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ぬえ散歩 其の四 いわき

 〈ぬえ散歩 其の四 いわき〉


「あっママ、とりさんもいるよ!」

 洞窟内に少女の声が響いた。

「けっ…」

 その背後からの不意打ちに怪鳥ぬえはハッと身をすくめ、そのまま波打ち際の岩場で固まる。

「鳥さん?」

 怪訝そうに応えたのは大人の女性の声だ。母娘おやこだと思われるが、振り向いて確認する事は出来ない。

「おかしいな、泳いでるのお魚さんだけじゃ…あら」

 その若い母親は柔らかな笑い声を上げた。

「みくちゃん、これビーチボールだよ。浮き輪みたいに中に空気が入ってるやつ。誰かのが流されてきたんだね」

「ホンモノのとりさんじゃないの?」

「そうだよ。ホラ、真ん丸じゃん?」

「んー…そうだね、ボールだね」

「羽もっちゃいし、これじゃお空飛べないよ」

「そっかあ〜じゃあね、とりさん!」

 そう言ってぬえの背中をポンポンと叩いて、少女の気配は遠ざかっていく。息を殺してビーチボールのフリをしていたぬえがそっと見ると、ピンクの水着の幼稚園児らしい少女が乗った浮き輪を、やはり水着姿で腰にパレオを巻いたポニーテールの母親がバタ足状態で支えている。そのまま母娘は洞窟の外へゆらゆらと流されていった。洞窟と言っても実際にはほんの短いトンネルである。

 ホッと溜息をつくぬえ。その周りには色鮮やかな魚達が集まってきている。いわゆる『流れるプール』を覆う様に人工の洞窟トンネルが造られていて、その岩の中がくり抜かれて水槽になっているのだ。


 ここは福島県いわき市の〈スパリゾートハワイアンズ〉──

 前身の〈常磐ハワイアンセンター〉の時代から『夢の島ハワイ』をイメージしている、いわき市随一の大型レジャー施設である。


 豊富な常磐湯本の温泉水を活用したテーマパークや三つのホテル、ゴルフ場も併設する巨大な施設だが、中でも人気なのはやはり全天候型の大型温水プールだ。今ぬえがいる〈フィッシュゴーランド〉もその屋内プールエリアに造られた一周130メートルの流れるプールで、巨大な水槽アクアリウムで飼育されている約千三百匹の南国の魚達とまるで一緒に泳いでいるかの様な感覚を楽しめる。

 ぬえはその『泳ぐ水族館』をプカプカと流されながら、時々水槽のフチまってガラスをクチバシでコツコツ叩いては、魚の反応を見てたのしんでいた。その途中で母娘に見付かったのだが、そうやってもし誰かに気付かれたらビーチボールのフリをするように、一緒に来たに言われていた。スパリゾートハワイアンズはペットの同伴は許されていないのである。

 その同伴者の二人──天使と鬼は、今は近くに見当たらない。

 何せこの〈ウォーターパーク〉と呼ばれる屋内プールエリアは広さ千平方メートルの大プールを中心に、流れるプール、家族用プール、更に三種類のウォータースライダーが設置されている広大な施設で、まあ広い。

 そして季節も八月──プールに最も人が集まる真夏のハイシーズンで、そのうえ関東は例年通りの猛暑である。このスパリゾートには屋外にも水着で楽しめる温泉ガーデンと、長さ日本一を誇る人気のボディスライダー〈ビッグアロハ〉があるのだが、三十五度超の気温と直射日光のあまりの過酷さに客は屋内に集中し、大混雑をしていた。

 という訳でまた──はぐれた。

 しかし今回、ぬえは大して焦ってはいない。そのぬえの殺意を感知する能力ちからを手掛かりに現世の殺人者を地獄に送る三人の捜査チームは、パトロールと称してこのスパリゾートに来た。けれど今日はそもそも夏休み中、それもお盆の入りの十三日なので、このくらいの混雑は予想していたのだ。だからもしはぐれたら、正午にはこのフィッシュゴーランドに集合しようと決めてある。パーク内には所々時計があり、それによると間もなく十一時五十分──このままここら辺にいればいい。そんな呑気な鳥がまた水槽に目を遣った、その時。


「けえ!」

 黒いビーチボールが膨らむ。

 を感知したのだ。

 それもすぐ近くに──


「あっ、やめてよ〜っ」

 ぬえが振り返ると、イルカ型の浮き輪にまたがった女子中学生の二人組が流されてくるところだった。何かスポーツをしているのか二人共ショートカットで小麦色の肌、ワンピースタイプの水着から手足がスラリと伸びている。その少女特有のほんのり丸みを帯びたプロポーションは健康的だが、大人の女性への萌芽も感じさせた。

「うりゃ〜っ」

「もおっ、バッカじゃないの〜」

 その女子達が笑いながら文句を言っている相手は、背後からバシャバシャと水を掛けるやはり中学生の男子だ。グループで遊びに来たのだろう。

 ぬえは首を捻る。殺意は人間の思念波であり、電気信号である。ぬえがそれを感知できる仕組みは、発信源が近ければ近いほど電波を強力にキャッチできるテレビやラジオのアンテナと大体同じだ。ただ強過ぎる電波は電波障害も起こしやすいので、鮮明に捉えられるかどうかは別だが…そういう意味では今感じた殺意は本当に強く、まるでその発信源に直接触れているかの様だった。しかしどう見ても、一番近くにいるこの無邪気な中学生達が殺意を発しているとは思えない。一体今の殺意は……


─どけ……


「けっ?」

 ぬえはその鋭い刃物の様な思念に、全身の羽毛を更に逆立てた。こんな具体的な殺意のまで伝わってくるのは、非常に稀である。よほどが良いらしい。

 見ると中学生達の後ろから一人の男が流されてきた。両手で持った小さめの花柄の浮き輪をビート板の様に前に突き出し、ゆっくりバタ足をしている。三十代だろうか、少し小太りで、水着の上には長袖のラッシュガード。ゴーグルを着けているのでその表情は分かりづらいが、明らかに楽しそうではない。ただ黙って正面を見つめ、ゴーグルの奥の目を光らせている。


─どけ……


 男は前の中学生達を睨んでいる様だ。

 その黒い殺意にぬえは戦慄する。

 まさか…彼らをこの場で襲う気なのか?

「おら〜イルカ押してやる!」

「キャハハッ…」


─どきやがれっ!

「けえっ!」


 バシャアッ。


 目の前に突然飛び込んできた人影と水飛沫に、ぬえは思わず飛び上がった。

 中学生達も驚いて振り向き、他の客も皆唖然とする。

 ゴーグルの男は水の流れに逆らう様に止まっていた。いや、止められていた。

 その男の顔面を左手で鷲掴みにしているのは赤髪の片ツノの鬼娘──ジャッキーである。

 しかしその顔を見てぬえはたじろぐ。

 まさに鬼の様な形相だったからだ。

 あのいつもニコニコしているコが怒っている…?

 彼女はプールに胸まで浸かりながらも仁王立ちして、右手には男から奪った浮き輪を掴んでいる。周りが騒然とする中、ジャッキーは男を強引に洞窟の外へと引きずり出し、そのままプールサイドに放り投げた。

「ぐげっ…がっ…」

 プール脇の段差に腹を叩き付けられた男は呻き声を上げ、更に転がって後頭部を床にぶつけて仰向けに倒れる。

「ど、どうしましたっ…?」

 監視していた男性スタッフが慌てて男に駆け寄るが、男が何か言うより早く水の中のジャッキーが叫んだ。


とか、地獄に堕ちるからね!」


「と、盗撮っ?」

 スタッフが顔色を変え、プールサイドの客達も大きくどよめく。

 倒れていたゴーグル男は必死に上半身を起こして、弁明の掠れ声を上げた。

「な、何言ってんだっ…盗撮だなんて…そんな証拠っ……」


「フン、、小細工が過ぎるぞ変態」


 そう言いながら歩いてきたのは、水着の上にパーカータイプのラッシュガードを羽織ったマッシュルームカットの中学生──いや、天使だった。その手には何だかカラフルな布を持っている。

 その天使のテンちゃんがジャッキーの持っている浮き輪を指差して言った。

「その浮き輪の前んとこに防水カメラが仕込んであるだろ。オイ、中学生二人、それで後ろから撮られてたんだぞお前ら」

 テンちゃんの指摘に、男子と共にプールサイドに掴まって留まっていた女子二人が「ええ〜っ!」「ヤダ〜っ!」と悲鳴を上げた。

 ゴーグル男は青め、その顔色を見て近くにいた男性客二人が男を取り押さえる。そしてプールサイドに寄ってきたジャッキーから浮き輪を受け取ったスタッフが確認すると、確かに花柄の浮き輪の側面が細工され、花芯の様にカムフラージュされた小型のカメラが埋め込まれていた。スタッフは顔を歪めて言う。

「こりゃあ巧妙というか悪質というか……

 だけどよく気付きましたね、こんな細工に」

 話を振られたテンちゃんは、まだ洞窟の入口で固まっているぬえをチラリと見た。

「この変態が女子中学生を追っかけて撮ってる時に、その視界を男子に塞がれたんだよ。

 それでその男子を『どけ』って、思いっきり睨んでたからなあ」

 その言葉でぬえは腑に落ちる。あの殺意はそういう事だったのか。テンちゃんも実際にはゴーグルを着けた男の睨む目が遠くから見える訳はなく、膨らんだぬえを見て殺意に気付いたのだ。

 盗撮ゴーグル男は観念したのか、すっかり項垂うなだれてしまった。すぐに数名のスタッフが応援でやってきて、男と証拠の浮き輪はめでたく連行されていった。事情を訊かれる為に同行していった中学生達は、テンちゃんとまだプールの中にいるジャッキーに何度も頭を下げていた。

 それでもまだ分からない事がある。

 何故この男の殺意があんなにもクリアにぬえに届き、その内容まで伝わってきたのか?

 ぬえが再び首を捻っていると、テンちゃんは独り言にしては大きな声で言った。

「まあ殺意も電気信号だからな。


 濡れた手でコンセントに触ると感電するみたいに、水の中だと周りによく伝わるだろうよ」


「けえ!」

 思わず納得のひと啼きをしてしまうぬえ。

「あっ、こんなとこにあったっ…あたしのビーチボール!」

 その啼き声が周りに聴かれない様に被せ気味に言って、ジャッキーがザブザブとぬえの許に寄ってきた。そのまま両手でぬえを頭の上に持ち上げて、またザブザブとテンちゃんのいるプールサイドに寄っていく。

「上がるからちょっと待ってて、ビーチボールちゃん♡」

 ジャッキーはウィンクしてぬえを置き、プールサイドに両手を着いて体を持ち上げた。その瞬間「ほおっ……」という、溜息とも吐息ともつかない声が周りの、特に男性客から漏れる。


 ジャッキーがその見事なプロポーションの肢体に身に着けていたのは、際どいオレンジのビキニだけだった。

 ファミリー客も多いこのスパリゾートでは、なかなか見ない大胆な格好である。


「さて、じゃあお昼ご飯食べに行こっか♪」

「ああ…ってお前、いつまでボクに持たせてんだよ。荷物持ちやらせんな」

「いいじゃん、キミちっとも泳がないんだから」

「飯行くんだろ。とっとと着ろ、オラ」

 そう言ってテンちゃんが持っていたカラフルな布をジャッキーに投げ付ける。それはムームーというゆったりとしたノースリーブのワンピースで、トロピカルな花柄があしらわれたハワイのドレスだった。スパリゾートハワイアンズでは各施設を水着で移動してもいいのだが、水に濡れた体が冷房で冷えるのでこのムームーやアロハを館内着として着る客が多いのである。

「もお〜乱暴だなあ…」

 ジャッキーは多少むくれながらも、素直にムームーを被って着る。

 刹那。

「けっ?」

 ぬえがブルッとふるえた。

 また──

 それも今度は複数のどす黒い思念が、ぬえの足元の濡れたプールサイドから伝わってくる。


─余計な事しやがって……


 皆表情にこそ出さないが、その場にいた男性客全員がビキニのジャッキーにムームーを着せた天使テンちゃんを、恨みを込めて見つめていた……


 (其の四 了)

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