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 降りしきる雨。水溜りが曇天を映すより早く、雨粒がその鏡面を乱す。そこにスニーカーがばしゃりと飛び込み、飛沫を上げて去ってゆく。

 二人分の荒い呼吸音が桟橋へ続く小道を駆け抜ける。海風に煽られ、ふらつきながら走る。

「ナイト、ロープを外せ!」

 桟橋からダイビングボートに飛び移りながら里来が叫ぶ。一直線に操縦室へ向かう彼を見送り、オレは桟橋の柱に括られた輪っか状のロープに手を掛ける。きつく締まった輪。緩めるのに手間取る。なんとか無理矢理上に引き上げて柱から外し、ロープごと船首に飛び乗る。

 ブオンとエンジンが掛かる。オレは操縦室の入り口に回り込む。扉を開けるなり、

「出すぞ、掴まってろ」

 波を切り裂く勢いでボートが発進する。オレは反動で頭をぶつけ、しゃがみこむ。

「い……ってぇ」

「馬鹿、掴まってろって言ったろうが」

「言うのが遅いんです」

 里来が横目にオレを一瞥する。

「崖の方だな……浮いてたか?」

 というのはずばり、イズミのことだろう。

「わかりません。あまりじっくり見られなくて」

「そうか。沖に流されてなきゃいいんだが」

 エンジン音のせいで叫ぶような会話になる。

 まもなく船は岬に差し掛かろうとしていた。里来が「掴まれ」と言い、直後に船は急旋回する。そして目の前に断崖絶壁が姿を現す。死のにおいのする焦げ茶と黒の縞模様。生き物を寄せつけぬ風格。

「どのへんだ?」

「確か……」

 上から見下ろしたときの記憶を頼りに方向を指示する。確か、岩と岩の間で、運が良ければ助かる場所。

「あのあたりです。近づけてください」

 オレは里来にそう言い残し、操縦室から出て船の横っ腹から身を乗り出す。大丈夫。イズミはどこかに引っ掛かってるはずだ。沖に流されたなんて考えたくない。大丈夫だ。助かる。助ける!

 分厚い雨雲のせいで視界が暗い。噴き上がる白波が何度も繰り返し岩を覆い隠して邪魔をする。

 ぐらり、と横風でボートが傾く。海に投げ出されそうになるも、縁を掴んだ腕で踏ん張り、すんでのところで押し留まる。顔に海水を被った。目に染みる。口の中がしょっぱい。

 ダンッ! と背後で音がし、振り向くと里来がこちら側の窓を殴ってオレを睨み付けている。彼の口が動く。聞き取れない。だがたぶん彼が言ったのは、

「気をつけろクソガキ……かな」

 オレは深く頷いて再び前方へ視線を戻す。白波に揉まれた岩場。陰になった部分にまで目を凝らす。どこにいる、イズミ? どこかにいてくれ。

 頭上の黒い雲がごろごろと鳴っている。腹を空かせた怪物のようだ。里来が徐々に船を北へ移動させてゆく。まだ……見つからない。

 やがて岩場を通り過ぎる。これ以上北にはいようはずも無い。オレは操縦室の扉を開け、

「里来さん、戻ってください。今度はもっと崖寄りで」

「無茶言うな。こっちが座礁しちまう」

「じゃあ距離はこのまま、もう一度!」

 その時、カッと背後で閃光が走り、自身の影が船上に浮かび上がった。直後、頭上から轟音が降り注ぐ。――落雷だ。オレは反射的に崖の方を振り返る。第二撃。稲妻が一瞬で雨雲を裂き、絶壁に反射して岩場を照らし出す。

 見えた!

「里来さん、あそこです!」

 岩と絶壁の間、黒い塊が見える。うつ伏せるような恰好の上半身。三撃目の落雷で絹のような金髪が白く光る。

「寄せてください、出来るだけ近く」

 オレはシャツを脱ぎ始める。続いて靴を脱ぎ、ズボンも。里来がぎょっと目を見開き、

「入るのか、海に?」

「船の上からじゃ届きません」

「俺は手伝えないぞ? ここを動けない」

「里来さんは操縦に集中してください。すぐ戻ってきますから」

 最後に腹にロープを括り付け、里来に一度頷いてから海へ飛び込んだ。ごぽごぽと耳の横で泡が弾ける。波に揺すられ、視界がぼやけた。手足を掻き、肺に空気を目一杯吸い込んで波の下へ潜る。暗い海を岩場に向かって進む。

 濁った水。砂と泡の混じった海が、黒々として広がる。海上とは裏腹に静かな水底は、遥か下方から魔女の手をしてこまねいている。

 浮上する。黒い服が見える。イズミは目前だ。岩場に伏せてぐったりとした躰に近寄る。

「イズミ! 大丈夫か!」

 反応が無い。腹に腕を回して引き寄せる。すると、軽い抵抗。何かが引っ掛かっている。

 オレは波の中から岩場に身を乗り上げた。引っ掛かっているのは〝左手〟だ。黒い紐が手首から繋がって、岩の割れ目に結んである。自分でやったのか? だとしたら、落ちてからしばらくは意識があったのだ。助かる見込みがある。

 黒い紐を力任せに引っ張って割れ目から外した。必死になってイズミを担ぎ上げ、船に向き合う。あとはロープを手繰り、戻るだけ。

 二人分の体重が重い。腕が痺れる。イズミを取り落してしまいそうになる。黒い波をまともに被り、指先がロープを見失う。気管に吸い込んだ海水が次の呼吸を奪う。

「ナイトッ!」

 声がした。波の間から船上の人影が見える。躰がぐっと引かれる。里来だ。彼がロープを手繰っている。オレは船の方へ手を伸ばす。ロープを掴み、躰を寄せる。もう一度、もう一度。

 抱えたイズミを里来の方へ押し出す。黒服の躰が縁からずるずると引き上げられてゆく。オレはほっとしながらそれを見守る。腕が限界に近い。頭が霞む。指先からすっと力が抜けていく。

「ナイト! 頑張れ!」

 強い力で腕を掴まれた。耳元で名を呼ばれる。片手は里来に引かれ、もう片方の手はボートの縁を掴む。最後の力を振り絞り、躰を押し上げた。脇の下から回った腕がオレを抱きしめて引き上げる。

 気づいたときには、オレは船の上にいた。船の上、激しく呼吸する里来の胸の上にうつ伏せていた。

「っ……てめ……クソ、馬鹿」

「す、みま……せ」

 口からも鼻からも海水を飲んだせいで喉が痛い。オレは脱力したままこほこほと咽(むせ)た。里来の手が伸びてきて、乱暴に頭を撫でる。

「よくやった……休んでろ」

 オレを退かし、里来はイズミを仰向けに転がした。横目にその様子が見える。彼の耳がイズミの口元に寄せられ、目線は胸の動きを見る。途端に表情が曇り、

「駄目かもしれねぇ……」

 しかし彼は文哉のときと同様、諦めずに心臓マッサージを開始する。

 船が揺れた。大波で左右に大きく振られる。里来は心臓マッサージの途中でよろめいて、床に手を付いた。オレは身を起こす。

「操縦に戻ってください、里来さん。イズミは、オレが」

「わかった、任せる」

 里来は立ち上がり、操縦室へ戻ってゆく。オレは膝立ちになって心臓マッサージを開始する。ボートはゆっくりと進路を変え、南へ向かって進み始める。

 荒れた波がぐらぐらと身体を揺すった。息を吸い込み、イズミの顎を持ち上げる。顔を近づけ、紫色の唇を自分のそれで覆い、ゆっくりと二回息を吹き込む。胸は上下するも、自発呼吸は戻らない。もう一度。

 心臓を圧迫し、人工呼吸を二回。……もう一度。心臓を……、人工呼吸を……。もう一度。もう一度――



 初めて触れた他人の唇は、青臭く苦い、海の味がした。それは、とてつもなく空しい、死の味だとオレは思った。

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