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【第二章】お手付き中臈蘭(二)

 しかし蘭は中臈に昇進はしたが、なかなか将軍の声がかからなかった。

八月十五日は中秋である。大奥の女中たちにより月見の宴がもよおされる。申の刻(午後四時)からは御休息の間にて、お歌合わせがおこなわれた。その後、将軍自らがお目見栄以上の者に料理や酒を配る。

 蘭もまたこの時、将軍の顔をあらためて、目の前ではっきりと見ることとなる。

「こなたが蘭とかいう女子か? 元古着屋と聞くが、この大奥のためにしっかりとはげんでくれ」

 将軍にじかにお声がけされ、蘭はかすかに興奮した。

「そうじゃ、お前にはこれもつかわそう」

 それは水槽にはいった金魚だった。

「ありがたく頂戴いたしまする」

 蘭は頭を低くして言った。ところがである。蘭が自らの部屋方の者に金魚を手渡した時、事件はおきた。なんと部屋方の者が足をすべらせ、その場に転倒してしまったのである。畳は水浸しになり、金魚も周辺に散乱してしまう。これに将軍は激怒した。

「己なんということを! 許せん!」

 将軍は刀をぬき、部屋方の者の喉元に押しつけた。座は騒然となった。

 何しろ将軍家光の癇癪は、大奥女中たちの間でも有名である。将軍の機嫌が悪い時には、ささいなことでも近習の者や、小姓を切って捨てることさえあったという。

 蘭の部屋方の者は必死に命乞いするも、将軍の怒りはおさまる気配がない。その場にいた大奥女中たちも、将軍の怒りの刃が自らにむくことを恐れて、手がだせない。春日局がいれば、将軍を止めることができたかもしれないが、不幸にしてこの時は不在だった。

「おやめくださいませ!」

 将軍の前に立ちはだかったのは蘭だった。

「無礼者! そこをどけ! どかぬか!」

「いえどきませぬ! どうしてもこの者を斬るともうすなら、私から成敗なされませ!」

 蘭は一歩も引かぬ気配をみせた。

「その方、余を誰と思うておる。この国を治める将軍なるぞ!」

「まこと上様にござりますか! 上様なら人の命と生物の命の大小がわからずに、国をおさめられましょうや!」

 蘭は髪をふり乱し、眼光をいからせながらいった。その場の誰しもが、あわやお手討ちかと思ったその時、将軍は刀を鞘におさめた。

「こたびは余の負けじゃ」

 と一言残して、その場を立ちさってしまった。

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