〈ぬえ散歩 其の五
「
スマートフォンの地図アプリを見ていた天使が顔を上げた、その刹那。
チャリンチャリン。
「待ってよぉ〜」
「危ないから端っこ走れよヒロムー」
歩道脇の車道を自転車に乗った小学生が三人、擦り抜ける様に通り過ぎていった。三人共格好は汚れた野球の練習着で黒いヘルメットを被り、背中にバットが入ったリュックを背負っている。こんな暑過ぎて蝉も鳴かなかった昼下がりに練習をしてきたのだろうか。体格が中学生男子並で体力の無い天使は、ご苦労な事だとウンザリして見送る。
八月十六日──お盆明けの土曜日の午後五時。
天使のテンちゃんはこの時間になっても気温三十度超の炎天下で独り、溶けかかったアスファルトの上をズルズルと歩いていた。パーカーの下は汗だくである。
いつも隣にいる鬼娘のジャッキーは不在だ。彼女はある調査の為、故郷の地獄に戻っていった。怪しげな密室殺人に関わった福島県から、理由があって昨日この千葉県北西部の市川市に移動してきた。そして何やかんやあって今日ジャッキーが地獄に戻る事になったのだが……
ただ、その鬼の肩の上を定位置にしている怪鳥ぬえは、地獄に付いていった訳ではない。午後になってジャッキーと別れる時、帰ってくるまでこの街で自由行動だと告げたらフラフラと何処かに飛んでいってしまったのだ。まああの気紛れな化鳥がはぐれて迷子になるのはよくある事で、しかもジャッキーはペットの様に可愛がっているが、テンちゃんはあの丸い変な鳥には特に思い入れが無い。ただぬえの殺意を感知できる能力が、殺人犯を特定して地獄に堕とす仕事に役に立つので一緒に行動しているだけである。ぬえの方も天使には別に懐いていないので、鬼のいぬ間にそそくさと消えるのもさもありなん、きっと今頃どこかの林に入って虫でも突付いているのだろう。
実際この
だからテンちゃんはぬえの事は一切気にせず、ただ自身の暇潰しでブラブラと気になる場所を回っていた。と言っても死ぬほど暑いので、まず八幡宮に寄って地元の神様に挨拶をして、八幡の藪不知を覗いた後はさっきまで喫茶店で涼んでいたが……
そこから江戸川方向に南下してきて、目印となる兜橋の交差点で信号待ちをしながら、再度地図アプリで目的地を確認する。
「
若干不気味に微笑む天使。実は今回この本八幡に来る事になった際、あらかじめ近くに面白い場所はないかとスマホで調べて見付けていた神社だ。
『〇〇大神社』と名付けられた神社は各地に存在するが、その読み方は『だいじんじゃ』や『おおじんじゃ』『おおみわやしろ』と様々である。この本八幡の甲大神社は博識なテンちゃんも知らなかったが、ネットの情報では『かぶとだいじんじゃ』と読むらしい。しかし意味が分かりやすい読み方をするなら『おおかみのやしろ』だろう。すなわち、何かしらの
と言っても『大神』はあらゆる神様への敬称としても使われるし、『
それで更に調べていたら、甲大神社の境内に掲示されているという由緒板の文章がヒットした。曰く──
『本神社御祭神は応神天皇を奉祀するとも伝え又大神の兜を祭るとも伝う。創建は古く人皇第六十六代一条天皇の永延二年八月八日当地に鎮座葛飾八幡宮の摂社にて「注連下」と称し大和田村の氏神たり。古来武将の崇敬厚く殊に武士たるもの当社前に於て乗打すれば落馬すると云い伝う。里人の信仰ありて奉賽の誠と致すもの少からず。大正九年七月二十四日同所山皇後無格社天神社及同所無格社山王社合社の件許可せらる。』
つまり、この神社に祀られているのは応神天皇とも言われる一方、
そして創建された永延二年という時期。更に古来より武将に厚く信仰されていて、当社前で武士が
少しワクワクしながら兜橋の交差点を渡って三百メートル、道路沿いにその甲大神社はすぐ見付かった。
見付かったが。
「……」
天使は黙って鳥居の前に佇む。
そこはあまりにこじんまりとしていた。
道路に面した神社の入口から始まる石畳の参道が右に急カーブして一の鳥居を
しばらく立ち尽くしていたテンちゃんだったが、やがて参道の中央を避けた左端を歩き出した。一の鳥居を潜りながら思わず呟く。
「…
「別に大っきな神社って意味じゃないよ」
不意に聴こえた声に天使は振り向く。
一の鳥居の下に、さっきも見かけた黒いヘルメットの野球少年が立っていた。リュックから覗くバットが妙に長い。
「ちょっとこっち来てみなよ、お兄ちゃん」
そう言って手招きをする少年。逆光で顔はよく見えないが、口元は笑っている様だ。
─足音も気配も感じなかったぞ…?
テンちゃんは違和感を抱きながらも、引き返して少年に近付く。少年は一の鳥居の手前に道路側に向けて立てられている案内標識を指差した。柱の左右に矢印を模した板が取り付けられた十字架の様な形をしていて、右の板には『葛飾八幡宮方面』、左の板には『一本松方面』と横書きされている。徒歩で地元の名所旧跡を回る人への配慮だろう。そして中央の柱にはこの場所を示して『甲大神社』と縦に書かれているのだが──
「ん?」
テンちゃんはその表示を思わず二度見した。
そこに振られている読み仮名は『
「
「何か間違えられてるみたいだね〜」
野球少年はケラケラと笑う。
テンちゃんは目を丸くしていたが、やがて頷いて──
ニッコリと微笑んだ。
「
今度は少年が首を傾げるが、笑い返した天使は話題を変えた。
「とにかくまずは参拝しよう」
そう言ってさっきと同様に参道の左端を歩き出すテンちゃんに、少年は黙って付いてくる。再び鳥居を潜りながらテンちゃんはブツブツと呟いた。
「参道の中央は神様の通り道だから開けないとな……」
背中を向けているのでテンちゃんには見えていないが、その呟きを聴きながら少年は何だか嬉しそうに笑っていた──
参拝を終えた二人は再び一の鳥居まで戻ってきた。
脇に立つ『
背後の道路を数台の車が通り過ぎた後、テンちゃんが口を開いた。
「この神社の由緒板に書かれた大神の兜が祭られたって言い伝え、変だよな。何で誰の兜か分からないんだ?その前の応神天皇を祀ったってのが分かってるのに…それで創建が永延二年だろ?そこでピンときたんだよ。
これは誰の兜か分からないんじゃなく、
永延二年と言ったら西暦九八八年─平安時代中期だ。当時の関東で、その御前で馬に乗ったままだと落馬するとまで怖れられて、大っぴらに名前も言えない武将──そんなの一人しかいない。
日本三大怨霊の一人、
平将門は平安時代中期の関東の豪族で、
しかし勿論朝廷がそんな反乱を許す訳もなく、朝敵となった将門は新皇に即位後僅か二ヶ月足らずで討伐されてしまう。
「将門は斬首され、その首は京都の七条河原に晒された。これが記録に残る日本最古の晒し首だと言われてる。
しかしその首は何ヶ月経っても腐らずに目を見開き、歯軋りをしてたって言うぜ。そして或る時遂に将門の首は胴体を求めて、関東を目指して飛んでいった。だがその途中で力尽き、首は地上に落下する。その落ちた場所が現在の東京都千代田区大手町で、そこに造られたのが有名な〈平将門の首塚〉って訳だ」
「知ってるよ。移動しようとすると工事の人が事故に遭ったりするから、その祟りが怖くて動かせないんでしょ?」
「そーそー、都心の一等地だから高く売れるのにな。結局今は近くの神社とか企業で作った保存会が管理してるそうだ。儲け損ねた関係者はさぞ悔しかったろう」
テンちゃんの返しに少年は薄く笑ったが、その笑みはすぐに引っ込んだ。
ザワザワザワ……
不意に梢が鳴った。
「それだけ怖い怨霊だったんだね。
皆祟りを怖れて、名前も隠して祀って……
ねえ知ってる?ここの参道、急カーブしてるでしょ。こういう曲がった参道って、中の神様が真っすぐ出てこられない様に
この甲大神社を造った人達も、将門を怖がって封印したかったんだ…」
少年の声は低く、風は冷たい。
ザワザワザワ……
テンちゃんが鳥居の上の空を見上げると、雲も無いのに急に辺りが昏くなっていた。
真夏のこの季節、まだ日没の時間ではないのだが──
「将門は嫌われていたんだね……」
「そんな事ないだろ」
何気なく言ったテンちゃんの言葉に、少年はハッと顔を上げた。
「将門は朝敵ではあっても、地元の関東では英雄だった。実際彼は仁義に厚く温情豊かな人物だったとの記録も残っていて、当時欲深い為政者に搾取されて疲弊していた民衆にとっては将門が世の中を治めてくれた方が生活も良くなるって期待されてたんだ。
だから将門は首だけじゃなく、
そもそも大手町の首塚以外に将門の首を祀った神社が各地に複数あるし、茨城県と群馬県には胴体を祀った胴塚がある。栃木県には手を祀った大手神社、腹を祀った大原神社なんてのもあって、都内にも足を祀った神社があるんだ。体だけじゃないぞ。大手町の首塚近くの神社には首桶も祀られていたし、新宿には将門の鎧を祀ったそのものズバリの鎧神社がある。
そして中央区にあるのが兜神社──そう、
皆そうやって、どんな形でもいいからヒーローを地元の護り神にしたかった訳だな」
「ヒーロー……」
少年は呆然と呟くが、すぐに声を荒らげた。
「じゃあ何で、大怨霊なんて呼ばれてるのっ?」
「あのな、三大怨霊って呼ばれた将門や崇徳上皇、菅原道真は、皆当時の朝廷に反逆者とされた人物達だ。三人共敗れて討ち取られたり流罪になったりしたけど、そんな彼らを死後怨霊扱いしたのは民衆じゃなく、反乱を起こされた朝廷なんだよ。将門達が地元で人気があったのは分かってたからな、朝廷としてはその英雄達を
「スター扱い?怨霊が?」
「『畏怖』って言葉があるだろ?『おそれる』ってのは恐怖するだけじゃなく、自分が足元にも及ばない凄い存在を崇め奉る事でもあるんだ。参道を曲げて封印したのも、朝廷が『貴方達には敵いませんのでもう許してください、安らかにお眠りください』って降参したのをアピールしてるんだ」
「降参…」
少年は一の鳥居の下に立って、参道の先を見つめる。
「じゃあこの神社を造った人達も降参して…?」
「ここはどうだろう、参道の曲がりが直角より
それでも反逆者を派手に持ち上げて、朝廷から目を付けられるのはマズいからな。だから由緒板には『大神の兜を祭ってる』なんて曖昧に書いて誤魔化しておいて、実は将門公の兜を祭ってますって、分かる人には一発で分かる名前の神社にしたんだ。『甲大』で『かぶと』とは普通読まないからね。ネットが間違えるのも仕方無い。でもボクはこの読み仮名を見た瞬間に納得したよ。
『甲』は切り取られた首。
『大』はその下の手足だろ?
将門、愛されてたんだなあ…」
ザワザワザワ……
また梢が鳴った。
ミーンミーンミーン……
暑さでずっと黙っていた蝉が不意に鳴き出し、思わずテンちゃんがその声の方向を見上げると、昏かった空が一気に明るくなった。
「う…」
一瞬太陽に目が眩んで、瞼を閉じる。
─な〜んだ、そっかあ〜……
笑い声が聴こえた気がして、瞬きを数回してから地上に視線を戻した。
そこに野球少年の姿は無く。
鳥居の下にヘルメットだけが転がっていた。
「なるほど…
じゃあ背負ってたバットが刀だったのかな」
テンちゃんはニヤッと笑うと、再び一の鳥居を見上げて言った。
「オイ、もう
そんなとこでビビってないで降りてこい」
「けぇ……」
鳥居の上では黒い綿菓子の様な鳥─ぬえが縮こまってブルブルと
テンちゃんはさっき見上げた時に気が付いていたのだ。
殺意を感じると膨らむ体質のぬえが、声も出せないほどパンパンな風船状態になっていたのを──
ちょうどあの野球少年が『将門は嫌われていたんだね』と嘆き、空が昏くなった瞬間の事である。
あのコがどういう存在だったのかはよく分からない。もしかしたら将門公本人だったかもしれないが…とにかく何千年と続いてきた殺意を拗らせて人々に害を為す、現代の怨霊が生まれるのは阻止できた様だ。
(まあ…さっきは『将門は愛されてた』と言っておいたが、本気で怖れて封印しようとしてた可能性もあるけどな)
──そう、実際は全く逆で『
仏頂面に戻った天使は鳥居の下からヘルメットを拾い上げて、『
ちょうど墓標の様に──
─今度都内に行く時は、首塚を拝んでおくか……
(其の五 了)