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【第二章】玉と蘭

 将軍の寝所に蛇が乱入するという前代未聞の事件により、蘭と将軍の最初の夜は、散々な結果に終わった。しかし、その後も将軍は幾度も蘭を夜の相手として指名する。

 蘭がお手付き中臈となって間もなく、一通の手紙が届いた。差出人は、今や「義理の兄」である吉次の勤め先の常陸屋の店主だった。内容は簡単にいうと、可能なら常陸屋が大奥と取引ができるよう、便宜をはかってほしいというものだった。もちろん蘭の古着屋時代からの縁を頼りにしてのものだった。

 蘭は、姉夫婦との確執を夢にも忘れたことがなかった。しかしそれとこれとは話が別であると考えた。常陸屋には、古着屋時代ずいぶんと世話になったこともある。春日局とも相談の上、実際に常陸屋の主と会った後、この商談を受け入れることとした。

 江戸城大奥には、大奥女中たちの着るもの一切をつかさどる「呉服の間」という役職がある。今やお手付き中臈となった蘭の仲立ちで、こうして常陸屋と呉服の間の取引がはじまった。

 ただ呉服の間との取引は、あの吉次の直接知るところではなかった。後日そのことを知って、複雑な思いにかられることとなる。

 その後も蘭は、様々な形で常陸屋のために便宜をはかってやった。おかげで常陸屋は莫大な利をあげ、店は大きくなる一方だった。

 しかし、吉次にとってはいかほど店が大きくなろうと、決して面白いことではない。吉次にも意地というものがある。事実、常陸屋の中にも、この蘭の「義理の兄」に、冷たい眼差しを向ける者はやはりいた。蘭の親切心は、蘭がそれを意図していなかったにせよ、真綿で首をしめるように、じわじわと吉次を苦しめることとなる。そして、ついには悲劇をまねくこととなるのであった……。



大奥では、将軍の手の付いていない中臈を「お清」と呼ぶ。一方将軍のお手付きになると「汚れた者」と呼んだ。これは大奥女中たちの嫉妬と羨望の入りまじった、痛烈な皮肉であった。大奥には、常に女中たちの妬みと憎悪が渦をまいている。それははれて「お手付き」となった蘭にも、情け容赦なくむけられるのであった。

 冬が訪れ雪も降りはじめる頃、大奥中にある噂が飛び交う。例の蘭の父が鶴を殺した罪人だという噂である。蘭の部屋方の者にも、冷たい眼差しをむける者もおり、蘭の心を深く傷つけることとなる。

 大奥女中たちは、よく集まっては歌会などを催した。しかしここでも町家育ちで句などつくったことのない蘭は、下手な句しかつくることができず、恥をかくこととなる。そして、ある大奥女中がつくった句が蘭を悲しませた。


 冬の朝 吐く息白く つる(鶴)りとすべる 我が身なりけり


 歌会に参加した女中たちの間から、失笑の声がもれた。蘭はいたたまれなくなり、顔をおおって歌会の場を途中退席してしまう。歌会には、ようやく体調が回復しはじめた万も参加していたが、この光景を複雑な表情で見まもっていた。


 万は自分の部屋に戻ると、すぐに玉を呼びつけた。

「玉そなたであろう。あの蘭が罪人の娘であるという噂を流したのは」

 万は、あえて玉に背中をむけた語りだした。

「さて、記憶にございません?」

「とぼけても無駄じゃ! あの者が罪人の娘であるということを知っているのは、この大奥で私と春日様、そして玉そなただけじゃ」

「だからどうだというのです」

 と玉は居直った。

「お忘れになられましたか? 将軍の手の者に寺を包囲された、あの夜のことを……」

 万の表情が険しくなった。

「もしあの者が将軍の子を宿せば、万様はどうなりましょう。何故ここにいるのかさえわからなくなります。万様だけではありません。私は万様に命をささげる覚悟で今日まで、この大奥の息苦しさをもこらえて生きてまいりました。私の一生もまた、何であるのかわからなくなるのです」

「なれど、人をおとしいれるような真似をして、こなたは因果応報という言葉を知らぬのか!」

「いいえ、そのようなことを恐れていて、この大奥で生きていけましょうや! 万様にもこの大奥で生きていくには、相応の覚悟が必要かと存じます」

 玉はいつになく厳しい表情でいった。

「因果応報と申しても、万様自らが手を汚すわけではありませぬ。そして汚す必要もございません。私が代わりに手を汚せばよいのです。私は例えこの身がどうなろうと、万様のためなら覚悟はできております」

「玉よこれだけは申しておく。春日様は、そなたが思っているよりも、はるかに恐ろしい方じゃ。決してあの方を怒らせてはならぬぞ」

 と、万は再び表情を厳しくしていった。





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