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第五話 心理的瑕疵密室(前編)

 〈第五話 心理的瑕疵かし密室(前編)〉


『彼女の顔は、私の胸に未だかつて感じたこともないような快さをこの時以来注ぎこみ、また彼女の息吹いぶきはすべてのものに愛情と恋慕の情とを吹き込みました。』



 俺の知り合いの先輩の話。

 そのB先輩は他県の出身だけど、こっちの大学に通う事になって独り暮らしの為のアパート探してた。とは言ってもB先輩、真面目に学業に励むタイプじゃなくてさ、大学生になったら遊びまくるつもりだったのよ。だけど第一志望の国立逃して私立になっちゃったのが誤算で、親は学費を出すのが精一杯。家賃と生活費はバイトして稼ぐよう言われてて、遊ぶ金を捻り出すには住むのもなるべく安いとこじゃないと無理な訳。それで不動産屋に相談したんだけど、まあ最近はワンルームでも五万とかしちゃうじゃん。都心よりは安いけどさ、遊ぶ気満々のB先輩は無駄金は出したくないからね。それで何軒も不動産屋回って粘ってたら、裏通りのやけに愛想の良い不動産屋がちょうど空きが出たばかりの物件をいそいそと教えてくれた。

 駅からはちょっと歩くし古いアパートだけど、ちゃんとユニットバスも付いてる六畳の1K、それでなんと月二万円!B先輩も大喜びさ。

 でも話を聞いていくとどうもおかしい。二階の日当たりの良い角部屋で、写真を見せてもらっても建物は古いけどちゃんと補修もされてて、内装も綺麗で明るい。それでこの家賃は安過ぎるじゃん。だから訊いたのよ、何でそんなに安いのか?何かワケありじゃないのかって。

 けど不動産屋は満面の笑みで言うんだ。前の住人が急に出ていったんで、空き部屋を作りたくないオーナーが格安でもいいから早く誰かに入居してもらいたがってる。空き部屋があるとアパートのイメージが悪くなるからって。

 B先輩、恐る恐る尋ねた。

『イメージが悪くなるって…やっぱり何かあったんですか?』

『いえいえ、オーナーさんもご高齢で他に仕事されてませんからね、家賃収入が途絶えるのに神経質になられてまして。ですからお客様がこの場で即決いただけるなら、今だけこんな格安のお家賃でと…』

 そう言われるとB先輩も掘り出し物を逃したくなくなる。その場で契約しちゃった。まあ既にあれやこれや楽しい大学生活を夢見て脳内お花畑になってるからね、ニコニコしてるけど目が笑ってない不動産屋の思惑なんて見抜けるはずもない。それに知識も無かったから。


 でも賃貸の場合は、三年過ぎたら告知義務が無くなる──なんてさ。



「ん〜美味しい〜♡」

 真夏のプールサイドで、笑顔の鬼がパイナップルジュースを啜る。それもコップではなく、中身をくり抜いた本物のパイナップルを器にして、赤いストローを二本挿した浮かれた飲み物だ。

「テンちゃん飲まないの?ハワイの味だよ♪」

 冗談じゃない。周りのテーブルにも向き合ってストローを咥えているバカップルが結構いるが、ボクにあんな恥ずかしい真似をさせる気か。仏頂面でそっぽを向くと、代わりにテーブルの上の黒い丸い鳥が器のパイナップルの皮をクチバシで突付く。

「けけけけ…」

「ちょっとぬえちゃん、穴開けないで〜」

 楽しそうに笑う赤髪の鬼娘─ジャッキー。その格好はトロピカルな花柄模様のムームーというワンピースで、それを水着の上に被っている。ボクも水着の上にパーカータイプのラッシュガードを羽織り、背後で流れるのはウクレレの音色。三人仲良く休暇でハワイに来た──訳ではない。

 天使ボクジャッキー、そして殺意を感知できる怪鳥ぬえは、地獄に堕とす殺人犯を探して──福島県いわき市の〈スパリゾートハワイアンズ〉でをしているのだ。

 今日は八月十三日。平日だが、お盆の入りである。前身の〈常磐ハワイアンセンター〉の時代から『夢の島ハワイ』をコンセプトにした巨大レジャー施設は、夏休みの家族連れやカップルで大賑わいしている。

 ただし、今ボク達がいるのは屋内だ。何せ関東は例年通りの酷暑で、梅雨明け以降当たり前の様に三十五度超の猛暑日が続いている。このスパリゾートハワイアンズには屋外にも水着で楽しめる温泉ガーデンと、長さ日本一を誇る人気のボディスライダー〈ビッグアロハ〉があるが、快晴の今日はあまりの直射日光の苛烈さに、客はこの〈ウォーターパーク〉と呼ばれる屋内プールエリアに集中していた。お陰で豊富な常磐湯本の温泉水を活用した広さ千平方メートルの大型温水プールを中心に、流れるプール、家族用プール、更に三種類のウォータースライダーが設置されている広大な施設内は大混雑である。通常ならこういう人の多い場所の方が、殺人犯が紛れている確率も上がるのだが……

「今日は思いっきり泳げて楽しかった〜!

 スライダーも全部制覇したけど、やっぱ〈マウナ・ブラック〉の疾走感が格別だな〜っ」

 パイナップルジュースを堪能しながら、目を輝かせて語るジャッキー。しかしボクはほとんど泳いでいない。泳げない訳ではないが、体力と肺活量が無いからすぐ疲れるのだ。恥ずかしいビキニ姿でプールやスライダーに子供ガキの様に突進していくコイツのムームーを抱えて、プールサイドの足湯に浸かってボケーッとしていた。そんなボクにスライダーに並ぶ列から手を振る鬼。

『ヤッホーテンちゃ〜ん!』

 ボクは溜息をつくが、この場はジャッキーだけではなくほぼ全員がストレスフリーである。そんな浮かれた状況にそうそう殺人犯が紛れている訳もなく、ぬえが殺意を感知する事も無い。今朝このスパリゾートに着いてから半日が経ち、既に陽も傾き始めているが、鬼はザバザバ泳いで鳥はフラフラどこかで遊んで、昼食にロコモコを食べて、また鬼が泳いで鳥が遊んで天使が足湯──パトロールにはちっともならなかった。

─分かってたけどさ……

 ボクはテーブルの上に置かれた黒いスマートフォンに目を落とす。が全ての原因だ。

 元々ボクもジャッキーもスマホなんて持っていなかった。地獄の裁判で裁ききれない連中のを生前にしておくべく現世に派遣されているボク達だが、所詮下っ端である。天国からも地獄からも大したサポートは受けていない。まあそれは別に構わなかったのだが、先月の地獄の休日─閻魔賽日えんまさいにちにゴルフしに来た鬼達は普段の働きぶりが優秀らしく、緊急連絡用にスマホを支給されていた。その一人、ジャッキーの幼馴染のマキが言った。

『あらまあ、今時スマホも無いなんて……

 わたくし達はもう地獄に帰りますが、また来年の閻魔賽日には最新機種を支給されますので、古いのは差し上げてもよろしくてよ?』

『べーっ、あんたの施しなんて受けないもん!』

『別に貴女あなたには差し上げませんけど』

『な、何よ、鬼っ』

 亡者をあの手この手で痛め付ける地獄の超優等生である魔鬼マキと、名前だけいかついお人好しの落ちこぼれ邪悪鬼ジャッキーは仲が悪い。だからこんな小競り合いになるのだが、ボクはスマホが欲しかった。連絡手段としても有効だが、人間界で活動するにはどうしても金が掛かる。天界の財務担当である大天使アークエンジェルアリエルから必要経費は金貨で毎月支給されているものの、それをいちいち銀行で日本円に両替するのも手間が掛かるし、そもそも最近はコンビニで買い物するにも交通機関を利用するのにも現金では面倒くさいのだ。スマホであの世から電子マネーを受け取ればそのまま使えるではないか。

 それで結局、ボクは反対するジャッキーを押し切ってマキからスマホを譲ってもらう事にした。ところがマキは自身のピンクのスマホではなく、同行していた邪暗暴ジャンボ殴裂鬼オザキの黒いスマホを寄越したのだ。理由を問うと、彼女は微笑わらってボクの手を握った。

『わたくしのメアドお教えしましたでしょ?それでまたご連絡くださいな、天使様♡』

 それから何故か、ジャッキーの機嫌がすこぶる悪くなった。『ふうん…マキとメル友になったんだ……』とかずっと拗ねていて、パトロールにも身が入らない。まあ元々悪人にもすぐ同情する鬼は犯人ホシを地獄に堕とす仕事では役に立たないのだが、頭脳労働専門のボクが相手に襲われたりしてピンチの時には、ほぼ不死身なのが取り柄のヤツに盾になってもらわないと困る。それでご機嫌取りで仕方無く、次のパトロール先をジャッキーの行きたい所にしてやるって言ったら、このアロハ〜なリゾートを指定しやがった。どうせなら福島の普通の温泉で良かったのに……しかしお陰で、鬼の機嫌はすっかり良くなっている。

「夕食バイキングの後はショーがあるんでしょ?名物のフラダンスだけじゃなくファイヤーダンスも凄いらしいから、楽しみね〜♡」

「けえ!」

 結局二人でパイナップルジュースを飲み干したジャッキーとぬえが、キラキラした目を見合わせる。鬼も鳥もこれで満足して働いて、ボクにラクさせてくれるだろう。

 だから今朝、マキから『今どこにいらっしゃるの?』ってメールが来たのは内緒だ。何の用か分からないしジャッキーに見付かると面倒なので、まだ返信もしていないが……


「あっ、いたいた、テンちゃん!ジャッキーさん!」


 振り向くと青いセパレートの水着を着た若い女性が、こちらに手を振りながら早足で向かってくる。

「わっ、何か急に寒くなったぞ?」

「ハワイアンズは館内移動の時、冷房効いてて寒いとは聞いてたけどっ…」

 近くにいた男性客二人が肩を抱く。

 いや──寒いのはのせいだ。

「良かったあ〜人が多過ぎて見付からないかと思っちゃった」

「え…真澄ますみちゃん?」

 唖然とするジャッキーにクリクリとした目で人懐っこい笑顔を返したのは、確かに春先に知り合った元キャバクラ嬢の真澄だった。

 茶髪のセミロングの髪をポニーテールにまとめた夏色の彼女の脇を、男性客達は寒そうに通り過ぎる。それはそうだ。

 が近くにいると気温が急激に下がるのだ。

「何だお前、さいの河原で働いてるんじゃなかったのか?」

 ボクが怪訝な表情カオでそう尋ねると、真澄は元気に応えた。

「ハイ!お陰様でそこでの働きが認められて、させてもらえたの♪」

「あ、そっか、お盆だもんね!」

 ジャッキーも笑顔になり、そのまま真澄の肩に手を置いて「良かったね〜お帰り」などと談笑を始めた。その間にも何人もの水着の男女が真澄のそばを寒そうに通り過ぎ、一人二人は振り返って二度見したり首を捻ったりしている。真澄をる事が出来る霊感があるのだろう。勿論、そもそも異界の住人である天使ボクジャッキーには霊体も普通に視えるし、さわれる。

 ひとしきり真澄との再会を喜んでいたジャッキーだったが、ふと首を傾げた。

「あれ、でも真澄ちゃん、お墓も実家も埼玉だよね?何で福島に来たの?」

「何でって、お二人に逢いたくて!」

「あらそう〜?」

 呑気な鬼は喜んでいるが、ちょっと待て。

「どうしてボク達がにいるって分かったんだ?天国も地獄も下っ端は放ったらかしで、こっちの動向なんて把握してないだろ」

「あーそれは…」

 ボクの追及に目を逸らし、テーブルの上のスマホを見る真澄。

「このスマホの位置情報をGPSで追跡してもらったの、マキさんに」

「マキ…?」

 マキの名前を聞いてジャッキーの表情がサッと変わる。

 確かにスマホの位置情報は人工衛星を使ったGPS─〈全地球測位システム〉で追跡できるが、相手に断り無く勝手に追跡するのは違法だ。まあ人間界の法律が天使や鬼に適用できるかどうかは置いといても、いい気はしない。だから文句を言ってやったら「だってマキさんのメールに返信無いから」と返されて、ジャッキーは「マキからメールっ?」って目を吊り上げた。しまった。これは今晩、バーでトロピカルなカクテルとか高い酒を奢らされるパターンだ。底無しに呑みやがるからな、このうわばみ鬼……

 しかし真澄は真剣な顔になって言う。

「お願い、お二人に解いてもらいたい謎があって──


 もしかしたら、かもしれないの…!」



 契約した当日に早速、B先輩はその二〇四号室に住み始めた。

 当面の服は鞄に詰めて持ってきてたし、大学の教科書とかもこれから買う。風呂も付いてるんだから、最低限必要な家具だけ後で実家から送ってもらえばいいしね。とりあえず枕と毛布だけ買ってきて、B先輩は新居の最初の夜をワクワクしながら迎えた。コンビニ弁当を食べてスマホ弄って、さあ寝ようって天井の電燈を消して──


 急に物凄く寒くなった。

 全身がガタガタと震え、鳥肌が立つ。

 風邪でも引いたのか……いや。

 違う。

 動けない。

 風邪でこんな、にはならない。

 ガサッ。

 コンビニ弁当の空き容器が、流し台から落ちる。

 スマホの画面が明滅する。

 間違いなく心霊現象だ。


 怖過ぎる。

 逃げたい。

 でも金縛りで動けない、目も閉じられないB先輩は、そのまま部屋の隅を凝視し続けるしかなかった。やがてそこに黒いもやの様なモノがジワジワと湧き出し、徐々に形になっていく。

 人の形に。

 髪の長い、白い服の女。

 服はどうやらパジャマらしい。手足は細く痩せている。それは分かる。

 だが女の顔は分からない。正座して、上半身を前に俯せに倒しているんだ。両手を畳に付き、まるで土下座をしている様な格好だよ。

 B先輩は怖ろしくて堪らなかったけど、動けないし声も出せない。ただふるえながら女を見ていた。

 女は何かをブツブツと呟いてる。

 B先輩は聴きたくないけど耳も塞げない。

『…テ……シテ……カエ…シテ……』

 カエシテ……返して……?

 女がゆっくり顔を上げた。

『カエシテ……

 アタシノメ…

 ハナ…

 クチビル……』


 髪の隙間から覗くその顔は、右半分が焼け爛れて崩れていた。

 その崩れた女がそのまま四つん這いで這い寄ってくる。


 『カエシテェ……』


 B先輩は声にならない叫びを上げて、そのまま白目を剥いて気を失った──



 同日夜。

 ボク達は白河市のJR白河駅前にいた。

 いわき市のスパリゾートハワイアンズからバスと電車を乗り継いで四時間以上かかり、既に時刻は午後十一時を過ぎている。終電も行ってしまったので駅前のロータリーも閑散としているが、それでも路面のアスファルトは昼間の猛暑で蓄えた熱気をいまだに発し続けていて、うんざりする蒸し具合だ。パーカーなんか着ているから尚更である。しかしそんなボク以上に隣の鬼娘は機嫌が悪かった。格好はノースリーブのファーベストとミニスカートなので、パーカーよりは全然涼しげなのだが……

「暑い〜お腹空いた〜」

「ああ、そこにコンビニあるぞ」

「ヤダ〜バイキングがいい〜フラダンスもファイヤーダンスも観るの〜」

 駄々っ子か。ハワイアンズのディナーバイキングとフラダンスショーをキャンセルしてから、ずっとこの調子だ。ジャッキーの肩の上のぬえも不貞寝ふてねしている。

 真澄は既にここにはいない。彼女も盆帰りの途中にボク達を探して訪ねてきただけなので、自分の墓に行ってしまった。

 これがちゃんと成仏して審理を受け、天界に行った霊なら、熟練した幽体離脱者並に高速で飛び回れる。だからこそ毎年お盆になった途端、全国どこにでも先祖の霊が帰ってこれるのだ。だが真澄は現在、ボク達と出遭った事件の際に背負っていた生前の罪を償っている最中で、その為にこの世とあの世の境目である三途の川の賽の河原で働いている。まだが決まった訳ではないので、現世に留まっている浮遊霊や地縛霊の様に移動には普通の人間と同程度の時間がかかるのだ。怪談でタクシーに乗って移動する霊の話が多いのもそういう理由である。それで真澄はハワイアンズからJRの乗り換え駅まで一緒に来て、そこから先は一人埼玉方面の特急に乗っていった。まあ霊なので無賃乗車だが。

「真澄ちゃんだって水着で来てたじゃない。一緒に泳いで、フラダンス観てから移動したって良かったのに〜っ!」

「あのなあ…真澄がわざわざ水着着てたのは、霊感のある客に視られても騒ぎにならない為だって言ってたろ。だからアイツ、すぐ普通のワンピースに着替えたじゃん。いつまでもビキニ脱ごうとしなかったお前と違って、遊びに来たんじゃないんだよ」

「あたしだってパトロールしてたもんっ…その為にショーも観たかったんだもん!ファイヤーダンスの途中で殺意が芽生えて、放火殺人するかもしれないよ?そしたらホラ、〈焦熱地獄〉の中でも人を焼殺した犯人が堕ちる〈無終没入処むしゅうぼつにゅうしょ〉にその殺人ダンサーをっ……」

「ヤケクソでテキトーな事言うな。

 それより真澄が言ってたの方が急を要するだろ。

 ホラ行くぞ」

「う、うう……」

 ようやく愚痴を呑み込むジャッキー。

 ボクは目的の場所を目指して南に歩き出しながら、真澄が聞かせてくれた話を思い返した──


『知っての通り、わたしは賽の河原で奪衣婆だつえばさんと懸衣翁けんえおうさんのアシスタントをしているの。死者の上着を脱がせて、その重さで罪の重さを量るお仕事。何せキャバクラで散々お客さんのスーツ預かってたからね、得意分野だからすっかり慣れて、最近は結構一人で仕事させてもらってたのよ。

 それで昨日の事なんだけど、三途の川の渡し場に向かって並ぶ大勢の死者の列を、わたし、河原に座って眺めてた。三途の川を渡るのは死後七日目──つまり初七日でしょ?この長蛇の列はその順番を待ってるのよね。去年の秋死んだわたしも新盆にいぼんだけど、この人達も最近亡くなったばっかりなんだなあ…なんてちょっとしんみりしてたら、その列の後ろの方から若い男性がフラフラと離れたの。長身で痩せてて、髪の毛はちょっと長めで寝癖が付いてて、着てるのはTシャツにジーンズ、ヨレヨレのジャケット。成人はしてそうだけど社会人っぽくはない、まあ大学生かなって思って見てた。そしたらその人、河原にただ突っ立ってボーッと川を眺めて、そこから動こうとしなくてね。

 で、奪衣婆さんに言われてたの思い出した。 

 行ってから知ったんだけど、地獄の最初の秦広しんこう王様の審理が初七日で、それは三途の川を渡るにやるんだね。その初審理次第で、三途の川の渡り方も変わってくる。まあ天国行きだろうって善人は豪華な橋を歩いて、罪の軽い死者ひとは泳がされるけど浅瀬を渡れる。でも重罪人は深い淵に突き落とされて、そこは凄い急流で山みたいな高さの波も来て、流れてくる岩で潰されるって……

 でも善悪の基準がよく分からなくなってきた最近は、地獄の裁判も難しくなってるんでしょ?それでテンちゃんもジャッキーさんも地上に派遣されてるんだもんね。実際初七日の審理も滞っちゃって、七日過ぎても三途の川を渡れない死者が河原に溢れてる。だから奪衣婆さん達もその死者を振り分ける手助けをしている訳だけど、それは秦広王様やその後の閻魔王様達の裁判をラクにする為だけじゃないんだって。

 目の前のこの男性みたいに河原でグズグズしてるのは大抵何か身に覚えがあって、地獄の裁きを受けたくない死者ひとだ。だからこそいち早く罪を量ってあげて、急流を渡る覚悟をさせてやれって──

 奪衣婆さん、あの人はプロよ。ちょっとがめついとこもあるけど、ちゃんと自分の仕事の意義を考えてて先輩として尊敬してるのよわたし。だからその男性の背後にそっと近付いていってね、あまり驚かさないよう声を掛けた。

「いらっしゃいませ〜♪お客さん、初めて〜?」って……

 振り向いた顔は全然イケメンじゃないけど、眼鏡を掛けてて優しげで、でもちょっと気が弱そうだった。彼、さすがに目を丸くしてたけど、わたしは「どこから来たの?学生さん?」とか笑いかけながら、さり気なくジャケットを脱がせたの。それで「ハ、ハイ、大学生で…」とかオドオド言ってる間に、近くにあった衣領樹えりょうじゅに彼のジャケットを掛けた。うん、そう、あの枝に衣服を掛けて、そのしなり具合で罪の重さが量れる。わたしが奪衣婆さんのアシスタントになった時、その三途の川のほとりに生えてる衣領樹の大樹から枝を何本か切り分けて、河原の他のとこにも植えたの。そしたらいちいち衣領樹まで上着持っていかなくても手分けして仕事できるでしょ?でも……

 その人のジャケットを掛けても、衣領樹の挿し木はピクリとも撓らなかった。

 わたし、拍子抜けしちゃった。だから笑って言ってあげたんだ。

「なぁ〜んだ、貴方何もしてないじゃない。これなら天国行けるわよ!どうして死んじゃったの?」って。

 そしたらその大学生、泣き笑いみたいな表情カオで言ったわ。


「ハイ…実は僕、一昨日おととい……

 ………」


 そんな馬鹿な。わたし思わず声を荒らげた。

「自殺だったら自分を殺してる。他人だろうが自分だろうが人を殺せばで、地獄行きなのよ?でも貴方のジャケットにそんな罪の重さは刻まれてない、おかしいじゃない!」って。

 それに「らしい」って何?自分の事なのに…不思議に思って尋ねたら、大学生は説明してくれたわ。

 死んだ前後の事はよく覚えてない。

 気が付いたら天井付近に浮いていた。

 そして足元の部屋の中央には、お腹に刺さったナイフを両手で握った死体じぶんが仰向けに倒れてたんだって。

 呆然と見下ろしてたら、現場検証に来た刑事に大家のオジさんが証言してるのが聴こえてきた。それによるとその日大学生は朝までのコンビニのバイトはキチンとこなしたんだけど、午後から夏休みの間だけ講師をしてる学習塾の夏期講習を無断欠勤して、夜になっても連絡が付かず実家からの電話にも出ない。熱中症で倒れたりしてるかもって心配した母親から大家さんに連絡が行って、様子を見に行ったら部屋の中でスマホの呼び出し音が鳴ってるのが聴こえる。でもどんなに呼んでも返事は無くて、合鍵を使ってドアを開けて隙間から覗いたら──って経緯で発見されたんだって。死亡推定時刻は午前八時から十時の間らしい。コンビニバイトの後、部屋に仮眠に戻ったんだね。

 でも発見時部屋のドアも窓も鍵が閉まっていて、外から誰かが侵入した形跡は全く無い。ドアチェーンも掛かってて、それを切らなきゃ部屋に入れなかったそうだから、大家さんみたいに合鍵があっても無理。

 更に刑事達の話を聴いてたら、刺さってたナイフも大学生が自分で買ったレシートが残ってて、応対した店員にも確認が取れたって言ってて。

 それにこの部屋は

 住人は精神的に病んでいたんだろう──

「事故にしてはナイフの刺さり方が不自然だそうです。これは両手で握ったナイフで腹部を刺した自殺だろうって、刑事さん達は結論付けてました。だから…僕はやっぱり自殺したんです……」

 いや、状況はそうかもしれない。

 しかしわたしも奪衣婆さんのアシスタント──プロののプライドに懸けて認められない。だから言ってやった。

「つまりだから自殺だろうって憶測よね?でも貴方はその罪は背負ってない──

 だからこれは事故か、かもしれないじゃない!」

 だけど彼は何だか諦めた様に呟くの。

「殺生したら地獄なんですよね?

 だったらいいです」って……

 いや良くないよね?だってこのままだったら彼、問答無用で三途の川の深みを渡らされて、人手も時間も不足してるその先の審理でちゃんと裁いてもらえず、そのままサクッと有罪にされそうじゃない。そしたら冤罪で地獄に堕ちちゃう。

 だからわたしもムキになっちゃって。

「じゃあ調べてもらおうよ!わたし明日からお盆で帰るから頼んでみるっ…

 こういうの捜査してくれる天使と鬼が地上にいるから!」って叫んじゃった。


 そしたらね、後ろから声を掛けられたの。

「それってもしかして…」って。

 振り向いたらすっごい美人の鬼がいてビックリしちゃった。格好は地獄の獄卒おにの女子の制服─虎縞ビキニだったけど、綺麗な黒髪で色白で、日本人形みたいな……それがマキさんだったんだ。ジャッキーさんの幼馴染なんだって?何かあまりにも賽の河原が渋滞しちゃったから、罪人を独断で三途の川の難所に放り込んでいいって閻魔王から許可されて来た精鋭チームの一人だって…後で奪衣婆さんに訊いたら地獄でも有名なエリートの鬼なんだってね。

 それでマキさん、テンちゃんと連絡取れるって言うからメールしてもらったけど返信無くて、でもGPSで見付けてくれて、そしたら面白そうに笑ってた。

「あら、ちょうどの現場と同じ県にいますわよ」って──わたし、これも縁だって飛び上がっちゃった!


 お願いっ…あの大学生が地獄に堕ちないように、初七日までに密室の謎を解いてください!』



 宅地や建物の売買・賃貸に関する様々な取り決めを定めた〈宅地建物取引業法〉では、シロアリや雨漏り、地震や地滑り等の被害が物件に直接及ぼした損傷を〈物理的瑕疵〉って呼ぶ。

 それに対して〈心理的瑕疵〉はそこで以前の居住者が何らかの原因で死亡してて『気持ち的に何か嫌』って場合を指し、これがいわゆる〈事故物件〉だな。殺人や傷害致死等の刑事事件は勿論、事件性のない事故や災害、そして自殺や孤独死でも心理的瑕疵物件となる。

 だけど賃貸の場合、三年を過ぎると入居者への告知義務が無くなるんだよ。B先輩が入居した二〇四号室は、まさにそれだった。気を失っちゃったB先輩は翌日目を覚まし次第不動産屋に駆け込んで、自分が視た事を必死に訴えた。不動産屋は最初渋ってたけど、やがて告知義務が無い以上自分達には非が無いって何度も念押ししながら教えてくれたんだ。

 、この部屋で小火ボヤがあった。日曜日の昼間だったので窓から黒煙が上がっているのがいち早く発見され、すぐ消火できたから部屋も大して燃えず、周りへの延焼も無かった。だけど犠牲者が出てさ、それが住人の若い女だったんだ。

 女はパジャマ姿で、ガスコンロにもたれ掛かって死んでた。仕事が休みで遅く起きた女がお湯を沸かそうとコンロに火を着けて、でもそこで急に気を失って前のめりに倒れたらしい。それで自分の顔を焼いて……後から分かったのはその古いガスコンロ、不完全燃焼起こしてたらしくてさ。女が気を失ったのは一酸化炭素中毒だったんだって。不幸過ぎる事故だよな。

 それでオーナーは全部で八室あるアパートをリフォームして、勿論ガスコンロも全て取り替えた。でもその二〇四号室だけはどうしても埋まらない。家賃の安さに釣られて入居した人も、すぐ出てっちゃう。皆同じ理由さ。

 顔の右半分が焼け爛れた女が、目や鼻を返してって現れるんだ。無理過ぎる。

 当然、B先輩もすぐ解約して引っ越したよ……

 え?勿体ない?

 二万円なら住みたい?

 何言ってんのお前…は?女が出てくるだけだろう?ヘッドホン着けて無視すればって、お前なあ……

 その女、部屋に取り憑いてるだぞ?地縛霊って思い入れのある場所から離れたくないだけってパターンもあるそうだけど、この女の場合、目とか鼻とか返せって…どう考えても事故死させられたのを恨んでるじゃん。そういう負の感情に囚われて成仏できず、死んだ現場に縛り付けられてる霊はおっかないんだよ。そういう地縛霊は自分の居場所の土地や家屋を売買されたり改築されたりするのを嫌うから、心霊現象を起こしたり、住人や関係者に憑依したりする。

 もっと怖いのは、自殺や事故死をした地縛霊は自分と同じ苦しみを他人に与えたがるからな。ホラあるだろ?自殺の名所の崖とか、何度も交通事故が起こる交差点とか、あれは地縛霊の仕業なんだよ。それで誘われて死んだ人がまた地縛霊になって、別の人を取り込んで……そんな怨念の連鎖が起きたらどんどん死人が出る。だからお前もそんな事故物件に住みたいなんて……え?場所?

 福島県のS駅の近くらしいけど…やめとけって。

 幸いB先輩は助かったけどさ、次はり殺されるぞ!



「ハァ…ハァ…暑い…どこまで歩くんだ……」

 夜道に天使の嘆きがこだまする。

「あら、もう疲れたのキミ?」

 コンビニで買ったおにぎりと菓子パン、マスカットのスムージーで機嫌が直った単純な体力馬鹿の鬼は涼しい顔をしているが、この熱帯夜の中をもう三十分近く歩いてきたのだ。勿論の現場を目指しているのだが、繊細な頭脳派のボクがそんなハードなウォーキングに耐えられる訳がない。汗だくのヘロヘロで、どこかに涼みに入ろうかと霞む目で行く手を見る。しかし白河駅からだいぶ離れたせいかコンビニや商業施設、赤ちょうちんや良いカンジのバーなんかも見当たらない。時間が遅いので通行人にも行き合わないのは仕方無いが、昏い街灯の下、閑静過ぎる住宅街がずっと続いている。これでは昼間でも涼む場所なんか無いではないか……

 ジャッキーが傍らの電柱に貼られた住所のプレートを見ながら言う。

「聞いた住所だとこの辺だと思うけど…大丈夫?テンちゃん顔色悪いよ?おんぶしてあげよっか?」

「そんなの余計暑苦しいだろ…ハァ…ハァ……」

「あっ、見て、あそこの家の前。あれ冷たい霧が出るヤツじゃない?」

 ジャッキーが指差した先を見ると、それは鉄パイプを組み合わせた高さ2メートル超のアーチで、そこに小さなシャワーヘッドの様なモノが取り付けられていた。どうやら最近では猛暑対策として屋外の公共施設や道路上などにもよく設置されている、冷水をミスト状にして噴射する装置──〈ミストシステム〉の様だ。

 しかし例えばバス停にあるミストシステムなら、停留所の屋根に沿って噴霧器が幾つも取り付けられている。だが目の前のこれは幅はせいぜい3メートル、取り付けられた噴霧器も二つで、普通の民家の玄関前に置いてあるのを見てもおそらく自家製だろう。噴霧器のホースも家の中から繋がれている。

「凄いね、日曜大工で造ったのかな?これなら玄関出入りするたびにキモチいいよね。昼間ここを通る近所の人も助かってるんじゃない?」

 それなら電気代も水道代も相当かかるだろう。だとしたらこの家の人間はジャッキーに負けず劣らずのお人好しだ。普段のボクなら「けっ」と思うところだが、今は助かる──と近寄ってみたが、夜は動かしていない様だった。けっ。

 その代わりそばに自動販売機があったので、スポーツドリンクを買ってひと休みする事にした。

 とりあえず水分と塩分を補給して落ち着いたところで、ジャッキーが尋ねてくる。

「あたし歩きながら考えてたんだけど……その真澄ちゃんが出遭った大学生、何で自分が死んだ時の事覚えてないのかな?」

「さあな…」

「でもさ、自殺だったら自分でやるんだから、覚えてない訳ないよね?これだけでも自殺じゃないって証明になるんじゃない?」

「どうかな…自殺するヤツは大抵精神的に追い詰められてるからな。ある意味で、自分のやってる事が分かってない場合も多いんじゃないか?川や電車に衝動的に飛び込むのもそうだけど、わざわざ高いビルに上って飛び下りた自殺者が全部無意識でやってて覚えてなかったってケースもあるみたいだぞ。その場合、お前は自殺したから地獄に行くんだって宣告しても本人覚えてないから、判決になかなか納得しなくて面倒だって〈閻魔帳〉に載ってた」

「そうなの?え、テンちゃん閻魔帳読んでるの?」

「当たり前だろ。一応ボク達も罪人を裁いて地獄に堕とす仕事してんだから、地獄の判例集くらい読んどかないと」

「わあっ偉〜い♡よくあんな無限に分厚いの読んでるね〜っ」

 だから子供扱いするな。ていうかその言い草、お前読んでないな。

「でも、て事はやっぱり密室の謎を解くしかないんだね。事故にしては不自然なんだから、自殺じゃなくて誰かがその鍵の掛かった部屋に入って大学生を殺したって証明できれば、そのコ地獄に堕ちないんだから。

 どうやったのかな?何かこう、鍵とチェーンを外から糸で外せる仕掛けとか…煙突から入ったとか」

 やめろ。そんな糸とか、ありふれたトリックを口走ったらボクが地獄に堕ちる。あと日本のアパートに人が通れる煙突があるか。……まあ、現場を見てみないと何も分からない。

 それよりも気になっているのは刑事の発言だ。

『部屋の様子が

 住人は精神的に病んでいたんだろう』という──

─どうおかしいって言うんだ…?

 そんな事を考えながらスポドリを飲み干して、再び歩き始めてすぐの角を曲がった途端だった。


「あっ、ここよ!」


 目の前に二階建てのアパートがあった。造りから見て築年数は古そうだがキチンと補修はしてある様で、最近死人が出た割にはむしろ小綺麗な印象がある。住人も退去などしていないらしく、明かりが漏れている部屋が幾つかある。

 しかし二階の角部屋は真っ暗だ。

 そう、それこそボク達が目指していた、真澄と出遭った大学生が三日前死体で見付かった部屋だった。

 階下の集合ポストのプレートを見ると、『二〇四号室 ムラカミ』とある。『邑上むらかみ草介そうすけ』というのが真澄から聞かされた名前だ。間違いない。

 出身は他県だがこの春念願の国立大学に合格して、そこの教育学部に通う為に福島に引っ越してきたばかりの教師志望の大学一年生。しかし二浪しているのでもう二十歳ハタチを過ぎていたそうだ。学費は親に出してもらっているが浪人して余計な出費をさせたのが申し訳ないと、コンビニのバイトで生活費を稼ぎ、夏休みは学習塾の講師もして親にお金を返していたらしい。それでもなるべく教職に就く為の勉強に専念したいのでそれ以上は働けない。それでこんなに駅から離れた安アパートに住んで節約していたのだ。そんな優しげで気弱そうだったという苦学生がここでどんな生活をし、早過ぎる最期を迎えたのか……

 とにかくまず部屋に行ってみようと、ボク達はアパートの階段を上がった。室内を見る事が出来なければ、密室の謎も何も分かるまい。大学生が発見されてからまだ三日、自殺と断定されたなら警察も事件性無しとして引き揚げただろうが、それからすぐに部屋の片付けに着手したとは思えない。大家か、或いは遺族か関係者か、誰が片付けるのかは分からないが、今は葬儀の手配でてんてこ舞いのはずだ。手付かずの部屋に謎を解く手掛かりがそのまま残されている可能性は充分ある。

 と言っても片付け前の今は、施錠されて立ち入り禁止のはずだ。中に入れなければ大した収穫はあるまい。さてどうやってをしようかと思案しながら、部屋の前に辿り着いたのだが──

「は?」

「あら?」

「け?」

 ボクもジャッキーも、ジャッキーの肩の上でずっと寝ていたぬえまでもが、その気配に声を上げた。


 二〇四号室は角部屋なので、玄関前通路の奥は鉄柵で行き止まりになっている。

 その暗がりに女が座っていた。


 こちら向きに体育座りをして、項垂うなだれた先の長い黒髪が床に付いていた。

 大人の女性みたいだが着ている白い服はパジャマで、まるで母親に叱られて家から締め出された女の子が泣き疲れて眠っているかの様だ。

「……シテ……カエ…シテ……」

 女はブツブツと呟いている。

「カエシテ……」

 ゆっくりと頭を上げる女。

 黒髪がハラリと解け、その顔が露わになる。

 青白い肌。

 痩せこけた頬。

 目の焦点も合っていない虚ろな表情──

 そして何より、右半分が焼け爛れている。

「カエシテ……

 アタシノメ…

 ハナ…

 クチビル……


 カエシテェ……!」


「けえっ!」

 ぬえが鋭く啼き、その羽毛が膨らむ。

 だ。

─なるほど…そういう事か。

 ボクは一歩出て、女の前に立った。


「お前、このアパートに憑いてる地縛霊だな。

 その顔、火事で死んだのか?」


 女が潰れていない方の左目を僅かに見開き、ボクを見上げた。その目付きに殺意─いや、を感じる。

 地縛霊は自らの領域テリトリーに強い執着を持ち、そこに侵入はいってくる者を拒絶し、悪霊化すると相手をり殺そうとする。見境無く殺意を向けてくるのは既に相当悪霊化が進んでいる証拠だ。

 すかさずジャッキーがボクの横に来て、女と目線を合わせてしゃがんだ。

「大丈夫、あたし達人間じゃないから貴女あなたが普通に視えてるの。この人は天使のテンちゃん、。あたしは鬼のジャッキー。でも怖くないよ。貴女を除霊しに来たとかじゃないからね」

─いや。

 ジャッキーは女の肩に手を掛けて優しく諭しているが、除霊しないとは言い切れない。もしかしたらボク達は現場に来て早々、を見付けたのかもしれないのだ。もしコイツが大学生─草介を殺した犯人ホシなら、地獄に送らなくてはならない。だってそうだろう?


 


 霊体であるコイツは凶器のナイフには直接触れないかもしれないが、悪霊化して霊力が高まっているなら念じれば実体のあるモノも動かせる。そんな〈ポルターガイスト現象〉で犯行も可能だろう。ボクは単刀直入に訊いてみた。

「この二〇四号室の邑上草介、知ってるか?」

 地縛霊の女がピクリと肩を震わせる。

「ボク達はそいつが自殺とされた事に疑問を持っている。もしお前が、その件に関わっているなら──」


「オイ、何だあんた達っ?」

 不意に掛けられた声に振り向くと、青い作業着ツナギを着た四十代くらいの男が立っていた。こちらに向けられる目は明らかに不審者を見るそれだ。そのボクとジャッキーを交互に値踏みする様な目の動きと表情を見る限り、地縛霊は視えていないらしい。

「その二〇四号室に何か用か?」

「そう言うあんたは誰だ?」

 怪訝そうな顔で質問してくる作業着の男に、ボクは質問で返す。男はますます表情を険しくして答えた。

「俺はこの部屋の清掃を頼まれた業者だよ。作業は明日の朝からだけど、大家が急いで欲しいってうるさいから先に下見に来たんだ」

 なるほど、の業者か。

 今回の様な事件や事故、自殺や孤独死の現場は、遺体の体液や腐敗臭等の汚染が残っていて通常の清掃では対応できない。そういう場合に専門的な清掃、除菌、消臭の知識と技術で対応し、原状回復を行なうのが〈特殊清掃〉だ。ゴミ屋敷なんかでもこの特殊清掃人が活躍する。草介が死んで三日、彼の葬儀は地元で行なうだろうから遺族はそちらに掛かりきりなのだろう。それで特殊清掃業者に依頼したのだ。現場を調べたかったボク達にすれば、片付ける直前にギリギリ間に合った訳だ。

「下見に来たって事は、鍵持ってるんだな?」

「あ?そりゃ借りて持ってるけど…」

 重ねての質問に更に警戒の表情を強める特殊清掃人だが、期待通りの答だ。

 ボクはパーカーのポケットからを出して掲示する。

「福島県警捜査一課の天国あまくにです。

 こっちは同僚のひとや

 こちらの邑上さんの死に関して確認したい事がありましたので、再捜査に参りました」

「あ?え?あれ…?」

 目を白黒させる特殊清掃人。それはそうだろう。ついさっきまでパーカーを着た美少年とミニスカートのチャラチャラした女だった二人が、急にスーツ姿の刑事二人組に視えているのだ。全てはボクが警察手帳として手にしている大天使アークエンジェルラミエルの紫の羽根の効果だ。ラミエルは幻視を司る天使なので、その抜け毛でも短時間ならこんな幻覚を視せられる。

「という訳なので鍵を開けて、室内を見せてもらってもいいですか?」

「ハ、ハイっ…」

 清掃人は慌ててガチャガチャとドアの鍵を開ける。

地獄ちひとや君はそこで待っていてくれ」

「え?あ、うん…了解です!」

 ボクが地縛霊から視線を外さないのに気が付いて、鈍い鬼娘も意図を察して刑事っぽく返事をした。を見張っておかないと逃げられては困る。

 そしてボクは単身現場に乗り込んだのだが──

─ああ、なるほど……

 草介の死体が発見された直後に現場を見た刑事が『この部屋は』と言っていたそうだが、やむを得まい。


 そこは六畳一間にキッチンが付いた1Kだったが、その畳敷きの六畳間には家具は何も無かった。備え付けの押し入れには布団とプラスチックの衣装ケースが閉まってあり、キッチンには一人用の折り畳みテーブルが立て掛けてある。だから睡眠や着替え、食事の時はそれらを引っ張り出せばいいので、学生の独り暮らしなら不自然ではない。

 のは、その六畳間の四隅に本が積まれている事。それも大学の授業で使うのだろう民俗学や言語学等の分厚い装丁の本を一番下にして、その上にハードカバーや新書、文庫本を大きいモノから小さいモノと安定する様に順に積んであるのだ。高さはそれぞれ1メートル程、そんなが四本、部屋を囲んでいる。

 そしてその本の柱の上にそれぞれ塩が盛られた小皿と空のワイングラス、そして細身のが置かれているのだ。

 ただし、ナイフは三本しかなかった。玄関を入ってすぐ右手のの上のナイフが無い。おそらくそれが草介の腹に刺さっていたのだろう。

 これが本の柱が傾いたり崩れたりしていたら、載っていたナイフが滑り落ちて部屋の中央で寝ている草介に刺さる不運も万に一つ、無い事はない。しかしそんな形跡は無く、位置的にもナイフが相当の距離を飛んでいかないと成り立たない事故だろう。それに落ちたにせよ飛んでいったにせよ、軽いペーパーナイフが致命傷を与えるほど深く刺さるとは考え難い。

 だから警察は、精神的に病んでいた青年が部屋にナイフを使った怪しげなオブジェを飾り、それが悪化してそのナイフで自分を刺したと見立てたのだ。まあそういう判断にもなるだろう。この部屋は一見、確かに

 だがボクは納得した。


 その後もう少し部屋を調べてから、ボクは退出した。表で待っていた特殊清掃人に声を掛ける。

「お待たせしました。どうぞ作業の下見をしてください」

「あ、ハイ!すみませんっ…」

 まだこちらを刑事だと思っている清掃人は緊張しながら室内に入っていく。

「何か分かったテンちゃん?」

 そう訊いてきたジャッキーはまだ地縛霊のそばにしゃがんでいた。ボクが部屋の様子を説明すると、あからさまに困惑する。

「な、何それ…ちょっと怖いんだけど……」

「まあ刑事もそう思ったんだろう。或いは単に頭のおかしな奴として馬鹿にしたかもしれないが…どっちにしてもあの部屋の印象が真面目に捜査する気を無くさせて、簡単に自殺って結論を出させた可能性があるな」

「一体その変なオブジェ、何の意味があるの?」

「ああ……


 教師志望だけあって草介は読書家で勉強熱心な学生の様だが、唯一の悪癖があの本の柱──『積読つんどく』なんだ。ホラ、せっかく買った本を読まずに本棚に眠らせとくのをそう呼ぶだろ?彼の場合はそれが高じて、ホントに床に積んである訳さ。

 その大量の積読本の上に塩を置いてあるのは、それらが決して浪費ではなく好きで買った『味わい深い』モノだという確認。そしてワイングラスは、そんな味のある本を積んでるのは決して読むのを忘れてるとかではなく『熟成させている』のだという、どちらも自分自身へのアピールだな。

 そしてペーパーナイフは『戒め』だ。四隅の積読の柱が常に刃先を向けてくる──つまり、必ず読まなくてはいけないというプレッシャーを自分で自分に懸けていたんだよ。そうやって何とか積読を減らそう、片付けようとして……

 しかし遂にその積読のプレッシャーに耐えきれなくなった草介は、発作的にナイフの一本を手にして──」

「そんなっ…じゃあやっぱり自殺っ……!」


「んな訳あるか」

「へ?」

 テキトーな冗談にすっかり騙されたジャッキーの間抜け顔を横目に、ボクは俯いている地縛霊の女の前に胡座あぐらをかいて座った。

「てっきりがこの部屋に入り込んで悪さしたのかと思ったが…疑って済まなかった。

 ここは本当にだったんだな」

「え?え?どういう事?」

 目も口も真ん丸に開けるジャッキー。

 仕方無いので阿呆ヅラの鬼に説明してやる。

「草介は金の無い苦学生だったからな。例の本の柱、ほとんど古本や図書館で借りた本だったが、一番上の文庫本は四隅共ちゃんと新品だったぜ。

 江戸川乱歩『人でなしの恋』

 夢野久作『瓶詰の地獄』

 久生十蘭『湖畔』

 小酒井不木『恋愛曲線』

 どれもラブ・ストーリーばかりでな」

「へーラブ・ストーリーなんだー」

「そういう愛や平和、奉仕や貢献に関して書かれたを四方に並べ、そこに聖杯に見立てたワイングラスと、剣に見立てたペーパーナイフ、そして塩──やり方は色々混ざってるがその目的は明らかだ。


 霊を寄せ付けない為のを張る儀式だよ」


 そう、霊能力者に除霊や浄霊をしてもらうだけが霊を追い払う唯一の方法ではなく、一般人が自身で出来る事もある。それが霊を寄せ付けない空間──〈結界〉を作る事なのだ。空間を清浄に保ち、ネガティブなエネルギーを寄せ付けない為の『バリア』を意味する結界は、皇居や伊勢神宮、日光東照宮等の聖域を悪しきモノから護るには大々的な手続きがいるが、個人的なスペースには実は割と手軽に張る事が出来る。

 例えば家を清潔に保つ。霊は汚れていたり無秩序な場所に引き寄せられやすいので、家中を整理整頓し、特に暗い部屋や不安を感じる霊的な影響の強そうな場所を念入りに掃除する。それだけで霊は居辛いづらくなる。

 或いは香を焚いて部屋を煙で満たす。

 また鈴や鐘、太鼓等の音を鳴らす事でも、空間の浄化は可能だ。

 更に最近では、霊的な現象に悩まされていたホラーゲームの製作スタッフが、室内にファブリーズを噴霧したら霊が現れなかったという報告例もある。

「ただ煙や音、ファブリーズの効果は長持ちはしないからな。長期的な結界の張り方は色々あり、草介も相当調べたのだろう。結果ナイフやワイングラスを使った西洋魔術の結界と、盛塩による東洋の伝統的な結界、更に毛色の違う書籍の結界がチャンポンされているが、それがボクの見たところ、どうやら奇跡的に噛み合って上手くいっている。地縛霊のお前はあのオブジェがある限り、この部屋に入れないんだろ?つまり──


 この二〇四号室はなんだ」


 地縛霊の女は俯いたまま何も応えない。これは推測だが、この二〇四号室はいわゆる事故物件──心理的瑕疵物件なのではないか?この部屋で火事で死んだこの女が地縛霊となって様々な霊障を起こしていた。草介はそれを何とかしようと、あんな結界を張っていたのではないか?それが素人仕事にしては偶々たまたま上手くいったが、お陰で本当に誰も入れない『心理的瑕疵密室』になってしまった。

 ただ気になるのは、霊を寄せ付けたくないならもっとポピュラーなやり方があるのだが……

 ボクは顎に手を当てて首を捻る。

「人間も幽霊も入れない密室──これが殺人なら、その謎を解くのは簡単じゃねえな」

「ホントよね…うーん……………」

 ジャッキーも眉間に皺を寄せて腕組みをするが、きっとコイツの頭には何も浮かんでいない。

「あ〜ん、やっぱりじさ──」

「……じゃない……」

「ん?」

「え?」

 思わずボクとジャッキーは顔を見合わせる。しかし今のはどちらの声でもない。特殊清掃人もまだ部屋から出てこない。

「自殺じゃない……自殺なんかしないよ……」

 ボクは目の前を見る。


 地縛霊の女が顔を上げ、真っすぐボクを見つめていた。

 その表情は悪霊化しかけていたさっきまでとは違い口元を引き締め、目にも強い光がある。

 そして理性を取り戻したハッキリした口調で言った。


「草ちゃんは殺されたんだ」 


「草ちゃん?」

 ジャッキーの問いかけに頷く地縛霊。

「二人は草ちゃんの事を調べに来たの?じゃあお願い!あの人は絶対に自殺なんかしない。アタシを置いて、独りで地獄になんか行かない。

 草ちゃんはアタシの、アタシの為に頑張ってくれてたんだからっ…!」

 一体大学生と地縛霊との間に何があったのか……ジャッキーだけじゃなくボクもさすがに呆気に取られた。

「返して……」

 出遭った時と同じ台詞セリフだが、ぬえがキョトンとしているところを見ると、目や鼻を返せと言った時に感じた殺意は込められていない。

 地縛霊の潰れていない方の左目から、一筋涙が零れ落ちる。


「草ちゃんを返して……」


 (後編に続く)

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