厨房の扉とはいえ、この男は几帳面に四回ノックを繰り返す。中から返事は無い。だが、ここにいることはわかっている。男は一言断って、ゆっくりと扉を押し開ける。
調理台の上にメイドが突っ伏している。彼女はぴくりとも動かない。突っ伏した頭のすぐ傍にはマグカップ。メイドの向かいにも、マグカップと空席の簡易椅子。
「イズミの部屋を施錠する。鍵を渡せ」
男は無遠慮にそう言い、づかづかと調理台に歩み寄る。
「オイ」
呼びかけるも、メイドは顔を上げない。男は仕方なく、簡易椅子に座って待つことにした。メイドは起きている。けれど、心の整理がつかないから伏したままなのだと男は思った。
肩肘をつき、マグカップを覗き込む。コーヒーのようだ。中身は半分に満たない。続いてほとんど足を踏み入れたことのない厨房を、右手の方からぐるっと、物珍しそうに眺める。
冷凍、冷蔵、常温と三つ並んだ食料庫の扉。綺麗に磨かれたコンロ。銀色の冷凍庫と冷蔵庫。ジュースの瓶が乗った金属ラック。顔が映りそうな流し台。高価な品々が並ぶ食器棚。そして男の背後には、四匹のふぐがゆらゆらと泳ぐ生け簀。
「……ったんです」
メイドが伏したまま、消え入りそうな声で呟いた。男は問う。
「なんだ」
「イズミは……飲んでくれたんです」
「何を」
「私の作ったコーヒーを。私に旦那様の毒殺容疑がかかったあとも、ずっと」
男は言葉を失う。彼は不器用だった。人と話すことが苦手で、人の心を汲み取ることも苦手だった。異性となれば、なおさらわからない。せめて傷つけずにすむ言葉を、男は探していた。
メイドはのろのろと顔を上げる。鼻は赤く、目元は腫れている。
「十年前、この島で出逢ったときからずっと……今だって、イズミは私の一番です」
彼女は微かに笑い、鍵を調理台に置いた。男はそれを手に取る。
「一本か? もう一本は?」
メイドは首を横に振る。
「私がイズミから預かったのは一本だけです」
「そうか」
「嘘ではありません」
「……わかった」
立ち上がり、男は出口へ向かう。そして途中でふと、足を止める。今からイズミの部屋を施錠し、その後は、
「この鍵、海に投げちまうが……」
「構いません。次に、顔を見るときは……本土へ連れていくときです」
メイドは気丈にもそう言い放った。男は少し考えて頷く。彼女と、部屋で眠る人物、二人の関係を男は尊いもののように思う。
厨房を出るとき、男は閉まりかけた扉の隙間からメイドを一瞥する。俯いたまま、彼女の唇が動く。スローモーションのようにゆっくりと、ゆっくりと。
さよなら、人魚姫。
ばたん――。