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【第二章】お手付き中臈蘭(三)

 数日して蘭は春日局に呼び出される。いかな厳罰も覚悟して局のもとに赴いた蘭であったが、局の要件は、予想していたものとは異なっていた。

 やがて大奥中に噂が流れた。あの蘭が、将軍の夜のお召しを受けたというのである。おりもおり、将軍の夜の相手を独占していた万は、風邪をこじらせ体調を崩していた。

「まったく古着屋風情が、しかも本来なら上様の刀の錆になっていてもおかしくないはずなのに……なんという悪運の強い女でございましょう」

 その場にはいなかったが、人伝いに噂を聞いた玉は思わずため息をついた。

「よいのじゃ玉、側室は私一人と確かに将軍はそう申した。なれど武家の棟梁ともあろう方が、多くの側室を持つはせんなきこと」

 そういってみたものの、万もまた腸の底は煮えくりかえっていた。


 こうしてその夜は来た。

 蘭は他数名の御中臈と共に、かって万がそうしたように、白無垢姿で上御鈴廊下をゆっくりと歩む。

 その夜、万はというと中々眠れなかった。やがて不思議な夢を見た。真っ白の装束を着た青白い女が現れ、不気味な笑みを浮かべている。

「こなたは誰じゃ?」

 夢の中の万の叫びにも、女は微笑みをたやさない。

「私か、私はもう一人のそなたじゃ。これより汝の無念はらしてしんぜよう」

 そういうと女は姿を消し、万は夢からさめた。


 蘭は将軍の寝所にあたる御小座敷へとつれていかれた。そこは十二畳敷きの高麗縁、床の間は九尺に三尺の板畳、框は黒塗りにして、床柱は檜の糸まきであった。袋戸棚の襖は「雨中漁舟」の墨絵。襖は極彩色の六玉川、天井および小壁は銀泥の菊唐草であった。

 しかしそのような様々な装飾よりも、蘭を視線を釘付けにしたものがある。襖に描かれた巨大な鶴の姿だった。

 なにしろ蘭は実父は下野の国で、禁制だった鶴を殺し死罪となったのである。それから蘭の一家は極貧の中で、辛酸をなめてきた。それらの事が瞬時にして蘭の胸の内をよぎった。なんとしても母や弟たちを貧苦から救いたい……。その決意は尋常なものではなかった。


 髪をいじっていると、やがて寝間着姿の将軍が姿を現わした。

「蘭、近う寄れ」

 蘭は平伏したままの状態で、一、二歩前へ進んだ。かなりの緊張状態の様子である。

「もう少し、近くへ寄るのじゃ」

 将軍は苦笑しながらいった。

「まずは先日の無礼、ご容赦のほどを……」

 と蘭は、声を上ずらせながら詫びをいれる。すると将軍は蘭の細い手を取り、自らの胸元へ引きよせた。

「こなた以外の誰ぞに同じことをいわれていたら、恐らく切って捨てていたであろう。なれどそなたに言われた時だけは、己を恥じた」

 かすかであるが、蘭にも将軍の胸の高鳴りが感じられた。

「これよりは、あの者を守った時のように、わしを守ってくれるか?」

「どうか、慈愛の心をもって万民に接してくださいませ。なれば蘭は、例え命にかえても上様をお守りいたしまする」

 蘭の心はいよいよ高ぶった。


 こうして、長い夜が始まった。ところが二人の心身の高揚が頂点に達しようかという時、異変はおこった。将軍が、己と蘭しかいないはずの寝所で、何者かの強い視線を感じたのである。そんなはずはない。気のせいであろうと思った時だった。その何者かと将軍の目があった。それは何と、とぐろを巻いた白蛇だった。

 将軍は甲高い悲鳴をあげた。その声で蘭も飛びおきた。そして蛇の姿を目撃し顔色を変えた。

「やめろ、寄るな! わしは蛇が大嫌いなのじゃ!」

 将軍は布団をかぶって、頭をかかえてしまう。その様子に蘭は、まことこれが将軍であろうかと、しばし唖然とした。むしろ蘭のほうが毅然としていたくらいである。やがて異変を聞いて、寝ていた大奥女中たちが集まってきた。しかしその頃には、蛇はいずこかへ姿を消していた。

 この後、大奥女中たちが総出で、徹夜で、半ば恐れおののきながら蛇の行方を追った。しかし、ついに捕獲にはいたらなかった。こうして蛇のおかげで、蘭と将軍の最初の夜は、さんさんたる結果に終わってしまった。


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