実に地獄に堕とせる案件だ。

 ここが犯行現場か、それともどこかで殺して運んできたかは分からないが、犯人ホシはこの森の中なら簡単には死体も見付からないと思って遺棄したのだろう。残念だったな。

「とりあえずお前、警察呼んでこい」

「えっ、あたしが?」

「仕方無いだろ、この森はボクじゃ突破できないし、通報しようにもスマホも持ってないんだから。身分証も何も無い天使や鬼がどうやって契約出来んだよ」

「そうね…うん、行ってくる!」

 ジャッキーは笑って頷く。いつもより素直だ。

「あ、ぬえは置いていけよ。警察が来る前にボクも死体調べとくから」

了解ラジャー!」

 張り切って敬礼したジャッキーは再び未踏の密林に突進していく。と言いつつよく見れば、ここら辺は少し樹が疎らでそれなりに通り道はありそうだ。しかし猪突猛進のブルドーザーと化した鬼は、ドカンバキンと自然破壊をしながら去っていった。警察署に着く頃には更に傷が増えているだろう。

 ボクはとりあえず死体の女のジャージのポケットを確認する。身元が分かる様なモノを持っていればと思ったのだが、スマートフォンや財布等一切持っていなかった。まるで散歩かジョギングをする様な格好なので元々持っていなかったのかもしれないし、犯人が持ち去ったのかもしれない。しかしこうなると出来る事は一つだけだ。ジャッキーが置いていったぬえに声を掛ける。

「お前、その首の扼痕やくこん、ちょっと突付いてみな」

「けぇ?」

 死体の脇の地面に立って、首を傾げるぬえ。

 首を絞められて殺された場合、紐状のモノを使えば〈絞殺こうさつ〉だが、直接手や腕で圧迫されたら〈扼殺やくさつ〉だ。

「首が圧迫されて皮下出血を起こすのは絞殺も扼殺も同じだが、もし素手で絞めてたら犯人の爪の痕や指紋まで皮膚にのこる事があるんだぜ。警察の鑑定でも割とすぐ犯人が特定できるかもしれないが……

 お前ならその扼痕に遺った犯人ホシも感知できるかもしれない。やってみな」

「けぇ」

 ぬえが女の顔のそばに恐る恐る近付く。とっととやれと思いつつ、コイツも殺意を感じる度に鳥肌が立つのであまり良い気分はしないのだろう。とりあえず黙って見守る。

 …ふと、この女の死体はいつこの森に遺棄されたのだろうと気になった。昨夜死んだ直後?だがそれだとこの森の中は真っ暗だ。ここが殺害現場だとしたら、暗闇でこんな道も無い場所に入り込むのは犯人も大変だが、被害者を誘い込むのはもっとハードルが高い。別の場所で殺害したとしても、死体を運んでくるのも相当骨が折れるだろう。暗視スコープでも付けていればまだしも。ならば殺人は昨夜でも、死体遺棄は夜が明けてからやった可能性が高いか。つまり今朝……今朝?

 ひょっとして、遺棄したばかりなのでは──?


 バキイッ!


 気付くのが遅かった。

 ぬえも扼痕に集中していて、別の害意までは反応できなかったのだろう。

 ボクは突然何者かに後ろから頭を殴られて、死体の上に覆い被さる様に倒れた。


 キュイーン……


 何か機械的な音が聴こえる。

─何の…音………

 右目の中で、歯車が回っている。


 キュイーン……


 ドチュッ。ブシュウッ……

 肉を叩き切る音がして、生温かい液体が噴き出す。


 キュイーン……


 歯車が回る……そこでボクの意識は途切れた………



「……ちゃん…ちゃんっ……」


 ……遠くで誰かがちゃんちゃん騒いでいる。

 うるさいな…頭に響くからやめろ……頭…?

 ゆるゆると目を開けると、目の前に顔があった。

 血と涙でグシャグシャだが、見た事がある女の顔……

「テンちゃん!目が覚めたのねっ…良かったあっ!」

 ああ、ジャッキーか。

 何を抱き付いて泣いてんだコイツは…?

「ゴメンね、血だらけで警察行ったら騒ぎになって、なかなか話を聞いてもらえなくてっ…あたしが逮捕されそうになっちゃった。それでお巡りさん連れてくるのに時間掛かっちゃったの。やっと戻ってきたらキミまで血塗れで倒れててっ……あたしより弱いから死んでたらどうしようってっ…!」

 サラッと弱いとか言われてカチンときたが、まあ頭脳労働専門なので仕方無い。しかし血塗れ?確かに仰向けに寝かされているボクの白いパーカーは、すっかり赤く染まっている。もっとよく確認しようと抱き付いていたジャッキーを押し退けて首を上げたら、後頭部がズキズキして「イテテっ…」と声が漏れた。そうか…ボクは頭を殴られて……だがこんな、パーカーを白から赤へリニューアルするほど出血した感覚は無い。

 ジャッキーが不安げな表情カオで訊いてきた。

「でも何があったの?何で──


 ?」


 ボクが上半身を起こして見れば、ちょっと離れた樹の根元に手袋を嵌めたスーツ姿の刑事らしき男二人と、茨城県警察と書かれた制服の鑑識員が輪になって屈んでいる。

 その中心に横たわるジャージの女の死体には、確かに首から上が見当たらなかった。

 女の体は血塗れで、周りの地面にも血溜まりが出来ている。見る限り首の切り口は酷く潰れていて、スッパリと綺麗な断面ではない。あまり切れ味の鋭くない道具で無理やり叩き切ったのだろう。ボクは薄れていた記憶を呼び覚ます。肉を叩き切る音。噴き出す血。あれは女の首を切断した時のモノで、ボクはその血を浴びたのだ。

「そうか…やっぱり犯人がまだ近くにいて、そいつがやったんだな。ボク達が来たのに気が付いて、どこかに隠れてやがったな……」

 ボクの言葉に捜査員達が顔を上げた。年配の刑事が声を掛けてくる。

「ああ君、意識が戻ったのか。君を襲った犯人の顔は見たかね?」

 ボクが首を振ると、残念そうにまた死体に目を落とす。

「ったく…遺体を遺棄しただけじゃなく首を持ってくなんて、とんでもないヤツだな。一体どういうつもりだ?女の首が好きな変態野郎か?それとも殺しただけじゃ飽き足らず、死者を更に痛め付けたいのか?鬼かよっ…」

 刑事がそう吐き捨てると、ジャッキーが一瞬ハッとした。たぶん幼馴染のマキの事を思い出したのだろう。だがアイツらはゴルフで忙しい。

 ボクは冷静に言った。

「まあ変態や鬼の可能性もあるけど、今回はが目的だろうぜ」

「え?」

『証拠隠滅』のワードにジャッキーのみならず、捜査員全員が物問いたげな視線を向けてきた。

「人間の首を切るのは結構重労働だからな。恨みを晴らそうとか菊人形に載せてやろうとか思い付いても、もっと切実な理由が無いとなかなか実行しづらい。死体の身元を分からなくしたいとか、遠くに運ぶのにバラバラにしてコンパクトな荷物にしたいとかな。

 けど今回はもうボク達に被害者の顔見られてるんだ。首切ったって身元は隠せないさ。

 それに死体を運ぶ為ってのもどうかな……殺害現場はここじゃないだろ?もし現場だったら犯人は人殺しをした後、そのままずっと朝まで動かなかった事になる。おかしいだろ、そんなの。犯人がまだこの場所にいたのは、夜殺した女を今朝になって森の中に運んで遺棄したばかりだったからだ。だったらそこからバラバラにしてまたどこかに運ぶってのも今更だし、実際頭以外は放ったらかしじゃないか。違うかい?死亡推定時刻は昨夜ゆうべなんだよな?」

 ボクが尋ねると刑事達は一瞬躊躇したが、結局頷いた。捜査情報はあまり漏らせないのだろうが、血塗れのボク達を捜査協力者と認めてくれたのだろう。詳しい死亡推定時刻は解剖待ちでも、鑑識員が調べて大まかに昨夜の犯行だと判断したに違いない。

 ボクは確信を込めて言う。

「身元も隠せない、運ぶ気も無い。

 なのに犯人がわざわざ女の首を切断して持ってったのは、そこにがしっかり遺ってるのに気が付いたからさ。

 それを調べられて犯人の特定に繋がるのを恐れたんだよ」

「そうか…」「なるほど〜!」

 刑事達はしきりに感心し、何故かジャッキーが嬉しそうだ。

 勿論、その扼痕から身元がバレるって、ボクが犯人に教えちゃったかもしれないのは内緒である。


 その後ボク達は死体発見時の状況を詳しく訊かれたが、それ以上新しく話す事は特に無かった。

 森の中を強引に散歩していて死体を見付けたという供述は怪しまれたが、被害者の死亡推定時刻が昨夜ならボク達にはカラオケ店で弾けていた現場不在証明アリバイがあるのだ。それを伝えたら確認すると言われ写真を撮られたが、一時間もせずに変な鳥を連れたこの男女が確かに来店していたという店員の証言が取れて解放された。呼んでくれていた救急車も断った。いざとなったらこの程度の怪我、座天使ソロネラファエルの癒しの羽根で治せる。

 そうして現場を離れようとすると、それまでどこに隠れていたのか、ぬえがしれっと飛んできてジャッキーの肩に留まった。

「そうだお前、扼痕から殺意感じたのか?」

「けぇ?」

 ボクの質問に首を傾げるぬえ。しかしそれが殺意を感知しなかったのか、感知したけど忘れたのかが分からない。この鳥頭め。もう一度同じ殺意を感じれば思い出せるか尋ねたが、「ほけぇ…」とさっきより情けない声で啼いた。どうやら腹が空いたらしい。確かに取り調べにだいぶ時間が掛かって、間もなく正午だ。

「ちょっとひと休みして、ご飯食べよっか。そしたらぬえちゃんも何か思い出すかもよ」

 ジャッキーが取り成す様に笑う。

─思い出す、か……

 ボクが思い出すのはあの音だ。


 首を切っている時に聴こえた『キュイーン』という、何かの機械が駆動する様な音。

 そして回る歯車。

 あれは一体──


 森を抜けた先は寺の敷地になっていた。

 その参道前には二台のパトカーが停まり、周りに集まった野次馬を制服警官が規制している。

 そこにボク達が出ていくとざわめきと悲鳴が上がった。まあ血だらけだから仕方無いが、好奇の視線とヒソヒソ声の中を通り抜けるのは良い気分ではないし、これでは目立ち過ぎてこの後の行動に差し支える。昼食の前にどこかでシャワーでも浴びなくては…そう思っていたら。

「ワハハハハッ…何だお前ら!」

 大声で嗤われて思わず振り返る。聞いた事がある声だと思ったら、案の定ジャンボオザキだ。

「ちょっと見ない間に二人共、血も滴るいいオトコといいオンナになったじゃねえか!」

「俺らがゴルフ場の風呂入ってサッパリしてる間に、仲良く血の池にでもハマったか〜?」

 後ろからアオキも出てきてからかう。

 オザキもアオキもジャケットを着たフォーマルな格好だ。その下はゴルフウェアだがさっき見たのとは違う。どうやら今日のラウンドを終えて汗を流し、着替えた様だ。ゴルフ場には風呂もあるのか。

「わっ…」「おおっ……」

 どよめく人混みの中をゆっくりと抜けてきたのは、真っ白なワンピースに身を包んだマキだ。

 ポニーテールをほどいた黒髪がサラサラと腰まで伸び、白いリボンが付いたストローハットを被っている。避暑地の貴族然としたその気品と爽やかさは、ボクとジャッキーのドロドロ加減と比べるとまさに天国と地獄だ。その羨望の眼差しを集める鬼のご令嬢がふんわりと笑ってボクを見た。

「何だか近くで事件があったと伺って来てみましたら……聞きましたわよ、何か死体を見付けたのに犯人を取り逃がしたんですって?偉そうな事言ってらしたのにねぇ…」

 ムッとするが、ボクより早くジャッキーが食って掛かった。

「何よ、テンちゃんは確かに犯人に殴られて気を失って死体の首を持ち逃げされたけど、何で首を持っていったかちゃんと推理したんだからね!」

「気を失って首を持ち逃げ!」

 オザキとアオキが手を叩いて嗤う。

「仕方無いでしょ?天使はあたし達鬼とは違って、人間と相撲しても負けるくらい弱っちいんだから!」

 ボクは何か『言ってやったぜ』みたいな顔をしているジャッキーを横目で睨んだ。

 人間と相撲して負けたというのはイスラエルの建国の祖・ヤコブにまつわる逸話で、天使がヤコブを試す為に一晩中格闘して、打ち勝った彼を『これから「イスラエル」と名乗れ』と讃えたって伝説だ。『イスラ・エル』というのは『神に挑む者』の意なのである。しかしジャッキーの言い草だと天使ボクの役立たず感が半端ない。

 マキも右手の甲を口元に当ててオホホと笑っている。

 ジャッキーは更にムキになる。

「見てなさいよ、絶対に犯人を地獄に送ってやるからね!」

 いつもなら結構な悪党もなるべく地獄に行かせたくない天使の様なジャッキーにしては珍しい発言だが、女を殺して首を切る外道に同情は要らないのは確かだ。

 マキが面白そうに目を輝かせる。

「ウフフ、それじゃあお手並み拝見といきますわ。

 明日にはわたくし達も地獄に帰りますので、あまり時間は無いですわよ?」

「今日中に解決するもん!ね、テンちゃん?」

 勝手に安請け合いするなよ……

 マキは張り切るジャッキーと憮然としているボクを見比べていたが、何か思い付いた様に手を合わせる。

「では何か面白い事があったら知らせてくださいな。こちら、わたくしのスマホの番号とメアドですので」

 そう言ってマキが渡してきたのは、ピンク色の名刺である。そこには優雅な飾り文字で『魔鬼』の名と携帯番号、メールアドレスが記されている。

 ジャッキーが目を丸くする。

「え?マキ、スマホ持ってんの?」

「休暇を人間界で過ごす鬼にはちゃんと支給されますのよ。釜の蓋が壊れて亡者が逃げたとか、緊急事態の場合には呼び出しもありますし。貴女は持ってませんの?

 ああ、地獄に戻る予定の無い方には必要ありませんわねえ…」

 ムッとするジャッキー。ホントに仲が悪い。

「ではご連絡、お待ちしていますわ」

 マキはボクに艶っぽく笑いかけ、名刺を受け取った手を両手で包み込む様に握る。ほぼキャバ嬢の営業である。ただ問題は、ボクの方はスマホを持っていない事だ。最近じゃ公衆電話も滅多に見かけないし、連絡しろと言われても……

 思案している間マキの握る手をそのままにしていたら、何故かジャッキーが慌てて割って入った。

「い、行くよテンちゃん!」 

「行くって……ああ、昼飯か」

「まあ呑気ですのね〜」

「ち、違うもんっ…だもん!」

 ジャッキーは顔を赤くするが、だってさっき自分でそう言ってただろ。とりあえずシャワー浴びて、飯食いながら今後の捜査方針を考えよう──と言っても手掛かりが無さ過ぎるけどな。歯車の音だけではどうしようもない。警察も調べているだろうが、とりあえず被害者の身元だけでも分かればいいのだが……


 そうしてボク達が鬼トリオの冷笑を背中に受けながら、その場を離れてすぐの事だ。

「あれ?どうしたのキミ?」

 ふとジャッキーが林道の傍らに視線を向けた。

 見ると、道の脇の叢に一匹の犬が座り込んでいた。体毛が焦げ茶色で胴体が長く、手足が短い小型犬──ミニチュア・ダックスフンドだ。そいつが耳をペタリと塞いで、体も小刻みに震わせている。

「あらあら、具合が悪いのかな?それとも何か怖いの?」

「クゥ〜ン……」

 ジャッキーがしゃがんで話しかける。

 そんな野良犬放っとけ─って思ったが、首輪をしてリードも付いている。どこかの飼い犬が逃げ出したのだろうか?

 ジャッキーが手を差し出すと、最初ビクビクと様子を窺っていた犬がその手の匂いをクンクンと嗅ぎ出した。と思ったらハッとした様に顔を上げて、ジャッキーの後ろに立っているボクをジッと見る。そして急に叢を飛び出して、ボクの足元に体を擦り付け始めた。

「ワン!ワンワン!」

「あら〜テンちゃん、気に入られたのかな?そう言えば犬が天使に天国に連れていってもらうお話あったよね〜」

『フランダースの犬』はそんなニコニコして語る内容じゃないだろ。そんな事より重要なのは、何故このダックスフンドが急にボクに寄ってきたかだ。もしかして──

「おいぬえ、その犬のリード突付いてみろ」

「け?」

 自分より体の大きい動物を怖れたのかジャッキーの肩の上で気配を消していたぬえが、ビクッと飛び上がる。ジャッキーがボクの意図が分からないながらもダックスフンドの背中を撫でて押さえてくれたので、ぬえは恐る恐る地面に垂れたリードに近付き、遠慮がちにクチバシでツンツン突付いた。

 刹那。

「けっ?」

 ブワッと膨らむぬえ。

「どうだ?

 ?」

「けえっ!」

 思った通りだ。

 察しの悪い鬼が目を丸くする。

「えっ、どういう事?」

「コイツは殺された女の飼い犬なんだよ。

 だからその飼い主の血を体中に浴びてるボクに寄ってきたんだ」

「あっそっか!」

「その首輪、もう充電が切れてるがLEDが内蔵された光るタイプのヤツだ。たぶん昨夜ゆうべ一緒に散歩しているところを襲われたんだろ。それで首を絞められた時被害者がこのリードを握ってたから、その体を通して犯人の殺意が伝染したんだ」

 人間の思念は電気信号なので、殺意が導電性のある人体を通して伝わるのは何の不思議も無い。手を繋いで花いちもんめをしたりUFOを呼んだりしている時、誰か一人に雷が落ちたら全員感電するのと同じだ。

「じゃあこのコ、その時はぐれた飼い主を探してここまで来たのね。その無念を晴らす為に一晩中ずっと彷徨さまよって…」

 お人好しの鬼がまた勝手に思い入れて、目を潤ませてダックスフンドを見つめる。無念を晴らしたいかどうかはともかく、ここでこの犬に出遭えたのはラッキーだ。


 首輪に提げられたプレートには犬名の『ポオ』と共に、飼い主─被害者の名前の『大楠おおぐす橙子とうこ』、そして自宅の連絡先も書いてあった。



 どうして…どうして……

 アタシがこんな目に遭わなきゃなんないの?

 突然背中から刺されるなんて……

『これは罰だ』って何の罰なの?

 アタシはただ、買い物に行こうとしてただけよ?

 痛い…痛いよ…痛くて声も出ない……

 一体何が刺さってるの…?

 倒れてるのが裏道だから誰も通らない。真っ昼間なのに…ああ、朝とか夕方の方が会社とか学校に行く人がまだ通るか…そうだ、そんな人通りの少ない道だから、夜のジョギングコースにもしてるんだもの。こんなオバさんがダイエットで走ってるとこ見られたくないから……あの犬の散歩してるコくらいしか遭った事ないものね。でもあのコも昼は見た事無いし……

 誰か、誰か来て。助けて。

 背中も痛いけど、首筋にジリジリ照り付ける太陽がキツ過ぎる。意識が遠くなってきた……


 ザリ…


 足音?ああ、誰か来てくれた──


 ザリ…ザリ…

 キュイーン……


 何…?何の音……

 えっ、襟首掴んで持ち上げっ…?


 キュイーン……

 ズッ…ズズッ……


 誰?誰がアタシを引きずって……どこに連れてくの?止めて…助けっ……


 キュイーン……

 ズズズッ………



 ポオの首輪に書いてあった住所を目指して県道を東に1キロ程進むと、美浦ゴルフ倶楽部とはまた別のゴルフ場があった。

 あの鬼の三人組がゴルフ場で風呂に入ったと言っていたのを思い出し、受付があるクラブハウスという建物に行ってみる。当然血だらけのボク達は最初不審者扱いされたが、そこは人当たりの良いジャッキーが愛想良く頼み込んで風呂に入れてもらい、備え付けのコインランドリーも使わせてもらえた。レストランで食事も出来るというので昼食を摂る事にしたが、服を乾燥機に掛けている間裸でランチという訳にもいかない。やむなく売店で服を買ったのだが、何せゴルフ場である。ゴルフウェアしかない。

 ジャッキーが大盛りのヒレカツカレーを食べながら、ボクの格好を見てクスクス笑う。

「テンちゃんの半ズボン新鮮〜可愛い〜♡」

「チッ…仕方無いだろ。サイズが合うのがジュニアゴルファー用しか無かったんだから……

 お前こそ何だ、そのトロピカルなシャツと短過ぎるホットパンツは」

「エヘヘ夏ってカンジでしょ〜?」

 ボクは溜息をついてしらす丼をもそもそ頬張る。アダムと宴会をしていたラファエルの様に天使も普通に食事はする。しかし体が資本の鬼は肉をバカ食いしてもいいだろうが、ボクは頭脳労働専門なのでDHAを摂っているのだ。ちなみに鳥と犬はクラブハウスに入れなかったので、外でサンドイッチを食べさせている。

 食事後何とか乾いたいつもの服に着替えたが、ジャッキーはゴルフウェアを気に入ってお土産用の紙袋に仕舞った。ボクのシャツと半ズボンは要らないから捨てろと言ったのに、「そんな勿体ない事したら地獄に堕ちるよ」と一緒に仕舞う。


 そしてボク達はポオと橙子の家へと向かった。クラブハウスの受付で確認してもらったらその住所までは4キロ程度、歩いても一時間掛からない。タクシーを呼んでも良かったのだが、ボクはあえてポオを先頭にして歩いていく事を選択した。

 ゴルフ場から県道を南下し、畑と林の間に家が点在する長閑な田舎の風景の中を進んでやがて着いたのは、集合住宅ながら独立した二階建ての戸建てが三棟並んだメゾネットタイプのアパートだった。その端の三号室の玄関ドアに『大楠橙子』とだけ書かれた表札が掲げられている。橙子はここで独り暮らしをしていた様だ。外に犬小屋は見当たらないのでポオは室内で飼われていたらしい。家の前でクンクンと鳴くポオだが、当然家主はいない。

「まだ警察来てないね。被害者の身元分かってないのかな?通報しといた方が良くない?」

「まあ、また怪しまれない為にはその方がいいけどな。でもその前に──」

 ボクはジャッキーが持っているポオのリードをクイクイと引っ張る。ポオは振り返ってキョトンとしているが、ボクが踵を返してアパートの敷地を出る素振りを見せると「ワン!」とひと声鳴いて付いてきた。そして追い越して前に出る。ジャッキーの肩の上でウトウトしている馬鹿鳥より察しが良い。

 そう、ボクが知りたいのはポオと橙子の散歩コースだ。ゴルフ場からここまで歩いてきたのもその為だ。この犬が普段どこを散歩していたかは知らないが、本人なら自然とその道を通るだろう。そしておそらく、その散歩コースのどこかで飼い主の橙子は襲われている。ここに来るまでに特に気になる所が見当たらなかったので、もう少しポオと歩いてみたい。

 ポオはアパートから更に南下し、やがて川沿いに出た。川と言っても両岸をコンクリートで固められた水路に近く、実際川を渡った向こうは一面水田が広がっているので農業用に整備されたモノかもしれない。そして今いるこちら側の川沿いには舗装された一本道が続いている。と言っても車が通れるほどの道幅は無く、街灯もほとんど無い。ポオはその道を迷い無く左折し、川を右手に見ながら歩き出した。間違いない。橙子はいつもここを散歩していたのだ。

 道沿いにはポツンポツンと家があるが、塀の様に続く高い植え込みで住人と歩行者は互いの姿が見通せないだろう。この人目に付きにくい散歩コース、まして夜なら、襲おうと思っている犯人にとっては好都合この上ない。犯行現場がこの近辺である可能性は高い。しかしこの道はどこに向かっているのか?そう思っていたら前方に霞ヶ浦が見えてきた。ああ、この川はあそこに流れ込んでいるのか……

「ワン!」

 不意にポオが立ち止まって吠えた。

 古い一軒家の裏手である。二階建てでいわゆるモルタル造りというやつだろうが、外壁には雨染みも多く所々ヒビが入っているのを見ると、築年数は何十年と経っていそうだ。壁の手前の植え込みは紫陽花アジサイで、半月程前までなら青や紫、白といった花々が美しい時期だっただろう。しかし梅雨明け間近の今はどれもすっかり咲き終わり、開いた花びらも大半が萎れてだらしなく垂れ下がっている。

「どうしたのポオ君?」

 リードを握るジャッキーをポオは頻りに引っ張り、その紫陽花の前をウロウロして匂いを嗅ぎ回っている。ここで何かあったのか?もしや、が犯行現場…?

「お暑うござんすねぇ〜」

 紫陽花を見ていたボク達は背後から不意に声を掛けられた。振り返れば手押し車を押している白髪の老婆がニコニコと立っている。

わっらあんたらどぉーんやんどこのどもだぁ?こんの水路みいこのそば散歩け?つまんねーっぺ?

 けどみんなさん言いよるけんど、こん紫陽花もったいないにー?がっちりちゃんと剪定しねから、こぉんな小汚こきたねくなって……

 歯車屋敷だか何だか知んねけんどが。

 ほんじゃさいなさよなら──」

 マイペースに言いたい事だけ言って、老婆は頭を下げて去ろうとする。何を言っているかいまいち分からないので聞き流していたが、慌てて呼び止めた。

「ちょっと婆さん、今何て言った?」

「は?ほんじゃさいな…」

「その前!何屋敷だって?」

「ああ、歯車屋敷け。こん家そう呼ばれとるんだべ」

「どうして?」

「はて…何でだべなあ?オッさんが独りぼっちで住んどるだけだっぺよ〜」

 情報が雑過ぎるぞ婆さん…ボクがガックリしている隙に老婆は手押し車をゴトゴトと押して去ろうとする。もう引き留める気も無かったが、去り際に老婆はポツリと呟いた。


「そうだべ、歯車のバケモンがおるとか言っとったなぁ……」


─そんな、まさか……

 ボクは目を見開いて立ち尽くす。

 その様子にジャッキーが心配そうに尋ねてきた。

「どうしたのテンちゃん…?」

「…いや……」


 キュイーン……


 聴こえた。

 あの音だ。

 微かに、遠く……空耳か?いや──


 振り返ると萎れた紫陽花の向こうに、モルタル造りの『歯車屋敷』がボク達をひっそりと見下ろしていた。



 キュイーン……


 わたしはあなたの為に働く歯車仕掛けの人形。

 例えあなたがわたしを愛してくれなくても。

 わたしはあなたの為に、この手を血で染める。

 いつでも。

 幾らでも。


 キュイーン……

 キュイーン………


 わたしは──歯車人形ギアレム


 (後編に続く) 

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?